2016年04月24日

第114回 三角山






文●ツルシカズヒコ



 辻と野枝が北豊島郡巣鴨町上駒込三二九番地から小石川区竹早町八二番地に引っ越し、辻の母・美津、辻の妹・恒(つね)と同居を始めたのは、一九一四(大正三)年の夏だった。

 上駒込に住んでいた当時の野枝と野上弥生子の親交については、野枝は「雑音」その他で書いているし、弥生子も野枝を主人公にした小説「彼女」を書いている。

 弥生子は「小さい兄弟」という小説も書いていて、その中にも隣人である野枝と辻について、あるいは野枝の家の飼い犬「ヂョン」についての言及があり、そして野上家と辻家があった「染井」についての当時の風景描写などもあるので、「小さい兄弟」の中から紹介してみたい。

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「小さい兄弟」の初出は、『読売新聞』一九一六(大正五)年一月一日から三月十七日まで六十二回にわたり連載された「二人の小さいヴアガボンド」であるが、単行本収録時に「小さい兄弟」に改題された。

「小さい兄弟」の時間軸は一九一五(大正四)年に設定されているが、実際には野枝たちはすでに前年、染井から小石川区竹早町に引っ越していた。

 この小説の中の「曽代子(そよこ)」が弥生子、「友(とも)一」が長男・素一、「邦夫」が次男・茂吉郎である。

 野上家の女中の「きみ」の実家は野上家の近所にあり、実家の家業は植木屋だが、当時の染井には植木職人が多く住んでいたという土地柄が、こんなところにも反影されている。

 染井の一帯が新興住宅街になりつつあった状況を、弥生子はこう書いている。


 今までは大概植木屋ばかりで、その他は土地が高くなるにつれて、透いた植木畑の一部から幾らかでもいゝ金を得ようとして彼等が急拵(こしら)へに建てた長屋、青い木立などに囲まれた一寸した小家、斯う言ふ家並の……。

(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』・岩波書店・一九八〇年/※以下、引用同)





 近所には通称「三角山」と呼ばれている小さな森があったという。


 ……その森は、都市の膨張に連れて漸次に破壊されつゝある郊外の自然と、都市化と云ふその暴力に依つて痛ましく傷つけられた畸形な風物を想像させる一例でありました。


 三角山の森は一辺は郊外電車の堀割に沿っていて、一辺は墓地に通じる大通りに面し、最も短い一辺は市街電車の方へ行くのに、堀割の橋を越えないで行く近道に面している、不等辺三角形をしていた。


 そんな事情から、昔の暗い重々しい森林の威力は失はれて了つたが、木立が浅くなつたと共に日光が明かに照り通し、下草も青々と陽気な緑色に萌え拡がつて、明快な、小公園の風致を備えてゐました。

 実際にその稜形の森一つに依つて、其一端から穏やかな斜面になつた堀割の土手、それにかゝつてゐる白く塗つた鉄橋、其向側の路に続くI男爵の別邸の長い長い代赭色(たいしゃいろ)の煉瓦塀、これ等の対照は、その郊外の玄関をどれ程絵画的にしてゐるか分りませんでした。



 三角山の森は付近の住民からいろいろの意味で親しまれたが、夏期には日射しを遮る木陰を慕って子守りが乳母車を押して来たという。

 当連載101回」に、野枝が夏、森の中で「エマ・ゴールドマン小伝」を読み耽るシーンがあるが、この森は「三角山の森」だと推測できる。





 三角山の森は格好の子供たちの遊び場でもあり、弥生子の長男・素一も近所の悪童連とよくそこで遊んだ。


 ……森の楽隊なる蝉の盛んな根気のよい合奏の下で、有らゆる競技が始まります。

 其昆虫狩りは元よりとして、木登り、深い夏草の上での角力、斜面を芋虫のやうにころ/\下まで転がり落ちる競争、または奥の方の一段根深い叢から、大きな青大将を突つき出して、寄つてたかつて叩き殺した上、下を走る電車目がけて投げつける程の悪戯もしました。



 弥生子は自分の家と野枝の家との位置関係を、こう書いている。


 ……家は通りからずつと奥に引つ込んでゐて、玄関から表門に達するまでには、花崗岩(みかげ)の長方形の敷石の四十枚以上を数えなければなりませんでした。

 ……宏壮な邸宅のやうに思はれますが、事実は大違ひであります。

 その敷石はそれに沿うて建つてゐる三軒の家と共同の通路であり、その門さへ……姓名一つのみを掲げて置く自由のない一種の共同門でありました。

 ……同じ構内の家の一つに……友達でN子さんと呼ぶ人の一家が住まつてゐました。

 ヂョンは……その家の飼犬なのでした。


 素一とジョンはすぐに親友になり、敷石と門とが共通であるように、いつの間にかジョンは野上家と辻家の両家のペットになった。





「ヂョン公! ヂョン公! ヂョン公!」

 斯う呼ばれて、彼は両家族の間をあちこち駆け廻りました。

 殊に……友一は、この動物のために幾らその生活を豊富にされたか分りませんでした。

「ヂョンヂョ公! ヂョンヂョ公! ヂョンヂョ公!」

 彼は戯れにこんな呼び方をしてをかしがりました。

 どう呼ばれようと、彼の声が庭の方に聞こえさへすれば、ヂョンは何処からでもすぐと駆けつけ、敬畏と親愛のしるしとして手をペラ/\嘗めたり、はしゃいだ元気のいゝ吠え方をして、友一の周囲を二三遍飛び廻つたりしました。

 時に依るとジョンは後足だけで立つて、頬まで嘗めずりました。

 縁側に坐つてからかつてゐる時などは、踏石に坐つてゐる犬の頭が、丁度彼の顔を嘗めるに都合のよい位置になるのでした。

「ほら御覧なさいまし。今朝ほどお顔を洗はなかつたから、ヂョン公に嘗められたので御座いますよ。」

 時々顔を洗ふ事を面倒がつてきみを手古ずらせる悪い癖を、それに結びつけて彼女から冷やかされると、友一は非常に自尊心を傷つけられる気がしました。

「僕洗つたよ。きみやが行つちまつてから洗つたんぢやないか。」

 彼はこんな嘘を反抗的にわざと威張つてつきましたが、でも小さい心の中では真面目にその批評を訝(いぶ)かりました。

「今朝顔を洗はなかつたのを、どうしてヂョン公が知つてるのだらう?」



※野上弥生子「三人の子供は皆学者」

●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:03| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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