2016年04月20日

第104回 サアカスティック






文●ツルシカズヒコ


 一九一三(大正二)年の秋が深まるにつれ、野上弥生子と野枝の親交も深まりを増していった。

 野枝はこう記している。


 その頃、私と野上彌生子さんは疎(まばら)な生籬(いけがき)を一重隔てた隣合はせに住んでゐた。

 彌生子さんはソニヤ、コヴアレフスキイの自伝を訳してゐる最中であつた。

 私達二人は彌生子さんの日当りのいゝ書斎で、又は垣根をへだてゝ朝夕の散歩の道でよく種々なことについて話しあつた。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』一九一六年/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)

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 野枝は特に弥生子のソニアについての感想を楽しみに聞いた。

「ソニアとケイなんかいくつも違いはないのね。エンマ・ゴルドマンだってそうでしょう。ストックホルムにシャロット、レフラアとソニアが仲よく暮らしていたときに、ケイもやはりそこにいたんですね。ストリンドベルヒもそうです。ストリンドベルヒが何かの席上で数学をやる女なんか、女じゃないというようなことを言ったのについて、ソニアがレフラアに宛てて書いた手紙なんか面白いわ」

 弥生子は熱心に自分で調べた年齢を数字に書いて、野枝に見せたりした。

 ふたりは垣根越しに夢中になって、毎日のようにいろいろなことを話し合った。

「勉強しなきゃね。私は本当にあんまり駆け出し方が早いので、自分ながらいやで仕方がないんです。ケイなんか、五十過ぎで初めて書き出したんですものね。やはり向こうの人は偉いのね。日本じゃ五十だと、死ぬのを待っているような人が多いんですものね。私は本当にそうなりたくないわ。いつまでも勉強して進んで行きたいわ。段々に年をとってゆくにつれて、自分の子供たちにどんどん残されていくようなことには、なりたくないわね」

「ええ、勉強を忘れさえしなければねえ。とにかく私たちは一番勉強しやすい位置にいるんですもの、朝も晩も自分の体近くに書物がとり散らかっているのに読まないのは嘘よ。とにかく、子供の話相手にもなってやれないというのは悲しいことだわね、そうは思わない?」

「そうですとも。私たちが私たちの親とか周囲の人たちに向かって持つような、嫌な心持ちを子供に再び繰り返させようとは思いませんわ」





 ときおり、らいてうのことも話題になった。

「平塚さんのそばにはなぜ、あまり人がいつかないんでしょうね。それに大変悪く言われなさるのね」

「ええ、私もそれは不思議だと思っていますのよ。あんないい方なんですのにね」

「他人に向かって傲慢だなんてところはないんですかね」

「傲慢だなんてよく言われてなさるんですけど、そうでもないようですよ。かなり私なんかには明けっ放しですよ。なんでもよくお話なさいますし、親切ですしね」

「そう、つまりあの方は大変聡明なのね。でも、私はあの方にもう少しシンセリテイなところがあればいいと思いますよ。大変デリケートだし、聡明ではあるんだけれど、あの方自身に対してもう少し謙遜であってほしいような気がしますよ」





 野枝は弥生子に励まされては、努めて書物を読んだり考えたりした。

 ふたりは会うたびに、めったに無駄話はしなかった。

 読んだ本の話、感想というようなことばかりを話し合った。

「あなたは告白ということをどんなふうに思って? 私は告白する人はそれをやっていまえばなんでもない清々しい気持ちになるけれど、それを聞かされた方の人はたまらないと思うわ。たとえば、ウォーレン夫人とヴィヴィがそうでしょう。二十幾年かを包み隠してきた夫人が、その生涯を告白し終わってから“ああ、いい気持ちだ”っていうでしょう。するとヴィヴィが“こんどは眠られないのは私らしい”って言うわね。あの気持ちがそうだと思うわ」

「それはそうね。隠しておくということは、無理をしていることですものね。不安や恐怖や不快を忍んで無理をしていたのに、それを打ち捨ててしまうのだから、これほど重荷の下りることはないでしょうね」

「『春のめざめ』を読んで?」

「ええ、すっかり。ありがとう、大変面白かってよ」

 フランク・ヴェーデキントの戯曲『春のめざめ』は、弥生子の夫、野上豊一郎がこのころ翻訳していたようなので、弥生子も読み、弥生子は野枝に貸したのであろう。

「あなたは、どう思って?」

「大人の嘘がどんなに残忍なものかということを考えて恐ろしくなりましたよ」

「だけどもしウエンドラのお母さんの立場にあなたがなったとして、子供から質問されたときに、立派にそれを説明することができる?」

「そのところが非常に難しいところだと思うわ。やはり子供自身が気づくまではそのままにしておいた方がいいような気もしますけれど、とにかく考えなければならない問題です。何かでこんなことを書いてあったのを見たことがあるんです。小さい娘を持った母親がね、下婢だかが子供を生んだので、どうして生まれたかという質問をされたんです。母親は何かの花を顕微鏡で見せて雌雄の説明をし、植物の種子播布も動物の種族保存も同一だということを話したというようなことが書いてありました。そういうふうに科学的な立場から説明してやるのは大変いいことだと思うんですが、やはり立派な基礎知識がなくてはできないことですね」

「そうね、それは大変いいことね。たくさんの人たちがそういう態度をもってすることができればいいわね」

 ふたりは熱心にそういう話をした。

「私はサアカスティックだなんて言われるんだけれど、このごろはよくしゃべるようになったわ。私は一時は本当に暗かったのよ。人間というものが本当に嫌いになったことがあるの。それが少しずつよくなってきたわ」

 弥生子は野枝に親しい笑顔を向けて、いつまでもいつまでも倦まずに話した。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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