2016年03月20日

第30回 出奔(二)






文●ツルシカズヒコ



 一九一二(明治四十五)年四月、出奔した野枝は福岡県三池郡二川村大字濃施(のせ)の叔母・坂口モトの家に一時逃れ、その後、友人の家に身を潜めていた。

「出奔」はその友人の家に身を潜めていたときの実体験を創作にしている。

「出奔」の登場人物は仮名になっている。

 藤井登志子(野枝)、志保子(友人)、夫・永田(末松福太郎)、叔母(代キチ)、N先生(西原和治)、教頭のS先生(佐藤政次郎)、光郎(辻潤)。

 このとき、辻は二十八歳、野枝は十七歳。

 辻は巣鴨町上駒込四一一番地の家に、母と妹と暮らしていた。

 叔母・坂口モトの家を出た野枝は、博多に出た。

 そのまま上りの汽車に乗るつもりだったが、少し考えることがあって、そうはしなかった。

 友人の志保子のところに行ってみることにした。

「動揺」によれば「十里ばかりはなれた友達の家」である。

 冷たい雨が降る中、田舎道を人力車に揺られて、長い道のりだった。

 志保子が留守かもしれない、在宅していても、彼女が自分を受け入れてくれるとはかぎらないーーそんな不安がよぎった。

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 四、五年会っていなかった友人の突然の訪問を、志保子は涙をいっぱいに湛えた目で、野枝の顔を見上げながらわずかにうなづき、温かく受け入れた。

 質素な木綿の筒袖に袴をはいた、野枝の凍った悲しい気分が、いくぶん溶けた。

 なぜ突然やって来たのか、野枝がその理由を切り出したのは、ふたりで冷たい床に入り、いろいろなことを話した後だった。


『私ねずいぶん見すぼらしいなりしてゐるでせう。ふだんのまんま家を逃げ出して来たのよ、直ぐにね東京へ引き返して行かうと思つたんですけれど少し考へることがあつてあなたの処へ来たの、長いことはないのだから置かして頂戴な』

 漸くこれ丈け云ひ出したのは冷たい床の中に二人して這入つてからよほどいろんなことを話して後だつた。

『まあさう、だけどどうして黙つてなんか出て来たの、どんな事情で? さしつかえがないのなら話してね、私の処へなんか何時までゐてもいゝことよ、何時までもゐらつしやい、あなたがあきるまで――でも本当にどうして出て来たの』

『いづれ話してよ、でも今夜は御免なさいね、随分長い話なんですもの』

『さう、それぢや今にゆつくり聞きませう、あなたのゐたい丈けゐらつしやい。ほんとに心配しなくてもいゝわ』

『ありがたう。安神(あんしん)したわ、ほんとにうれしい』


(「出奔」/『青鞜』一九一四年二月号・第四巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)





 一週間たったが、野枝はそのことについては何も話さなかった。

 なんでもぶちまける性質の野枝が話しにくそうなので、志保子も敢えて聞こうともしなかった。

「いい天気ね。今日帰って来たら、一緒にそこらを歩いてみましょうね」

 志保子は家の門を出ると、すぐそこに見える小学校に勤めていた。

 野枝は毎朝、門まで出て黄色い菜の花の中を歩いて行く友達の姿を見送った。

 縁側の日当りに美しく咲き誇っていた石楠花(しゃくなげ)も、もう見る影がなくなった。

 野枝は塀の近くに咲いているを眺め、差し迫った自分の身の置きどころについて考えようとした。

 志保子には「今日はすっかり話してしまおう」と思い、話の順序を立てようとするのだが、長い道程の中で起きたさまざまな出来ごとや、その間の自分の苦悶を考えると、話の道筋を立てることができなくなった。

 そして思いは、自分が無断で家を出た後の混乱、父の当惑の様子、叔母や叔父が自分をさんざん罵っている様子、母の憂慮、そういう方にばかり走った。

 自分の道を自分で切り開く最初の試みをした、というような快い気持ちなどはまるでなくなり、暗い気持ちになり、また父の傍らに泣いて帰っていこうかというような気になったり、死を願うより仕方がないとさえ思う日もあった。

 志保子は注意深く野枝の様子を見ていた。

 夕方、野枝が沈んだ目つきをして縁側にボンヤリ立っていたりすると、近所の子供たちを集めて騒がしたりして、野枝の気を紛らすように努めた。

 野枝は志保子の目に浮かぶ優しい暖かい友情にしみじみ泣いた。





 どうかして志保子の帰りの遅い時には登志子は二度も三度も門を出てはすぐ其処に見える学校の屋根ばかり眺めてゐた。

 黄色な菜の花の間に長々とうねつた白い道を見ていると遠いその果もわからない道がいろ/\なことを思はせて、つい涙ぐまれるのであつた。

 前を通る人達は見なれぬ登志子の悄然と立つた姿をふしぎさうにふり返つて見て行く。

 そんな時登志子は、もう本当に遠い/\知らない処にたつた一人でつきはなされた様な気がして拭いても/\涙が湧いて来て、立つてゐられなくなつてくる。

 燈をつけても燈の色までが恐ろしく情ない色に見えた。

 読む書物をもつて出なかつたことがしきりに悔いられた。

 うすらかなしい燈の色を見つめながら、彼女は何時も目をぬらして友達を待つた。

 それでもなお悲しい心細い考へが進もうとする時は彼女はのがれる時に持つて出た光郎の手紙を開いて読んでは紛らした。

 そうして心弱い自分の気持ちをいくらかづゝ引きたてるのだつた。


(同上)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 21:45| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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