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2016年03月15日

第14回 編入試験






文●ツルシカズヒコ




 一九一〇(明治四十三)年一月、前年暮れに上京した野枝の猛勉強が始まった。

 代準介は野枝を上野高女の三年に編入させるつもりだったが、野枝は経済的負担をかけたくないことを理由に、飛び級して四年に編入するといってきかなかった。


 代家は経済的に逼迫などはなく、どちらかといえば裕福で、そんな気遣いはいらぬ所帯である。

 ノエは学資の負担を建前とし、従姉千代子と同じ四年生に拘り、その意思を曲げなかった。

 ノエの心の中に、千代子への敵愾心が燃えていた。

 ノエの高等小学校の成績は確かにほとんど甲である。

 されども女学校と違い、高等小学校教育には英語が無い。

 数学も、算術である。

 ノエは加減乗除しか知らない。

 編入試験まで二ヶ月強、千代子の一〜三年の教科書を借り、英語と数学は千代子を教師として学ぶ。

 まずアルファベットを覚える。

 初歩の英文法を習い、単語と常用の熟語を覚えていく。

 数学は因数分解から入り、定理を習い、代数を解いていく。

 キチの記憶によれば、「二日徹夜をし、三日目に少し眠る」。

 そんな猛勉強を続け、千代子もそれに付き合っている。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p58)


 野枝の猛勉強ぶりを、岩崎呉夫はこう書いている。


「三日間も徹夜して一晩寝るとケロッとして、また二、三日も徹夜するのですからねえ」と、キチさんは述懐している。

「見ていて恐いぐらいの勉強ぶりでしたよ」

 ーーこの期間に、野枝はひどい近眼になった。

(もっとも眼鏡は、その後ときおりかける程度だったが)


(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p67) 

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 三月、野枝は上野高女四年編入試験に一番で合格した。

 四年編入に拘った野枝に「試験に落ちたら、すぐ田舎へ帰れ」と怒鳴った代準介は、呆れ顔でしばらく野枝の顔を見つめていたが、「おまえが男ならな……」と呟いた(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』p67)。

 堀切利高(一九二四〜二〇一二)編著『野枝さんをさがして』によれば、私立上野高等女学校は、一九〇五(明治三十八)年四月、五年制の上野女学校として、下谷区上野桜木町二番地(現・台東区根岸二丁目)に開校した。

 現在のJR鴬谷駅のそば、鴬谷の新坂を登った高台にあり、当初は鶯渓(おうけい)女学校と称したという。

 一九〇八(明治四十一)年に上野高等女学校となった。

 一九一二年に浅草区神吉町(現・台東区東上野四丁目)に移転、現在は中学・高校・短大・大学を含めた上野学園となっている。

 野枝が四年に編入学した当事の上野高女は一年から五年まで各学年約三十人、全校生徒数約百五十人、その多くは下町の娘たちであった。

 教育方針は教頭・佐藤政次郎(まさじろう/一八七六〜一九五六年)を中心に、良妻賢母を排し、教育の目標として四つの教育綱領を掲げていた。


 一、相愛共謙師弟友朋一家和楽の風をなすこと

 一、教育は自治を方針とし各自責任を以て行動せしむること

 一、つとめて労作の風を喚起し応用躬行せしむること

 一、華を去つて実に就き虚栄空名を離れて実学を積ましむること


(堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』_p69)





 井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p34~35)によれば、井出は野枝と上野高女で同級生だったOGに取材している。

 上野高女のカリキュラムは、だいたい文部省の方針に沿い、英語、数学、国語、漢文、倫理、作法、家事。

 教頭・佐藤政次郎が担任していた倫理の時間には『レ・ミゼラブル』や『小公女』の紹介、神崎与五郎の物語などが話され、時間のたつのを忘れさせるおもしろさだったと、OGたちは語っている。

「観察」と称して上野美術館、衛生試験場、淀橋の浄水場、三木長屋といわれる江東のスラム街の見学もあった。

 下谷、根岸、入谷、龍泉寺、吉原あたりの商家、問屋、小企業の町工場の娘たちが多く、みずみずしい桃割れ髪の娘たちが登下校し、学校の帰りに汁粉屋に寄るといった雰囲気があった。





 野枝が上野高女に入学した一九一〇年四月、神近市子も女子英学塾に入学した。

 前年、神近は長崎の活水女学校中等科を三年で中退し上京、麹町区にあった竹久夢二宅に寄宿しながら猛勉強をして、女子英学塾を受験し合格した。

 女子英学塾には神近の一学年上に青山菊栄が在籍していた。

 このころ、辻潤は浅草区の精華高等小学校の教員をしていた。

 辻は浅草区猿尾町の育英小学校高等科を卒業、神田区淡路町の府立開成尋常中学校に入学、同校中退後は神田区錦町の正則国民英学会で英語を学んだ。

 日本橋区の千代田尋常高等小学校の教員を経て、辻が精華高等小学校で教鞭をとるようになったのは一九〇八(明治四十一)からだった。

 野枝が上野高女編入の受験勉強に励んでいた二月、辻は父・六次郎を亡くした。

 六次郎は六年ぐらい前から心臓を患い、精神も病んでいた。

 六次郎の死は、井戸で自殺したとも伝えられている。

 辻はそのころ北豊島郡巣鴨町上駒込四一一の借家に住んでいた。

 この家に母と妹と三人で暮らした時代が最も平穏で幸福な時代であったと、辻は随筆「書斎」(『辻潤全集 二巻』_p158)で回想している。




★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『辻潤全集 二巻』(五月書房・1982年6月15日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 13:00| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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