2016年06月03日

第236回 自働電話






文●ツルシカズヒコ



 一九一七(大正六)年の正月、山鹿泰治が本郷区菊坂町の菊富士ホテルにいる大杉と野枝を訪ねた。


 二言三言語り合う内に杉が、『それより不愉快な以前の問題を解決しやうぢやないか、大体あんな暴行を働いた以上は謝罪から先きにすべきものだ』といふから、僕は野枝さんに向つて『僕が今もし謝罪したら貴女は愉快になるんですか』と尋ねて見たら、『イヤ、そんな事はありませんが、あやまらなければ今後安神(ママ)して交際は出来ないだけなんです』と云つたから、僕は『それじや謝罪しない』と言つて帰つてしまつた。

(山鹿泰治「追憶」/『労働運動』一九二四年三月号)

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『中央公論』二月号に野上弥生子の野枝をモデルにした小説「彼女」が掲載された。

 前年(一九一六年)の春、野枝が辻の家を出る決意を告げるために弥生子の家を訪れて以降、ふたりは会うことがなかった。

「彼女」によれば、野枝が弥生子の家を訪れた翌日、弥生子は野枝からの手紙を受け取った。

 弥生子は野枝から求められた少しの金と手紙を使いの者に渡し、野枝に届けさせた。

 婦人が必要に迫られて家を見捨てたとき、門の外に何が待っているかを冷静に考えることが大切だと、弥生子は野枝に書いた。

「ノラはあれから何をして生きただろう。悪くすると売春婦になったかもしれない」

 あるアメリカの婦人評論家の言葉を、弥生子は痛切に考えていた。

 彼女はに頼んで野枝のために何か収入の道を探してもらおうと思った。

 しかし、明日にでも訪ねて来ると手紙にはあったにもかかわらず、弥生子は再び野枝の訪問を受けることはなかった。

 そして、弥生子は新聞報道により野枝が夫と子供を捨て、新たな情人である大杉のもとに走り、御宿海岸に滞在していることを知った。

「おまえは本当に馬鹿だよ。あんなに逢っていて、このことに気がつかなかったのかい。これならもう職業問題もなにもありはしないじゃないか」

 常に野枝の同情者であった弥生子の夫が、彼女のお人よしを笑った。





「それにしても彼女は何故あんないゝ加減な嘘で胡魔化してゐたのだらう。あの晩正直に何故打ち明けられなかつたのだらう。」

 打ち明ける勇気のない程自分の行動を間違つたものに思つてゐたのだらうか。

 間違つたものに思つてゐながら、矢張りその中に巻き込まれて行つたのだとすれば……一人の男と三人の女の渦。

 それはスキラの口をやつと逃れた彼女に取つては、最も怖ろしいカリブティスでなければならなかつたのであります。

 厳しい倫理問題は暫く措いて考えたとしても、それは彼女の成長の道では決してありません。

 彼等が海岸をさして旅立つた時、恋愛の勝利者を以つて誇つてゐたと云ふ噂は、斯う考ふる時の伸子(※筆者註/弥生子のこと)の心を一層厳正にした。


(「彼女」/『中央公論』一九一七年二月号/岩波書店『野上弥生子全集 第三巻』)





 御宿に滞在していた野枝から弥生子に一、二度短い便りがあり、野枝は弥生子に対して非常にすまなく思っていると書いた。

 弥生子は野枝の行動について不賛成な点とその理由を書き連ねたが、野枝からの返事は来なかった。

 弥生子の耳に野枝に関するいろいろな情報が入ってきた。

「よくあなたの悪口を聞かされましたよ」

 と言って笑った人もいた。

「弥生子さんのところに行くと、あれは旨くいい子になっていたのだ」

 辻がある人にこう話したともいう。

 弥生子は野枝を親友だと思い、彼女との友情を大切にしてきたが、野枝にとってはなんでもないことだったのだろうか?





「そうだ。私を欺ますのは一番わけはない。時々訪ねてくれて、私の気に入りそうな事を云つたり、私の云ふ事に感心して耳を貸してくれたり、私のきらひな人の悪口を一緒に、否え、私より少し熱心に云つて見せたりしさへすればその人はすぐ私のいゝお友達なのだーー馬鹿者!」

 伸子はその時ほど自分をいやな、浅薄な、己惚れやの、お人よしに感じた事はありませんでした。

 その時、相手から如何に軽蔑され、おめで度く思はれたゞらう、と思ふと堪まらぬ程恥しい気がしました。

 が、彼女が私のそんな友達だつたのだらうか。

 いつか春の森の半日がその瞬間はつきりと伸子の記憶に再現されました。

 美しい太陽、栗の木、青い草、その草の上に寝かされてゐた子供達。

 それにお乳を飲ませながら熱心に話し合つた談話、母親の愛、自己の成長の希望、天地の大きな力に対する敬虔な崇拝。

 その円い輝やかしい、光明的な顔!

 その時の彼女は今何処に行つたのだらう、と思ふと、驚きも失望も欺かれてゐたと云ふ軽い憤りも、すべてが溶けて、初めてセンチメンタルな悲しみになつて行くのを感じました。


(同上)





 そのうちに、野枝が出産したばかりの次男を御宿の某家に預け、東京に帰り、大杉と同棲していることを弥生子は知った。

 そして、弥生子は自由恋愛なるものは、ずいぶんおかしなものだと思わないではいられなかった。


 理論はどんな理論でも工夫されます。

 けれどもその理論を載せ得べき土台を作る事は多くの困難を要します。

 プラトーンの理想国に於ては、婦女の共有も兵役も、乃至小児共養さへも必要なことでありました。

 が、彼等自由恋愛論者は、その理論を実行し得べき理想国を何時、何処に建設したのでせう。

 すべて長い目で見られなければなりません。

 彼女はその黒い髪が白くなつた時、而して母親の顔も見覚へない、一人の漁夫の若者と向き合つた時、初めて自分の通つて来た道の正邪を悟るでありませう。

 その瞬間に感ずる母親の悲しみと悔ゐほど、痛ましい、悲惨なものが他にあるでせうか。

 伸子は今はもう侮蔑と憐みより外の何ものをも彼女に対しては感じられないやうな気がしてゐました。


(同上)





 ある秋の日のことだった。

 二、三日前から少し冷えてきた空気に感じた弥生子は、風邪を引いて寝ていた。

 そこへ夫宛ての電報が来た。

 新聞社に勤務している夫の友人からだった。

 ある人の住所を問い合わせる文面だった。

 弥生子は熱があってふらふらしたが、俥を呼び、六、七丁ばかりの距離にある自働電話まで出かけた。

 弥生子の夫はある私立大学へ講義に行っている日だった。

 自働電話の箱の中に入った弥生子は、学校の番号を言って、一枚の白銅を小さい隙間に投げ込んだ。

 いつもならかなりの時間待たされるのだが、そのときは電話口で待ち受けていたかのように事務員と入れ代わりに、夫の声が聞こえてきた。





「なんだ電報かい。あゝそれなら今Y君から電話がかゝつて来たばかりのところだ。……」

 斯う云つてその後に何か数語をつぎ足したやうな気がしましたが、その時箱の外を荷車が大きな音をとゞろかして通つたので、伸子にははつきり聞き取れませんでした。

「何んですつて、え?」

「M(※筆者註/大杉のこと)が殺されたさうだ。」

「どうして? まあ、誰に?」

「誰だか分らない。」

「I子(※筆者註/野枝のこと)さんぢやないでせうか?」

「さうかも知れない。」


(同上)





 弥生子は通話ができないほど声が震えた。

 棍棒かなにかで頭をガンとぶん殴られたような気がした。

 彼女はよろよろして這い込むように俥の中へ入った。

 彼女の脳裏に浮かんだのは、大杉に最近、第四の女友達が現われ、大杉と野枝の間がうまくいっていないという噂だった。

「もしそうだったとしたら……」

 弥生子は野枝の熱情的な性情を思った。

 家や子供、自分自身の成長の過程までも投げ捨てて突き進んだ、狂暴的で盲目的な野枝の恋愛を思った。

 場合によってはどんなことでもしかねないという気持ちがした。




「彼女であつてくれなければよいが。どうぞ、そうではないように。」

 斯う念ずると共に、何故ともない涙が胸の底から込みあげて来ました。

 伸子は幌の中で声を立てゝ泣きました。

 二三日弱り味の出てゐる身体には、この感動が余りに激し過ぎたと見えて、伸子は軽い脳貧血を感じました。

 胸がむか/\して眩暈がし出した。

 伸子は水を欲しいと思つて幌の間から覗くと、一軒の水菓子屋の鮮かな林檎の色が、だるい目を刺戟しました。

 伸子は車を停めさしてその林檎を幾つかを買ひました。

 而して鼻水と涙を一緒にすゝり上げながら、幌に隠れて百姓の子供のするやうに丸かじりに果物の爽快な液汁を吸ひました。

 自分の心の中に如何に深く彼女が這入つてゐるかを感じながら。


(同上)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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posted by kazuhikotsurushi2 at 17:05| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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