2016年06月24日

第259回 東京監獄・面会人控所(五)






文●ツルシカズヒコ



 遠くの方で子供の泣き声がする。

 と思ふうちに、火のつくやうな激しい泣き声がだん/\に近づいて来る。

 皆んなが一斉にはつとしたやうな顔をして廊下の方を向いてゐた。

 と其の扉口に眼に一杯涙をためて、半泣きになつた惨めなかみさんの姿が出て来た。

 その背中では汚ないねんねこは下の方にふみぬいて上半身を反らせた子供が、真赤になつて、手足をもがいて泣き狂ふてゐた。

「やだあ! やだあ! 父ちゃん!」

 子供はありつたけの声をふりしぼつて泣き叫んだ。

 龍子の胸は思はず何かにブツかつたやうにズシンとした。

 知らず知らず涙が浮かんできた。


(「監獄挿話 面会人控所」/『改造』一九一九年九月号・第一巻第六号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)

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「お父ちゃんわね、門のところで待ってるんだよ。ね、およし、およし、さあ、泣くんじゃないよ。叱られるよね、ね」

 母親は汚ない下駄の上に足を乗せながら、しきりになだめようとした。

 しかし、とうていその声が子供の耳に入るとは思えなかった。

 控所の中は子供の泣き狂ふ声で一杯になった。

 入口に近くいた二、三人の女連は耐へかねたように顔をおおった。

 さすがに呑気な親方も暗然とした顔をして、子供の顔と母親のオドオドした顔を見比べているばかりだった。

「まあまあ、可哀そうに! お父さんの顔が見えたんですか?」

 入口に近くに立っていた年増の女が、踏み抜いたねんねこに手をかけながら言った。

「ええ、ちょっと見えましたもんですから。それにこの子が普段から親爺っ子なものですから」

 母親はとうとう耐へ耐へた涙を、ポロポロこぼしながら言った。

 背中の子はなおも父親を呼びながら、反り返って暴れるので、とても具合いよくねんねこを直して着せるわけにはゆかなかった。

 子供は泣き続けながら、とうとう門のそばまで出て行った。
 
 門に近づくにしたがって激しくあばれ出して、母親の足をよろけさせるばかりだった。





「ああ泣かれちゃ、お母さんがたまらないわねえ。可哀そうに」

「お母さんもたまらないだらうけど、それよりは、中にいる親爺がどんなだか知れない。あの泣き声が耳についちゃ、やり切れやしない」

 村木はその親爺の顔でもさがすように、奥の方を覗きながら言った。

「いったい、ここに子供を連れて来るって法はありませんよ」

 あばたの爺さんが、さも苦々しいことだというような顔をして言った。

「本当にねえ、なまじっか顔を見せちゃ、父親にも子供にも、どっちにも罪ですわ。私はもう決してこんなところに子供を連れて来るものじゃないと思いますよ」

 勝気らしい眼に一杯涙をためて立っていた、かみさんが相槌を打った。

「なあに、もう一時間も早けりゃ、あの子供はようく眠ってたんでさあ。時間が後れたばかりに、あいにくとこんなことになったんですよ」

 今までひと言も口をきかなかった、隅にいる木綿の紋付羽織に前掛けをしめた五十二、三の男が突然口を出した。

「いやもう、この中に入ってるやつは、本当に親不孝、子不孝、女房泣かせでさあ」

 すぐに爺さんは声を落としてそう言ったまま黙ってしまった。





 その中にも奥から一人二人ずつ帰って来た。

 やがてまた、先刻の老看守が代わりの人々を呼び込んで行った。

「おや、今、五十四番の人が行きましたな、私は五十三番だけれど、どうしたんだらう? 順番通りと違うんですか」

 村木の側にいた男はあわてて立ち上がりながら、誰にともなく云った。

「順番通りじゃありませんよ。ずいぶん後先きになりますよ。私は朝からでまだ呼ばれませんもの」

 二度目にも呼ばれなかった男は不平そうに言った。

「へえ、それはまた長すぎますね、どういうものだろう?」

「どうもすっかり待ちくたびれましたよ。なあに、こう暇が入るのなら、また出直して来てもいいんですけれど、今まで待って帰るのも馬鹿馬鹿しいしねえ」

 だんだんに控所にいる人数が減っていくにつれて、万遍なくみんなが口をきき出した。

 やがて村木も呼ばれて入っていった。





 村木が行って少したつと、四十五、六の男性的な粗野なものごしをした赤ら顔の、一見筋の悪い口入屋の嬶(かかあ)といった風の女が妙な苦笑を浮べながら石階を降りて、小さな自分の包みを取りに隅の方の腰掛のそばに行った。

「お会いになりましたか?」

 その包みの番をしていた赤ん坊を抱いた細君が、少しくくみ声の物和らかな調子で聞いた。

「ええ、面会所で喧嘩なんです、馬鹿馬鹿しいったら、あれやしない。もうなんにも、かまうもんか!」

 吐き出すような乱暴な口調でそう言うと、日和下駄の歯をタタキにきしませながら、後ろも振り向かずに荒々しく出て行った。

「あのおかみさんは偉いのね、よくあれだけ思い切って言えたわね、私、驚いちゃった」

 面会から戻った女連の誰かが言った。

「おかみさんって、あの赤ら顔のですか?」

 紋付の男が口を出した。

「ええ、さようですの。ずいぶん長いこと言い合ってましたね。よく看守さんもまた、あんなに長くそのままにしといたものね」

「どうしたんです?」

「あの御亭主さんが、窃盗でなんでも七年の宣告を受けたんですって。それが控訴したら、あのおかみさんが証人に呼ばれて何か言ったことが悪かったんで、十三年になったんですって。だもんだから、亭主が怒って、わざとそういうふうに、誰かと腹を合せてしたんだろうって言ってるんですよ」

「へえ、窃盗で十三年、そんな長いのがあるんですかなあ」

「なんでも前科が五犯とか六犯とかなんですって。で、あのおかみさんと一緒になって、まだ一年半とかしか経たないんですって。それじゃ、気心を疑うのも無理もありませんわね」



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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