2016年04月25日

第121回 小石川植物園






文●ツルシカズヒコ



 野枝が西原から金策をしてきた日の翌朝。

 辻も野枝も義母の美津も、それぞれに不機嫌だった。

 野枝は朝の仕事をひととおりしてしまうと、机の前に座って子供の相手をしながら読書を始めた。

 野枝にとって読書が最も寛(くつろ)げるときだった。

 書物に引きつけられた母親に物足りなくなった子供が、いつのまにか茶の間の方に逼(は)って行った。

「坊や、おとなしいね、母ちゃんは何してるの。また御本かい、本当に仕様のないお守りさんだね。昼日中、子持ちが机の前で本を読んでいるなんて、とんでもない話だ。することは後から後からといくらでもありますって、坊やそうお言い。あんまりお呑気がすぎますよ」

 野枝は頓着なしに、そのまま強情に机の前から離れないでいた。

 遅く目を覚ました辻は、ひとりで朝食をすませ、しばらく縁側にしゃがんでいた。

 ふと野枝の方に向いた辻は、

「お前の方ではどうにかならないかい」

 と、できるだけ平気な顔で聞いた。

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『駄目ですよ、あなたはまた他人に押しつける気でゐるんですね。偶(たま)にはひとをあてにせずに何とかしなさいね、あんまりだわ』

 逸子はプン/\しながら隣室にも聞こえるやうな声で冷たく云ひ放つた。

『何て意気地のない男だらう』

 さう云ふ考へが何の前置きもなく、今、かつとした気持の後から浮んで来ると、何時か書物に向けた注意は離れて仕舞つた。

 心の底からこみ上て来る忌々(いまいま)しさを耐へかねて、彼女は書物を伏せると一刻も家にぢつとしてゐられないやうな気持ちで一杯になつた。

 帯をしめ直して子供を抱いて立ち上ると、そのまゝツカ/\玄関まで出たが、思ひ返して懐から財布を出すと子供を其処に待たしておいて幾枚かの紙幣を机の上に置いて後もふり向かずに出て行つた。


(「惑い」/『新日本』一九一八年十月号・第八巻第十号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)





 野枝と子供が小石川植物園で散々遊び疲れて帰ったのは、もう日暮れに近い時分だった。

 野枝が予期したとおりに、美津の姿はもう見えなかつた。

 辻は陰欝な顔をして庭先に突っ立っていた。

 それを見ると、野枝の気持ちは急に暗いところに引き込まれるように沈んだ。

「ああ、つまらない!」

 野枝はもう何もかも投げ出してしまいたいような、やるせなさを感じて焦(じ)り焦りした。

 彼女は子供にまで遣り場のない気持ちを当たり散しながら、すぐに可哀そうになって一緒に泣き出しそうになったりした。

 夕飯がすむと、疲れた子供と一緒になってうつらうつらしているうちに眠ってしまった。

 二時間ほどの眠りから醒めた野枝のぼっとした頭の隅の方から、昼間の不快さがもたげ始めた。

 彼女は体を起こし衣紋(えもん)を直しながら、もう昨日からのことについては何も考えまいと思い、茶の間に入りお茶を飲んだ。

 そして壊れかかったた髪のピンをさし直したりして、ようやく机の前に座った。

 野枝は昼間に伏せたままの書物を開いて読み始めたが、先刻の眠りで疲れた頭はもうすっかり緩みかけていて、読んでいる文字はなんの意味もなさずに、バラバラに眼に映るだけだった。

 その気持ちのうつろな隙を狙って、考えまい考えまいとしていることがチョイチョイと頭をもたげ出す。

「なぜ、こうなのだろう……」

 とうとう野枝は机の上から眼を離すと、いろいろな考えが一度に押し寄せてきた。

「あの金にどんな顔をして手を触れたろう?」
 
 そんなことをまず思い、あの人は自分では決して嫌なことをしないですますことばかり考えている、意気地がないというよりは横着で手前勝手な人間のように、野枝には思えてくるのだった。





「なんだ、まだこれを読んでしまわないのか、こんなものに幾日かかるんだ?」

 辻が野枝の机のそばに座るとすぐ、書物の頁を返しながら言った。

「毎日毎日、用にばかり追われていて、読むことも何もできるもんですか、あなたとは違いますよ」

 辻は思いがけない野枝の返事にムッとしたようだったが、やがて穏やかな調子で話かけた。

「みんな、お前がしなくってもすむだろう? いちいちあくせくして騒がないで、もう少し時間の出るような工夫をすればいいじゃないか」

「そんなことは、今さらあなたの指図を受けるまでもないんですけれど、そんなこととても駄目です」

「なぜだい、家の中の用はお恒だって、お母さんだって、やれないことはないんだし。骨の折れないものを読むくらいは、守りをしながらでもできるだろう? 夜だってこうして相応に時間はあるじゃないか」

「そう、はたで見ているようなものじゃありませんよ。みんな書物を読むのは無駄話をするよりも、ぜいたくな道楽だくらいにしか思ってはいないんですもの。そのために時間をこしらへるなんて、とんでもないことですわ、少しばかり時間を見出したって何の役にも立ちゃしない。夜は夜で疲れてしまってとても駄目です。みんなはずんずん勉強しているのに、私ひとり取り残されてゆくんだわ」





「まさか道楽だとも思ってやすまい」

「思ってやすまいって、今朝だって、あんなに言っていたのがわらないんですか」

「そんなら、黙っていないで、道楽でないとよく話してやればいいじゃないか。黙っていたんじゃ、いつまでたってもわかりはしないよ」

「そう思うんなら、あなたが話して下さいな。私じゃ駄目なんですから」

「自分のことは自分で話せばいいじゃないか、なぜ駄目なんだい?」

「私が言ったんじゃ変に取られるばかりです。あたり前のことだって、あの人たちにゃ、何ひとつ、私の口からは言えないんですよ」

「そんな馬鹿なことがあるもんか。それはお前の余計なひがみだ。言わないでいるだけ、自分の損じゃないか。言いたいことはずんずん言い、したいことはどしどしかまわずするさ。下らない遠慮をしているから馬鹿をみるのさ」

「私とあの人たちの間と、あなたとあの人たちの間は別ですよ。ひがむわけじゃありませんけれど、あなたが言いたいことを言ったり、したいことをして、たとえ一時は怒ったり怒られたりしたって、その場きりですみますけど、私じゃそうはゆかないんです。あたり前なことひとつ言っても、十日も廿日も不快な顔ばかりしていられたり、辛らいことを聞かされるのじゃ、やりきれませんからねえ」

「じゃ仕方がない、どうともお前のいいようにするさ」

 辻はそう言ったままプイと立って行った。

 同時に野枝の頭の中では、彼の冷淡な思いやりのなさへの怒りが、火のやうに一時に炎(も)え上がった。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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