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2016年05月21日

第201回 ララビアータ






文●ツルシカズヒコ




 大杉が御宿から帰京したのは、一九一六(大正五)年五月二十七日だった。


 今日は私はあなたがおたちになる前に、二三日前からの私の我儘(わがまま)をお詫びして許して頂かうと思ひましたの。

 それで、幾度もあなたの処へ行くのですけれど、何んだか自然であなたに話しかける事がどうしても出来ませんでしたの。

 さうして、とうたう叉あなたの方から口をお切りになりましたのね。

 さうして、私があなたに向つて云はうとする事を、あなたが私に仰云(おつしや)つたのですもの。

 私本当に自分の小さな片意地がいやになつて、あなたに申訳けがなくて、それで泣きましたの。

 私が、昨日だか一昨日だか、パウル・ハイゼのラ・ビヤタの話を持ち出しました時……私の片意地をお話しようと思ひました。

 けれども……素直に口にする事が嫌やになつて、そのまま黙つて仕舞ひましたのです。

 そんな風で、昨日山を一人で歩いてゐます時にも、その事ばかり考へてゐましたの。

 暫(しばら)くは私はあの池の岸で考へてゐました。

 さうして仕舞ひには泣きさうになりました。

 それから……山に登り始めましたの。

 そして急な道を一足々々用心しい/\登つてゐるうちに……頂上の平らな道に出ました時には、ぼんやりしてゐましたの。

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 そして少ししやがんでゐるうちに、急に叉あなたの事を思ひ出して、あなたがまたいやな顔をして本を読んでゐらつしやるのだらうと思ひますと、直ぐ大急ぎで歩き出しましたの。

 今度こそ本当にすつかり私のいけない事をお話しなければならないと思つて息を切らして帰つて来ると直ぐに二階に上つて見ましたら、あなたはお留守なのですもの。

 本当に私かなしくなつて仕舞ひました。

 それから暫くしてあなたがお帰りになつた時には、もうすつかり先きのやうな無邪気な心持は失くしてゐました。

 ……この二三日の私の我儘から、あなたに不快な日を送らせて、それをお詫びしようと思ひながら、反対にあなたからお詫びを云はれて、まだ自分では何にも云へなかつた事を考へますと、私は自分にいくら怒つても足りないのです。

 あなたが俥(くるま)に乗つてお仕舞ひになつた時、私はまた涙が出さうになりました。

 さつき、あなたのお乗りになつた汽車の発車するのを聞きながら、小熱いお湯の中にひとりで浸つてゐる内に、私はすつかり落ちつきました。

 今頃はあなたはもう東京の明るい町を歩いてゐらつしやるでせうね。

 此処は今、私がかうやつて書いてゐるペンの音だけしかしません。

 雨もやんだやうです。

 あなたがこちらにゐらつしやる間に神近さんからの手紙が来て、あなたがそれを読んでゐらつしやる時、私は本当に淋しくなつて仕舞ふのです。

 ゼラシイぢやないんです。

 本当にただ淋しいんです。

 ……自分ひとりでゐる時のやうに、用心深く自分を見てゐないからだと云ふことがよく分ります。

 あなたと一緒にゐるといい気になつて仕舞ふのです。

 さう云ふ場合になつて、自分のその弱味を見る事が、私には口惜しくて仕方がないんです。

 ひとりでゐますと、すきを持たずにゐられます。

 ですから、あなたが神近さんの傍にゐらしても保子さんの処にゐらしても、何んのさびしさも不安も感じません。


(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月二十七日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー伊藤から」)





『定本 伊藤野枝全集 第二巻』解題によれば、「パウル・ハイゼのラ・ビヤタの話」とは、パウル・ハイゼ『ララビアータ(片意地娘)』のこと。

『ララビアータ(片意地娘)』は、佐藤政次郎編集『実験教育指針』(一九〇八年十、十一月号)に、辻が「せいび」のペンネームで「らゝびやた」として訳載していたという。

『女の世界』六月号に伊藤野枝「申訳丈けに」、大杉栄「一情婦に与へて女房に対する亭主の心情を語る文」、神近市子「三つの事だけ」が掲載された。

「申訳丈けに」解題(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)によれば、『女の世界』六月号「編輯だより」には「岩野泡鳴氏の離婚事件を取扱つた本誌は、今度の大杉氏の事件をより大きい且つ多様な意味を含む問題として厳重な批評を社会に要求する責任を感じ」、この事件にページを割いたとあり、野依秀一「野枝サンと大杉君との事件」、安成二郎「大杉君の恋愛事件」なども合わせて掲載された。

 大杉の「一情婦に与へて女房に対する亭主の心情を語る文」は、野枝に宛てた手紙形式で書かれていて、野枝から大杉に宛てた手紙の文面もふんだんに引用し、「男女関係の進化」を実践している自分と野枝の現状リポートとも言える。





 神近の「三つの事だけ」は、大杉と恋愛関係に至るまでの経緯、自分の恋愛観や結婚観、現在の心境について言及している。

 神近が大杉を恋愛の対象と意識するようにななったのは前年(一九一五年)の暮れごろだった。

 神近は大杉と恋愛に陥る前に、妻子持ちの男と恋に落ちていたという告白をしている。

『叢書「青鞜」の女たち 第8巻 引かれものの唄』(不二出版・一九八六年二月復刻版 )の解説で瀬戸内晴美も記しているが、その男は高木信威(たかぎ・のぶたけ)で、神近は高木との間に礼子という女の子を産み、郷里に預けていた(一九一七年病死)。

 神近は妻子持ちの高木との恋愛を経験していたので、妻帯者である大杉にも違和感なく恋愛感情を抱くことができたという。

 そもそも神近は結婚生活というものが、決して男女の幸福を永続させるものではないという考えの持ち主だった。

 それは自分の周りの既婚者を見れば一目瞭然であり、そういう考えを神近に決定的にさせたのは、相思相愛で結婚したはずの富本一枝の結婚生活に失望したことだった。

 京都での御大礼の取材の後、神近が奈良在住の一枝を訪れたのは、一枝の結婚生活を自分の目で確かめたかったからだった。


 大杉さんに対する気持は、今は非常に静かです。

 あの人に逢つて居れば、私は少しの不安も動揺も感じません。

 今はあの人を見て居れば、私は自分の成長と穫取とをさへ心掛けて居れば好い様です。


(「三つの事だけ」/『女の世界』一九一六年六月号・第二巻第七号/安成二郎『無政府地獄ーー大杉栄襍記』)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:33| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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