2016年09月01日

第338回 Confidence






文●ツルシカズヒコ




 野枝は『改造』四月号に「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」を書いた。

「性の解放・性的道徳の建設」欄の一文で、野枝の他にミス・ブラック、帆足理一郎江口渙が執筆。

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 野枝は冒頭で「もう随分ながく、私は自分の友達を持ちません。そして友達を欲しいと思つたこともありません」と書いている。

『青鞜』時代に親しく交わった小林哥津、野上弥生子との友情を、野枝はときどき懐かしく思い出し、大杉にも話して聞かせていた。

 とりわけ七、八年前、辻潤と染井に住んでいたころ、タスキ掛けでカラタチの生け垣越しに会話をした、弥生子のことを思い出すという。

 そのころ弥生子は『ソフィア・コヴアレフスキイの自伝』を翻訳していたが、弥生子はこの書物から得た感銘をよく野枝に話して聞かせた。

 お互いに読んでいる書物の批評をしたり、共通の知り合いの噂をしたり、自分たちの生活に対する切実な反省や計画を話したりーー野枝にとって弥生子は年上の特別な友人だった。

 しかし、あんなに親しく交わった仲でも、ほんのわずかな理解の隔(へだ)たりによって、まったくの赤の他人よりも冷たい関係になってしまうことを思うと、野枝は嫌な気持ちになり、他人には何も期待してはいけないという考えを強く持つようになった。





 野枝にとって大杉は、自分のすべてが話せる、そして自分を理解してもらえる特別な他人だった。

 だから、野枝は大杉以外の友達の必要をまったく感じなかった。

 しかし、野枝は大杉がベストな友人であることにも気づいていなかった。

 野枝がそれに気づいたのは、大杉が豊多摩監獄に入獄したときだった。

 本郷区駒込曙町の家には、同志たちが集い『労働運動』(第一次)を発刊していた時期だったので、野枝はひとりだったわけではない。


 けれども、私は『信じ合ふ』と云ふ普通に使はれてゐる言葉以上に信じる事のできる人々にもなおゆるすことの出来ない、或る、ほんとうに深いConfidenceを投げかける事の出来る話相手が、私には必要だつたのだと云ふ事がはじめてその時にしみじみ分つたのでした。

 そして、それが、たつた一人のあなただと云ふ事がわかつたのでした。

 それはあの時に、獄中へさし上げた手紙にも、たしか書いたと思ひます。

 何んと云ふ迂愚な私だつたのでせう。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』一九二一年四月号・第三巻第四号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 野枝と大杉はお互いの生活については、余すところなく知り合っていた。

 大事な仕事のためには、お互いできるだけよい同志でありたいと願い、そう努めてきた。

 ふたりの結合の意味は、夫婦であるというよりも、ひとつの道を歩く、ひとつの仕事をする、最も信頼することのできる同志になることーーそれもお互い、最初から知っていた。

 けれどもーーと、野枝は自省している。

 同志がいて仕事の話をする場合などはそうではないが、大杉とふたりきりになった「家庭」の雰囲気の生活では、ありきたりの型にはまった「妻」の思考に陥ってしまうと野枝は書いている。

 ともすると、大事な仕事に臨む場合にすら「良人(おっと)の仕事に理解を持つ事の出来る聡明な妻」と云ふ因習的な自負に負けてしまうと。

 野枝にこの間違った自負を気づかせてくれたのも、大杉の豊多摩監獄入獄だった。

 この間違った自負はなぜ生じたのか?

 野枝は大杉に不満を感じていた。


 本当なら一緒になつて、ムキにならねばならぬ仕事なのに、あなたがあんまり夢中になるといやでした。

 一日中外を歩きまはつて帰り、帰ると御飯を食べる間もオチ/\話をせずに机に向つて坐つたり、お茶を出しても、お菓子を出しても半ば夢中で雑誌の編輯になぞ熱中されると不満でたまりませんでした。

 出先きが分らなかつたり、折角骨折つた夕食の御馳走がムダになつたりすると無暗(むやみ)に腹がたちました。


(同上)





 野枝はその不満が自分の我がままだと思い、自分を責めてみたこともあったが、不満は解消されなかった。

 野枝はこう自省している。

 自分がいわゆる「いい妻」として振る舞い、大杉にも「いい夫」として対してほしいという馬鹿な考えにとらわれていたと。

 大杉が入獄して留守の間、野枝は妻としての義務がなくなり、野枝の生活は自分ひとりのものになった。

 その間、野枝は医者から絶対安静と言い渡されていたので、頭の中でいろいろ考えた。

 野枝は考えたことを話す相手がいないことに寂寥(せきりょう)を感じ、その話し相手は理解の行き届いた友人である大杉以外に存在しないことを知った。

 野枝は大杉が自分にとって得がたい対象であることを知ったが、それは男女の恋愛を超えた力強いものだった。

 これは自分と大杉との関係に特有なものというより、男女の強い結合とは本来そういうものなのかもしれないと、野枝は思った。





 大杉が入獄している間にひとりになって思考した野枝は、自分が常に大杉と一緒に住んでいることが、自分にとってよくないことであることにも気がついた。

 大杉との「家庭」生活を楽しむことに気が取られると、野枝は大杉の一挙手一投足が気になり出すのだった。

 馬鹿げたことだとわかっていても、気に病むのだった。

 大杉と一緒に住んでいると、彼がわずかな時間でも外出し自分の知らないところで過ごしていても、誰と何を話しているのだろうと気をもんでしまうのだった。

 しかし、大杉が入獄して離れて住んでみると、大杉が何をしていようと何を考えていようと、そんなことは一切気にせず心を乱されることもないことを、野枝は知った。

 大杉と一緒にいると大杉の一挙手一投足が気になり出すのは、「やはり一緒にいれば『妻』根性を出すからなのですね」と野枝は自己分析している。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 12:50| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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