2016年04月25日

第120回 毒口






文●ツルシカズヒコ



「お前さんも、あんまり呑気だよ。用達しに行ったとき、遊びにいったときとは違うからね。子供を他人に預けてゆきながら、いつまでもよそにお尻をすえていられたんじゃ、預かった方は大迷惑だよ。もう少し大きくなれば、どうにか誤魔化しもきくけれど、今じゃ一時だって他の者じゃ駄目なんだからね、そのつもりでいてもらわなくちゃ」

 ただ美津の不機嫌な顔を見るのが嫌なばかりに、ようやくの思いで金をもらいに行き、どうにか持って帰って、まだ座りもしない前からいきなり、そうした言葉を美津に投げつけられ、野枝は心外ともなんとも言いようのない口惜しい腹立たしい気持ちでいっぱいになった。

 一時間や二時間くらいかかるのは初めからわかりきっているのだし、場合によっては、もつと延びるくらいのことは考えてくれてもよさそうなのに……。

 こんなことなら少々不機嫌でいられても、行かなければよかったとさえ野枝は思った。

noe000_banner01.jpg


 野枝はこの上いやな言葉は聞きたくなかったので、

「どうもすみません」

 と簡単に言ったきり、子供を抱いて次の間に入った。

 美津の気持ちはいつまでたっても直らないと見えて、耳を覆いたいような毒口が後を追っかけて来た。

 とうとう野枝もたまらなくなって言った。

「あそこまで行って帰るだけだって、二時間はかかります。私だって用足しに行って、無駄な時間なんぞ呑気につぶしてやしませんよ。用の都合で一時間や二時間遅れるくらいのことは、あたり前だと思って行かなくっちゃ。用を足しに出るたびにいちいち小言を言われたり、当たられたりしちゃたまりませんわ。好きで出てるわけじゃないんですからね」

「あたり前さ、好きで出られてたまるもんかね」

 野枝はそのまま黙ってしまった。

 普段、耐えている言いたいことのありったけがこみ上げて来るのをじっと抑えて、無心に乳房に吸ひついている子供を抱きしめながら、

「もう、あんなこと言われて金なんか出すものか」

 と思い、机の上の財布に目をやった。

 その中には義母の必要を充分にする金額の三、四倍もの金が入っていた。





 先刻まではその金でどんな嫌な思いをしたにしろ、もう自分の手で自由に使うことのできる金だと思うと、強い口をきいている美津に対して、なんとなく皮肉な嘲笑を投げたくなるのだった。

「いくらでも、なんとでも言うがいい。そのくらい言えば、金をくれとはまさかに言えまい」
 
 意地の悪い野枝の考えは、それからそれへと募っていき、もう少しなんとか言いたいことを言って、この金でどこか旅行でもしてこようかしら、それとももうこのままこんな煩さい家は出てしまおうか。

 そんなことまで野枝は考えていた。

 辻は朝出かけたままで、夕飯過ぎまで帰らなかった。

 美津と野枝はふたりとも意地悪く黙りこくって、いつまでも不機嫌な顔をし合っていた。

 夜になると野枝は子供を早く寝かして、そのまま机の前に座って、四、五日も前から半ば読んでそのままになっている書物を開いた。

 座ると不思議に険しい気持が去ってゆったりと落ちついた気分になり、久しぶりでしみじみと、書物に対することができたような快さを感じた。





 夜もふけてから、辻はぼんやり帰って来た。

 美津はまだ茶の間で、彼の帰りを待っているらしかった。

 野枝は帰って来た辻の顔をちょっと見ただけで、そしらぬ顔で書物に目を落とした。

 辻はさっさと茶の間に入っていった。

「どこを歩いてたの、今時分まで」

「あちこちさ」

「それで、なんとかできたかぇ」

「駄目だ」

「それじゃ困るじゃないか、お前は本当にどうしてそうなんだろうね。あんまり意気地がなさすぎるじゃないか、たんとのお金でもないのに」

「明日どうかするよ」

「明日じゃ間に合いはしませんよ」

「じゃ仕方がないや」

「仕方がないって、それじゃ済みませんよ。だから、朝もあんなに念を押しといたんだのに、お前のように当てにならない人間はありゃしない」

「だっていくら念を押したって、間に合はないものは仕様がないや。それよりはお茶を一杯おくれよ」

「お前はそれで済ましてゆけるけれど、お母さんは困ってしまうじゃないか。お前がいつまでも、そうやって意気地なくのらくらしているから、なんだってかんだって、みんな家の中のことに順序がなくなってしまうじゃないか。お前が第一しっかりしていないから、この年になって嫁にまで馬鹿にされるのだよ。自分さえ呑気にしていれば、他人はどうでもかまわない気かもしれないけれど、そうはなかなかゆきませんよ」





 美津は今までひとりで長いこと考えためていたことを、また片っぱしから辻の前に並べようとしていた。

 だが、それはやはり今朝、散々並べたてた愚痴となんの違いもなかった。

 けれどやがて、なにをどう言っても平気な顔で聞いているのかいないのかわらないやうな辻の態度に、なんの手応えも感じなくなった美津は独り言のような調子から涙声になって黙ってしまった。

 野枝は同じ愚痴を聞きたくもないと思いながら、どうしてもそれが耳について、いったんそこに向いた注意がどうしても、書物の上に帰って来なかった。

 野枝の固く閉じた先刻の気持ちは、どこまでも開かないで遠い冷たい気持ちで次の間の話を聞いていた。

 野枝の心の奥底の方のどこかでは、いい気味だというような笑いさえ浮べているのであった。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



【このカテゴリーの最新記事】
posted by kazuhikotsurushi2 at 18:54| 本文
ファン
検索
<< 2017年02月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
index(1)
本文(433)
プロフィール
さんの画像

1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
プロフィール

美は乱調にあり――伊藤野枝と大杉栄 (岩波現代文庫)

新品価格
¥1,058から
(2017/3/4 02:04時点)

諧調は偽りなり――伊藤野枝と大杉栄(上) (岩波現代文庫)

新品価格
¥1,058から
(2017/3/4 02:09時点)

美は乱調にあり (英文版) ― Beauty in Disarray (タトルクラシックス )

中古価格
¥3,487から
(2017/3/4 02:14時点)

飾らず、偽らず、欺かず――管野須賀子と伊藤野枝

新品価格
¥2,268から
(2017/2/16 10:43時点)

自由それは私自身―評伝・伊藤野枝

中古価格
¥1,081から
(2017/2/9 02:00時点)

野枝さんをさがして―定本伊藤野枝全集 補遺・資料・解説

中古価格
¥3,913から
(2016/3/13 18:23時点)

定本 伊藤野枝全集〈第3巻〉評論・随筆・書簡2―『文明批評』以後

中古価格
¥18,616から
(2017/2/9 00:18時点)

伊藤野枝と代準介

新品価格
¥2,268から
(2016/3/13 20:05時点)

日録・大杉栄伝

新品価格
¥4,536から
(2016/3/13 20:13時点)

ルイズ 父に貰いし名は (講談社文芸文庫)

新品価格
¥1,620から
(2016/3/13 20:24時点)

地震・憲兵・火事・巡査 (岩波文庫)

新品価格
¥821から
(2016/11/5 01:11時点)

海の歌う日―大杉栄・伊藤野枝へ--ルイズより

中古価格
¥1,619から
(2016/11/5 01:26時点)

大杉榮 自由への疾走 (岩波現代文庫)

中古価格
¥2から
(2017/2/9 00:00時点)

日本的風土をはみだした男―パリの大杉栄

中古価格
¥700から
(2017/2/9 00:12時点)

動揺 [CY大正浪漫コミックス1]

新品価格
¥1,080から
(2016/3/13 18:18時点)

裁縫女子 (サイホウジョシ)

新品価格
¥1,132から
(2017/2/9 18:20時点)

「週刊SPA!」黄金伝説 1988~1995 おたくの時代を作った男

新品価格
¥1,296から
(2016/3/13 20:26時点)