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2016年05月04日

第136回 谷中村(一)






文●ツルシカズヒコ



 一九一五(大正四)年一月の末、寒い日だった。

 渡辺政太郎(まさたろう)、若林八代(やよ)夫妻はいつになく沈んだ、しかしどこか緊張した顔をして、辻家の門を入ってきた。

 辻は渡辺政太郎との親交について、こう書いている。

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 染井からあまり遠くない瀧の川の中里と云ふところに福田英子と云ふをばさんが住んでゐた。

 昔、大井憲太郎と云々のあった人で自分も昔の新しい女だと云ふところから「青鞜」に好意を持つてゐたらしかつた。

 恰度(ちようど)その時分、仏蘭西で勉強して日本の社会問題を研究にきたとか称する支那人が英子さんを通じて日本の新しい婦人運動者に遇ひたいと云ふので会見を申し込んできたので、一日その中里の福田英子さんのところで遇ふことにした。

 日本語がよく解らず英語のわかる人を連れて来てくれる方が都合がよいと云ふので僕が一緒に行くことになつた。

 僕はその時、始めて渡辺政太郎氏に会つたのである。

 渡辺君は今は故人だが、例の伊豆の山中で凍死した久板君などと親友で、旧い社会主義者の間にあつてはかなり人望のあつた人であつた。

 渡辺君は死ぬ前には「白山聖人」などと云はれた位な人格者であつたが、僕はその時から非常に仲がよくなつた。

 渡辺君はその時分、思想の上では急進的なつまりアナァキストであるらしかつた。

 僕は渡辺君が何主義者であるか、そんなことは問題ではなかつた。

 僕は渡辺君が好きで、渡辺君を尊敬してゐた。

その後、大杉くんを僕等に紹介したのもやはりその渡辺君であつた。

 渡辺君は僕の子供を僕ら以上の愛を持つて可愛がつてくれた。

 僕の親愛なるまこと君は今でもそれを明らかに記憶してその叔父さんをなつかしんでゐるのである。


(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p12/『ですぺら』・新作社・1924年7月/『辻潤全集 第一巻』・五月書房_p393)





 渡辺政太郎は上がるとすぐ、例のとおりに一(まこと)を抱き上げてあやしながらひとしきり喜ばしておいて、思い出したように傍にいた野枝に、明日から二、三日他へ行くかもしれないと言った。


『何方(どちら)へ』

 何気なしに私はさう尋ねた。

『え、実は谷中村まで一寸行つて来たいと思ふのです。」

『谷中村つて何処なんです。』

『御存じありませんか、栃木ですがね、例の鉱毒問題のあの谷中ですよ。』

『へえ、私、些(ち)つとも知りませんわ、その鉱毒問題と云ふのも――』

『あゝさうでせうね、あなたはまだ若いんだから。』

 さう云つてM氏は妻君と顔を見合はせて、一寸笑つてから云つた。

T翁と云ふ名前位は御存じでせう?』

「えゝ、知つてますわ。』

『あの人が熱心に奔走した事件なんです。その事件で問題になつた土地なんです。』

『あゝ、さうですか。』

 私にもさう云はれゝば何かの書いたものでT翁と云ふ人は知つてゐた。

 義人とまで云はれたその老翁が何か或る村の為めに尽くしたのだと云ふ事も朧ろ気ながら知つてゐる。

 しかし、それ以上の委しい事は何にも知らなかつた。


(「転機」/『文明批評』1918年1月号・第1巻第1号〜2月号・第1巻第2号/『乞食の名誉』・聚英閣・1920年5月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p381~382/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p218~219)





「実は今日その村の人が来ましてね。いろいろ話を聞いてみると、実にひどいんです。なんだかとてもじっとしてはいられないので、ひとつ出かけて行ってみようと思うのです」

 渡辺は急に恐ろしく興奮した顔つきをして、突然にそう言って黙った。

 普段、何ごとにも真面目な渡辺のひと通りのことではないような話の調子に、野枝は探るようにして聞いた。

「その村に何かあったのですか?」

「実はその村の人たちが水浸りになって死にそうなんです。水責めに遇っているのですよ」

「え、どうしてですか?」

「話が少し後先になりますが、谷中村というものは、今日ではもうないことになっているんです。旧谷中村は全部堤防で囲まれた貯水池になっているんです。いいかげんな話では解からないでしょうけれど」

 こう言って、渡辺はまず鉱毒問題というものから話し始めた。





 栃木県の最南端にある谷中村は、群馬、茨城、埼玉と接近した土地で、渡良瀬という利根の支流の沿岸の村なのであるが、その渡良瀬の水源が足尾の銅山の方にあるので、銅山の鉱毒が渡良瀬川に流れ込んで、沿岸の土地に非常な被害を及ぼしたことがある。

 それが問題となって長い間、物議の種になっていたが、政府の仲介で鉱業主と被害民の間に妥協が成立して、ひとまずそれは片づいたのだ。

 しかし水源地の銅山の樹が濫伐されたために年々、洪水の被害が絶えない、その洪水のたびに鉱毒が濁水と一緒に流れ込んでくるので、鉱毒問題の余炎がとかく上がりやすいので、政府ではその禍根を絶つことに腐心した。

 水害の原因が水源地の濫伐にあることはもちろんであるが、栃木、群馬、茨城、埼玉らの諸県にまたがるこの被害のもう一つの原因は、利根の河水の停滞ということにもあった。

 本流の河水の停滞は支流の渡良瀬川思川(おもいがわ)らの逆流となって、その辺の低地一帯の氾濫となるのであった。

 そこでその河水の停滞を除くために、河底をさらい、その逆流を緩和さすための貯水池を作ることが最善の方法として選ばれた。

 そして渡良瀬川、思川の両川が合流して利根の本流に落ちようとするところ、いつも逆流の正面に当たって一番被害の激しい谷中村がその用地に充てられたのである。


佐野が生んだ偉人・田中正造 その行動と思想




★『辻潤全集 第一巻』(五月書房・1982年4月15日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 10:05| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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