2016年08月10日

第319回 コミンテルン(二)






文●ツルシカズヒコ



 上海で開かれるコミンテルン極東社会主義者会議に出席するために、大杉が鎌倉の家を出たのは、一九二〇(大正九)年十月二十日の夜だった(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、この日、近藤は大杉と上海行きの打ち合わせをすることになっていた。

 鎌倉の大杉の家に行くために新橋駅のホームで列車を待っていると、信友会の桑原錬太郎と遭遇した。

 桑原も大杉に会いに行くという。

 正進会が十五新聞社のストライキを敢行し、惨敗したばかりだったが、その経過報告書を大杉に書いてもらうためだった。

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 近藤は困ったことになったと思った。

 この夜、大杉は鎌倉の家から極秘に抜け出すことになっていたからである。

 近藤が桑原と鎌倉の大杉の家に行くと、大杉は早い夕食をすませて、トランクに手まわり品を詰めていた。

「どこかへ行くんですか?」

 桑原は困ったような顔をした。

「何か用だったかね」

「ええ、争議の報告書を書いてもらおうと思ってきたんですが……」

 近藤はこんなときに大杉がなんというか、興味深くふたりの会話を聞いていた。





 ところがどうだ、大杉は言下に答えた。

「よし、では手っとりばやく内容をいってくれ」

 私はいささかあきれた。

 いま出発しょうとするまぎわに、面倒な報告を書こうというのだ。

 大杉はひと通り聞き終わってから書斎へひっこみ一時間あまりして出てきた。

「これでいいか読んでみてくれ」

 そういって、また書斎へひっこみ、こんど出てきたときには、いちばんの特徴である山羊ひげをそり落としていた。

 もっとも簡単な変装をしたのである。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』・平凡社・一九六五年六月)





 大杉の家の前には尾行小屋があり、絶えず尾行が三人で見張っていたが、近藤がこの尾行の注意を引きつけている間に、大杉は桑原にトランクを持たせ家を抜け出た。

「日本脱出記」によれば、ふたりは鎌倉駅ではなく、一里ばかりある大船駅に足早に向かった。


 もう夜更けだつたが、ちよい/\人通りはあつた。

 そして家を出る時に何んだか見つかつたやうな気がしたので、後ろから来るあかりは皆な追手のやうに思われて、二人とも随分びく/\しながら行つた。

 殊に一度、建長寺と円覚寺との間頃で後ろからあかりをつけない自動車が走つて来て、やがて又それらしい自動車が戻つて来た時などは、こんどこそ捕まるものと真面目に覚悟してゐた。


「日本脱出記」/『改造』一九二三年七月号/『日本脱出記』・アルス・一九二三年十月/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)





 その自動車はただ通り過ぎただけで、ふたりは無事大船駅に着き、桑原は東海道線の上り列車に乗り、大杉は下り列車に乗った。

 大杉は自分がやっていることの真相を桑原に話せないことをすまなく思ったが、桑原は何も聞かず、そしてこの夜のことは誰にも口外しなかった。

 大杉が上海に着くまでは、その筋に知られたくないので、大杉の関係者の間では大杉が病気で寝ていることにした。

 しかし、尾行はすぐに疑いを持ち、三歳の魔子をつかまえて聞き出そうとしたが、魔子もまた尾行を撹乱させる巧者だった。

「パパさんいる?」と尾行が聞くと、魔子は「うん」と頷く。

 今度は尾行が「パパさんいないの?」と聞くと、やっぱり「うん」と頷く。

 おやと思った尾行がまた「パパさんいる?」と聞くと、やっぱりまた「うん」と頷く。

 そして尾行が「パパさんいないの? いるの?」と聞くと、「うんうん」とふたつ頷いて逃げて行った。

 結局、十日ばかりの間、尾行はどっちともはっきりとさせることができなかった。





 大杉は十月二十五日ごろ上海に着いた。

「日本脱出記」には大船から列車に乗った後、上海に到着するまでの記述がないが、おそらく神戸から船に乗ったのだろう。

 大杉は旅券は持っていたのだろうかという疑問が生じるが、戦前、日本人が中国へ渡航する際に旅券は必要なかったのである。

 上海の街では抗日と反帝国主義を掲げる五四運動が高揚している最中であり、「抵制日貨」という日本の商品をボイコットする札がいたるところの壁に貼り付けられていた。

「日本脱出記」『日録・大杉栄伝』によれば、上海に到着した日、大杉は上海の朝鮮人町で李増林と会い、李東輝大韓民国臨時政府軍務局長)と一時間ほど会談、李増林の案内で前週までバートランド・ラッセルが滞在していた一品香旅館に支那人の名前で投宿した。

 北京大学客員教授として招かれたバートランド・ラッセルは、十月十二日に上海に到着していた。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:55| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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