2016年04月24日

第115回 ヂョン公






文●ツルシカズヒコ



 辻一家が上駒込から小石川区竹早町に引っ越したのは、一九一四(大正三)年の夏だった。

 野上弥生子「小さい兄弟」では、時間軸が一九一五(大正四)年に設定されているが、この辻一家の引っ越しについての描写もある。

「いやだな、野枝さん。なぜ引っ越さなきゃいけないの?」

 素一は、隣りの若い叔母さんである、野枝の顔を見るたびに、そう言って不平を鳴らした。


 いよ/\引越の日になるとN子さんの家の裏口ーー即ち友一から云へば、彼の家の広い前庭ーーに一台の荷馬車が這入つて来たり……雑多な家具調度が、家の外に運び出されて、縄で梱られたり、筵で包まれたりする物珍らしい光景が現はれました。

 ヂョンは興奮した態度で、異様な諸道具の積み重なりの間を駆け廻り、嗅ぎ廻り、検査して騒ぎました。

 運ばれる荷物を待つて木の下に繋がれてゐた荷馬車の馬に対しては、殊に示威的に吠えました。

 栗毛色の尻つ尾がその大きな身体から独立した生き物ででもあるかの如く、長い毛の房を振つて動く度に、一層勢ひ立つて吠えました。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』・岩波書店・一九八〇年/※以下、引用同)

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 荷物の片付けがすんで、人々が別れの挨拶に来るようになると、素一は感傷的になってきた。

 ヂョンは引っ越しの最後のものだった。


 N子さんの良人のTさんが、何んにも知らず、気楽らしく植込の下に寝転んでゐたヂョンを引つ張つて来ました。

「とても結(いは)かなくちや駄目ですね。」

 Tさんは斯う云つて用意してゐた綱を出して、それをヂョンの頸環に結びつけました。

「ぢゃ、左様なら。」

 終(つい)に別れの言葉が行く人と留まる人々の間に取り交わされました。

 けれどもヂョンは動かうともしませんでした。

 頸環に綱をつけられるまで、何の気もなくのんきにしてゐた彼も、今その綱を持つて強制的に自分を引き立てようとする主人を見ては……彼は綱の引く力に抵抗するため、後半身と後足に有りつたけの力を籠め、踏み反らした前足の間に頭を落しながら、主人を見上げて啼きました。

 その灰色のつぶらな目には、主人の異様な振舞に対する訴と哀求がありました。

「行くんだ、行くんだ! さあ確(しつ)かりしないか。」

 Tさんが斯う云つても、その言葉を解する能力のない不幸な家畜はただ悶えて啼きました。

 而(そ)してどうにかして免かれようとしたにも拘らず、矢張り引きずられて行きました。

 人々は庭に立つてそれを見送つてしまふと、落胆(がつかり)したやうにぞろ/\家へ入りました。

 ……友一の目には涙がありました。






 野上家では以前、ミナという純血のスコッチ・コリーを飼っていたことがあったが、弥生子によればミナの凛々しい外貌とヂョンのそれとは、天才と凡庸との差があったという。


 公平に云ふとヂョンは、寧ろ普通以下の見すぼらしい犬なのであります。

 身体も余り大きくはなく、彼の唯一の上衣なる毛皮は、頭と、脊中の一部と、左足の上の方に広い黒斑(くろぶち)を有つた白地でありました。

 それも床の下などの柔かい土の中に寝転ぶため、白さが決して純白に保たれないで、いつも汚れ滲んでゐるのも、彼をして一層貧乏臭く見えさせました。

 素直で、温順であるだけは何よりの取り得ではあつたが、それ以外には大した特長も見栄えもない犬で、若し何等の関係もなくそれを路傍で見たならば、きつと穢ならしい耄ぼれ犬として冷やかに看過されたかも知れませんでした。






 野上豊一郎、弥生子夫妻は、ヂョンなんかより「いい犬」をまた飼いましょうよと言って、「友一」こと素一の落胆を和らげようとした。

 素一もミナの朧げな記憶が甦り、ヂョンへの哀惜が徐々に薄らいで来た。

 それから一時間ほど経ち、野上家の面々はヂョンのことなどほとんど忘れかけ、それぞれの日常に戻っていた、そのときだった。

 前庭の方から不意に聞き慣れた犬の吠え声が聞こえた。

「おや、ヂョン公じゃないか?」

 弥生子がこう言った瞬間、素一は廊下に飛び出していた。

「ヂョン公だ! ヂョン公だ! お母様、ヂョン公が帰って来ましたよ!」





 彼は特別に犬の方へ呼びかける必要はありませんでした。

 ヂョンは彼の姿を見、彼の声を耳にすると同時に真つしぐらに駆けて来ましたから。

 飛びつく。

 吠える。

 嘗め廻す。

 かと思うと、ぢつとしてゐられないかのやうに滅茶苦茶に廊下の前を駆け廻る。

 鼻を鳴らす。

 耳をぴったり伏せて、千切れる程尻尾を振る。

 ーー言葉を知らないから、たゞ自分に出来得る限りの、表情と身振と声のあらゆる方法で、再び彼等を見た嬉しさを表はさうとする家畜の心持は、其処へ駆け寄つた人たちに、深い感動を起こさせないではすみませんでした。

 人々はみんな涙ぐましい心になつて彼の泥だらけの手を取つたり、頭を撫ぜたりして悦びました。

 頸環にはTさんが引つ張つて行く時に結びつけた綱が、そのまゝ五六寸ほどちぎれたまゝ残つてゐました。






 ヂョンは綱を引きちぎって来たのである。

 弥生子は子供の失望を紛らわすためとはいえ、昔の飼い犬まで引き合いに出して、彼を貶めたことを恥じた。


「ヂョン公! ヂョン公!」

 彼女は茶箪笥の抽斗から煎餅の袋を出して、自分でそれを投げてやり、子供達にも投げさせました。

 掌に近づいて来る彼の灰色の眼には、一点の遅疑も曇もありませんでした。

 彼女はその善良な瞳の前に恥ぢました。

「大事にしてあげなさいよ。折角帰つて来たんですもの。可愛いぢやありませんか。ね、いゝヂョン公」

 彼女は今度は一生懸命で彼を褒める人になりました。

 友一は又友一で己惚れていゐました。

「ヂョン公は僕の友達だもの。Tさんなんかについて行きやしないや。」



 ヂョンが帰って来たので預かっていますから、心配しないで下さいというハガキを、野上豊一郎が辻に宛てて書いた。

 そして、脅かしてもすかしてもヂョンはついて来ることを嫌がり、白山下まで来たとき、綱を噛み切って逃げてしまったので、野上家へ帰っていたら当分お世話をお願いしたいという、辻の手紙が野上家に届いた。





 しかし、ヂョンの愛情が野枝の家より野上の家に厚かったわけではなさそうだった。


 何故なれば、彼は友一の家に纏はると同様の親しみと忠実を以つて、空家になつた元の家を守つてゐましたから。

 彼は……のんきな様子をして寝転んでゐました。

 家の人たちが遊びにでも出掛けた一時の留守を預かつて居るかのやうに。

「ヂョンには、つまり、人間のする引越と云ふものが呑み込めなかつたのですわねぇ。」

 曽代子達は一つぱしをかしい事のやうに云つてそれを笑ひましたが……笑つてばかりはすまされない或る事を考へさせられました。






 弥生子は野枝たちが道楽で引っ越したのではないことを、知っていた。


 ……犬には自由があり、その天賦の能力たる吠えること、主家を忠実に守る事に依つて、善き飼主から酬いられる糧は豊かであり彼等の小屋の藁の床は暖かであります。

 けれども、現代の多くの生活ーーことに精神的の仕事に生きようとする或る一部の人々の生活には……犬の有つほどの安定があるであらうか。

 彼等は自分の天賦と信ずる仕事を専念にしたと云つても、それからは何等物質的の酬いも待ち設けられないでありませう。

 犬が門を守る代りに鼠を捕らされる様な、不自然な、苦しい労力を費してさへ、家畜の得るだけの容易い糧は得られず、彼等の有つ程の快い家は死ぬまで有たされないのでした。

 ……強欲な家主の建てた小屋から小屋を渡り歩かなければならない、知識的な労働者の群! 

 彼等は或点に於いて犬よりも悲惨であります。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 20:30| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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