2016年05月02日

第131回 四ツ谷見附






文●ツルシカズヒコ



 女性解放問題にも深い関心を持っていた山田嘉吉が、アメリカの著名な社会学者、レスター・フランク・ウォード(Lester Frank Ward)の講義をすることになり、その勉強会に山田わか、らいてう、野枝などが参加していた。

 その夜のテキストはウォードの『Pure sociology』だった。


 予定のレツスンに入つてからも、Y氏の読みにつれて、眼は行を遂(お)ふては行くけれど、頭の中の黒い影が、行と行の間を、字句の間を覆ふて、まるで頭には入つて来なかつた。

 払い退けやうと努める程いろ/\不快なシインやイメエジが、頭の中一杯に広がる。

 思ひ出し度くない言葉の数々が後から後からと意識のおもてに、滲み出して来る。

 其処に注意を集めやうとしてゐるにもかゝはらず、Y氏が丁寧につけてくれる訳も、とかくに字句の上つ面を辷(すべ)つてゆくにすぎなかつた。


(「乞食の名誉」/『文明批評』一九一八年四月号・第一巻第三号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)

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 レッスンが終わると、いつものように熱いお茶が机の上に運ばれた。
 
 生後一年四ヶ月の一(まこと)が、野枝の膝の上で他愛なく眠っていた。

 快活な山田夫妻の笑顔も、その夜の野枝には虚しく映った。

 野枝はお愛想笑いをしながら、小さなストーブにチラチラと燃えている石炭の焔を見つめていた。

 野枝は惨めな自分に対する深い憐憫が、涙となって溢れ出そうになるのをじっと抑えていた。

 外はいつのまにか雪になっていた。

 通りの家はもうどこも戸を閉めて、どこからも家の中の燈(ひ)は洩れてこなかった。

 街灯だけがボンヤリと、降りしきる雪の中に夜更けらしい静かな光を投げていた。

 無理無理に停留所まで送ってくれた嘉吉と、言葉少なに話しながら電車を待っている間も、野枝の眼には涙がいっぱい溜まっていた。

 この雪の降りしきる夜更けに、もう帰るまいとさえ思ったあの家に、やはり帰ってゆかなければならないと思うと情けなかった。

 こんなときに親の家でも近かったらーー親の家、それも自ら叛(そむ)いて離れてきたのだった。

 三百里も西の方にいる親達とは、もう長い間音沙汰なしに過ごしてきた。

 そしてまったくの他人の中での苦しい生活がもう二年も続いている。

 深夜であろうとなんであろうと、遠慮なく叩き起こせる家の一軒くらいあればと野枝は思わずにはいられなかった。





 漸くに深夜の静かな眠りを脅かす程の音をたてゝ、まつしぐらに電車が走つて来た。

 運転手の黒い外套にも頭巾にも、電車の車体にも一様に、真向から雪が吹きつけて、真白になつてゐた。

 電車の内は隙(す)いてゐた。

 皆んな其処に腰掛けてゐるのは疲れたやうな顔をしてゐる男ばかりであつた。

 なかにはいびきをかきながら眠つてゐる者もあつた。

 とし子はその片隅に、そつと腰を下ろした。

 電車は直ぐ急な速度で、僅かばかりな乗客を弾ねとばしてもしまひさうな勢で馳け出した。

 とし子は思はず自分の背中の方に首をねぢむけた。

 背中ではねんねこやシヨオルや帽子の奥の方から子供の温かさうな、規則正しい寝息がハツキリ聞きとれた。

 とし子は安心してまた向き直つた。

 そして気附かずに持つてゐた傘の畳み目に、未だ雪が一杯たまつてゐたのを払ひおとして、顔を上げた時にはもう四ツ谷見附(よつやみつけ)に近く来てゐた。


(同上)





 四ツ谷見附で乗り換えると、野枝は再び不快な考えから遠ざかろうとして、手提げの中から読みさしの書物を取り出した。

 けれど水道橋まで来て、そこで一層激しくなった吹雪の中に立っている間に、またとりとめもなく拡がってゆく考えの中に野枝は引きずり込まれていた。

 刺すような風と一緒に、前からも横からも雪は容赦なく吹きつける。

 足元には音もなく、後から後からと見る間に雪が降り積んでいく。

「どこかへこのまま行ってしまいたい!」

 野枝は白い柔かな地面に射す薄っすらとした光りをじっと見つめながら、焦(じ)れているのか、落ちついているのか、自分ながらわからない気持ちで考へているのだった。

「どこへでも、どこでもいい」

 ここにこうして夜中立っていても、今夜出がけに苦しめられたような家には帰って行きたくなかったーー野枝は腹の底からそう思うのだった。

 けれど、背中に何も知らずに眠っている子供を思い出すと、野枝の眼にはひとりでに熱い涙が滲んできた。

「自分だけなら、他人の軒の下に震えたっていい。けれど?」

 何も知らない子供には、ただ温かい寝床がなくてはならない。

 窮屈な背中から下ろして、早くのびのびと温かな床に寝かしてやりたい。

 だが、可哀そうな母親が子供に与えるたったひとつの寝床は、やはりあの家の中にしかない。

 野枝の眼からは熱い涙が溢れ出した。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 12:20| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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