2016年05月06日

第143回 谷中村(八) 






文●ツルシカズヒコ



 渡辺政太郎(まさたろう)の谷中村行きは実行されなかった。

 せっかく最終の決心にまでゆきついた人々に、また新しく他人を頼る心を起こさしては悪いという理由で、他から止められたのでる。

 渡辺は野枝のために、谷中村に関することを書いたものを貸してくれたりした。

 野枝がそれらの書物から知り得た多くのことは、彼女の最初の感じにさらに油を注いだ。

 その最初から自分を捉えて離さない強い事実に対する感激を、一度はぜひ書いてみようと思ったのはそのときからだった。

 野枝には自分のその感じが、果たしてどのくらいのところまで確かなものであるかを見ようとする、落ちついた決心も同時にできていた。

 それが確かめられるときに、自分の道が初めて確かになるーー野枝はあわてずに自分の道がどう開かれてゆくかを見ようと思った。

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 野枝がそうして真剣に考えているようなことに対して、本当に同感し、理解できる友人は彼女の周囲にはひとりもいなかった。

 それは辻を措いて他にはないのに、今度は辻でさえも取り合ってはくれない……。

 野枝は本当に黙りこくって、独りきりで考えているより仕方がなかった。

 しかし、とにかく、野枝はさんざん考えた末に、二日ばかりたってから、思い切って大杉に初めての手紙を書いた。

 野枝は大杉から送ってもらったドイツ社会民主党非戦派の一首領、ローザ・ルクセンブルグの写真入りの絵葉書のお礼をまず書き、それから渡辺から聞いた谷中村の話に対する自分の気持ちを書いた。

 野枝は彼のような立場にいる人の考えを探ることができればとも思い、またそれによって自分の態度に、気持に、ある決定を与えることができればいいと思ったのであった。





 しかし、大杉からの返信は来ず、野枝は大杉からも何ものをも受け取ることができなかった。

 彼もまた野枝の世間見ずな幼稚な感激が、きっと取り上げるなんの価値もないものとして忘れ去ったのであろうと思うと、野枝はなんとなく面映ゆさと軽い屈辱に似たものを感じた。

 そして野枝はできるだけ美しく見ていたその人の、強い意志の下に隠れた情緒に、裏切られたような腹立たしさを覚えるのであった。

 野枝はもうこのことについては、誰にもいっさい話すまいと固く断念した。

 大杉にもその後、幾度も会いながらそれについては素知らぬ顔で通した。

 野枝が書いたその長文の手紙を大杉が受け取ったのは、一九一五(大正四)年一月の末だった。





 このあいだは失礼致しました。

 それから絵はがきを有りがたう御座いました。

 大変いい写真で御座いますね。

 おとなしい顔をしてゐますのね。

 すつかり気に入つてしまひました。

 Mさんの処でこの前の土曜日からお講義がはじまりました。

 ウォドのピュア・ソシオロジイです。

 緒論だけでしたけれど、いろ/\なおもしろい疑問を引つぱり出すことが出来ました。

 おもしろいと云ふよりは、後から後から興味が湧き上つて来ます。

 Aさんの「夜の自動車」痛快に拝見しました。


(「死灰の中から」/『新小説』一九一九年九月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』)


「M」さんは山田嘉吉・わか夫妻のこと。

『平民新聞』第三号を官憲に押収される前に、印刷所からタクシーで持ち出した一件を、荒畑が『平民新聞』第四号に書いた短篇が「夜の自動車」である。





 今迄も、それから今も、あなた方の主張には充分の興味を持つて見てゐますけれど、それがだんだん興味だけではなくなつて行くのを覚えます。

 一昨夜悲惨なY村の現状や何かについて話を聞きまして、私は興奮しないではゐられませんでした。

 今も続いてそのことに思ひ耽つてゐます。

 Tは私のさうした態度をひそかに笑つてゐるらしく思はれます。

 一昨夜はそのことで二人で可なり長く論じました。

 私は矢張り本当に冷静に自分ひとりのことだけをぢつとして守つてゐられないのを感じます。

 私は矢張り私の同感した周囲の中に動く自分を見出して行く性だと思ひます。

 その点からTは私とはずつと違つてゐます。

 この方向に二人が勝手に歩いて行つたら屹度相容れなくなるだらうと思ひます。

 私は私のさうした性をぢつと見つめながら、どう云ふ風にそれが発展してゆくかと思つてゐます。

 あなた方の方へ歩いてゆかうと努力してはゐませんけど、ひとりでにゆかねばならなくなるときを期待してゐます。

 無遠慮なことを書きました。

 お許し下さい。

 さて、この間お約束しました「生の闘争」の紹介をまだ書けませんので御ゆるしを願ひたう御座います。

 私は書物を頂いて紹介するのにどうしても無責任な、いい加減なお茶にごしを書く程ゆうづうがききませんので、つい遅くなります。

 ……あの書物が私にどんな感動を与えたかを書きたいので御座います。

 しかしお断りをいたして置きますのは……私の書物を賞めて頂いたからと云ふやうな、そんなお義理からではないことをくれぐれもお含みおき下さいまし。
 
 ……そのうちに一度お邪魔にあがりますが、あなたも何卒、こんどは奥様と御一緒にゐらして下さい。

 奥様にはまだお目にかかりませんけれど何卒よろしく。

 猶、S雑誌二月号を送りますときには新聞を少し入れてやらうと思います。

 三四十部お送り下さいませんか。

 お代は月末にお払ひいたします。


(同上)


「Y村」は谷中村のこと。

 大杉の初の評論集が『生の闘争』(新潮社・一九一四年十月)である。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:21| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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