2016年08月02日

第313回 クロポトキンの経済学






文●ツルシカズヒコ




 一九二〇(大正9)年六月一日、『労働運動』第一次第六号が発刊された。

 大杉は「社会的理想論」「新秩序の創造」「組合運動と革命運動」(いずれも大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第6巻』)などの論文を書いている。


 ……人生とは何んぞやと云ふ事は、嘗つて哲学史上の主題であつた。

 しかし、人生は決して、予め定められた、即ちちやんと出来あがつた一冊の本ではない。

 各人が其処へ一字々々書いて行く白紙の本だ。

 生きて行く其の事が即ち人生なのだ。

 労働運動とは何んぞや、と云ふ問題にしても、やはり同じことだ。

 労働問題は労働者にとつての人生問題だ。

 労働者は、労働問題と云ふ此の白紙の大きな本の中に、其の運動によつて、一字一字、一行々々、一枚々々づつ書き入れて行くのだ。


(「社会的理想論」/『労働運動』一九二〇年六月一日・第一次第六号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第6巻』)


 意気軒昂だが、第一次『労働運動』はこの号で終刊になった。

 大杉が書いた「編集の後で」(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)によれば、「経営困難」が主な理由である。

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 野枝は『改造』六月号(第二巻六号)に「『田園、製造所、工場』−−クロポトキンの経済学」(大杉栄著『クロポトキン研究』に初収録/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)を書いた。

 以下、その要約。

〈一〉
●クロポトキンの『パンの略取』は、無政府共産主義の建設的側面、とくに経済的側面についてかいた名著で、これを書くことによって文明諸国の経済的生活に研究を進め、その結果として出版したのが『Fields、Factories and Workshops』である。

●経済学の使命は、人類の欲求を最少限度の精力の消耗で満たすための手段方法の研究でなくてはならない。

●従来の経済学者は人間の欲求を満足させる手段を考える際に、まず「生産」を論じた。「消費」という重要な点を軽んじていた。富の分配の与ることができない大多数の者については振り向いても見ない。

●まずそれを必要とする欲求が起こって、それで物は造り出されるのではないか?

●人が狩猟をし、耕作をし、道具を作り、機械を発明するようになったのも必要から生じたものではないか?

●すなわち、人間の欲求が生産を支配するのであり、人間の欲求に添わない生産が人間の生活を支配してはならない。

●経済学者は「生産は万人の欲求を充分満たして得ている」というが、今日、世界中のどこの国でも、食べるためという極めて切実な欲求を満たされずにいる人間の方が多い。

●生産組織に誤りがあるのなら、その改造を研究することが、今日の経済学者のさし迫った重大な任務なのである。

●もしそうした視点から研究されたら、従来の経済学は根底から覆されてしまうかもしれない。

●人間の精力の恐るべき浪費を明白に証拠立て、現存の制度があるかぎり、人間の欲求は決して充たされないことを認めることになるからだ。

●従来の経済学者は、生産過剰が恐慌を引き起こす唯一の原因だと躍起になって主張しているが、はたしてそうであろうか?

●ロシアの農民がヨーロッパに輸出する小麦は、余剰の小麦ではない。ヨーロッパロシアの豊穣な小麦の収穫でも、やっと人民に足りるだけのものなのである。

●英国が世界に輸出する石炭も、余剰の石炭ではない。幾百万の英国人は冬になっても火に暖まることができずに、少々の野菜を煮るくらいがやっとである。

●それをどうして輸出してしまうのかというと、たとえば平民階級の安い賃金では自分で生産したものでも買うことができないからだ。

●生産過剰という言葉は、経済学者の恥知らずな妄言である。過剰と見られている莫大な輸出品は、みんな各国の貧乏な階級から剥ぎとった掠奪品である。

●生産過剰など、ありえないのである。

●クロポトキンは近代工業への依存を糺し、近代農業への可能性を見出した。両者の結合が文明社会に必ず利益ある効果をもたらすと考えた。

●彼は頭脳労働と手芸とを同時に行なわせるような教育の可能性も考えた。





〈二〉
●現在の生産組織を誤った方向に導いた第一のものは、アダム・スミスによって提唱された分業説である。

●分業によっては確かに生産を増やしたが、それは国民全体を富ますものではなく、富を擁している者だけをいっそう富ましただけである。

●さらに分業は人間にほんの一小部分の仕事しかできないことを強いる、例えばピンの頭だけを一生作らなければならぬ運命を背負わせ、そうした人間が馬鹿になり貧乏になるのは当然である。

●しかし、従来の経済学者はそれについては何も言わなかった。

●分業は人間の仕事に対する愛や、才能や、発明の精神を奪い、無知無能無気力の魯鈍(ろどん)な人間ばかりを作り上げる。

●社会主義者ですら分業説を是認する。改革中の労働組織も分業を維持しなけらばならないと言う。針磨きは生涯針を磨かねばならないと言う。

●分業は個人の一生だけにかかわる問題ではない。各国の産業の専門化を推し進める。

●ロシアやハンガリーは農業国としての運命を持たされ、ベルギーは毛織物の供給国の運命を担わされる。

●生産力を増すのに、仕事を専門化することはよい方法ではあるが、人間の性質をまったく無視した方法である。

●それよりは、各個人の趣味に応じ知力に応じて自由に能力を発揮させる工夫を凝らす方が、より自然で最善であると、クロポトキンは主張する。

●しかし、今や英国が世界の一大工業国で海外貿易の覇者だった時代ではない。

●フランスもドイツも産業の発展が目覚ましい。アメリカ合衆国の産業は全欧州を相手にするほどの大規模な発達をとげた。

●はるかに劣ったように見える亜細亜にさえ、日本、印度などの新工業国が起こるに至っている。

●阿弗利加や濠洲などが種々の需要品を自ら製造し得るのも遠い将来のことではないであろう。

●工業の分散は老舗の工業国の貿易を悲境に導く。すなわち、国外の旧い得意先を失くすのである。そこで恐慌が来る。恐慌は一八七〇年代から始まった。

●そこで恐慌を防ぐはけ口を植民地に求める。最近の植民地争奪は、このよう経済的事情が第一の原因なのである。

●しかし、植民地は無限にはない。

●その植民地も英国と印度、加奈陀、濠洲のように、母国の生産品を仰ぐどころか、世界の市場に競争しようという勢いである。

●こうなるとすべての生産品は自国の供給に充てるよりほかはない。

●恐慌が来ると「生産過剰、生産過剰」と言うが、生産過剰は事実存在しない。

●莫大な貨物を輸出する国内に、それらの貨物の必要を感じながら買えない多数の人間がいる。

●クロポトキンは謂う。

●「なぜリオンの織工たちが自分のために絹を織れないばかりでなく、茅屋(ぼうおく)で食べる物もない生活をしなければならないのか」

●「なぜロシアの百姓は自分が育てた穀物を売って、パンを焼くのにひと握りの粉の中に草の根や木の皮を混ぜなければならないのか」

●「なぜたくさんの小麦や米を産出する印度にはしばしば飢餓あるのか」

●資本家対労働者問題は世界の大問題になっている。

●これは非常に容易な問題だとクロポトキンは言う。

●「工業上の生産物や農業上の生産物は、その生産者の消費のためだけに生産されるようになればいいだけだ。そして、今、正しくその方向に向かって進みつつある」





〈三〉
マルサスの人口論は、土地には限りがあるから、三十年ごとに二倍になる人口に充分な生活必需品を供給することはできないという。

●しかし、工業の驚くべ進歩による生産品の増加はマルサスの説を動揺させ、土地には制限があるというマルサス説の牙城も、最近の農業の非常な発展によって崩壊に向かっている。

●土地の良し悪し、気候、緯度に制限されない「農業の可能性」をクロポトキンは説明している。

●パリの市場園芸、果樹や蔬菜の高等栽培、農作物と加熱装置、アメリカの集約的農法、温室栽培……。

●最近の進歩した農業は、一定面積の収穫高を異常に高め、土壌を改良し、気候に左右されず、人力と機械と科学の可能性をつくして生産率を高めている。

●農業に費やす労力も今日のような奴隷のような労働の必要はない。植物のために必要な最小限の労働を楽しみながらやればよい。

●その他の時間に人は製造業に従事することもあろうし、芸術的な仕事、科学の研究、その他いろいろな仕事に従事することが可能になるだろう。





〈四〉
●農業と工業はさほど遠くない過去に、結合し提携していた時代があった。

●当時の村落は種々の工業を持ち、技術家も農業を親しみ、都市はひとつの工業的村落であった。

●中世都市の美術工業は富裕階級の要求を充たすものであったが、農村の製品は数百万の民衆の需要に応じたものだった。

●しかし現在では簇出した大工場によって、農業と小工業は絶縁されてしまった。

●数百万の労働者は土地を棄てて大工場に入り、農業が衰退した。

●しかし、大工場に吸収され都市に集中した労働者の悲惨な事情を知れば、資本と労働の現在の関係を改良せねばならないのは自明である。

●クロポトキンは第一に、工業国に農業を復活させること、その方法を発見することが急務と説いている。

●クロポトキンはこの答えを探すために、経済学者らには蔑視され見過ごされている農村工業、家内工業、職人的工業と呼ばれる小工業の研究をした。

●村落における工業は大工場の形式によらず、専門的知識と機械の助けを借りて農業に結びつけ、労働者は自分でいくらかの土地を持ってその土地を耕す、そうすれば人々は幸福な生活をすることができるという。

●工業と農業を提携させるために、手工時代に後戻りしろというのではない。機械に任せることができるものは、機械を利用すればよい。

●たとえば同じ機械を数百台も揃えた大きな紡績工場などは、製造の段階によって、あるいは製品の種類によって、国内の各地方に分散することが可能である。





〈五〉
●古くは、人々には手の労働を蔑視するような習慣はなかった。著名な科学者のその抽象的な研究が、手の労働を蔑視するようなことは皆無だった。

●今、我々は頭脳労働と手工労働とをハッキリ区別している。

●労働者は教育も受けず、その仕事に必要な知識すら与えられず、幼いころから働かされている。

●学者は研究にばかり没頭し、労働を軽蔑し、もしくは無視している。

●労働者はまったく無知な自働機械になり、学者は抽象論だけを得意気にしている。

●クロポトキンは頭脳労働と手工労働を結びつけるために、教育組織の改革を提示している。それは手を働かせ、脳髄を活動させ、人間の多方面の能力を引き出し、それらの能力を有効に利用して成り立つ社会が将来生まれることを暗示している。

●クロポトキンはモスコオの工芸学校の教育を賞賛している。

●二十歳くらいまでに、労働者と科学を応用して働けるだけの知識を習得させ、同時に工業的修練に基礎とするべき一般の知識を与えるような学校教育である。

●人間は数千年の間、食物を生産することを重荷にしてきたが、今日ではその必要はない。

●鉄工業のようなものは例外だが、工場はすべて農業と共存できるところに置かれるべきだ。

●人間が富を得るために、他人の口から奪う必要はないのだ。

●自己の能力の充分な活用、変化のある活動と生活、過労の必要のない仕事が、他人を苦しめて自分の幸福を図る必要のない社会を創り、人類を幸福に導く。

 野枝がミシンを購入して洋服作りを始めたのは、クロポトキンの頭脳労働と手仕事の両立という考えに刺激されたからではないだろうか。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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