2016年03月20日

第28回 わがまま






文●ツルシカズヒコ



 登志子や従姉の家は博多の停車場から三里余りもあった。

 その途中でも野枝は身悶えしたいほど、不快なやり場のないおびえたような気持ちになった。

 従姉の家に立ち寄った後、安子が従姉の家に泊まることになったので、登志子と男が一緒に帰ることになった。

 挨拶をして従姉の家の門を出るやいなや、登志子は後ろも振り向かずにできるだけ大急ぎに、袴の裾を蹴って松原が続く町の家の方に歩いて行った。

 登志子はひたすら急いで歩いた。

 肩を並べて歩くことなんかとてもできない。

 声を聞くのも嫌だった。

 男は野枝が不快を感じているのは充分に知っていたが、おとなしい彼は登志子の後からついて来た。

 登志子は追いつかれないように懸命になって急いだ。

 男がとうとうこらえ切れずに言った。

「登志さんは馬鹿に足が早いんだね」

 登志子は返事をすることもできなかった。

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 家では祖母が出たり入ったりしながら、登志子を待っていた。

 駆け込むように家に入ると、母や祖母の懐かしい笑顔が並んで登志子を迎えた。

 一家中の温かい息が登志子の心をほぐしかけたが、そこに男がいると思うと泣きたくなった。

「私、たいへん疲れていますから、夜になるまで少し寝ますよ」

 登志子は袴を脱ぎだした。

 祖母は今着いたばかりの孫娘の元気のない真っ青な顔を見ると、愛しそうに言った。

「おーそうだろう、長い旅でも汽車の中ではよう眠られん、お母さん床を出しておやり」

 祖母は眉を寄せながら、後から登志子を抱えんばかりに一緒に立った。

 男は手持ち無沙汰に座っていた。

 叔母と母が気の毒そうに見ていた。

「おばあさんがあれなので、どうも、本当にわがままで」

 と、叔母は取ってつけたようなお世辞笑いをしながら、男を慰めるような詫びるような調子で言った。

 男も仕方なく笑い、黙ってそこらを見回した。





 慧眼な祖母は、去年の夏に気に入らない婚約をされて以来、激しくなった登志子の我がままが心配でたまらなかった。

 そして登志子がどんな気持ちで帰ってきたかもよく知っていた。

 叔母はこのおとなしい青年を前にしていると、なによりもまず自分の大嫌いな理屈っぽい生意気な姪の我がままが憎らしくなった。

「どうしてあんなですかね。ああ、我がままが激しくては、とても家なんか持てるもんじゃありませんよ。一緒にいるようになったら、どしどし叱りつけてやらなければいけませんよ、本当に」


 登志子は床をとつてもらうといきなり横になつて深くすつぽりと蒲団を被つた。

 もうひとりだと思うと、涙が溢れるやうに流れた。

 何の感情もない、たゞ涙が出る、虚心でゐて涙が出る、――ゆるんだ疲れ切った空虚な心はいつか自から流す涙を見つめながら深い眠りに落ちていつた。


(「わがまま」/『青鞜』一九一三年十二月号・第三巻第十二号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)





 野枝が「わがまま」を脱稿したのは一九一三(大正二)年十一月十五日で、原稿が掲載されたのは『青鞜』同年十二月号だった。

 野枝はおおよそ一年半前の体験を、実名を一切出さない小説のスタイルで書いたわけだが、『伊藤野枝と代準介』の著者・矢野寛治は、同書の中で代家や末松家に対する「非常なる誹謗中傷の文章である」と、野枝を批判している。

 矢野の妻・千佳は代準介の曽孫であり、千代子の孫にあたるが、代家の関係者は長い間この小説「わがまま」によって名誉を毀損されていたようだ。

 例えば、辻も「わがまま」に影響を受けて、こう書いている


 女の家が貧乏な為(た)めに、叔父さんのサシガネで、ある金持ちの病身の息子と強制的に婚約をさせられ、その男の家から学費を出してもらつて女学校に通つて、卒業後の暁(あかつき)はその家に嫁ぐべき運命を持つてゐた女。

 自分の才能を自覚してそれを埋没しなければならない羽目に落ち入つてゐた女。

 恋愛ぬきの結婚。


(「ふもれすく」/『婦人公論』一九二四年二月号/五月書房『辻潤全集 第一巻』)





『伊藤野枝と代準介』によれば、この辻の文章も「わがまま」を真に受けた誤解であり、「後世の伊藤野枝研究者たちは、この創作を鵜呑みにしてしまった」と研究者の軽率さも指摘している。

 さらに「どこの世界に、娘に悪い縁談を持ってくる親が居るものか」という代準介の言葉や「端(はな)は、ノエ自身が乗り気の縁談だった」という代キチの言葉が、代家に伝わっているという。


 すべてはアメリカには戻らないという末松の言葉から、一生をこの田舎の糸島で暮らすのか、その暗澹たる鬱屈への反発が創作「わがまゝ」を書かせたのであろう。

(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』)


「わがまま」に対する同書の反論、代家の経済状態に関する事実関係を挙げての反証には説得力があり、「わがまま」は野枝が「読者の同情を引くように書いた」フィクションであるとの見方も正鵠を射ていると思える。

 しかし、「あれは、あくまでフィクションですよ」という野枝の言い分もありえる。

 しかし、モデルにされた側がはなはだ迷惑なのも、厳然たる事実である。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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