2016年08月18日

第326回 駿台倶楽部






文●ツルシカズヒコ




 一九二一(大正十)年一月中旬ころ、有楽町の労働運動社の仮事務所に、林倭衛広津和郎が突然、訪ねて来た(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 ふたりはその日の夜、雨が降る中、銀座を散歩していたが突然、義太夫を聞きたくなった。

 食わず嫌いだった林に、義太夫の魅力を伝授したのは広津だった。

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 林は西洋音楽に対してかなりの熱情をもっていた。

 そんなに豊であるはずがない西洋画家生活の間に、ビクタアやコロンビアのレコードを百五十枚だか二百枚だが持っていた事でも、彼の音楽好きが想像出来るだろう。

 何でもそれはポツポツと買集めたので集まったのだが、しかし彼はそれだけのレコードを揃えていながら、蓄音器は持っていなかった。

 レコードは一枚一枚買えるので、一時に金が要らないが、蓄音器は一時に纏まった金が要るので、彼には買えなかったのである。

 それで彼は自分のレコードが聞きたくなると聞きたいレコードを小脇にかかえ込んで、何処か蓄音器を持っている友達のところに、出かけて行く事にしていた。

 その林に自分は義太夫熱を吹込んだ。

 日本音楽を聞かずに軽蔑していた彼は、やがて義太夫が好きになって来た。

 感受性の敏感な彼は、どんなものでも直ぐ理解する能力を持っていた。


(広津和郎「その夜の三人ーー大杉栄」・『改造』一九二五年十月号/『同時代の作家たち』・文藝春秋新社 ・一九五一年/『新編 同時代の作家たち』・岩波文庫・一九九二年十月 )


 しかし、その晩、ふたりとも電車賃も持ち合わせていなかった。

「誰かに会うだろう」というような感じで、ふたりは銀座を歩いていたが、雨の中、散歩に出かけて来る知った顔はいなかった。

 林が大杉のところに行って金を借りることを思いついたので、数寄屋橋のそばの大杉の病室兼労働運動社の仮事務所を訪ねた。





 日露協会と向い合った自動車屋の二階から、尾行が首をのぞかしているのを見た林は、

「大丈夫大杉はいるよ。あすこの犬たちが番をしているから」といって、その自動車屋の二階を指さした。

 大杉は窓際のテーブルに向って、校正をしていた。

 奥の寝台の上に、野枝夫人が魔子ちゃんと一緒に寝ていた。

 非常に上等とはいえないが、相当に立派な部屋だったので、自分は「なかなか豪儀なものだね」と室内を見廻しながらいった。

「うん、そんなでもないがね」こう答えながらも、無邪気らしい得意さを顔に表して、「こんな事務所なんか持っているというので、近頃は大分成金見たような事をいわれるよ。上海に行って二万円持って来たなどという奴があってね……」

「その噂は僕も聞いたが、上海にはほんとうに行ったのかい?」

「いいや、行きやしないさ……」彼はそういって、へんにニヤリニヤリとした。

 行ったとも行かないとも取れるような笑い方だった。

「実はね、今義太夫を聞きに行こうという話になったのだが、二人とも一銭もないのでね……」

「義太夫とは、また恐ろしく古風なものが聞きたくなったもんだね。ーーしかし金があるかな、どうかな。野枝さんに訊いて見給え」そういって、にこにこしながら、ちょっと寝台の方を顎で示した。

 そしてこんな事をいい続けた。

「しかし義太夫というものはちょっと好いものだよ。あれは半分坐睡(いねむ)りしながら聞いているに限る。坐睡りしながら、三味線に合わせて、こくりこくりやっていると、ほんとうに好いものだよ」

「弱ったな、実に」と林は野枝夫人の方を向きながら、頭を掻いた。

「悪いな、あなたに借りるのは……」

「まあ」と野枝夫人は寝台から起上って、快活に笑いながら、「でも、いくらもない事よ」

 それから蟇口を取出して、内をしらべていたが、

「三円あるから、一円五十銭持っていらっしゃい。それで足りて?」

「弱ったなあ、どうもーーははは」と林は再び頭を掻いた。

「それじゃ借りて行きます」


(同上)





 広津と林は市ヶ谷見附のそばの「何んとかいう席」で義太夫を聞いた。

 ふたりは素雪(そせつ)の「堀川」の三味線を聞きたかったのだが、素雪は病気かなんかで休みだったのでがっかりした。

 広津は大杉との交流をこう回想している。


 大杉栄とは自分は五、六回しか会った事がなかった。

 矢来倶楽部で、彼が昂然と内ヶ崎作三郎に向って空嘯(そらうそぶ)いたのを見た時から、四、五年経ってからであろう。

 自分は彼と知合になった。

 矢来倶楽部の時から見ると、彼は人間が円熟して来たとでもいうのか、むしろ如才なさ過ぎはしないかと思われる位に、アタリが柔かった。


(同上)





 近藤栄蔵が大杉と初めて対面した編集会議の数日後(一月十五日ころ)、労働運動社は神田区駿河台北甲賀町十二番地の駿台倶楽部内に移った。

「病室から」(『労働運動』二次一号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)によれば、有楽町の事務所では狭い部屋の中で五、六人の社員がそれぞれの机で仕事をしている、他に五、六人の連中が遊びに来る、部屋の隅っこの寝台に寝ている大杉は堪ったものじゃなかった。

 湿布では追いつかなくなり、氷嚢で胸を冷やすような始末になったので、労働運動社の事務所を移転したのである。

 近藤憲二『一無政府主義者の回想』、『近藤栄蔵自伝』、大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、駿台倶楽部はかつてニコライ堂に付属する女子神学校の寄宿舎として使用されていたが、それが貸事務所(アパート)になったもので、高い石塀と鉄門に囲まれた広い構内に建つ日本式平屋だった。

 南側に幅広い廊下があり、その外は芝生の庭で、そこからは神田、麹町一円が眼下に見渡された。

 労働運動社はこの駿台倶楽部に、八畳(『一無政府主義者の回想』では八畳だが『近藤栄蔵自伝』では十畳)二室を借りた。

 一室はテーブルや椅子を並べた編集室で、夜は机と机の間に近藤憲二、和田久太郎、近藤栄蔵、寺田鼎などが寝泊まりした。

 もう一室は食堂兼クラブで、来客が多いので自炊を手伝ってくれる来客もいた。

 駿台倶楽部内に望月桂の東京同人図案社があり、望月の斡旋でここに決めたのだった。

 大杉個人には三名の尾行がつき、四名の私服が昼夜交替で労働運動社を監視していた。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 11:49| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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