2016年05月06日

第146回 中村狐月






文●ツルシカズヒコ



 大杉が野枝宅を訪れたのは、『青鞜』二月号が大杉のところに送られてきてから十日ほどだった、二月十日ごろだった。

 一日も早く彼女に会いたいと思いながらも、体調がすぐれず、急ぎの仕事もあった。

 大杉はようやく野枝と会うことができたが、辻の前ではどうしても谷中村の話をするわけにはいかない。

 野枝もその話についてはひと言も口にしなかった。

「辻がいなかったら……」

 大杉は初めてそう思った。

 野枝とふたりだけになると、例の情熱がまた首をもたげてくるかもしれないとも恐れた。

 大杉は出直すことにした。

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 二月中旬、辻と野枝は小石川区竹早町八二番地から小石川区指ケ谷町九二番地に引っ越した。

 野枝が引っ越しの準備をしているころ、彼女に会いに来た男がいた。


 私が竹早町(たけはやちょう)に居ました時分此の指ケ谷町(さしがやちょう)の家を見つけて明日にも引越さうとして混雑してゐる夕方私の名を云つて玄関に立つた人がありました。

 紡績飛白(かすり)の着物を裾短かに着て同じ地の羽織で胸方に細い小い紐を結んだのがそのぬうと高い異様な眼の光りを持つた人に非常に不釣合に見えました。

 その人は鳥打帽をぬいで私が「どなたです」と云ふのに答えて早口に「中村狐月(こげつ)というものです」と低く答えてそれから話をしたいと云ふのでした。


(「妾の会った男の人々」/『中央公論』一九一六年三月号・第三一年三号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)





 狐月は曲げた両腕に体重をかけ柱と格子に突っかり、玄関の格子を一尺ほど開け、気味の悪い眼付きで野枝を見ていた。

 野枝は無作法で気味の悪いその男をジッと見返しながら、怒りがこみ上げてきた。

 しかし、臆したような、おどおどしたような、もの馴れない調子にも気が引かれた。

 野枝は今は取り込んでいるから引っ越した後に訪ねてほしいと言い、狐月の宿所を訊いた。

 引っ越し先の住所を狐月に教えるためである。

 狐月はやはり早口に宿所を言うと、ガタンと格子戸を閉めて門を出て行ってしまった。

 野枝は『青鞜』一九一四年一月号「編輯室より」に「かう云ふ小さな愚かな批評家は遠慮なく葬つてしかるべきである」と書いた。

 野枝にとって狐月は、評論をするたびに必ず他人の悪口を言う人、『早稲田文学』で「さうすることを思つた」「何々を思つた」というような妙な創作をする人という存在だった。

 この寒中だというのに、狐月は足袋を履いていなかった。

 気味の悪い眼付き、格子戸にもたれたままの無作法な口のききかた。

 野枝はなんだか恐くなった。





 引っ越してから野枝は約束どおり狐月に葉書を出した。

 すると狐月は、朝早く野枝がまだ食事の仕度中にやって来た。

 当惑した野枝だったが、仕方なく会った。

 旬刊雑誌『第三帝国』の文芸時評を担当していた狐月は、野枝に同誌への寄稿を依頼した。

 狐月も野枝に会いに行ったこのときのことを書いている。


 あなたは此(こ)れから引っ越しをされるのだからと言はれて、私の居る所を聞かれました。

 内気な、殊に女の前に恥しさを感ずる私は、格子戸に凭(もた)れる如(やう)に為(し)て、小さい聲(こえ)で私の居る所を言つて帰つたのでした。


(「伊藤野枝論」/中村狐月『現代作家論』・磯部甲陽堂・一九一五年七月)





 二月十日ごろ竹早町の野枝宅を訪れた大杉は、それから十日ばかりしてからまた指ケ谷町に引っ越したばかりの野枝宅を訪れた。

 移転の知らせをもらったばかりの大杉は、道すがら「今日は辻がいてくれなければいいが……」と思ったが、やはり辻がいた。

『平民新聞』一月号(第四号)は、すべての記事を他紙誌からの転載で埋め尽くしたので発禁は免れたが、二月号(第五号)はまた発禁になった。

 しかも、印刷中にまだできあがりもしない全部を押収されてしまった。

 そして印刷所からは次号の印刷を断られてしまった。

 大杉は荒畑寒村と手分けして、五つ六つの印刷所にかけ合ってみたが、いずれも危ながって引き受けてくれない。

 困りきっていた大杉が、その話をすると、野枝がすぐに、

「じゃ、私の方の印刷所に話してみたらどう? あそこの職工長なら、私もよく知っていますし、きっとそんなことには驚きはしませんわ」

 と言いながら、ちょっと辻の顔を見て、

「本当は私が行ってあげるといいんだけれど、今ちょっと……」

 と言って、『青鞜』の印刷所の職工長に宛てた紹介状を書いた。





 その印刷所は快く引き受けてくれた。

 大杉は大急ぎで『平民新聞』三月号(第六号)の編集を終えて、四、五日の間、毎日苦労してふたりの尾行をまいては、大久保の自宅から神田のその印刷所へ校正に通った。

『平民新聞』三月号は大杉のある友人に須田町からタクシーに乗ってきてもらって、印刷所の前で大杉らがそれに飛び乗って、うまく持ち出すことができた。

 しかし、この『平民新聞』三月号も即日発禁になり、ひとまず『平民新聞』は廃刊にすることになった。

 大杉は保養かたがた、単行本の原稿を書き上げるために、いつも出かけることにしている葉山に行くことにした。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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