2016年05月18日

第191回 狐さん






文●ツルシカズヒコ



 五月一日、野枝は大杉からの手紙を受け取った。


 ながい間憧憬してゐたらしい、御宿の、ゆうべの寝心地はいかに。

 こちらでは、よる遅くなつてから降り出したが、そちらでも同じ事だつたらうと思ふ。

 別れ、旅、雨、などと憂愁のたねばかり重なり合つたのだから、妙にセンチメンタルな気持に誘はれはしなかつたか。

 それとも、解放のよろこびにうつとりしたか、或は又苦闘の後のつかれにがつかりしたか、ただぼんやりと眠りに入つて了ひはしなかつたか。

 それとも又、……

 いや、そんな事は、あしたあたりから来るあなたからの手紙に、詳しく書いてある筈だ。

 それよりは、僕はやはり、僕自身の事を書かう。


(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「戀の手紙ー大杉から」大正五年四月三十日正午)

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 野枝を両国橋駅で送った後、大杉は改札口にいた尾行の刑事を大声で馬鹿野郎と怒鳴った。

 大杉は下戸だったが、ムシャクシャして酒でも飲みたい気分だったのだろう。

 大杉、五十里(いそり)ら三人は両国橋を渡ってレストランに入ったが、安酒の匂いがたまらず、大杉は林檎を一個食べただけだった。

 二軒目のレストランでは大杉はソファの上で寝てしまったが、目覚めると急に空腹を覚え四、五皿平らげた。

 八時半に二軒目のレストランを出て、連れのふたりと神保町で別れた大杉は第一福四万館に寄ってから、春陽堂の編集者である田中純を本郷に訪問した。





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉は田中から近く出版する翻訳書『男女関係の進化』の印税の一部を前借りした。

 田中のところに近所に住んでいる本間久雄も来ていたので、二日前の『読売新聞』に載っていた本間の文章「覚めた女の離婚」の話になった。

 本間はその文章で野枝が子供を捨てて大杉の許へ走ったことを非難していた。

 大杉たちは夜の十二時過ぎまで話し続けた。

 大杉は金を持って四谷区南伊賀町の堀保子のところに行き、彼女に金を渡した。

 保子に野枝を送ったことを話すと、保子は野枝のことを「あの狐さんはね」と呼び、野枝への皮肉と悪口を並べそうになったので、大杉は手を伸ばして保子の口をおさえたまま眠ってしまった。





 大杉のところへ『大阪毎日新聞』記者の和気律次郎から葉書が来ていた。

『大阪朝日新聞』に大杉と野枝が同棲したという記事が出たという。

 和気は大杉にその真偽を確かめる取材の申し込みをしている。

 この日(四月三十日)は下宿代三十円を支払う日だったが、大杉は一文なしだった。

 大杉はこの手紙をこう締めくくった。


 めづらしく長い手紙を書いた。

 獄中にゐる時をのぞけば、十年以来、これほどの分量の手紙を書くのは、あなたに宛てたいつかののとこれと二つだけだ。

 子供(辻潤の子)はおとなしくしているか。

 わるい伯父さんのいやな咳もきかないので驚かされずに寝てゐる事ができるだろう。

 何だか虫を起してゐるように見えるから、よく気をおつけ。

 欲しいものがあつたら何んでも云つておいで。

 あしたかあさつてかは、五六圓手に入るは筈だから、雑誌でも送らうかと思つてはゐるが。


(同上)


「子供」は流二のこと、「伯父さんのいやな咳」は大杉の咳のこと。





 野枝はこの手紙にこう返信した。


 ●女中たちが、旦那様はお出でにならないのですかつて頻(しき)りに聞きますの。

 今にゐらつしやるよつて云ひましたら、何時です/\つてうるさいんです。

 皆なが見たがつてゐるんですよ。

 私も見たいから、早くゐらして下さい。

 ●中央公論の方、駄目では困りますね。

 もつと他の書店に、いつぞやあなたが云つてゐらした処に『雑音』をお聞き下さいな。

 ●大阪朝日に出たのですつて。

 叔父や叔母たちが定めてびつくりしてゐる事でせう。

 ●保子さんが私の事を狐ですつて。

 有がたい名を頂いたのね。

 私は保子さんには好意を持たない代りに悪意も持つてはゐませんから、何を云はれても何ともありませんわ。

 ●ただ、私のあなたと、保子さんのあなたは違ふと云ふことだけを思つてゐます。

 ●本当に私は、あなたに、この強情な盲目な私をこんな処にまで引つぱつて来て頂いた事を何んと感謝(いやな言葉ですけれども)していいか分りません。

 ●これから書く、私の本当の意味での処女作を、あなたにデヂケエトしようと思つてゐます。


(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月一日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー伊藤から」)





 野枝は「雑音」の単行本化を目論んでいて、大杉を通じて中央公論社などの出版社にかけ合ってもらっていたが、結局、単行本にはならなかった。

 当時、代準介夫妻は大阪に住んでいたので、ふたりが『大阪朝日新聞』の記事を見て驚いているだろうと野枝は書いているのである。




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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posted by kazuhikotsurushi2 at 18:55| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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