2016年04月25日

第122回 根本の問題






文●ツルシカズヒコ



 野枝の胸中に今まで抑えに抑えていた辻に対する微細な不満が、頭をそろえて湧き上がってきた。

 野枝が言いたいことを言い、したいことをすれば、家の中の人たちの不平や不満は、どれもこれも辻に向かうに決まっていた。

 野枝はそういう経験をいくつもしてきた。

 それを繰り返すのが嫌なので、辻から穏やかに話して欲しかった。

 野枝が苦しんでいるのを知らないわけでもないのだし、そのくらいの話を義母や義妹にしてくれるのは当然だと野枝は思っていた。

 辻は妻のそういう心持ちを知ってか知らずか、素気なく突き放した。

 彼はしたいことがあれば、言いたいことがあれば、勝手に自分でしろと言った。

 彼はいつも何に対しても、そう主張する。

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 だから、辻と話しても無駄であり、自分で解決するよりは仕方がない。

 辻は日常に起こる些細な交渉に対してすら、できるだけ避けたがっていた。

「面倒くさい、いい加減にやってくれ」

 そう言って、たいていのことは野枝や美津にまかせていた。

 面倒くさい上に不快や損を伴うことが当然にわかっていてさえ、彼は自分で動こうとしなかった。

 美津も時々は、彼のそうした態度に怒った。

「俺は世間なんか相手にしようと思わないよ」

「そうはいきませんよ、そんなに威張ってお前、ちっとも威張るだけのことをしないじゃないか。お前がそんな勝手な太平楽を並べるのだって、世間に向かっては私たちが代わりをしてやってるからじゃないか」

 辻はコンヴェンショナルに対する野枝の遠慮や気兼ねを叱っているのかもしれないと思ったこともあるが、実際は妻と家の人たちとの間の面倒ごとに入って話をするのが煩わしいだけなのだーーそう考えて、野枝はまた彼に対する腹立たしさを呼び戻すのであった。





 野枝の苦しみの原因は、一緒の家にいて始終顔を見合わせているから問題になるような、些細なことばかりだった。

 そういう家庭内の些事(さじ)に煩わされ、自分のしたいことをやれずに苦しむことが、野枝にはつくづく馬鹿馬鹿しいこととしか思えなかった。

 けれど、家族の他の人々にとっては、そんな些事が一大問題になるのだった。

 そして野枝がそうした些事にインデイファレントであれば、辻にはそのことがさらに大問題になる。

 そして、野枝もまたその問題から逃れられなくなる。

 些事とはいえ、それはやはり彼女の考えをすぐに擾(か)き乱してしまうだけの可能性は持っていた。

 辻も野枝もコンヴェンショナルなものに反抗心や憎悪を持っているのは、お互い理解している。

 けれど、辻はその反抗心や憎悪を直接それに向けず、できるだけ没交渉でありたいと願っている。

 その理由は到底、自分の力がまだ及ばないからだという。





 それなら諦めてそれに屈するからと言えば、憎悪は持ち続けているのだが、辻は憎悪をもって戦おうとはしない。

 辻についてここまで考えた野枝は、この問題は自分にとっても根本の問題であることに気づいた。

 野枝は辻の家族と一緒に暮らすようになって、習俗に対する反抗心や憎悪を隠して生きてきた、それは事実だ。

 しかし、隠すくらいなら捨ててしまう方がいい、でなければ堂々と主張すればいいのだ。

 後者を選択した場合、自分が辻の家族と暮らし続けることは、彼らとの軋轢が格段に増え、自分とは違って習俗や情実に従って生きている人を犠牲にしてしまう。

「どうしても、この家からは出なければならない」

 野枝は考えれば考えるほど、その覚悟を強いられた。

 努力をして家族の人たちに対抗して、自分の考えを押し立てるとしても、かれらの力も強く、この争いはいつまで続くかしれない。

 野枝はさらに考えたーー。

 嫁と姑小姑の争いなどより、もっと根本的なものに迫ってゆく、大きな広い闘争の仲間入りをした方がどのくらいいいかしれない。

 効果の上から言っても自分の気持ちの上から言っても、大変な違いだ。

 少々の非難くらいはなんでもない。

「出よう、出よう、自分の道を他人のために遮ぎられてはならない」





 野枝の考えはひとつのところばかりに帰って来るーー。

 現在の人間生活のすべてに不自由と不合理が当然なものとしてついて廻っているのだ。

 それに立ち向かおうとすれば、ただ初めから終りまで苦しまなければないない。

 諦めてとうてい及ばないとして見逃してしまうか、苦しみの中にもっと進み入るか……。
 
 野枝はそこまで決心がつくと、そのテキパキした考えに対する自信がさらにまたその決心を強めた。

 場合によっては辻と絶縁をしてもいい、そして学生時代に帰って勉強しようと思った。

 子供は野枝が連れて出るしかないが、それは子供をそう不幸にはしないとも思えた。

 考えの整理がつき頭がスッキリした野枝は、家の日課を滞りなく果たしながら、具体的な計画について二日ばかりは熱心に考え続けた。

 今の平穏な空気を故意に乱すでもあるまいと、腹の決まった野枝はそのままそっとして機会を待った。

 毎日、気持ちのいい秋晴れが続いた。

 野枝は朝から忙しく洗濯や掃除に立ち働いて、折々は子供の相手になってやりながら、呑気らしく子守歌を歌ったりした。

 夜は疲れた体を横にすると、そのままぐっすりと眠りこんだ。

 子供も秋風に肌心地がよくなると、目に見えておとなしくなった。

 四、五日すると母親は陽気な笑顔を見せて帰って来た。





 家の中には隅々まで和(やわ)らかな気分が広がつてゐて、逸子のねらつてゐるやうな、険悪な機会は、何処にも潜んではゐなかつた。

 一度は確つかりと考へ固めた彼女の決心が、知らず/\の間に、ほぐれ始めた。

 けれど逸子は、そんな事にはふり向きもせずに、一日々々と近づいて来る冬仕度についての、考への方が、遥かに大事な事でゝもあるやうに一生懸命に、あれ、これと、考へては手を下ろして行つた。

 日が傾いて、よく乾いた洗濯物を腕一杯に抱へて、家の中に這入つて来る彼女の顔には、何の不満らしい曇りもなく、疲労に汗ばんではゐても晴れやかな眼をして子供をあやしたり、母親の話相手になつたりしてゐた。


(「惑い」/『新日本』一九一八年十月号・第八巻第十号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 20:01| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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