2016年03月20日

第29回 出奔(一)






文●ツルシカズヒコ



 野枝が出奔したのは、一九一二(明治四十五)年四月初旬だった。

 野枝は後に「動揺」を発表するが、その中の木村荘太宛ての手紙に出奔についての言及がある。

「動揺」によれば、新橋から帰郷の汽車に乗った野枝は徐々に落ち着いてきて、いろいろ思考をめぐらせた。

 最も思いをめぐらせたのは、辻からされた抱擁と接吻のことだった。


 私はそれが何だか多分の遊戯衝動を含んでゐるやうにも思はれますのですがまた何かのがれる事の出来ないものに捕へられてゐるやうな力強さを感ぜられるのです。

 私はどうしていゝか迷ってゐるうちに汽車はずん/\進んで行つてもうのがれる事が出来ないやうなはめになりました。

 そして仕方なしにとう/\帰りましたが帰つてもぢつとしてゐられないのです。

 私はすべて私の全体が東京に残つてゐる何物かに絶えず引つぱられてゐるやうに思はれて苦しみました。

 そして直ちに父の家を逐(お)はれて知らない嫌やな家に行かねばならないと云う苦痛も伴つてとう/\私は丁度帰つて九日目に家を出てしまつたのです。

 暫くの間十里ばかりはなれた友達の家にゐました。


(「動揺」/『青鞜』一九一三年八月号・第三巻第八号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)

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 野枝が今宿に帰郷したのは三月二十九日なので、それから九日目に家を出たとしたら、それは四月六日である。

「伊藤野枝年譜」には帰郷して九日目に「婚家を出」たとあるが、「動揺」の文意からすると婚家の末松家には行かずに出奔したようにも受け取れる。

 出奔した野枝は叔母・坂口モト(父・亀吉の次妹)や友人の家を訪ね歩いた。

 叔母の坂口モトの婚家は福岡県三池郡二川村大字濃施(のせ)の渡瀬(わたぜ)駅前の旅館だった(現・福岡県みやま市)。

「従妹に」は坂口モトの娘・坂口キミに宛てた書簡形式で書かれていて、出奔したその理由を「きみ」ちゃんに説明する内容になっている。

「伊藤野枝年譜」によれば、坂口キミは野枝より一歳年下で、幼いころ今宿の家で一緒に育ったこともあり、ふたりは仲がよかった。





 今、私の頭の中で二つのものが縺(もつ)れ合つて私をいろいろに迷はして居ります。

 私は今まで斯うして幾度きみちやんに手紙を書きかけたか知れないのです。

 けれども私の書いたものが果して正当に何の誤もなくきみちやんに理解されるかどうかとそれを考へては、若しきみちやんに理解が出来なかつたときにはきみちやんの為めにもまた私の為めにも大変不幸だと思はれますので止めました。

 けれども、どうしても書きたくてたまらないので。

 二つのものと云ふのは、その書きたいのと、書いて、もし悪い結果になるといけないと云ふ心配とを云つたのです。


(「従妹に」/『青鞜』一九一四年三月号・第四巻第三号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)


 という書き出しで始まる「従妹に」だが、以下、現代の口語調にして要約してみた。





 人は私のことを我がままで不孝者だと言います。

 自分でもそうは思いますが、人を苦しめておいてなんとも思わないと言われるのは心外です。

 私だって苦しくてたまらないのですが、それを我慢して自分の道に進んで行かなければならないのです。

 私は自分以外の人の都合で無理に結婚させられたのです。

 我慢して結婚したら孝行娘とは言われるかもしれないけれど、幸福であるはずがありません。

 誰も侵害することのできない自分の体と精神を持って生まれてきたのに、他人の都合で生きるなんて、生き甲斐のない人生と言わざるを得ません。

 人間は誰でも自分が可愛いのです。

 自己犠牲とかいっても、それから得られる名誉欲を満足させているわけですから、結局は自分のためなのです。

 きみちゃん、よく考えて御覧なさい。

 自分がこうしたい、そうしないとすごく困るというような、自分にとって重大なことはなかなか思うようにならないですよね?

 そして、それはそういうことをされると困る人が自分のまわりにいて、その人が邪魔するからです。

 自分の意志でした結婚ではなかったので、私はそれを破戒しようとしました。

 両親や叔父さんたちは、そうされると困るので邪魔するのです。

 私は他人が困るからといっても、自分自身が苦しいので無理にも破戒しました。

 それで一番困ったのは私に無理強いをした人たちです。

 その人たちが困るのは本当は当然なのですが、嘘で固めたいわゆる世間の道徳というものが、それが当然だとは人に思わせないのです。

 自分より年が上だとか親だとかということを盾にして、わずかな経験とかを無理な理屈にこじつけて、理不尽に人を服従させてもいいはずがありません。

 みんなは私のことを我がままだとか手前勝手だと言いますが、私の周囲の人たちの方がよほど我がままです。 

 私は自分の思うことをどんどんやるかわりに、人の我がままの邪魔はしません。

 私の我がままと他人の我がままが衝突したときは別ですが。

 自分の我がままを尊敬するように、他人の我がままを認めます。

 けれども世間にはそういうふうに考えている人は、そんなにいません。

 自分はしたい放題のことをして、他人にはなるべく思うとおりのことをさせまいとします。

 自分は自分だけのことを考えて行動し、他人は他人の勝手に任せておくのが本当なのですが、自分と他人の区別を明確につけることができないのがたいていの人の欠点です。

 それはその人たちが悪いのではなくて、日本のいわゆる道徳がいけないのです。

 今の日本の多くの人を支配している道徳は、ひとつも本当のものはなく、みな無理な虚偽で固めたものなのです。
 
 だから窮屈なのです。

 自他の区別がつかない人たちには、本当の意味の正しい個人主義と、自己本位や自分を甘やかす我がままや傲慢な専横との違いが理解できないのです。

 各自が我がままをすると共同が成り立たないから、相互に我慢しなければならないとよく言います。

 これも根本的に間違っています。

 みんなが他人に関わらず、自分は自分だけのことをやれば、最も自然な共同が可能になります。

 自分を抑圧するような不快な感情がないから、嫌な下らない争闘なんかは決して起こらずにすみます。

 けれども、共同とか言う人たちにかぎって、自分が他人にかけている迷惑には鈍感で、他人のしていることが自分に関わりだすと、すぐに邪魔をするのです。

 それも妙に道徳とかいうものにとらわれて、回りくどい嫌味な愚劣な争いをしているのです。

 私は自分を貫徹させるにあたって、そこに突き当たりました。

 私は他の多くの人たちのように、悧巧な狡いことはできなかったのです。

 道徳には何をさしおいても服さなければならない、そういう考えを私は抱くことができません。

 軽蔑しているものに屈するには、私の気位が高すぎるのです。

 他人が自分の行為に対してどんな思惑を持つか、というようなことを考える余裕を私は持てないのです。

 そしてそのことが悪いことだとは思いません。

 私はみんなの一番尊敬している、そして私を縛する最も確かなものであると信じる道徳や習俗を見事に踏みにじりました。






 野枝がこの「従妹に」を脱稿したのは、一九一四(大正三)年二月二十三日、出奔した約二年後であるが、野枝が坂口キミに実際にこのような内容の手紙を書いたのかどうかは不明である。 

 しかし「……こんなしどろもどろな言ひ方でなくもう少しきちんとした答が出来るつもりですから。気持ちが落ちつきしだいに書き代へて送ります」という下りもあるので、実際にこのような内容の手紙を書いたのかもしれない。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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