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2016年07月02日

第270回 タイラント






文●ツルシカズヒコ



 吉田は「警察が恐くない」という妙な自信もあって、これも彼を慢心させ堕落に陥れた要因になった。

 大杉一家が滝野川の家に越してから間もなくだった。

 大杉が何かの用事で吉田の家に行くことになった。

 吉田と彼の啓蒙者であった水沼が住む浅草区田中町の裏長屋、ふたりはそこに「労働者相談所」の看板を掲げ小集会を開いていたが、一度その小集会に参加した大杉が野枝をぜひその家に連れて行きたいと言っていた。

 ある晩、野枝は大杉に連れられて、半ば好奇心から魔子をおぶって吉田の家に出かけて行った。

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 それは四畳半一間の家だった。

 四畳半の半畳が板の間の台所、突きあたりの押し入れは半分が押入れで、あとの半分が便所という住居だった。

 露路を入ると、なんとも言いようのない臭気がした。

 吉田の家に入った野枝は、そこでもその臭気に悩まされ続けた。

 話が弾んで、少し遅くなって帰ろうとすると、吉田が泊っていけとしきりに勧めた。

 野枝は無茶な申し出に驚いた。

 さすがに水沼は、

「こんなところに泊めちゃ、迷惑じゃないか」

 と、吉田を諌めていたが、吉田はいっこうおかまいなしだった。

「くっつき合って寝れば、八人は寝られる」

 吉田はムキになって主張する始末だった。

「後学のためだ、一つ我慢して泊まって見るか」

 と、大杉は野枝の方を振り向いて言った。

「とんだ後学だなあ……」

 水沼も野枝の顔を見ながら、気の毒そうに苦笑した。

「このへんの様子が、夜でちっともわからなかったろう? 明日の朝、もっとよく見て行くことにして泊ろうか。だいぶ遅くもあるようだし」

「ええ……」

 大杉がそう言うので、野枝も仕方なしに泊まることにした。

 薄い蒲団の中でのゴロ寝は窮屈だった。

 魔子を寒くないように窮屈でないように眠らすために、寝返りを打つこともできず、体が半分痺れたような痛さを我慢しながら、どうして一人ででも帰らなかったろう、と野枝は後悔した。

 大杉も眠れないらしく、魔子が少し動くとすぐ振り返った。

 吉田一人が気持よさそうに熟睡しているようだった。





 朝、水沼は早く仕事に出て行ってしまった。

 吉田が起きると、野枝と大杉も帯をしめ直し、顔を洗いに外に出た。

 ずらりと並んだ長屋の門なみに、人が立っていて野枝たちを不思議そうに見ていた。

 野枝は大急ぎで顔を洗うと、逃げるように家の中に入った。

 吉田によると、昨晩から刑事が三人も露路の中に入って来ているので、長屋中で驚いているという。

 野枝たち三人が家を出て、通りを少し歩いていると、すぐ後ろに尾行が三人くっついて来た。

「尾(つ)くのはかまわないですがね、もう少し後へ下がって尾ついて来てもらいたいですね」
 
 野枝はあんまりうるさいので、尾行のひとりにそう言った。

 彼はぷっと顔を膨らませて野枝を睨みつけたが、野枝はかまわず、急いで先を行く吉田と大杉に追いついた。

 しかし、彼らはやはりピッタリと三人のすぐ後を尾いて来る。

「おまえさんたち、私が言ったことがわらないのかしら?」
 
 野枝はさっきの男を睨みながら言った。

「よけいな指図は受けない」

 彼は憎々し気に野枝に言い返した。

「よけいな指図? おまえさんたちは尾行の原則、尾行の方法を知らないの?」

「よけいなことは言わなくてもいい」

 彼が恐ろしい顔つきをして言い終わったか終わらないうちに、大杉がそこまで引き返して来ていた。





「なにっ! もういっぺん、言ってみろ! 何がよけいなことだ。貴様らは、他人の迷惑になるように尾行をしろと言いつけられたか」

「迷惑だろうが迷惑であるまいが、こっちは職務でやっているんだ」

 彼は蒼くなって肩を聳かした。

「よし、貴様のような奴は相手にはしない。来いっ! 署長に談判してやる!」

 大杉はいきなりその男の喉首をつかんだ。

「何を乱暴な!」
 
 と叫んだが、彼はもう抵抗しえなかった。

 あとの二人は、腑甲斐なく道の両側に人目を避けるように別れて、オドオドした様子をしてついて来た。

 往来の人たちは、この奇妙な光景をボンヤリして見ていた。

 たいていの人たちは、首を締められて引きずられてゆく巡査の顔を見知っていた。

 吉田は真っ青な顔をしていた。

 吉田は大杉に日本堤の警察に案内するようにと言われて、妙に臆したような表情をチラと見せて、ろくに口もきかずに歩いた。

 それでも途中で一、二度知った人に訊かれると、

「なにね、あいつが馬鹿だからね、これから警察へしょっぴいて行ってとっちめるのさ」

 と、ちょっと得意らしく説明していた。





 日本堤署の署長はまだ出ていなかった。

 居合わせた警部は、引きずられてきた尾行の顔を見るとのぼせ上がってしまって、大杉や吉田の言うことには耳も貸さずに、のっけから検束するなどとわめき立てた。

 野枝はそっと署を出て近所で署長の家を尋ねた。

 署長の家はすぐにわかった。

 署長はもう出かけようとしているところだった。

 野枝が簡単にわけを話し、すぐ署の方に出かけるように促すと、そこに大杉と吉田が来た。

 署長は案外話がわかった。

 野枝たちは尾行を取り替えてもらって帰って来た。





 吉田にはこの小さなできごとが、よほど深い感銘を与えたのか、それから少しの間は絶えずこのことを吹聴して、警察は少しも恐れるに足らないと豪語していた。

 同志たちには苦笑いの種だったが、吉田は警察に対して急に強く出るようになった。

 警察をへこましてゆくたびに、吉田は増長していった。

 吉田の住んでいるあたりの人たちは、世間一般の人より、いっそう警察を恐れていた。

 その真ん中で、吉田は集会や演説会のたびに群らがってくる警官を、同志の力を借りては翻弄して見せて得意になっていた。

 同志たちはその稚気を、かなり大まかな心持ちで、笑い話の種にしていたが、彼は大真面目だった。

 確かに、吉田の話にはもっともな点がかなりあった。

 一般の労働者階級は警察を極度に恐れていると同時に極度に憎んでいる、だから自分たちが警察を相手に喧嘩することは、彼らの興味をひきつける最上の手段だというのだった。

 そう信じた吉田は、かなり無茶に暴れた。





 警察はこの無茶な男に手こずり出した。

 尾行の巡査たちは、この男のためにしくじりを少くするために、いろいろと猾いやり方を始めた。

 非常に自惚れの強い吉田は、尾行のおだてに乗るようになった。

 彼は馬鹿にされながら、自分だけは偉くなった気で威張っていた。

 狡猾な吉田は尾行を脅かして電車賃を立て替えさせたり、食べ物屋に案内させたりすることを、一人前になったかのように自慢していた。

 近隣の労働者に配布するチラシ「労働者相談所」を作り始めると、本職の鍛冶屋を辞めてしまい、チラシの印刷費の何割りかを広告から捻出しようと目論んだ。

 広告集めに奔走し始めた吉田を見て、大杉は憂慮するようになった。

「いい男だが、あの悪い方面が多く出てくるようになると、運動からはずれてしまう」

 はたして、吉田は悪辣な図々しさを発揮し、彼が警察をなめ切ってからは、ずんずんそれに輪をかけていった。





 増長しだした吉田に苦言を呈せるのは、彼を教育し助けてきた水沼と大杉だけだった。
 
 さすがの吉田も自分よりはずっと思慮分別も知識も優れた水沼には、一目も二目も置いていたが、やがて水沼も匙を投げるようになった。


 誰も彼も、彼の図々しさにおそれを成して、彼を避けて通るやうになりました。

 が、彼はこれを、自分のえらくなつたせいにしはじめたのです。

 其の頃に、彼はもういゝかげん、同志の中の、持てあまされたタイラントでした。

 もう少し前のやうに、誰も彼を大事にするものはありませんでした。


(「或る男の堕落」/『女性改造』一九二三年十一月号・第二巻第十一号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 11:04 | TrackBack(0) | 本文

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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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