2016年03月13日

第11回 湯溜池






文●ツルシカズヒコ


 一九〇九(明治四十二)年、周船寺高等小学校四年在学中の野枝は三月の卒業が間近になっていたが、野枝とクラス担任の谷先生との親交は深くなっていった。

 野枝は十四歳、谷先生は二十歳だったが、ふたりの親交は年齢差や教師と生徒という関係を超えたものになった。

 我がままで強情で小さな反抗心に満ちた不遜な生徒だった野枝は、多くの教師たちから愛想をつかされ憎まれていた。

 強情で不遜な生徒である野枝に対する非難は、受持教師である谷先生に集中した。

 職員室で不良生徒として野枝の名前が出るたびに、谷先生は辛そうに頭を下げていたが、彼女は野枝に訓戒がましいことを言ったことは一度もなかった。

 谷先生はいつも何か考えごとをしていた。

 授業中に生徒の机の周りを歩きながら、目にいっぱい涙をため、何か考えごとをしているようなこともしばしばあった。

 基督教の信仰に救いを求めたこともあったが、それも彼女を捉えることはできなかった。

 谷先生の自宅の前には溜池があり、その溜池は周囲が山になっている高台にあった。





 私は学校の帰りに、よく彼女に連れられて、其処にゆきました。

 堤に座つては、私達はよく歌ひました。

 彼女は私にいろいろ自分の好きな賛美歌などを歌はせては、黙つて何か考へながら、遠くの方を見てゐました。

『ね、本当に立派な人つて、どんな人だとあなたは思ひます?』
 
 不意に彼女は、こんな事を問ひかけて、私を困らすことが、時々ありました。

『他人から賞められる人が本当に立派な人だとは限りませんよ。賞められなくつてもいゝから、本当に立派な人になつて頂戴。決して世間の人から賞められやうなんて思つちやいけませんよ。』

 本当に、染々(しみじみ)と、私の顔を見ながら、涙をためて云ひ聞かされた事が、二三度や四五度ではきゝません。

 もし私が彼女から先生らしい言葉を受け取つたとすれば、その言葉位のものだと思ひます。

『あなたは、随分強情つぱりで、強いくせに、私と一緒のときには、どうしてそんなにをとなしいの。いけませんよ、私を見習つちや。私と一緒にゐるときには、他のときよりは倍も倍も強情を張つていゝのよ、我まゝになる方がいゝのよ、私の真似なんかしては本当にいやですよ。私は弱虫で泣き虫で、意気地なしなのよ、私のやうに弱虫になつたら生きては行けなくなりますよ。』

 思ひがけない熱心さで、よくそんなことも云つてゐました。


(「背負ひ切れぬ重荷」/『婦人公論』一九一八年四月号・第三巻第四号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

 
 谷先生と野枝がよく足を運んだ溜池は、湯溜池(現・福岡市西区周船寺)だと思われる。

 野枝が周船寺高等小学校を卒業した後も、野枝と谷先生の親交は続いた。

 しかし、野枝が女学校五年生の春に起きたある出来事によって、野枝と谷先生との交流はあっけなく終わりを迎えることになるのだった……。





 岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』には、この時期の野枝についての同級生の証言がある。

 授業中、野枝は「机の下に文学書を隠して読み耽り、教師にさされるとスラスラ答えるので級友たちはみな驚いた」という。

「あの先生ね『良人の告白』の主人公の白井さんによう似とらっしゃる」という野枝の発言も、級友たちの記憶に残っていた。

『良人の告白』は一九〇四(明治三十七)年から一九〇五(明治三十八)年にかけて、『東京毎日新聞』に断続的に連載された木下尚江の自伝的長編小説であり、若き弁護士・白井俊三が主人公である。

 男女の愛憎小説として大衆の人気を獲得したが、日露戦争への非戦というオピニオンを含んだ小説でもあった。

 単行本は上編、中編、下編、続編と発売されたが、一九一〇(明治四十三)年に発禁になった。

 岩崎呉夫は、野枝が白井俊三に似ているという「あの先生」に淡い初恋をしたのではないか、その先生はテニスやオルガンを教えてくれた先生ではないかとの推測をしている。

 とすれば「あの先生」は「嘘言と云ふことに就いての追想」に出てくる、H先生ということになるが……。

noe_ph01.jpg 一九〇九(明治四十二)年三月二十五日、野枝は周船寺高等小学校を卒業した。

『定本 伊藤野枝全集 第一巻』の口絵に卒業証書と卒業記念写真が掲載されている。

 野枝、満十四歳の写真である(前列中央)。

 掲載した写真は『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会/一九二五年)からの引用である。

 これが現存する野枝の最も年齢の若い写真ということになるのだろう。

 卒業後、今宿の谷郵便局に就職し、事務員として勤務する。

 田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』(岩波書店・二〇一六年十月二十一日・p125)によれば、今宿郵便局は現在もあり「(野枝の)育った家からわずか一〇〇メートルもない往還に沿った角地の建物」である。

 野枝の妹の武部ツタが、このころの野枝について語っている。


 ……こんなところにいるのが厭で厭で、東京へ行くことばかり考えていました。

 郵便局もこんな田舎町に勤める気ははじめからなく、熊本の逓信局の試験をうけたんです。

 学課は一番で通ったけれど、指先が不器用で、あのツツートンを打つ手先の試験がうまくいかず、おっこちたんです。

 ええまあ、手先は不器用な方だったでしょうね。

 でもきものくらいは縫えましたけどね。

 娘時代には恋愛なんて、見むきもしやしません。

 ここらの男なんかてんで頭から相手にしてやしませんでしたよ。

 そりゃあ、学校はよく出来たし、きれいな方だったし、目立つ娘で、向うから好いてきた人は何人かいましたけどね。

 とにかく、娘のころは勉強勉強で、男なんか目もくれてやしませんでした。

 気の強い方で、今じゃ私はこんなおしゃべりになりましたが若い頃はとても無口で、姉の方は思ったことを誰にでもぽんぽんいって、よくしゃべりました。

 それが大人になると、すっかり向うは無口になりました。


(瀬戸内晴美『美は乱調にあり』)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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