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2016年03月18日

第22回 仮祝言






文●ツルシカズヒコ





 西原和治著『新時代の女性』に収録されている「閉ぢたる心」(堀切利高編著『野枝さんをさがして』p62~66)によれば、野枝が煩悶し始めたのは、上野高女五年の一学期の試験が終わり、夏休みも近づいた一九一一(明治四十四)年七月だった。

 西原は国語科の担当で野枝が上野高女五年のクラス担任である。

「どうしましょう、先生、夏休みが来ます、帰らなければなりません」

 西原にこう切り出した野枝は、両腕を机の上に重ね、その上に、いかにも堪え難いといったふうに頭をもたせた。

「どうしたのです、そんなに帰るのがお嫌ですか?」

 野枝はすでに涙ぐんでいる。

「だって、今度帰ったら、また出て来られないかもしれないんですもの」

 西原はショックを受けた。

 女学校を中退することなどどうでもよいが、野枝の天賦の才を伸ばすには、彼女は少なくてもあと数年は東京にいるべきだと、西原は考えていたからだ。

 刺激も少なく、有為な人材も少ない田舎に埋もれてしまうのは惜しい、成長し切れずに終わってしまうかもしれない。

 西原はそう思った。

「なぜ、また来られないのですか?」

 西原の問いかけに、野枝は真っ直ぐに答えない。

「先生、なるようにしかならないのですね」

 彼女は思い諦めた調子で宿命論を閃かし、努めて話題をそらしたが、理由を聞きたいと思う西原と、話したいと思う野枝の心は引き合っていた。

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 夏休みになる三日前。

 ふたりは用もないのに上野の山を歩いた。

 涼しい木陰を選ぶわけでもなく、沈黙したまま、ただ足の向かう方へなるべくゆっくり歩を運んだ。

 野枝は言葉が喉まで出かかるが、舌を動かそうとすると神経が急に興奮して、何も言えなくなった。

 とうとう公園を歩きつくして谷中の墓地の方まで行き、御隠殿坂(ごいんでんざか)を右に降りて根岸の方に出た。

 もう日は傾いている。

 野枝はやっと口を開いた。

「家庭の事情で、また出て来られないかもしれません」

「出て来られなくたってよいじゃありませんか」

「でも卒業ができませんもの」

「卒業証書など、もらはなくてもよいでしょう」

 野枝にとってそんなことはどうでもよいことを、西原は知っていた。

 そんなことより、早く要点に触れたかった。

 すると突然、野枝が言った。

「米国へ行くことになるかもしれません」

 西原は結婚問題が持ち上がっていて、それが野枝の気に入らない縁談なのだろうと推測をしたが、平素は言い渋ることなどない快活な彼女の口から直接、聞き出したかった。

 いつもはテキパキと何でも言ってのけるくせにと不思議に思った。





「米国へ行って何をなさるのです」

「親戚の者が行くので、ついて行くのです」

 なかなか要領を得ない。

 野枝を見ると、唇を固く噛みしめて、むやみに路傍の木の葉をむしっていた。

「また手紙を書きます」

 野枝は目にいっぱい涙をためていた。

「では詳しく書いて下さい」

 西原はこれで野枝と夏休み明けの五十日後に再び会えるのか、あるいは一生のうちに再会することはないのかもしれないと思い、煩悶している彼女の痛々しさが堪え難かった。

「しっかりしていらっしゃいよ」

 とうとう、ふたりは核心に迫る会話ができずに別れた。

 野枝は帰省した今宿から何度か西原に葉書を書いた。

 だが、堪え難さや、諦めや、荒んだ心を大自然の景色によって紛らすような内容で、事実は少しも述べていない。

 西原は返事に困った。





「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、夏期休暇が始まり、代一家と野枝は千代子と野枝の仮祝言をするため福岡に帰省した。

 野枝が末松福太郎との仮祝言に臨んだのは八月二十二日だった。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p63~64)によれば、仮祝言に臨んだ野枝の心情とその後の経緯は、こういうことらしい。

 仮祝言というのは仮契約ではなく、身内親族が集まりきちんと式を上げ、初夜もすます儀式である。

 野枝が末松家に嫁ぐことを了承したのは、福太郎がアメリカ帰りであり、再びアメリカに戻ることに夢を抱いたからだった。

 しかし、仮祝言の夜、アメリカには戻らないとの福太郎の意思を聞き、野枝は失望し立腹し、翌日には東京に戻った。

 アメリカに行けないのなら、野枝には福太郎と結婚する意味がなかったからだ。

 代キチもこう語っている。


「野枝が気がすすまなかったらしいのは事実ですけど、ただアメリカへ行けるということには乗り気でしたよ。あとではいろいろ悪口をいっていましたけど、その時は『アメリカに行けるなら』って、不承不承首をたてにふったのです」

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p78)





 野枝の仮祝言について、野枝の妹・ツタはこう語っている。


 ……自分じゃ、さんざん、親たちや代の叔父夫婦が勝手にとりきめて、被害者のように書いているようですが、そんなものじゃありません。

 相手はうちどうしでよく知り合ってたし、私も祭りだ何だってよく行ったことがありますよ。

 顔も知らない、名も知らない相手なんて書いてますが、そんなことはありませんでした。

 それに、最後まで、嫁(ゆ)く意志がないのに、親たちが無理解でしゃにむに結婚させたようにいってますけど、姉は一度はちゃんと承知したんです。

 ええ、そりゃあ、はじめから一度も、相手を気に入ったことはなかったんですけれど、アメリカへ行けるってことが魅力で、アメリカに行ってさえしまえば飛び出してやるからって私になんか話していました。

 ですから女学校五年の夏休みにちゃんと結婚式を挙げる時も自分で承知しておったんです。

 ええ、島田に結って角かくしに梠縮緬(ろぢりめん)の留め袖の紋付で、今でも覚えていますが、近所でも見たこともないようなきれいな花嫁だと評判されました。

 私の口からいうのも何ですが、若い時の姉は、ちっともおしゃれじゃなくて、髪もなりふりもかまわない方でしたが、きれいでしたよ。

 でも、花嫁支度しながらも、やっぱり相手が気にいらないとぷんぷん怒っていて、わざと、まるで男のように、花嫁衣裳の裾をぱっぱっと蹴散らかして歩いたりして、まわりをはらはらさせるほど当りちらしてはいました。

 嫁入りした翌日にはもう出戻って来て、東京の学校へさっさと帰ってしまいました。

 聟(むこ)さんを全然よせつけなかったそうです。

「指一本だってさわらせやしなかった」

 と威ばっていましたが、まあずいぶんおとなしい聟さんもあったものだと、私たちは話しあったものです。

 そうですね、やっぱり、魅力のない男でしたよ。

 おとなしいだけが取り得で、私だって、嫌でしたね。

 それを姉は、帰ってくるなり、自分では平気で、

「私のかわりにツタちゃんが嫁(ゆ)けばいいわ」

 なんていうんですからーーまあ、そんなことを平気でいうし、本気でそう思うようなところがありました。

 あたしだってそんな男厭ですよ。


(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」/『文藝春秋』1965年4月号〜12月号/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p37~39)



★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(文藝春秋・1966年3月1日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(角川文庫・1969年8月20日)

★『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』(新潮社・2002年1月10日)

★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 20:09| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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