2016年07月04日

第274回 スペイン風邪






文●ツルシカズヒコ




 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九一九(大正八)年一月二十六日、大杉は売文社で群馬県からこの日上京した蟻川直枝と会い、気が合ったふたりは浅草十二階下にある黒瀬春吉の店「グリル茶目」で食事をした。

 このときの話を、安成二郎が大杉からおもしろおかしく語って聞かされた。

 大杉と蟻川は「グリル茶目」での食事を終えると、吉原に行くことにした。

 売文社に行くとき、大杉は尾行をまいていたので、黒瀬の尾行に案内をしてもらい吉原のある家に行った。

 夜中になって、大杉は揺り起こされた。

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 象潟署の高等視察がやつて来たのである。

 大杉は取次ぎから其の名刺を受とると、わざとびつくりしたやうにぶる/\頸えながら女に抱きついて、実は俺は大泥棒だがいよ/\年貢の納め時が来て仕舞つたとか何とか、でたらめを言つて女をおどかしたのである。

 すると、そこへ高等視察が上がつて来ると、大杉は、こんなところへ遣つ来てるやつがあるかと怒鳴りつけたところが、役人は、御愉快なところを誠にすまないが、実は田端のあんたの家が丸焼けになつたと言ふ電話が田端の方の署から象潟署へかゝつたと言ふのである。


(「かたみの灰皿を前に」/『改造』一九二三年十一月号/安成二郎『無政府地獄-大杉栄襍記』)





『日録・大杉栄伝』によれば、火事は一月二十七日の午前三時、隣接の工場・東洋ブルーム製造所から出火し、十軒ばかりが類焼した。

 大杉家の住居は全焼し、家財道具も蔵書もすべて灰になった。

 急きょ、北豊島郡日暮里町大字日暮里一〇五五番地の山田斉(丙号主義者)方に一時移転した(「伊藤野枝年譜」/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)

 大杉は火事で「引っ越し料」も焼いてしまったと残念がったという。

 田端の家の隣家に博徒がいて、夜になると遊び人が集まって博打を打っていた。

 しかし、大杉一家が引っ越して来てから、警官が大杉の家の門口で見張っているので博打ができない。

 そこで引っ越し料として百円払うから出て行ってもらうように大家に頼み、大杉は二、三日前にその話を聞き、好都合だと思っていたからである。

 二月三日、北豊島郡滝野川町大字西ヶ原前谷戸三一三番地(現・北区西ヶ原三丁目七番)に移転、田端の家より大きい高台の家で山羊と犬も連れて来て飼った(『日録・大杉栄伝』)。

 二階家であった。

 大杉の末妹の橘あやめとその子の宗一も同居を続け、橘あやめと宗一はこの年の秋に米国に帰国するまで大杉宅で暮らした。





 二月五日、大杉は朝早く、牛込区市谷富久町の東京監獄前で山川と荒畑の出所を迎えた。

 東京監獄前の差入室の一室で、しばらくみんなで歓談した。

 迎える者も迎えられる者もたいがいは獄通である。

 山川と荒畑は盛んにその新知識を語った。

 迎えた大杉たちも急転直下した世間の出来事を語った。

「おい、抱月が死んで、須磨子がそのあとを追って自殺したのを知っているかい?」

 堺がふたりに尋ねた。

 島村抱月がスペイン風邪で死んだのは前年の十一月五日だった。

 そして、二ヶ月後の一月五日、松井須磨子が芸術座の道具部屋で縊死した。

「ああ知ってるよ。実はそれについては面白いことがあるんだ」

 荒畑が堺の言葉がまだ終わらぬうちに笑いながら言った。

 荒畑は妻からの手紙で抱月の死を知ったのだが、荒畑は抱月と自分は師弟関係だと偽り、監獄の教誨師に回向をお願いした。

 教誨師である坊さんは教誨堂に荒畑を連れて行った。

 実は荒畑は教誨堂なるものを一度見たかっただけなのだった。





『どうだい、それで坊さん、お経をあげてくれたのかい?』

 荒畑がお茶を一杯ぐつと飲み干してゐる間に僕が尋ねた。

『うん、やつてくれたともさ。しかも大いに殊勝とでも思つたんだらう。随分長いのをやつてくれたよ。』

『それや、よかつた。』

 と皆んなは腹をかかへて笑つた。

「で、こんな因縁から、お須磨が自殺した時にも、直ぐ其の教誨師がやつて来て知らせてくれたんだ……。」


(「続獄中記」/『新小説』一九一九年四月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)


 このとき安成二郎は久しぶりに大杉に会った。

 山川と荒畑を迎える集まりがお開きになると、安成は大杉と連れ立って、滝野川町西ヶ原の大杉の家に行った。

 その道々に大杉が安成におもしろおかしく語ったのが、田端の家が全焼した夜の話である。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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