2016年07月11日

第289回 出獄の日のO氏(一)






文●ツルシカズヒコ

 一九一九(大正八)年八月八日、大杉は東京監獄から野枝に第二信を書いた。


 シイツがはいつてから何にもかもよくなつた。

 あれを広くひろげて寝てゐると、今まで姿の見えなかつた敵が、残らず皆んな眼にはいる。

 大きなのそ/\匐つてゐる奴は訳もなくつかまる。

 小さなぴよん/\跳ねてゐる奴も、獲物で腹をふくらして大きくなつてゐるやうなのは、直ぐにつかまる。

 斯んな風で毎晩々々幾つぴち/\とやつつけるか知れない。

 蚊の防禦法もいろ/\と工夫した。

 差入の飯にもなれた。

 もう間違ひなく皆んな食べる。

 そして可なり腹へ入る。

 大便も日に一回になつた。

 もうこれで総てがこつちのものになつたのだ。

「あんなに痩せて、あんなに蒼い顔をしてゐちや」と大ぶ不平のやうだつたが、どうも致し方がない。

 あの暑い日に、二十人ばかりがすしのやうに押されて、裁判所まで持ち運ばれたのだ。

 途中、僕は坐る場所がなくて、人の膝の上に腰かけてゐた位だ。

 実際、向うへ着いた時には、自分で自分が死んでゐるのか、生きてゐるのか分らなかつた。

 二三時間ばかり寝て、漸く正気がついた。

 それから一日狭い蒸し殺されるやうな室に待たされてゐたんだ。

 けふも又裁判だ。

 ほんとうにいやになつちまうよ。

 面倒くさい事は何も要らないから、何とでも勝手に定めて、早く何処へでもやつてくれるがいいや。

 此処まで書いたら、いよ/\出廷だと云つて呼びに来た。

 さよなら。


(【伊藤野枝宛・大正八年八月八日】・「獄中消息 市ヶ谷から(四)」・大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』)

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 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば(以下、特に出典を明記しない記述は同書参照)、八月八日、大杉の巡査殴打事件第二回公判の開廷は八時の予定だったので、野枝や山川菊栄ら女性を含む同志二十数名が構内に参集して待機していたが、どういうわけか開廷は午後五時と大幅に遅れた。

 検事の論告求刑の際、裁判官が被告・大杉に起立して敬意を表するよう再三命じたが、大杉は拒否して応じなかったので、結局、検事が折れて裁判官も黙認したので着座のまま論告が行なわれた。

 大杉のこの異議申し立ては、検事の論告中に被告に起立を命じる官尊民卑の弊習を批判していた山崎今朝弥弁護士の示唆を実行したのである。

 布施辰治弁護士は「処罰を必要とすべき性質のものなら、誰が考えても当時直ちに処罰していなければならない訳ではないか。五月二十三日に告訴状が出されたというのなら、それがこの二ヶ月間警察に放置されていたのは、いったいどうしたわけなのか」と不当を追及した。





 八月九日、大杉の巡査殴打事件に傷害罪で罰金五十円の判決が下された。

 検事は控訴したが、裁判官は身体の自由を拘束する必要なしと判断し、保釈を許可した。

 八月十日、大杉は獄中から野枝に葉書を書いた。


 知れてはゐるだろうと思ふが、念のために云つて置く。

 保証金弐拾円で保釈がゆるされた。

 今日は日曜日で駄目だろうが、明朝早く其の手続きをしてくれ。


(【伊藤野枝宛・大正八年八月十日】/「獄中消息 市ヶ谷から(四)」・大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』)





 保釈金は大石七分が出した。

 八月十一日、大杉が保釈になり東京監獄を出獄、午後四時近くに服部浜次が自動車で迎えた。

 八月十三日、林倭衛が大杉宅を来訪し、その場で大杉の肖像画にとりかかり、半日ほどで描き上げる。

 右上にフランス語で「同志大杉出獄の日に」と書き入れた。

出獄の日のO氏」と題して九月一日からの二科展に出品されるが、警視庁の撤回命令が出て問題になる。

 八月中旬ごろ、大杉と近藤憲二が千駄木町の望月桂宅を訪問。

「出入りの同志が邪魔で落ちついて締切原稿が書けない。一寸避難して来たよ」と大杉が言って、望月の一閑張りの机を占領して原稿を書き始めた。

 原稿は『新小説』九月号に寄稿した「死灰の中から」と想定される。

 大杉は望月宅でこの原稿を書き終えてから、「十ノ廿松屋製」原稿用紙二枚にメモ書きをした。

 一枚は「東京労働運動同盟会」と題した「実際運動」の起案、もう一枚は北風会の改組と新機関誌発行の計画を練ったものだった。

 望月は半裸の大杉が机に向かっている姿を描き「ある日の大杉」と題した。

 大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』口絵では一九二〇(大正九)年作とされていたが、その前年に描かれたものだった。

 大杉の肖像画として有名な、林の「出獄の日のO氏」と望月の「ある日の大杉」の二枚の絵は、同時期に描かれていたのである。

 八月三十日、横浜の吉田只次宅に大杉、野枝、村木、和田、近藤、中村還一らが合流し宿泊、翌日の会合後、本牧の三溪園を散策した。


林倭衛



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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