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2016年04月20日

第103回 少数と多数






文●ツルシカズヒコ


 一九一三(大正二)年、秋。

 野上弥生子にとって野枝は最も親しい友達になっていた。

 九月初旬、二番目の子供を出産するために駒込の病院に入院した弥生子は、二週間目に新たな小さい男の子を抱いて帰宅し、下婢から裏の家にも出産があったことを知らされた。

 弥生子が子供にお湯などを使わせていると、裏の方からも高い威勢のいい泣き声が聞こえた来た。

「赤さんが泣いているわね、やっぱし男の子かしら」

「さあ、どうでございましょう。あの泣き声で見るとお嬢さんらしくもございませんですねぇ」

「大変だろうねぇ、初めてだのに。あのお若さではね」


 伸子は子供の泣き声を聞く度に、自分と同じ任務のために、夜も眠らず、自分のあらゆる自由と欲望を犠牲にして世話をしてゐる若い母親が、其処にも一人ゐのだと云ふ事を痛切に感じました。

 その結婚が普通の順序を取つてゐない事、それから来るすべての不便を知る故に、且つは自分の初産当時はどんなに無経験であつたか、それがためにどんなに狼狽(うろた)へ苦しんだかを知る故に、伸子が垣根一重のこちらから彼女の事を思ふ時には、それはすべて、自然の同情となりました。

 早く赤ん坊を見度ひやうな気もしてゐました。


(「彼女」/『中央公論』一九一七年二月号/『野上弥生子全集 第三巻』・岩波書店・一九八〇年)

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 野枝はある日、男の赤ん坊を抱いて弥生子を訪ねてきた。

「まあ、大きな目!」

 弥生子はひと目見て、そう思った。

「この赤さんはまたなんて大きいんでしょう」

 ふたりは子供を取っ替えっこして抱いてみたり、名前を聞き合ったり、両方の顔の特徴を批評したりして笑った。

 弥生子の子供は大きさと重さでは優っていたが、顔立ちは野枝の子供の方が整って可愛かった。

「これで肝(かん)が強くて困るんですよ。何か気に入らないで泣き始めようものなら、どうしたって止めやしないのです」

「お父様似なんでしょうね」

 弥生子は青い、神経質そうな顔をした野枝の同棲者の顔を思い浮かべた。

「おっ母さんなんか、そう言いますよ。そっくりだって」

 野枝の家には姑と小姑が同居していた。

 野枝は同棲者のことを語るとき、それまでの「先生」から「夫」を用いるようになった。

 ある日、野枝は髪を丸髷に結ってやってきた。

 彼女によく似合っていた。

 束髪だと背中の赤ん坊との釣り合いが、子守り娘以上に見えないくらい子供子供した野枝だったが、髷に結った彼女には母親らしい威厳と美があった。

「おっ母さんですよ」

 玄人も及ばないようなその髷が、野枝の姑の手によるものであることを知った弥生子は驚いた。

 弥生子の家族と野枝の家族は、お互い逢えば言葉を交わす仲になっていった。

 弥生子は野枝の姑一家が、江戸文化末期の爛熟した雰囲気の中から生まれた、いわゆる都会人なるものの好典型であることを知るようになった。





 お母さんが弾くのだと云ふ三味線は、植木屋や小役人の家の多い郊外のそこいらの空気の中で響くべき種類のものではなさそうでありました。

 ぢつと聞いてゐますとそんな貧しげな小さい家で奏されてゐる音楽のやうではありませんでした。

 それ程それは熟練しきつた立派な芸術でありました。

 その三味線が鳴り始めると、伸子はペンを置いたり、書物をよみさしたまゝにしたりして遠くから耳をすましました。

 老女の声は朗々と若やかに響きました。

 その瞬間の音楽は単に勧進帳や老松ではない。

 再び返つて来ぬ過去の美と若さと、栄華と夢を恋ひ、思ひ、悲しむ彼女自身の「幻想曲」であるかの如く感じられました。

 Oさんーーにも亦母親に劣らない音楽がありました。

 それはよく聞こえてゐたあの尺八であります。

 たま/\その二つのものが合奏される時などは、椎の木の下のその小さい家は、零落や窮乏や、すべての物質的苦悩を忘却し去つて、近所のどの家にもない、派手/\しい自由な享楽に充されて見えました。


(同上)


「O」は辻のことである。

「風変わりな面白い家ですわねぇ」

 弥生子の家では、よくこんな好意的な批評をしていた。





『青鞜』十月号(第三巻十号)で、らいてうは「青鞜社概則」を改正した。

 まず、第一条の「本社は女流文学の発達を計り」を「本社は女子の覚醒を促し」に変えた。

 男子「客員」や「賛助員」(女流文学者)もなくし、組織を改編整理することにより、女性解放路線での同志的結束を打ち出した。

『青鞜』の発行と発売を委託していた東雲堂との関係も、『青鞜』十月号(第三巻十号)を最後に切れた。

 東雲堂への委託により最盛期三千部の部数を誇っていた『青鞜』は、保持の提案で編集費の値上げを東雲堂に要求したが、一蹴されてしまった。


 荒木郁子のツテで神田区南神保町の尚文堂に一任することになったが、売り上げ部数は減少に転じていった。

『青鞜』十一月号(第三巻十一号)に、野枝はエマ・ゴールドマン「少数と多数」を訳載した。


 私は現代の傾向を要約して「量(コンティティ)」であると云ひたい。

 群衆と群集精神とは随所にはびこつて「質(クオリティ)」を破壊しつつある。

 今や私どもの全生活――生産、政治、教育――は全く数と量との上に置かれてゐる。

 且て自己の作品の完全と質とにプライドを持つてゐた労働者は自己に対しては無価値に一般人類にとつては有害な多額の物品を徒(いたずら)に産出する無能の自働機械に変つてしまつた。

 かくして「量」は人生の慰藉と平和とを助くるに反し、唯だ人間の重荷を増加した。


(「少数と多数」/『青鞜』一九一三年十一月号・第三巻第十一号/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)


 原文は以下。


 If I were to give a summary of the tendency of our times, I would say, Quantity.

 The multitude, the mass spirit, dominates everywhere, destroying quality.

  Our entire life -production, politics, and education - rests on quantity, on numbers.

 The worker who once took pride in the thoroughness and quality of his work, has been replaced by brainless, incompetent automatons, who turn out enormous quantities of things, valueless to themselves, and generally injurious to the rest of mankind.

 Thus quantity, instead of adding to life's comforts and peace, has merely increased man's burden.


(「Minorities versus Majorities」/Emma Goldman『Anarchism and Other Essays』)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 12:37| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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