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2016年05月06日

第142回 谷中村(七)






文●ツルシカズヒコ



こんなにも苦しんで、自分はいったい何をしているのだろう。

 余計な遠慮や気兼ねをしなければならないような狭いところでで、折々思い出したように自分の気持ちを引ったててみるくらいのことしかできないなんて?

 野枝はこんな誤謬に満ちた生活にこびりついていなくたって、いっそもう、何もかも投げ棄てて、広い自由のための戦いの中に飛び込んでゆきたいと思った。

 そのムーブメントの中に飛び込んでいって、力一杯に手応えのあることをしてみたかった。

 自分の持っているだけの情熱も力も、そこならばいっぱいに傾け尽くせそうに思った。

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 野枝は自分の現在の生活に対する反抗心が炎え上がると、そういう特殊な仕事の中に、本当に強く生きて動く自分を夢想した。

 しかし、その夢想と眼前の事実の間には、文字どおりの隔たりがあった。

 そして、夢想を実現させようとする努力よりも、やはり一日一日のことに逐われていなければならなかった。

 けれど、それは決してそうして放って置いてもいいことではなかった。

 必ずどっちかに片をつけなければならないことなのだった。

 野枝に、特にそうしたはっきりした根のある夢想を持たせるように導いたのは、大杉と荒畑寒村が三年前の秋に創刊した『近代思想』だった。

 野枝は何も知らずに、その薄っぺらな創刊号を手にし、興味は一度に吸い寄せられた。

 号を逐って読んでいるうちに、だんだんに雑誌に書かれるものに対する興味は、その人たちの持つ思想や主張に対する深い注意になった。





 そのうちに野枝の前に、もっと彼女を感激させるものが置かれた。

 それはエマ・ゴールドマンの、特に彼女の伝記だった。

 野枝はそれによって初めて、伝道という「奴隷の勉強をもって働き、乞食の名誉をもって死ぬかもしれない」仕事に従事する人たちの、真に高価な「生き甲斐」というようなものが本当に解かるような気がした。

 それでも、野枝はまだできるだけ不精をしようとしていた。

 それには、一緒にいる辻の影響もだいぶあった。

 彼は、ずっと前から大杉たちの仕事に対しては理解も興味も持っていた。

 しかし、彼はいつもの彼の行き方どおりに、その人たちに近寄って交渉を持つことは嫌だったのだ。

 交渉を持つことが嫌だというよりは、彼は大杉たちのサークルの人たちが、どんなにひどい迫害を受けているかをよく知っていたので、その交渉に続いて起こる損害を受けるのが馬鹿らしかったのだ。

 野枝もまた、それほどの損害を受けないでも、自分には手近かな「婦人解放」という他の仕事があり、「婦人解放」といったところで、これも間違いのない「奴隷解放」の仕事なのだから、意味はひとつなのだなどと、勝手な考えで遠くから大杉たちの仕事を、やはり注意深くは見ていた。





 野枝は今日まで避けてきたことを、今、思いがけなく、事実によって、考えの上だけでも極めなければならなくなったのだ。

 曲がりなりにも、とにかく眼前の自分の生活の安穏のために努めるか。

 遙かな未来の夢想を信じて「奴隷の勉強」をも「乞食の名誉」をも甘受するか。

 もちろん私はどこまでも、自分を欺きとおして暮らしていけるという自信はない。

 そのくらいなら、これほど苦しまないでも、とうにどこかに落ちつき場所を見出しているに相違ない。

 では後者を選ぶか?

 私はどのくらい、それに憧憬をもっているかしれない。

 本当に、すぐにも、何もかも棄てて、そこに駆けてゆきたいのだ。

 けれど、そこに行くには、私の今までの生活をみんな棄てなければならない。





 苦しみあがきながら築き上げたものを、この自分の手で叩き壊さねばならない。

 今日までの私の生活は、なんの意味も成さないことになりはしないか?

 それではあんまり情けなさすぎる。

 しかし、今日までの私の卑怯は、みんなその未練からではないか。

 本当の自分の道が展かれて生きるためになら、何が欲しかろう?

 何が惜しかろう? 

 何ものにも執着は持つまい。

 持たれまい。

 ああ、だがーーもし本当にこう決心しなければならないときが来たらーー私はどんなことがあっても、辛い目や苦しい思いをしないようにとは思わないけれど、それにしても、今の私にはあまりに辛すぎる。

 苦しすぎる。

 せめて子供が歩くようになるまでは、ああ!

 だが、それも私の卑怯だろうか?


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 13:23| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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