2016年07月06日

第278回 トスキナ(一)






文●ツルシカズヒコ


 一九一九(大正八)年は浅草オペラオペレッタの全盛期であった。

 観音劇場でオペレッタ『トスキナア』が上演されたのは、この年の五月だった。

「トスキナア」とは「アナキスト」の逆さ読みであるが、プログラムや台本には検閲に引っかからないように「トスキナ」と刷った。

 作は獏与太平(ばく-よたへい)、作曲は竹内平吉、装置は小生夢坊(こいけ-むぼう)。

 浅草の伝法院の裏にあったカフェー・パウリスタ、その二番テーブルは獏与太平の「指定席」であり、そこは獏の仲間たちの溜まり場だった。

 その溜まり場に居合わせた獏、竹内、小生、沢田柳吉、辻潤、佐藤惣之助らの雑談から生まれた企画が「トスキナア」だった。

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 そもそも観音劇場の楽屋が「トスキナア」なのであった。

 松本克平『日本新劇史ーー新劇貧乏物語』によれば、観音劇場の楽屋口には「犬猫刑事ノ類入ルベカラズ」という貼札が掲げてあったという。

「犬」とは官憲のスパイのことである。

 これを発見した象潟署の刑事が怒鳴り込んで来た。

 対応した者はその場は一応、恐縮して書き改めることにしたが、翌日になると新しい貼札が掲げられた。

「刑事犬猫ノ類入ルベカラズ、これを犯すものは頭の上から水をぶっ掛けられるべしーー獏与太平」

 堂々と署名までしてあった。


 文芸部の小生夢坊、獏与太平、伊庭孝、辻潤などはいずれもかつて注意人物とされたことのある面面である。

 その楽屋へは佐藤春夫、谷崎潤一郎、芥川龍之介、武林無想庵今東光……はじめいろいろの詩人や作家がよく遊びに来たばかりでなく、近藤憲二、大杉栄、宮嶋資夫といった戦闘的なアナーキストまで時々顔を見せていたのである。

 これらの危険人物の行動を内偵するため、また交遊する連中の動静を探るために警察はしばしば探索にきたり、スパイをもぐり込ませていたのだった。

 犬猫刑事とはそのスパイに対するウイットに富んだ挑戦であったわけである。


(松本克平『日本新劇史-新劇貧乏物語』・筑摩書房 ・一九六六年)





 このころ野枝も浅草に足を運んでいたようで、小生夢坊は大杉と野枝のカップルをこう書いている。


 アマカスに虐殺された大杉栄、伊藤野枝が、いとも仲よく(若し二人にして一人が欠けたら反射鏡のない顕微鏡のやうなものだつたらう?)時に私のシヤツポとマントを野枝さんがかむつたり着たりして、十二階裏から吉原の仲の町と流れ歩いたつけが、演歌を真似て唄つてゐるうちにそれがいつの間にか革命歌に変つたりして冬の夜を驚ろかしたりしたものよ。

(小生夢坊『浅草三重奏』・駿南社・一九三二年)


 大杉は金龍館の楽屋にも出入りしていた。


 大杉はときどきてん屋ものを金龍館の三階に届けさせる。

 それを女たちと食べるから三、四人前だったりもする。

 文無しのくせに、と思う高田らを意に介するでもない。

「カネは下で待ってる人から受けとってくれたまえ」

 下で待ってる人といえば、楽屋口で待機している刑事しかいない。


(岡村青『ブラリ浅草青春譜ーー高田保劇作家への道ーー』・筑波書林・一九九七年七月)





『トスキナア』は五月に二度、小屋にかかった。

 第一回公演は五月六日から一週間、第二回公演は五月十四日から一週間。

 二公演とも最終演目が『トスキナア』で、前座として文士劇や沢田柳吉のピアノ独奏がプログラムに組まれていた。

 文士劇は第一回公演がシング『谷間の影』、第二回公演がゴーリキー『どん底』だった。


 第一回公演の『谷間の影』のプロローグとして辻潤作の表現派ふうの詩劇『虚無』をやった。


 幕が明いても舞台は暗黒であった。

 登場人物はみんな目だけ出した黒ずくめの衣裳を着ていた。

 瀬川つる子の淫蕩な女という役が「ええ、妾の心臓は薔薇色よ」と言う。

 俺は天上の反逆者だ。

 俺は数学から生まれた何とかだと誰かが怒鳴る。

 最後に作者の辻潤が黒衣でとび出してきて、「一切は虚無だ」と怒鳴ると幕という迷作であった。

 全然難解で何が何やらわからなかった。

 だがそれは本邦はじめてのダダイストの詩劇であったという。


(松本克平『日本新劇史-新劇貧乏物語』)





『谷間の影』では辻潤は放浪者の役をやった。


 佐藤惣之助の老人が寝床の中で死んでいる。

 山路千枝子の若い女房が泣いていると辻潤の放浪者が「おかみさん今晩は!」と入ってくる。

 二人は妙に仲良くなって、女房が山の向うの叔母のところへ行ってくると言って出て行くと、放浪者が針仕事をしながら歌を唄う。

 辻潤御自慢の独唱である。


(同上)


『どん底』には木村時子竹内鶴子、あるいは谷崎潤一郎作『鮫人』のモデルと言われている林初子など本職の女優が三十人も出演したが、本職は脇役にまわり、文士や詩人が主要な役をやるのが狙いだった。

 夜でも昼でも

 牢屋は暗い

 ……………

 恐ろしく汚いルパシカやボロを着て、ヒゲをボウボウ生やしドーランをぬたくった連中が、所かまわず歌いまくっていた。

『どん底』は三幕目に入っていた。

 男爵が詩人の佐藤惣之助、サチンが同じく詩人の陶山篤太郎、役者が天才ピアニストの沢田柳吉、奇声を発する錠前屋が辛辣な風刺随筆家であり表現派画家の小生夢坊、ナターシャが山路千枝子、ナースチャが瀬川つる子である。

 文士連は調子外れの声で勝手に歌いまくる、セリフは甲高い声でわめきちらしたり、ボソボソとつぶやくばかりだった、てんでんバラバラの勝手放題……。

 文士劇はとうてい入場料を取れるものではなかったが、役者たちはいい気分だった。





 どうだい……すばらしい雰囲気が出たじゃないかッ!

 雰囲気、アトモスフェアーというのがそのころの合言葉であった。

 スッカリ自分たちのアトモスフェアーにひたっていたが、舞台の演劇的効果はお話にならなかった。

 むしろ楽屋の方が『どん底』の雰囲気そのものであった。

 マチネーのメーキャップをするとそのまま夜までずうっと役の気分にひたってうっとりしていた。

 誰かが下らないことを言うと、

 おいッ! 日本人みないなことをいうなッ!

 と怒鳴りつけられた。

 つまりロシア人になりきったつもりでクロポトキンやバクーニンを論んじていたのである。

 みんながみんな人生を語り真実について論じ合っていたのだった。

 ロシアで暮しているようだな、これでウオッカさへあればねえ。

 そしてみんなウオッカの代りにショウチュウを飲んだ。

 夜の芝居もすんで、皆が自前の姿に戻る時になっても、巡礼ルカに扮した役者だけがそのままの姿で相変らず気分にひたっていた。

 誰かがうながすとルカは物倦(う)そうに言った。

 今夜はもう、辻潤に扮するのなんか俺は厭だよ!

 そしてハゲた鬘をとり顎ヒゲを外し、ワセリンを塗って傍の汚い布でつるりと拭ったその顔はまごうかたなきダダイストの辻潤であった。


(同上)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 12:55| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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