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2016年05月13日

第166回 野依秀市(一)






文●ツルシカズヒコ



 一九一五(大正四)年七月七日。

 野枝は実業之世界社社長、野依秀市( のより・ひでいち)に会いに行った。

 このときの野依と野枝の対話が「野依社長と伊藤野枝女史との会見傍聴記」(『女の世界』一九一五年八月号・第一巻第四号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)である。

 朝から曇っていた空がようやく晴れかけた正午近い頃、野枝は実業之世界社に電話をかけた。

「これから野依さんにお目にかかりたいと思いますが、お差し支えはないでしょうか?」

 結婚したての野依は筒袖の黒紋付に袴をつけて出社していた。

 黒紋付を着ていたのは、この日、親戚に結婚式があるからである。

 野枝からの電話に対応した社員が野依に用件を伝えると、野依はその社員に「よろしいすぐお出で下さい」と返事をさせた。

 そして社員の記者にこう言った。

「今、青鞜の野枝さんが来るそうですが、大いに怪気炎を吐いてやろうと思いますから、そこで筆記をして下さい」

 雑誌のネタにされるとは知らずに、野枝は洒落た模様のある麻の袋を下げて三階の戸口から入って来た。

「私、野依です」

 椅子の上に胡座(あぐら)をかいていた野依は、着物の着崩れを直して前の机の上に頭を下げた。

 野枝も軽く挨拶をしてそばの椅子に深くを腰を下ろした。

 席にいた四、五人の記者の目が一様に見てみぬふりの輝きをもって動きだした。

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野依「あなたが有名な伊藤さんですか。

   たびたびお出で下すったそうですが、いつも留守で失敬しました。

   あなたは写真で見たよりも実物の方がグット美(よ)い。

   僕などもそうですがね」

野枝「あなたは平塚さんにお会いになったことがありましたね」

野依「会いましたよ。

   ……しかしなかなかあなたも御健筆ですね。

   青鞜をひとりでやっているのは実に偉いですよ。

   僕などは口でしゃべって書く方なんで……」

野枝「いいえ、私なんか駄目ですよ」

野依「いいや偉いです。

   時にあなたは夫婦和合の結果をあらわしているんじゃないですか」

野枝「え、なんです」

野依「子供ができてるんじゃないですか」

野枝「違いますよ」

野依「こりゃ失礼しました。

   大変あなたのお腹が大きいもんですから」

野枝「『女の世界』は大変売れるそうですね」

野依「売れますよ。

   あなたは原稿を書くと言って違約しましたね」

野枝「別に違約……」

野依「じゃなぜ書かないんです」

野枝「だって私のものは『女の世界』に向かないんですもの」

野依「いえ向きますよ。

   変わった人間はきっと好みますよ。

   智識階級にはあなたの書いたものが分かります。

   でも一般の人にはちと分かりにくいと思われます。 

   ただ分かりやすくさえ書いていただけばいいんです。

   おや、あなたは帯へ英語を書いていますね。

   そりぁどういうわけですか」

野枝「どういうわけってこともありませんが。

   実は絵を描いてもらいたいと思っていたんです。

   私なんぞに描いてくれる人がありませんもんですから、

   英語を書いたんです」

野依「はあはあ、見たところ体裁がよいからですか、

   シャレていますね。

   なにも英語を書かんでも日本語を書いたらいいじゃありませんか」

野枝「え、日本字が下手なもんですから……」





野依「よろしい。

   僕は君のような人と結婚したかったね」

野枝「そうですか」

野依「僕も二、三日前に結婚しましたよ。

   今日、僕は親類の結婚に行かなくてはならないので、

   こんな服装(なり)をして来たんですがね。

   僕もあなたの作物は監獄の中で読みましたよ。

   女の雑誌を出そうという気があったもんですから、

   婦人雑誌は残らず見ました。

   なんでも海浜に行っておった平塚さんから、

   あなたに宛てた手紙を出してありましたね。

   その雑誌にあなたは大変愚痴っぽいことを書いてありましたね。

   だから僕は、年中クヨクヨしてばかりいて、顔などももっと変かと……」

野枝「時にはそういう時もありますよ」

野依「じゃあ、今日は僕のところへ来たので、

   ニコニコしているというわけなんですか」

野枝「ええ……まあ……」

野依「亭主持ちの妻君がよく言いますよ。

   野依さんあなたは誰にもきっと好かれる人だ。

   そういう好かれる人が監獄みたいなところに行くなんて……。

   だが、伊藤さん、あなたもまだ子供ですね。

   帯へ英語を書いて喜んでいるなんて。

   僕等も二十歳時代にはよくそんなことがありましたよ。

   まったくあなたは可愛いですよ。
 
   何歳です、二十か二か……」

野枝「二十一です」

野依「二十一……僕とは十歳(とう)も違う。

   僕は可愛がってあげますよ。

   三越へ連れて行って珈琲でも飲ませてあげましょうか。

   ね、伊藤さん、僕はしまったことをしましたよ。

   結婚などして……あなたはよく亭主に不満だと言うが、

   僕はマホメットのように博愛主義だ。

   これでもクリスチャンですからね。

   ハハハハハハ、と言って仏教もよいです。

   儒教もいいです。

   その他に僕は僕の宗教哲学がありますから可笑しいですね」

野枝「御自分の宗教が一番よいでしょう」





野依「あなたはまったく可愛いよ……。

   だが、どんな女でも僕の前に来るとただちに僕に酔わされてしまう……。

   ハアハア、僕よりは十歳も若いですか」


※そこに『実業之世界』の安成二郎編集長が電話をかけに来た。そして「そりゃあ、若いですね」と相槌を打った。


野依「ハアハア、あなたの羽織はちょっと洒落てますね。

   あなたもまだ大いに色気がありますな、ハハハハハハ。
 
   草履をお穿きなさい草履を、足袋が汚れますよ。

   では、伊藤さん、ひとつあなたの恋物語を聞こうじゃありませんか」

野枝「ちょっと話せませんわ、いずれ書きますよ。

   私、しゃべるのが下手なんですから」

野依「僕は平塚さんよりもあなたが好きだ。

   あなたは平塚さんよりは偉い。

   二十一やそこらで、亭主に対する不満がどうの、

   女の領分がどうしたなんて。

   僕等の二十一くらいの時にはそんなことを考えもしなかった。

   実にあなたは偉いですよ。

   時に今日はどういう御用件でお出でになったんです」

野枝「御迷惑なことをお願いに参上(あが)ったんです」

野依「私は少しも迷惑なぞしませんよ、

   嫌なら断るだけですからね。

   しかしあなたのことならどんなことでも喜んで聞きましょう。

   どんなことですか」

野枝「原稿を買っておもらい申したいんです。

   青鞜の方で少し金が要りますもんですから」





野依「おや、あなたは袋を持っていますね。

   見せて御覧なさい。

   ハアハア、南京米の袋じゃありませんか。

   あなたは南京米を食っていますね。

   いわゆる廃物の利用ですな。

   やあ、これは失敬、失敬。

   どうしても酸いも甘いも噛み分けた人間でなくちゃ、

   こういうものは持てませんよ。

   どうです、御亭主と別れて僕にラブしちゃ、

   僕は非常に面白いですよ。

   新しい女は僕のような快活な男を有(も)たなくちゃ、

   とても満足はできませんよ。

   なにも精神上に恋したからって、

  一向差し支えがないじゃありませんか。

   時に、今、あなたは原稿を売りに来たとおっしゃったが、

   迷惑のお願いとは、なにが迷惑なんです。
   
   善いものなら買うし、悪いものなら買わないまでで、

   少しも迷惑でもなんでもないじゃありませんか。

   それも自由意志を抑えつけてもぜがひでもと。

   言うならとにかくだが……」

野枝「それが悪くってもなんでもぜひお願いしたいと思うんです」

野依「そんなことはあなたのような、

   理性の発達した人の言いぐさじゃありますまい。

   え、どうです、伊藤さん。

   やられたでしょう……

   あなたは今日まで纏めたものを出版(だ)したことがありますか」

野枝「纏めたものはありません」

野依「ああ、そうですか……。

   だが、新しい女だとかなんだとか言っても一向駄目ですよ。

   みんな僕に吹き飛ばされてしまうんですからね、ハハハハハハ。

   あなたは『第三帝国』によく書いておられるようですが、

  『第三帝国』の人がお好きですか」

野枝「別に好きというわけもありませんが、

   原稿料がとれますもんですから」

野依「ハハ、そうですか。

   するとあなたはなんでもかんでも、

   僕にこの原稿を買ってくれと言うんですか」

野枝「え、野依さんを見込んで買っていただきたいと思います」

野依「ヤヤ、あなたもなかなか巧いことを言いますね。

   しかし、あなたは本当に可愛い女だ。

   だがまだ苦労が足りないから、

   人生が本当に分かっていないようですね。

   社会のことが解らずに人生が解ろうはずがありませんんからね。

   あなたはずいぶんいろいろなことを言うようだが、

   なんだか階段の二段目から一足飛びに十段目へ飛び上がるような、

   ことばかり言っているんで、あれじゃ駄目だ。

   こりゃ、失敬、失敬。

   いずれ後から、

   あの野依といういう奴はバカなことを言う奴だと言うでしょう。

   そりゃ、僕も覚悟の前ですよ。

   今、あなたのご主人はなにもしていらっしゃらないんですか」

野枝「しておりますよ。翻訳をしています。

   そこにもひとつ出ておりますの」

   
   ※野枝は野依の横の机の上にあった書物を指差した。





野依『天才論』、ああ、これですか。

   あなたが辻さんのところへ嫁(い)ったんですか。

   それとも辻さんがあなたの許へ入聟(き)たんですか」

野枝「私が嫁(い)ったんです」

野依「そうでしょう。

   そんなら御亭主の辻という苗字を名乗るのが本当じゃありませんか。

   夫婦は一心同体ですからね。

   したがって姓名も一緒にするか、さもなければ辻さんの辻と、

   伊藤の伊の字とをとって辻伊とでも(つ)けるんなら分かりますが。

   嫁に行きながら苗字も改めず自分ばっかり勝手な熱を吐いてるなんて、

   ずいぶん猾いよ。

   ……なんですか、この原稿は、他(どっ)かへ持って行きましたか」

野枝「え、新潮社へ頼んだのですが、

   九月ごろでなくては出せないと言うんです」

野依「九月だってよいじゃありませんか」

野枝「でも、今日お金が要るんですもの……」

野依「君はずうずうしいな。

   勝手なことばかり言うんですね」

野枝「だって売るんですもの。

   買ってくれるところへ持って行かなきゃなりませんもの」

野依「ハイ、ハイ、光栄に存じますよ、アハハハハ。

   野依さんならきっと買ってくれると思って、

   わざわざお出で下すっただけでも光栄に思います。

   ……だがね、そうしてあなた方の議論は社会を度外視して、

   自分一個の考えばかり言っているんです。

   四畳半で、ヤキモチ半分考えた議論を堂々と吹っかけて、

   女を導くなぞは確かに罪悪ですよ」

野枝「別に導きはいたしません。

   また、私らは人を導くほどたいした人間でもありませんもの」

野依「いえ、確かに導かれますよ。

   天下の女はみんなバカですから。

   あなたは本当に亭主に不満があるんですか、

   あるなら堂々と離縁したらどうです……」

野枝「今は不満なぞありません」

野依「今はないのですか、今までなかったんですか、どっちで。

   いったい、どういうところが不満なんですか」

野枝「解りませんね。

   時々、喧嘩をするくらいのことはありますが……」

野依「じゃ、不満はないと言うんですか。

   実際、僕などもあなたから原稿を売りに来られて、
   
   ハイハイといってすぐにもお金を払い得るほどの
   
   身分になりたいと思っていますが、

   貧乏で困りますよ。

   いったい、その金はいつ要るんで」

野枝「今日、要るんです」

野依「今日は駄目です。

   僕も今、金をこしらえつつあるんですからね」

野枝「なにしろ青鞜が発売禁止になったでしょう。

   それに前からの残本もありますので。

   今月、雑誌をこしらえましても、本屋から一文も取れませんので。

   この原稿を売ったお金を印刷屋の払いの方へ回したいと思っています」



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:01| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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