2016年07月07日

第280回 森戸辰男






文●ツルシカズヒコ


 一九一九(大正八)年五月二十三日、大杉が尾行巡査を殴打した。

 新聞はこう報じている。


 ……大杉栄(三五)が……千葉県東葛飾郡葛飾村字小栗原七藤山山三郎方にて船橋署の尾行巡査安藤清に退去を迫り応ぜずとて同巡査を殴打し左唇内面口角下(さしんないめんこうかくか)に負傷せしめたる事件……

(「東京朝日新聞」一九一九年八月五日)

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 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、 尾行は長年つけられている大杉だが、船橋署の巡査は犯罪人のような扱いでうるさくつきまとい、近隣にも迷惑をかけていた。

 この日も他人の家の中に入り込んで、しつこく問いただしているので、出るように言ったが、反発するばかりなので、腹立ち紛れに殴ったのである。

 巡査は左唇の中を切って出血したが、たいした傷ではなく、大杉は自ら巡査とともに署へ行き、事実を述べて監視の作法について抗議した。

 傷害事件にはならず、これですんだはずだったが、二ヶ月後に警視庁により蒸し返されることになる。

 六月十八日、大杉一家は千葉県東葛飾郡葛飾村の「中山の家」を引き払い上京した。

 この日は小石川区指ヶ谷町九二番地の若林やよ(故・渡辺政太郎夫人)宅に宿泊し、翌日、本郷区駒込曙町十三番地に転居した。

「中山の家」を引き払ったのは、野枝の体調が回復せず、芝区三田四国町の奥山伸の病院(奥村医院)に通うことになったからである。

 多くの社会主義者が奥山伸の世話になった(伊藤野枝「拘禁される日の前後」解題)。





『日録・大杉栄伝』によれば、駒込曙町の家は茂木久平が借主だったが家賃滞納で十日に出ていった後を、同居の久板が預かっていた。

 大杉は久板から誘いを受け、ここに移り、茂木との話がついたら後を借りたいと申し入れた。

 しかし、六月末が立ち退き期限だとして、七月二日、家主の室田景辰から明け渡し訴訟を起こされることになる。

 室田は前警視庁消防部長だった。





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、七月上旬、大杉は東京帝国大学経済学部助教授・森戸辰男と面談した。

 森戸が「クロポトキンの社会思想の研究」を執筆するにあたり、大杉に面談を懇請したのである。

 翌一九二〇(大正九)年、「クロポトキンの社会思想の研究」が東京帝国大学経済学部機関誌『経済学研究』に掲載されたことによって、森戸事件が起きることになる。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、面談したふたりは初対面ではあるが互いに共鳴し合い、その後も森戸はクロポトキンの作品について「教えを乞いたい」と言ってきてふたりは二、三度会い、監獄生活のことも共通の話題として意気投合し、思想を語り合える仲として認め合ったという。

 森戸辰男「大杉栄君の追憶」(『改造』一九二四年四月号)には、「研究上のことで生前両三回の面識をしか
持ち得なかつた私」とある。





「今日はどうかすると危ないよ。そのつもりでおいで」

 七月十五日、朝の寝床の中で目を覚ますとすぐ、大杉が言った。

 伊藤野枝「拘束される日の前後」解題、『日録・大杉栄伝』によれば、その日は神田区美土代町の東京基督教青年会館で日本労働連合会の発会式をかねた演説会が開催されることになっていた。

 大会は午後六時に始まり、会衆約千人、大杉らは北風会の例会を中止して二十数名で押しかけた。

「いよいよ今日ですのね」

「ああ、たいてい大丈夫なつもりだがね、どうかするとわからない。しかし、引っ張られたところで、ひと晩とか、たかだか治安警察法違反というところで二、三ヶ月くらいなものさ」

「二、三ヶ月なら願ってもない幸いでしょう」

「当分、本が読めるだけでもありがたいな」

 大杉は早い夕食をすませて出かけた。

 野枝も一緒に出て日比谷の服部浜次の「日比谷洋服店」で用をすませて待機することにした。

「うまく入れますか」

 入場券がないと会場に入れないというような話なので、野枝は電車の中でそう言った。

「なあに、なんとしてでも入れるよ」

 大杉はすまして会場の入口に近づいて行った。





 其の晩の会場でさう大した騒ぎがあらうとはもとより私は思つてゐなかつた。

 しかし、労働者が、「労働と資本の調和」と云ふやうな事で、大切な自分達の生活の改善の為めに働かうとする意志を、うまく誤魔化されたり眩(くら)まされたりするのをだまつて、見てゐることの出来ないOをはじめ多勢の同志と、さう云ふ「危険思想」を持つ者にはテンから一行の文章も発表させまい一と口の差し出口もきかせてならないと云ふ政府の旨をふくんだ会場を警戒する警察官の間に、何んにも事なく済むと云ふ事もまた私には想像されなかつた。

 よし治安警察法の適用すら出来ない程度の事であつても、即ち彼等の「あいつ等は騒ぐかもしれない」と云ふ予想だけでも、警察の留置場に一と晩ぐらい拘禁するのは容易(たやす)い事なのだから、無事に帰つて来ると云ふ事は殆んど想像されない事だつた。


(「拘禁される日の前後」/『新小説』一九一九年九月号・第二四年第九号/「拘禁されるまで」の表題で大杉栄らの共著『悪戯』・アルス・一九二一年三月一日/「拘禁されるまで」の表題で大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「拘禁される日の前後」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 野枝はあまり機嫌のよくない魔子をだましだまし、長い時を一時間、二時間と消していった。

 九時近くになると、野枝は誰か様子を知らせに来るかもしれないと思って、「日比谷洋服店」の門口に立って心待ちに待ちながら、絶えず後ろの電話の鈴(りん)にも注意をしていた。

 十時が過ぎた。

 無事には戻れまい、いやこの時間までなんの沙汰もないのを見ると無事にすんだのかもしれない……。

 野枝の気持ちは落ちつかなかった。

 野枝は外に出て、子供を眠らせるために、できるだけ静かな足取りで歩き出した。

 花月食堂の前を電車通りの方に歩いて行くと、宙を飛ぶように駆けて来るふたりの男の姿が野枝の目に留った。

 三、四ぐらいのところまでふたりが近づいて来たのを見ると、ひとりは近藤憲二で、もうひとりは野枝の知らない若者だった。





「近藤さん、近藤さん」

 野枝のそばをすり抜けて走って行く近藤に、続けざまに彼女が呼びかけると、近藤の足が止まった。

「おう」

 近藤は引き返しながら、

「誰も来ませんか? まだーー」

 息をきらせながら問いかけた。

「いいえ、誰も来ませんよ。どうしたんです?」

「やられましたよ、大杉さんがーー」

「そうですか、他には? 服部さんは?」

「他にはやられないようです。服部さんはやられるようなことはないと思うんですがね」

「会は?」

「解散です。見事にブッ壊れですよ」

「大杉は騒いだんですか?」

「何にも騒ぎはしませんよ、ただ演壇に飛び上っただけです」

 野枝たちはいろいろと差し入れの準備をして、すぐに錦町署に向かった。

 しかし、大杉はすぐに帰された。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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