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2016年08月27日

第335回 聖路加病院(五)






文●ツルシカズヒコ





『東京日日新聞』社会部記者の宮崎光男は、日蔭茶屋事件の際にも逗子の千葉病院に駆けつけたが、このときにも病床の大杉に面会に来た。

 宮崎はまあ大丈夫だろうと思い、見舞いにも行かないでいた。

 ところが、社の早出し版(東京市外版)を見ると、大杉はもはや死人扱いで、堺利彦や堀保子のおくやみ話まで載っていた。

 あわてて車で聖路加病院に駆けつけた宮崎は、大杉を病気で死なせるのは惜しいと思い、できるなら早出し版の記事を市内版ではひっくり返してやりたいものだと念じていた。

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 宮崎は広くて、人影がなく、電燈が薄暗い聖路加病院分院の中を歩きながら、革命家の終焉を彩るにはあまりに淋しいその雰囲気に涙が流れた。

 しかし、病室のドアに近づいて、そっと中を覗いた次の瞬間、宮崎は明るい微笑を浮かべた。

 ベッドの上に仰向きになって、額に氷嚢をあてがったまま、目をつぶって静臥していた大杉が、ほんの一瞬ではあるが、逗子の病院で見たときのあの底光りする生気のある目を、じろりと天井に向かって見開いたからである。


 上からぶら下がつた暗い電燈の光りに映えた凄いその目に、僕は『これだ。この目だ』と自分の心につぶやきながら、枕頭にしよんぼりと立つてゐる野枝さんに、目で挨拶するや否や、急いで社にひきかえして、悲観記事の撤回を迫つたばかりか、彼の容態が必ず快方に向かひつゝあることを記述した。

(宮崎光男「反逆者の片影ーー大杉君を偲ぶーー」/『文藝春秋』一九二三年十一月号)


 一九二一(大正十)年二月二十一日から一週間ほどして、大杉の熱は下がり始めた。

 しかし、肺炎は峠を越したが、今度は心臓が弱ってきた。

 奥山は野枝に油断は禁物だと、注意を促した。





 三月一日、随筆集『悪戯』(アルス)が発行された。

 大杉、野枝、荒畑寒村、和田久太郎、山崎今朝弥の共著で「発禁や監視など主として警察・司法との攻防を綴った軽妙な随筆をまとめた」(大杉豊『日録・大杉栄』)のである。

 野枝の作品は以下の五タイトルが収録されている。

●「獄中へ」(『文明批評』一九一八年四月号・第一巻第三号/大杉栄らの共著『悪戯』・アルス・一九二一年三月一日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「消息(伊藤)」【大正七年三月七日・東京監獄内大杉栄宛】/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

●「化の皮」(初出紙誌は不明だが一九一九年一月ごろの執筆と推測される/大杉栄らの共著『悪戯』・アルス・一九二一年三月一日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

●「男に蹤〈つ〉かれるの記」(「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『夢の世界』一九一九年三月号・第二巻第三号/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で大杉栄らの共著『悪戯』・アルス・一九二一年三月一日/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』に収録/「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

●「拘禁されるまで」(「拘禁される日の前後」の表題で『新小説』一九一九年九月号・第二四年第九号/「拘禁されるまで」の表題で大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「拘禁される日の前後」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

●「アナキストの悪戯」(「悪戯」の表題で『ニコニコ』一九二〇年二月号・第一〇四号/「アナキストの悪戯」の表題で大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「悪戯」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 三月初旬になり、大杉の危険期は過ぎ、容態は快復に向かった。

 日蔭茶屋事件と今回の入院で二度「死にそこなった」大杉は、「死にそこないの記」にこの入院、闘病についてこう書いている。


 病院にはいるまでは、熱も四十度も越していたんだが、気はたしかだった。

 からだはまだ少しは動けた。

 自動車に乗るのに、「なあに下までぐらい、自分で歩いて行けるよ。」なんて、三階で威張っていたほどだった。

 それで病院のベッドの上に横たわったほとんどその瞬間から、二週間ほどは、まるで夢うつつの間に過ごした。

 ほとんど何にも覚えがない。

 そしてこの間に死にそこなってしまったんだ。

 ……生きるということは実に面白いね。

 僕は葉山の時に初めて、本当にこの面白味を味わった。

 そして今度また、再びその味を貪りなめた。

 こんども意識がすっかり目ざめた時には、もうこの生の力がからだ中に充ち充ちていた。

 毎日何かの能力が一つずつ目ざめて来る。

 動けなかった手足が動いて来る。

 寝返りができるようになる。

 きのうはまだ一人で立つことができなかったのに、きょうはもうそれができる。

 あすはひと足ふた足歩ける。

 そしてあさってはもう室の中をあちこちとよちよちしながら歩く。

 ふだんこのいろんな能力を十分に働かして行ったら、できるだけ自分の思う通りの、我がままな生活をして行ったら、生の歓楽を貪って行ったら、いつ、どこにどうして死んだって、大して不足もあるまいじゃないか。


(「死にそこないの記」/『野依雑誌』一九二一年六月号・第一巻第二号/『大杉栄全集 第14巻』)





 聖路加病院で大杉の主治医を務めたのが、板橋鴻だった。

「私にエスペラントをすすめた大杉栄」によれば、板橋は新聞記者には「肺結核兼腸チフス」と発表したが、チフスのみに注目されて「大杉がチフスで死にそうだ」と喧伝されたという。

 板橋は大杉の入院後、血液やその他の培養においてチフスの可能性をチェックしたが、チフス菌は発見できなかったと書いている。

 大杉が危篤になったのは、肺結核のシュープ(新しい病巣を作って広がっていくこと)と見るのが至当のようだ。


 患者としての大杉氏はよく医師や看護婦の言ふ事を聞く人であつた。

 看護婦達は異口同音に「恐ろしい思想を持つた人のやうにはチツトも見えないわね」と言ひ合つて居つた。

 夫人の伊藤野枝氏は大きな腹を抱へて看護して居つた。

 大杉氏が快復する、野枝氏がお産をするといふ順序であつた。

 病院の同じ食堂で同じ食事をしたこともあるが、野枝氏は色の浅黒い小柄なやさしい口のきき方をする女であつた。

 しよつちう来て看護に当つてゐたのは村木源次郎氏であつた。

 何時も刑事が二人病院の近所にブラブラして居つた。

 時には小使室に入り込んで居ることもあつた。

 そして折々医者や看護婦をつかまへては大杉氏の様子を尋ねる。

 村木源次郎氏は……実にまめまめしく看護婦のやうな仕事をしたり走りづかひをしたりしていた。


(板橋鴻「私にエスペラントをすすめた大杉栄」/『ラ・レヴオ・オリエンタ』一九三六年六月号)


 回復期になった大杉が、科学的研究はみなエスペラントで発表されるような時代が今にも来るようなことを板橋に言ったので、板橋は村木が買ってきてくれた『エスペラント全程』を、試験前の学生のような気持ちで読み耽ったという。

 板橋は聖路加病院勤務時代を「朝に夕に大島通ひの汽船のボーを聞きながら暮らしたあの時分」と回想しているので、野枝も大杉を看病しながら朝に夕に汽笛の音を聞いていたことだろう。





 野枝が三女を出産したのは三月十三日だった。


 危険期が過ぎると、病気はだん/\打ちまかされて行きました。

 そして、全く何の点からも危険がなくなつた処で、始終周囲の人の心配の種だつた、私のお産の時が来たのでした。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』一九二一年六月号・第一巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)


 特にそのことに触れている資料はないが、野枝は聖路加病院の産婦人科で三女を出産したと考えてよいのだろう。

 次女のエマを中国・天津在住の牧野田彦松、松枝(大杉の三妹)夫妻の養女(牧野田幸子、結婚後は菅沼幸子)にしたので、野枝は三女に再び「エマ」(のちに伊藤笑子に改名、結婚後は野澤笑子、歌人名は野澤恵美子)と命名した。

 三女・エマの戸籍上の出生は二月十三日である(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』「伊藤野枝年譜」)

新発田を訪れた菅沼幸子、野澤笑子

大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の墓前祭に参加する菅沼幸子、野澤笑子




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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