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2016年03月10日

第7回 長崎(一)








文●ツルシカズヒコ





国勢調査以前の日本の人口統計」によれば、一九〇八(明治四十一)年末の日本の都市人口の上位五都市は以下である。


 ●東京市 1,488,245人

 ●大阪市 1,226,647人

 ●京都市  442,462人

 ●横浜市  394,303人

 ●神戸市  378,197人

 
 九州の上位五都市は以下である。


 ●長崎市  176,480人

 ●佐世保市  93,051人

 ●福岡市   82,106人

 ●鹿児島市  63,640人

 ●熊本市   61,233人

 
 当時、長崎が九州随一の都会だったことがわかる。

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 神近市子が、郷里、長崎県北松浦郡佐々(さざ)村(現・北松浦郡佐々町)から長崎市の活水女学校に入学するために、長崎市にやってきたのは一九〇四(明治三十七)年だった。

 後に神近と野枝の間にはただならぬ因縁が生じることになるが、このとき十六歳の神近は、生まれて初めて見る長崎市内のにぎわいに歓喜して、「ああ、長崎」と叫びたいような興奮にかられたという。


 異国情緒たっぷりの町並みにはいっていくと、お祭りのような人の波が押し寄せる。

 都会の繁栄とはこれほどめざましいものかと、私は何度も溜息をついた。

「随一の大都会にして、電信電話の線、蜘蛛の巣を張りたるごとし」

 小学校の地理の教科書では、町の賑やかさを教えるのにこれがきまり文句であった。

 私は、先生がそのくだりを読みあげるたびに、一瞬都会の目まぐるしさを想像して、からだを緊張させたものだった。

 ところが、いま私の頭上にはその文章のとおり無数の電線が交錯している。

 私は夢を見ているような心地がした。


(『神近市子自伝 わが愛わが闘い』_p62~63)


 野枝の長崎滞在は八か月(一九〇八年四月〜同年十一月)ほどだったが、このとき二十歳の神近は活水女学校中等科二年生〜三年生(活水女学校は九月入学制)である。

 ふたりは長崎市内のどこかで、すれ違っていたかもしれない。

 



 当時の代一家は代準介が四十歳、代キチが三十二歳、代千代子が十五歳。

 千代子は野枝より二歳年長だが、野枝は早生まれなので学年では千代子は野枝の一学年上である。

 千代子は当時、長崎市内の女学校の二年生だった。

 女学校名は不明。

 親分肌の代準介は天下国家を論じ、友人知己、商売上の来客も多く、代家も時代感覚に敏感な活気のある家だっただろう。

 裕福な代家には新聞、雑誌の類いが豊富にあった。

 野枝は千代子の蔵書を読みあさり、街の本屋で立ち読みもしたことだろう。


 そこにはつばを飲みこむほどの雑誌や書籍がならんでいた。

 年よりませた野枝のことだから……女学生むけの雑誌などに手をだしたにちがいない。

 本屋の棚にはおそらく『女学世界』(一九〇一年刊)、『女子文芸』(一九〇六年刊)などが並んでいた。

 これらの雑誌は当時の少女たちに「投稿」をさそっており、それは野枝に対してどれほど心はずむ未知の世界をかい間みせてくれたことだろう。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p28)





『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』「伊藤野枝年表」(p5)によれば、野枝は「この頃から文学を好んでゐたが、十二三歳頃からしきりに少女雑誌文芸雑誌等へ作文和歌等を投書して、数回賞品を貰つた事もある」という。

 野枝自身は当時のことをこう書いている。


 ……小さいうちからいろいろな冷たい人の手から手にうつされて違つた風習と各々の人の異つた方針に教育された私はいろ/\な事から自我の強い子でした。

 そして無意識ながらも習俗に対する反抗の念は十二三才位からめぐくんでゐたので御座います。

 私は生まれた家にも両親にも兄妹にも親しむ事の出来ない妙に偏つた感情を持つてゐるのです。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・第3巻第8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p174/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p33)


 後に野枝はコンベンショナル(因習的)なものと闘う「新しい女」の看板を掲げることになり、その視点を強調した屈折した書き方をしているが、自分の人生を切り拓いていく上で、家族など何の頼りにもならいないという認識はこの時点ですでに明確になっていたのは事実だっただろう。





 野枝より二歳下の妹・武部ツタは、女姉妹同士ということもあり、子供のころから野枝とは隠し隔てのない仲だった。

 瀬戸内晴美(寂聴)『美は乱調にあり』のツタの発言は、歯切れのよいカラッとした辛口発言がいい味を出しているが、野枝の長崎時代についても一刀両断にこう断言している。


 姉が長崎の叔母の家へいったのも、ただ自分が勉強したいからで、うちより叔母の家の方が勉強するのに都合のいい環境だったからでしょう。

 叔父や叔母にいじめられたみたいなことを書いているのはまったく、でたらめですよ。

 叔母のところでだって、お千代さん同様、ずいぶん我まま勝手にしていたようです。


(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」/『文藝春秋』1965年4月号〜12月号/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・文藝春秋/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・角川文庫/『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』・新潮社/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p36・岩波現代文庫)


 ツタによれば、野枝は子供のころから自分のことしか考えず、自分さえ勉強ができればよく、母親が困ろうが兄や弟や妹が泣こうが平気で、嫌いなことは一切せず、同じ年ごろの子どもと遊ぶというようなことも嫌いで、いつもひとりで何かしているような子供だった。

 おかげでツタは損な役目ばかり引き受けさせられた。

 物心ついたころには、父が家に寄りつかず、母が近所の畑仕事や賃仕事をして子供を養っていたので、ツタは子供のときから母を何とか助けようとしたが、野枝は一向に知らん顔をしていた。

 成人してからもなんの親孝行もしていない母にさんざん迷惑をかけ通した野枝は、得な性分の人で、野枝が生きてる間じゅう迷惑のかけられ通しだったという。




★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(文藝春秋・1966年3月1日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(角川文庫・1969年8月20日)

★『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』(新潮社・2002年1月10日)

★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 20:52| 本文

2016年03月09日

第6回 代準介






文●ツルシカズヒコ




「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p506)によれば、一九〇八(明治四十一)年三月、周船寺高等小学校三年修了後、野枝は長崎に住む(長崎市大村町二十一番地)叔母・代キチのもとへ行き、四月、西山女児高等小学校四年に転入学した。

 野枝、十三歳の春である。

 代キチは野枝の父・亀吉の三人の妹の末妹だが、妹の中で一番のしっかり者だった。

 キチの夫・代準介(一八六八〜一九四六)は実業家として財をなし、代一家は裕福な暮らしをしていた。

 代準介の先妻・モト子(一八七〇〜一九〇五)は一粒種の長女・千代子(一八九三〜一九二六)を生んだが、千代子が十二歳のときに病死した。

 代準介と野枝の父・亀吉は幼なじみであり、その縁で野枝が長崎に来る二年前に、キチが代準介の後添えに入ったのである。

 岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(p62)と井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p24~25)は、野枝が長崎に来た時期を一九〇四(明治三十七)年秋としているが、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p37)は代準介がキチと再婚した時期などの状況から判断し、一九〇八年春が「正しいと考える」と指摘している。

 矢野寛治の妻・千佳子は代準介の曽孫にあたり、『伊藤野枝と代準介』は代家に伝わる代準介の自伝『牟田乃落穂』のデータを駆使して書かれている。

 野枝が代一家のもとに身を寄せることになったのは、叔母・キチの采配だった。


 ノエの叔母であるキチは、実家の困窮を常に気にかけており、夫・代準介にノエの扶養を願い出ている。

 代も長女・千代子(先妻・モト子との間の子)が一人娘ゆえに、ほぼ一歳違いのノエを姉妹同様に育てることに同意する。

 この頃、父・亀吉は家を捨て、懇ろの女性と行く方をくらましていた。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p30~31)

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 野枝のその後の人生において、叔父・代準介はキーになる人物のひとりである。

 代準介とはいかなる人物だったのか。

『伊藤野枝と代準介』(p222~228)に収録されている「代準介・年譜」を、野枝が長崎に来る前年までたどってみる。


●1868年(慶応4年・明治元年)
福岡県糸島郡太郎丸村で生まれる。

●1880年(明治13年)12歳
周船寺(すせんじ)高等小学校卒業。父が長崎に出たので、家業を継ぎ、日用雑貨業および穀物買入業を営む。同時に貸本業も営む。

●1887年(明治20年)19歳
九州鉄道株式会社社員に推挙。

●1888年(明治21年)20歳
市町村制度実施となり、太郎丸村一帯の村役場収入役に当選する。

●1890年(明治23年)22歳
収入役を辞任。実業家に転じるべく父のいる長崎へ。高島炭鉱小曽根商店に入る。

●1891年(明治24年)23歳
貿易商で廻漕業の相良商店の娘モトを妻に迎え、妻の実家の家業を手伝う。

●1894年(明治27年)26歳
日清戦争開戦により、海軍から旗艦松島・厳島・橋立の三艦の酒保用達を命じられる。

●1895年(明治28年)27歳
相良商店を離れ、独立する。海軍の仕事を第一として事業を発展させていく。

●1898年(明治31年)30歳
ロシア艦隊ウスリー号、平戸生月島に座礁。これを三萬円(現価格およそ4億5千万円)で買収。ウスリー号引き揚げ途中で売却。

●1900年(明治33年)32歳
三菱長崎造船所の用達となる。木材納入と古鉄の払い下げを引き受ける。

●1901年(明治34年)33歳
以降、三菱からの仕事が殺到する。事業順調にして、長崎一流人とのサロンを作る。茶道に熱中し書画骨董を蒐集する。

●1904年(明治37年)36歳
木材納入のため、全九州はもとより、四国、大阪、名古屋、北海道を視察。

●1905年(明治38年)37歳
三菱におもに槻(けやき)を納入する。

●1907年(明治40年)39歳
上京して宮崎滔天の取り次ぎで頭山満を訪ねる(初対面)。長崎東洋日の出新聞社社主・鈴木天眼、主筆・西郷四郎の選挙運動をして衆議院議員に当選させる。





 地方都市の叩き上げの実業家である。

 人脈があり機を見るに敏だったのだろう。

 海軍と三菱財閥との太いパイプによって、日清日露戦争をうまくビジネスにつなげ財を成した。

 政治やジャーナリズムにも一家言のある親分肌の国士風実業家だった。

『伊藤野枝と代準介』によれば、「代商店」は三菱長崎造船所の御用達として木材の納入をおもな商いとし、代準介は「代商店」の社長として良材を求めて日本全国を奔走していた。

『牟田乃落穂』によれば、代準介は鈴木天眼の選挙運動の際、「予、選挙事務長となり、社員三、四十名、草履がけにて運動に従事せしめ」(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p45)とあるので、「代商店」の従業員は三、四十人ぐらいだったようだ。

 三菱長崎造船所は一九〇八年に世界最高クラスの豪華客船「天洋丸」を造る技術を備えた、東洋最大の民間造船所となっていた。

 玄洋社の総帥・頭山満は代の遠縁にあたり、代は頭山を一族の英傑として幼き日より霊峰富士の高嶺を仰ぎ見るように、畏怖畏敬、憧れを抱いていた。

 頭山に面会した代は頭山の大アジア主義に共感した。

 頭山の謦咳に触れ、お金や書画骨董、茶会だけの生き方を恥じた。

 代は有為の子弟の育英も実践していて、多くの不遇であるが有為の子弟の学費の援助をしている。




★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:30| 本文

第5回 能古島(のこのしま)






文●ツルシカズヒコ



 伊藤家は窮乏を極めていたが、野枝はいじけず伸び伸びと育った。


 ……毎日働きにでている母親から逆に独立心を学んだのと、彼女の周辺に美しい自然があったことがあげられよう。

 家の裏木戸をでれば、ただちに白い砂浜と荒い玄界灘の波立つ海がせまっている。

 両手をひろげたように東西から妙見崎と毘沙門山が今津湾をつつんでいる(ママ)。

 蒼い水平線のむこうは大空にとけ、白い入道雲がわきのぼっている。

 手まえには能古島が雄牛がうずくまったように横たわっている。

 野枝は海にでておもうさま泳ぎまわった。

 沖へでると海辺の家は遠くみえなくなり……頭上にはぬけるような大空が広がる。

 波間にからだをうかしてゆさぶられていると、少女のこころは何ものにもとらわれない自由さにとき放たれていくのだった。


井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p22)

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 幼少時の野枝が泳ぎが得意だったことはよく知られていて、海岸から四キロほどの距離にある能古島までも泳げたという。

 野枝の泳ぎについて野枝の叔母・代キチの証言がある。

 これは瀬戸内晴美(寂聴)が『文藝春秋』に「美は乱調にあり」を連載するため、福岡市に取材に訪れたときのものであろう。

 瀬戸内は西日本新聞社の紹介で野枝の長女・魔子(真子に改名)に会い、魔子の案内で代キチ、四女・ルイズ(留意子に改名)、次兄・由兵衛、妹・ツタに面会している。

 瀬戸内が来福したのは「桜が咲く」ころだったが、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p32)によれば、それは一九六四(昭和三十九)年である。

 このとき、風邪気味で床についていた代キチは八十八歳、前年に脳溢血で倒れてベッドに仰臥していた由兵衛は七十二歳、ツタは六十七歳、魔子は四十七歳、ルイズは四十二歳である。

 
 泳ぎでござりますか。

 はあそれはあんた海辺育ちのことゆえ、河童(かっぱ)のごと上手でござりました。
 
 型は抜き手でござります。

 わたくしなども、子供のころから、学校をぬけだして日がな一日、泳いで暮しておりました。

 陽の当る材木の上に寝ころんで濡れた髪を干し、半分乾いたのをごまかして結いあげ、内緒のつもりでござりますから無邪気なものでござりましたよ。

 はあ、そりゃもう、下ばきなんどというものをはきましょうかいな。

 誰しもすっぱだかで泳ぎます。

 野枝は飛びこみなど好きでござりましたが……。

 わたくしどもの子供のころと、野枝の子供のころとのくらしは、ああいう田舎町ではさして変っていたとも思われません。


(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」/『文藝春秋』1965年4月号〜12月号/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・文藝春秋/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・角川文庫/『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』・新潮社/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p23~24・岩波現代文庫)





 青鞜時代、野枝は仲間たちに自分の幼少時のことを話すことはほとんどなかったようだが、珍しく話したのが水泳のことだった。

 平塚らいてうは飛びこみの話が印象に残ったという。


 海国に育つた野枝さんは水泳が上手で男子に交つて遠泳の競争も出来るのださうだが、殊に眼まひのする様な高い櫓(やぐら)から水の中に飛び込むことの出来るといふことは野枝さんの……得意としてゐる処らしい。

 最初それを練習する時はいくら飛び込まふ/\と思つても足がすくむでどうしても思ひ切つて飛び込めない。

 けれど一旦櫓に登つたが最後もう梯子を取られて仕舞ふから二度と下りてくることは出来ないことになつてゐるので、死んだ気になつて飛び込んで仕舞ふのだといふやうな話をいつか野枝さんから聞いたやうに記憶してゐるが、どうも野枝さんのやる処を見てゐるとそれによく似た処があるやうなのは面白い。


(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号_p83~84)





『青鞜』の編集部員仲間だった小林哥津(かつ/一八九四〜一九七四)は、野枝から聞いた幼少時の逸話を記憶に残していて、井出文子に話している。

 野枝の家の隣りに八幡神社があり、そこは子供たちの遊び場だった。

 ある日、遊びの中でひとりの子が「首つり」の真似をしてみせた。

 松の枝に縄をかけてぶら下がっているうちに、本当に首が締められて、その子がもがき始めた。

 おもしろがって見ていた子供たちは急にゾッとして、クモの子を散らすように逃げて行った。


 首をしめてしまった子が助かったか、死んでしまったのかはわからない。

 けれどその動機の無邪気さと、事実の残酷さで、小林哥津にとってはやり切れない物語だった。

 ところが野枝はその話をむしろ明るい調子で笑いとばしながら語ったというのである。

 都会育ちで、繊細な神経の持ち主であった哥津にとっては、その笑いが不可解でなんともイヤーな気持になったと、彼女はわたしに話したことがある。

 この話は、わたしの心にも深く残っている。

 たぶん野枝の笑いは、この無慈悲な記憶を遮断するための表現であったのではなかろうか。

 野枝の笑いのなかには、あまりにもありありとその日の情景、空の色、雲の形、松風のざわめき、子どものゆがんだ表情と自分たちの驚きや胸ぐるしさが記憶されていたのにちがいない。

 野枝は、それを生ぬるい感傷などでは語れなかったのであろう。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p23~24)





「首つり」といえば野枝の創作に「白痴の母」(『民衆の芸術』1918年10月号・第1巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)という作品がある。

 野枝が今宿の実家に帰省中に、実際に起きた事件をリポートしているような創作である。

「野枝の実家」の隣家に住む母とその息子。

 汚い身なりの母は八十歳をすぎている。

 五十歳をすぎている息子は白痴である。

 近所の子供たちにからかわれ、腹立ち紛れに子供たちを追い回す白痴の息子は地域の問題児である。

 野枝が小学生だったころから、白痴の息子は地域の問題児だった。

 ある日の夕方、白痴の息子が逃げる子供を石段から突き飛ばし、怪我をさせてしまう。

 それから三、四日して、老母の死体が発見される。

 老母は裏の松の木に紐をかけ首つり自殺をしたのだった。

 野枝が二十三歳のときに発表した作品だが、病苦や生活苦のために首つり自殺をする人がいるという現実は、幼いころから彼女の中にインプットされていたのだろう。

 今宿にかぎらず、当時の日本の貧しい村落に共通することだっただろう。





 ついでながら、野枝の幼児期の今宿のことが垣間見える創作がもうひとつある。

「火つけ彦七」という作品である。

「今から廿年ばかり前に、北九州の或村はづれに、一人の年老(としと)つた乞食が、行き倒れてゐました。」

 という書き出しなのだが、この原稿執筆時の野枝は二十六歳、その二十年ばかり前というのは野枝が六歳のころということになる。

 子供たちは白髪の下から気味の悪い眼を光らせて睨み据える乞食の彦七が怖いのだが、怖いもの見たさで覗きに行く。


 ……若(も)しも恐い事があつて、逃げるときに、逃げ後れるものがないやうに、めい/\の帯をしつかりつかみあつて、お宮の森をのぞきに出かけました。

 ……子供たちの眼にまつさきに見えたのは、お宮の森で一番大きな楠の古木の根本に盛んに燃えてゐる火でした。

 そしてその次ぎに見えたのは、その真赤な火の色がうつつて何とも云へない物凄い顔をしたあの乞食でした。

『ワツ!』

 子供達は……悲鳴をあげてめい/\につかまえられてゐる帯際の友達の手を振りもぎつて、駆け出して来ました。


(「火つけ彦七」/『改造』1921年7月夏期臨時号・第3巻第8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p479~480/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p364)


 このあたりの細かい描写は、この作品がフィクションだとしても、野枝が小さいころに同様の体験をしたことを下敷きにしているかのようだ。

 度胸のいい野枝のことだから、逃げ腰の仲間に発破をかけて、先頭に立って覗きに行ったかもしれない。

 この乞食は村の家につけ火をし、放火犯として逮捕される。

 彼は三十年前に村から逐電したのだが、村への復讐の念に燃えて村に舞い戻って来たのだった。

 被差別部落問題をテーマにした重い作品である。

 乞食は若いころ、町外れの瓦焼き場の火を燃す仕事にありついたが、これは野枝の父・亀吉が職人として雇われていた今宿瓦の工場をモデルにしているのであろう。




★井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(文藝春秋・1966年3月1日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(角川文庫・1969年8月20日)

★『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』(新潮社・2002年1月10日)

★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年03月08日

第4回 ノンちゃん






文●ツルシカズヒコ


「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p505)によれば、一九〇一(明治三十四)年四月、野枝は今宿尋常小学校に入学した。

 岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(p62)と井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p62)は、野枝の今宿尋常小学校入学を一九〇三(明治三十六)年としているが、「伊藤野枝年譜」を信頼したい。

 今宿尋常小学校に入学した四月、野枝は満六歳だが、早生まれなので問題はないだろう。


 野枝は毎朝おばあさんにお下げ髪や、当時たばこ盆といわれた髪型(頭の真ん中をとりあげて紐でむすぶ)に結ってもらい、手織木綿のつつ袖のキモノに、石版と読本と行李がたの弁当箱を風呂敷につつんで背にしばり、兄や妹と学校にでかけるのだった。

 家から約二十分ぐらいの学校への道は、たんぼの畦道で、春はタンポポやレンゲの花が咲き、夏にはカエルや虫がとびだし、たのしい秋祭りがおわると、校庭の銀杏の葉は黄金色にいろづき、やがて鉛色の空からシベリア渡りの北風の吹く冬がやってくる。

 野枝は頭からスッポリと赤いケットをかぶって妹と一緒にくるまりながら、風におわれるように道をいそぐのだった。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p21)

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石版」は昔のノート、その上に鉛筆代わりの「ろう石」で書き取りを行った。

「石版」「ろう石」は大正時代ぐらいまで使用されたようだ。

 井出文子は「野枝がかよった今宿小学校は、現在も町はずれに建っている」と書いている。

 井出が記している「現在」は一九七〇年代と思われるが、二〇一七年現在も福岡市立今宿小学校は現存している。

 地図で調べてみると、今宿小学校は野枝一家が住む東松原の海沿いの借家があったあたりから、南の丘陵の方角、約一キロに位置している。

「家から約二十分ぐらいの学校への道」と井出は書いているが、子供の足で一キロ歩くのに二十分は妥当だろう。

「今宿小学校ホームページ」によれば、同小学校は一四〇年の歴史がある。





 これが「作詞・野坂治 作曲・津留崎浩行 」の校歌 である。


 一.渚を守る 松原の
  松の雄々しさ父として
  歴史はるかにしのびつつ
  みんなで励もう明るく強く
  ああ 今宿
  今宿校に力あれ

 二.緑したたる高祖山
  山ふところを母として
  希望はるかに仰ぎつつ
  みんなで伸びよう明るく強く
  ああ 今宿
  今宿校に栄あれ

 三.雲わきあがる玄海の
  潮の香りを友として
  理想はるかに望みつつ
  みんなで進もう明るく強く
  ああ 今宿
  今宿校に光あれ


(「今宿小学校ホームページ」より)

 もしこの校歌が野枝が卒業する以前に作られたものだとしたら、野枝も大声で歌っていたはずだ。





 今宿尋常小学校に入学したころの野枝は、相当やんちゃだったようだ。


 この頃から、ひどい負け嫌ひであつた。

 兄達は極くおとなしかつたので、時に朋輩からいぢめられる事があつたが、野枝さんはそれを見ると承知しなかつた。

 往々、思ひ切つた乱暴な加勢さへした。


(「伊藤野枝年表」_p4/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』)



「ノンちゃん」というのが野枝の呼び名だった。

 友だちから「勝気な子」といわれていた野枝は、気の弱い兄をいじめっ子からかばうというふうだった。

 学校の勉強ができるというより、知的好奇心のつよい子といってよかった。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p21)


 ……兄の由兵衛が内気な性格で近所の悪童連にいじめられて泣いていると、野枝は飛んでいって悪童連と取っ組合いの喧嘩をするほど勝気だった。

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p61)


「伊藤野枝年表」(p5)によれば、十代のころの次兄・由兵衛は「貧困の中にあつて平然として発明考案に耽り、既に特許権を得たもの五六件あるが、製品販売力がないので何れも他に譲与して、ただ考案にのみ専念」していたという。

 どうやら、次兄・由兵衛は今でいうオタク体質だったようだ。





 野澤笑子(野枝の三女・エマ)が、小学校時代の野枝のエピソードを書き記している。


 小学校に上がって平がなが読めるようになるとこんなことがあった。

 言い付けておいた用事をやらないので懲らしめに押し入れに閉じ込めると、暫らく泣いていたがいつか静かになっている。

 泣き寝入りしたのかと思ってそっと襖を開けてみると、何時の間に持ち込んだのか蝋燭に火を点して、壁に張った古新聞のかな文字を熱心に読んでいた。

 昔の新聞はすべての漢字にかなが付いていたのを私も覚えている。

 もう少し長じて、暇さえあれば手当たり次第に本を読んでいる娘に、少しは掃除を手伝いなさいと叱りつけると素直に「はい」と返事をして、勢いよくパタパタとはたきをかけていたのが、これも暫らくすると音が止んでいる。

 もう終わったのかと来てみると、何と右手にはたきを持って突っ立った侭(まま)左手に本をかかえて読み耽っている。

 そんなことは始終だったという。


(野澤笑子「子供の頃の母」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」_p4)





「伊藤野枝年譜」(p505)によれば、一九〇四(明治三十七)年六月、野枝は今宿尋常小学校四年途中で叔母・マツの養女になり、榎津(えのきづ)尋常小学校に転校した。

 野枝の父・亀吉にはマツ(一八七一〜)・モト(一八七四〜)・キチ(一八七六〜一九六六)、三人の妹がいたが、マツは長妹である。

 山本直蔵・マツ夫妻は三瀦(みずま)郡大川町大字榎津六二〇番地(現・福岡県大川市若津西浜町)に住んでいた。

 直蔵は商いをしていたらしいが、「博打うち」との説もある。

 直蔵とマツ夫婦に子供がなかったこともあるが、困窮していた伊藤家の口減らしの養子縁組だった。

 一九〇五(明治三十八)年三月、榎津尋常小学校卒業。

 マツが離婚したためマツとともに今宿の家に帰り、四月から約三キロ離れた隣村の周船寺(すせんじ)高等小学校に入学した。

 当時の学制は尋常四年・高等四年で、尋常六年・高等二年になるのは一九〇七年(明治四十年)からである。

 福岡市立周船寺小学校も現存している。

 ウィキの同校の「著名な出身者」は三嶋一輝(横浜DeNAベイスターズの投手)などだが、伊藤野枝の名前も記されている。

 このころ、伊藤家の窮乏はマックスに達し、父・亀吉、長兄・吉次郎は満州に渡り、次兄・由兵衛も佐賀に出ていたと言われている。

 外に働きに出て行った母が、夕暮れになっても帰宅しなかったことがあった。

 妹・ツタがこう回想している。

 
 妹ツタと二人で留守番をしていた野枝は、心細さもましてくるとともに、どうにも腹が空いてたまらなくなってしまった。

 ーーそれで、台所の戸棚をさがして冷飯をみつけて塩で握って食べようと姉がいいました。

 わたしはその飯が今夜の分だとわかっていたので、「お母さんの分をのこしておこうよ」と姉にいったのですが、姉は耳もかさず、「お腹が空いたのだからしかたがない」といって平然とあまさず食べてしまいました。

 ツタはそのときの姉の情のこわさが忘れられなかったと回想している。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p22)



★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




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2016年03月07日

第3回 万屋がお





文●ツルシカズヒコ




 野枝の風貌や資質は祖母・サト(父・亀吉の母)、父・亀吉の血を受け継いでいた。


 野枝さんのお父さんは……漁、挿花、料理、人形造り、音曲、舞踏等、何れも素人離れがしてゐる程の趣味に富んだ人である。

 就中、音曲に秀で、土地でのお師匠さん格である。

 野枝さんの祖母は、幼少から文学を好み、学制設定前に、夜、付近の子女を集めて、女大学または手習ひを教へてゐたほどであつたから、その薫陶も尠なくなかつたであらう。

 また祖母は音曲に趣味を持ち、老後までもそれを捨てなかつた。

 八十近くなつても、村のお祭りには屋台に上つて真先に踊つたほどであつた。

 従つて野枝さんも、七八歳の頃から音律を解し、三味線を弄んでゐた。


(「伊藤野枝年表」_p3~4/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』)


「伊藤野枝年表」を執筆したのは、『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』の編集に携った近藤憲二と思われる。

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『炎の女 伊藤野枝伝』の著者、岩崎呉夫が今宿に取材に訪れたのは、一九六二(昭和三十七年)年八月だと推定される。

 岩崎はこのとき、野枝の次兄・由兵衛(当時七十歳)や野枝の叔母・代キチ(一八七六〜一九六六)などに会い話を聞いている。

 代キチは明治九年生まれ(『炎の女 伊藤野枝伝』_p62)なので、当時八十六歳。

 由兵衛もまた野枝の血はサトと亀吉のそれを引き継いでいると語っている。


 亀吉は……生来の芸道楽で、音曲、歌舞、人形つくり、料理などの上手として村内ではその器用さをもてはやされていたという。

 野枝の顔つき、文才、芸才、書の手筋、気質などは、ほぼこの血の流れを受けているようだ。

 サトは今宿の隣りの姪ケ浜村の素封家、藤野武平の二女だが、若いころから文芸趣味にすぐれ、与平に嫁いでからも近所の子弟を集めて習字や勉強をみてやっていたという。

 また芸事も達者で、村の祭りの折などはお師匠さん格であったらしい。

 気性ははげしく、男まさりだった。

 父の亀吉はそのサトの血をうけて、前述したように多芸多彩な器用人で、俳句を巧みにし、この村での師匠格だったという。


(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p57~p59)


 野枝の父・亀吉は美男子として通っていた。


「万屋(よろずや)がお」と村人たちがいっていたのは、この一族に特有の彫りの深い顔立ちのことである。

 鼻筋がとおっていて、眉と眼がややせまっており、眼のまわりの線がくっきりと黒い南国的な風貌である。

 この顔立ちは野枝の兄妹や、野枝の子どもたちにも伝えられている。


井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p15)





 一九〇〇(明治三十三)年、野枝が五歳のころ、亀吉は家業再興をはかり、農産物加工の事業を始めるが失敗に終わった。


 野枝が小学校に入る頃には谷の家屋敷を手放し、東松原の海沿いの借家に移り、手先の器用な亀吉は近在の瓦工場の職人になった。

 亀吉は生来の芸道楽のうえ、職人としての腕も良かったが、気に染まぬ仕事はしないという人だった。

 そのため一家の生活のほとんどをムメが担っていた。


(「伊藤野枝年譜」/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p505)


 ムメは家運の没落、夫の出奔、子だくさん、そうした不幸を背負いながら、働きもの、出稼ぎで有名な「糸島女」の名にふさわしく、堤防工事の日雇いや農家の手間仕事などに出て、この一家を支えた(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』p15~16)。

「近在の瓦工場」というのは、今宿瓦を造る工場である。
 

 もともとこのあたりは、伊万里あたりからの技術が伝えられたものか、瓦では全国有数の地であり、かつて皇居造営のさい全国コンクールで「今宿瓦」は第三位にはいった記録が残っている。

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p58)


 福岡市博物館HPによると、今宿で瓦生産が開始されたのは十七世紀ごろで、福岡城へ献納されるほどの品質の高さだった。

 一八八四(明治十七)年からの皇居造営にあたっても、献上した今宿瓦の見本が高い評価を得た。

 しかし、昭和の初めには二、三軒が瓦の製造を行なう程度になり、一九八〇年代前半に今宿での瓦製造は終わりを迎えた。

 日本の一般家屋に瓦ぶきが普及したのは明治に入ってからで、今宿瓦の最盛期もおそらくそのころだったのだろう。

 福岡市博物館のHPには亀吉が「名人肌」だった鬼瓦の写真も載っている。





 亀吉が今宿瓦の職人だったころのエピソードを、野澤笑子(野枝の三女・エマ)が伝え聞いている。

 サトとムメが台所で亀吉の陰口を言っていると、野枝が「父ちゃんに言い付けてくる」と駆け出したという。

 サトとムメは学齢にも達しない女の子が、一里もある行ったことのない父親の仕事場に行けるわけがないと放っていたが、夕方近くになっても戻ってこない。

 ふたりは不安になったが、野枝は父親に手を引かれ意気揚々と帰って来た。

 野枝が言うにはーー。


「一人で西へ向かって歩いてゆくとだんだん足が痛くなって来た。すると後から荷馬車が来て馬方のおじさんが何処へゆくのかと聞くので、高田の瓦工場へ父ちゃんを向(ママ)かえに行くと言ったら、小さい子供が歩いては無理だと乗せてくれた」

(野澤笑子「子供の頃の母」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」)


 同じエピソードを野枝の妹・武部ツタが、井出文子に語っている。

 亀吉の留守をいいことに、祖母と母が世間話のあげく、亀吉の甲斐性なしを嘆きあしざまに罵った。

 そのころ亀吉は村人たちから「甲斐性なしの極道」と呼ばれていたのである。

 野枝は幼いながら父が非難されているのがわかると、父への同情が抑えきれず、家を出て瓦工場に向かった。

 夕暮れもせまって不安になってきたころ、亀吉が帰ってきた。


 亀吉の背には気持ちよさそうにねむりこけている幼い娘がいた。

 その顔をみて、母親はハッと昼間の鬱憤ばらしをおもいだした。

 そして恐いおもいで娘を見直したというのである。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p19)


 井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p19)によれば、ツタは亀吉が瓦工場の職人だったころのエピソードをもうひとつ、井出文子に語っている。

 亀吉は腕のいい職人で特に「鬼瓦」を作る腕は「名人肌」と言われていたが、気分屋で気が向かないと仕事に出かけないし、給金も自分で取りに行かない。

 瓦工場に給金を取りに行くのは母かツタだったが、野枝も一度取りにやらされたことがあった。

 工場には瓦や粘土がうず高くつみあげられ、暗くしめった土間のむこうには一段と高い座敷があり、四角火鉢のまえに工場主がどっかりと坐り、くわえぎせるで紙でひねった金を投げてよこすのである。

 野枝はその後、二度と瓦工場には行かなかったという。





 井出は亀吉と野枝の関係性を、こう分析している。


 彼女は父亀吉の秘蔵っ子とみなにいわれていた。

 他の男の子たちには気むずかしい亀吉だったが、野枝にだけは怒った顔をみせたことがなかった。

「甲斐性なしの極道」といわれていた亀吉は、己れの感情の自由に生きた人であり、それゆえにそのつけを、貧乏や世間からの悪口などのかたちで受けとらねばならなかった。

 その頑固で悲しいおもいをわかちあってくれるのは、妻でも母でもなく、むしろ幼い娘の野枝であった。

 野枝には父と同質の感受性があり、それゆえ父の感情の内側に入り、いわば同志といってもいい信頼が二人の間でできあがっていたのではなかろうか。

 父親ゆずりのゆたかな感受性を受けついだことによって、野枝は貧しいくらしの中に育ったにもかかわらず、つやと魅力にみちた女として成長した。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p20)


 このころの野枝にとって、男前で器用で芸達者な亀吉は自慢の父であり、尊敬の対象だっただろう。

 しかし、近代化が急激に進捗中の社会では、父のそうした能力は評価されない。

 感受性が強かった野枝は、なにかすっきりしないものを感じ始めていただろう。

 特に今宿瓦の工場主の使用人に対するゾンザイな態度にーー。

 金が人間を支配するようになった世の中にーー。



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)



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2016年03月05日

第2回 日清戦争





文●ツルシカズヒコ





 野枝が生まれた一八九五(明治二十八)年、辻潤は十一歳である。

 ネットサイト「辻潤のひびき」の「辻潤年譜」と『辻潤全集 別巻』(五月書房)の「辻潤年譜」によれば、辻は一八八四(明治十七)年十月四日、東京市浅草区向柳原町で生まれた。

 父・六次郎(〜一九一〇)と母・美津の第一子、長男である。

 辻は浅草区猿尾町の育英小学校尋常科に入学したが、十一歳のころは三重県津市にいた。

 野枝が生まれた一八九五年一月、辻は津市内の尋常小学校四年である。

 辻一家が東京から津に移住したのは、父・六次郎が親戚筋の三重県知事を頼り三重県庁に奉職したからである。

 辻一家は津には三年ほど滞在したようだが、そのころ辻は賛美歌に惹かれてキリスト教の講義所(教会)に通っていた。


 やがて日清戦争というものが始まった。

 国民の排外熱は恐ろしく炎え立った。

 恐らく自分の中にも愛国的熱情が萌したものか、あるいはクラスメートの迫害が恐ろしくなったのか、いつの間にか私は講義所通いを中止にした。

 一家が再び東京へかえったのは、たぶん明治二十七年、戦争中の間だと記憶する。


(「ふりぼらす・りてらりや」/『辻潤全集 四巻』_p271)

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 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉栄は一八八五(明治十八)年一月十七日、父・東(あずま/一八六〇〜一九〇九)と母・豊(とよ/一八六三〜一九〇二)の第一子として香川県丸亀町で生まれた。

 父・東は丸亀十二連隊の陸軍少尉であったが、大杉が生まれた年の六月ごろ近衛三連隊に転属になり、大杉一家は東京市麹町区番町に移り住んだ。

 大杉は三歳のころ、東京府立麹町区富士見小学校付属幼稚室に入っている。

『日録・大杉栄伝』(p13)によれば、大杉が富士見小学校付属幼稚室で「六ケ月保育ヲ受ケタルヲ証ス」保育証書が保存されていて、一九八七(昭和六十二)年の同幼稚園創立百周年記念祭で展示されたという。

 一八八九(明治二十二)年、大杉が四歳のとき、父・東が歩兵十六連隊へ異動になり、大杉一家は新潟県新発田本村(ほんそん)に移住した。

 大杉の父・東は第二大隊副官(中尉)として日清戦争に出征、威海衛攻略で功を収めた。

 威海衛での激戦があったのは、一八九五(明治二十八)年一月末〜二月初めであり、ちょうど野枝が生まれたころだったが、大杉はこのとき十歳、新発田本村尋常小学校四年である。

 新発田本村尋常小学校は、現在の新発田市立外ヶ輪(とがわ)小学校であるが、ウィキの「著名な出身者」に大杉栄の名前はない。

 大杉は父・東から母・豊に宛てた威海衛の激戦を伝える手紙について、こう記している。


 或日僕は学校から帰つて来た。

 そしていつもの通り『たゞ今』と云つて家にはいつた。

 が、それと同時に僕はすぐハツと思つた。

 母と馬丁のおかみさんと女中と……長い手紙を前にひろげて、皆んなでおろ/\泣いてゐた。

 僕はきつと父に何にかの異状があつたのだと思つた。

 僕は泣きさうになつて母の膝のところへ飛んで行つた。

『今お父さんからお手紙が来たの。大変な激戦でね、お父さんのお馬が四つも大砲の弾丸に当たつて死んだんですつて。』

 母は僕をしつかりと抱きしめて、赤く脹れあがつた大きな目からぽろ/\涙を流して、其の手紙の内容をざつと話してくれた。


(大杉栄「自叙伝・最初の思出」・『改造』1921年9月号/大杉栄『自叙伝』_p34・改造社/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p34 ※引用は改造社『自叙伝』)


 ちなみに『日録・大杉栄伝』の著者、大杉豊(一九三九〜)は大杉栄の次弟・勇の子息である。





 平塚らいてうは一八八六(明治十九)年二月十日、会計検査院勤務の父・定二郎(一八五九〜一九四一)と母・光沢(つや/一八六四〜一九五四)の間に、東京市麹町区三番町で生まれた。

 らいてうは第三子、三女だったが長女が夭折、らいてうよりひとつ年上の次女の名は孝(たか)、らいてうの本名は明(はる)。

 天皇崇拝者であった父・定二郎が孝明天皇の名にあやかり、次女に「孝」、三女に「明」と命名したのである。

 一八九〇(明治二十三)年、四歳のらいてうは富士見小学校付属幼稚室(幼稚園)に入園しているが、大杉は前年に同園を卒園しているので、らいてうと大杉は一年違いの同窓ということになる。

 一八九四(明治二十七)年、平塚一家は本郷区駒込曙町一三番地に移転したので、らいてうは富士見小学校から誠之(せいし)小学校に転校した。

 日清戦争が終結したとき、らいてうは誠之小学校尋常科四年だったが、クラス担任の二階堂先生という青年教師が黒板に書いた文字が、忘れがたい記憶として残ったという。


 ……露、英、仏の三国干渉のため、戦勝日本が当然清国から割譲されるべきであった遼東半島を熱涙をのんで還附したことの次第を、わかり易く、じゅんじゅんと語り、「臥薪嘗胆」を子供心に訴えられたことでした。

 教室には極東の地図がかけてありましたが、それはいうまでもなく遼東半島のところだけ赤く塗りつぶしたものでした。

 話しながら先生が黒板に、特に大きく書かれた「臥薪嘗胆」の文字は今も心に浮びます。


(平塚らいてう『わたくしの歩いた道』/『作家の自伝8 平塚らいてう わたくしの歩いた道』_p27~28)


 誠之小学校は現在の文京区立誠之小学校であり、ウィキの「主な出身者」にはらいてうの名も連なっている。




 
 日清戦争が終結して朝鮮から帰った野枝の父・亀吉は、女児の誕生に喜び、野枝は父親の秘蔵っ子になった。

 野枝はやんちゃで元気がよかった。

 野枝の三女・野澤笑子(エマ)が書いている。


 ……自分の気に入らないと大声で泣き喚く。

 大きな口を横にひらいて丁度七輪の口のような形になるので、二人の兄は「ほーら、七輪が熾(おこ)ってきたぞ。団扇持って来い」と、泣いている妹の口もとでバタバタと煽いでからかっていた。


(野澤笑子「子供の頃の母」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」)



★『辻潤全集 別巻』(五月書房・1982年11月30日)

★『辻潤全集 四巻』(五月書房・1982年10月10日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16)

★大杉栄『自叙伝』(改造社・1923年11月24日)

★大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』(1925年7月15日)

★平塚らいてう『わたくしの歩いた道』(新評論社・1955年3月5日)

★『作家の自伝8 平塚らいてう わたくしの歩いた道』(日本図書センター・1994年10月25日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)



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2016年03月02日

第1回 今宿





文●ツルシカズヒコ



 伊藤野枝は一八九五(明治二十八)年一月二十一日、福岡県糸島郡今宿村大字谷一一四七番地で生まれた。

 現住所は福岡市西区今宿一丁目である。

 戸籍名は「ノヱ」。

 野枝が生まれる直前の伊藤家の家族構成はーー。

 祖母(父・亀吉の母)・サト(五十三歳)

 父・亀吉(二十九歳)
 
 母・ムメ(二十八歳)

 長男・吉次郎(五歳)

 次男・由兵衛(三歳)

 五人家族だが、野枝が生まれたこのとき、父・亀吉は不在だった。

 前年八月に始まった日清戦争に軍夫として徴用され朝鮮にいたからである。

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 野枝の四女・王丸留意(ルイズ/離婚後、伊藤ルイに改名)は、祖母・ムメから伝え聞いていた話を、井出文子にこう語っている。


 母が生まれた夜はとても寒い晩でみぞれまじりの雪がふっていました。

 祖父はいなくて産婆さんも呼べなかったので、祖母はひとりで母を産んだそうです。

 そのときの産声があまりに大きかったので、祖母はたぶん男の子だろうと思ってほうっておいたのだそうです。

 男の子はもうふたりもいましたし、暮しもらくでなかったからどうでもいいという気持ちだったのでしょう。

 そのあとで男の子に呼ばれて祖母の姑になる曽祖母がきてくれて、よくみますと赤子は女の子だったので、曽祖母ははじめての女子じゃとよろこび、産湯をつかわしたりして、それで赤子は生命(いのち)をまっとうしたのだそうです。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p12)


 野枝の三女・野澤笑子(えみこ/エマ/一九二一〜二〇一三)はこう記している。


 母、伊藤野枝が生まれたのは明治二十八年一月、当時でも珍しい大雪の未明であった。

 父親は日清戦争に出征中で、びっくりする程大きな産声をあげた。

 上に二人の男子がおり、昔の人は暢気なもので祖母のサトは、

「又、男ぢゃろう、夜が明けてから産婆を呼べばいい」

 と言う。

 それでも母親のムメはそっと蒲団を持上げて見て、女の子であることを告げると素破一大事とばかり、祖母はとび起きて産婆へ走るやら、お湯を沸かすやら大騒ぎを演じたという。


(野澤笑子「子供の頃の母」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」)


 野枝の遺児たちが母・野枝が生まれたときのことを知っているのは、大杉栄と野枝が虐殺された後、遺児たちが野枝の今宿の実家に引き取られ、そこで育ったからだ。

 野枝が虐殺されたとき、三女・エマは二歳、四女・ルイズは一歳だった。

 母・野枝についての記憶がまるでない孫たちに、ムメは野枝の思い出を繰り返し繰り返し語って聞かせていたのである。

 それは無意識だったとしても、野枝の記憶を風化させたくないという、ムメの願いがあったからなのだろう。





 野枝の父・亀吉と母・ムメの間には野枝の下にも四人の子供が生まれた。

 祖母・サト(一八四二〜一九二二)
 
 父・亀吉(一八六六〜一九三六)
 
 母・ムメ(一八六七〜一九五八)

 長男・吉次郎(一八九〇〜一九〇八)
 
 次男・由兵衛(一八九二〜一九六七)
 
 長女・野枝(一八九五〜一九二三)
 
 次女・ツタ(一八九七〜一九七八年六月)

 三男・信夫(一九〇六/夭折)
 
 四男・清(一九〇八〜一九九一)
 
 五男・良介(一九一六/夭折)

 伊藤家は祖母・サトを入れて総勢十人家族ということになるが、三男・信夫と五男・良介は夭折し、長男・吉次郎も野枝が十三歳のときに満州で病死(十八歳)しているので、野枝が成人した後の伊藤家は七人家族であった。

 祖母・サトは野枝が虐殺される前年、一九二二(大正十一)年に八十歳で死去。

 父・亀吉=七十歳、母・ムメ=九十一歳、次男・由兵衛=七十五歳、次女・ツタ=八十一歳、四男・清=八十三歳。

 伊藤家の人々が永眠した年齢を見ると、多産多死時代の「多死」を逃れた面々は総じて長寿だった。





『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』、井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』、「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、 伊藤家は海産物問屋・諸国廻槽問屋を営む「萬屋」(よろずや)という屋号の旧家であり、幕末から明治初期にかけての曽祖父・儀八(一八〇六〜)の代に、主要な貢米取扱地だった今宿において家業は最盛を迎えた。

 しかし、祖父・與平(一八三五〜一八八四)の頃から没落し始め、父・亀吉の代になってからいよいよ家業は思わしくなくなっていた。

 長女に「ノヱ」と命名したのは、伊藤家の家業全盛時に生きた野枝の曽祖母・ノヱにあやかり、家業再興の願いがこめられていたからである。

 野枝の曽祖父・儀八は、九州男児の度胸一本で荒海に乗り出し財を成した。


 松原に茶室を設けたり、他に土地や船なども持っていた……。

 しかし、政治、社会の変革はこの商家の繁栄を奪い、儀八の死後与平が相続し、またその六年後一八九一(明治二十四)年に家督を野枝の父亀吉が継いだときには決定的に家は没落した。

 戸籍をみると亀吉の相続と前後して、亀吉の妹マツ、モト、キチの二十歳をかしらにした三姉妹は、熊本、三池などに分家または養女として離籍されている。

 これは彼女たちが結婚してのことではなく、おそらく一家の窮乏を救うためのものらしい。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p14)





 亀吉は家督を継ぐとともに、今宿村の農民・若狭伊平(伊六ともある)の次女・ムメと結婚した。

 今宿村について、野枝はこう記している。


 私の生まれた村は、福岡市から西に三里、昔、福岡と唐津の城下とをつないだ街道に沿ふた村で、父の家のある字(あざ)は、昔陸路の交通の不便な時代には、一つの港だつた。

 今はもう昔の繁栄のあとなど何処にもない一廃村で、住民も半商半農の貧乏な人間ばかりで、死んだやうな村だ。

 此の字は、俗に『松原』と呼ばれてゐて戸数はざつと六七十位。

 大体街道に沿ふて並んでゐる。


(「無政府の事実」/『労働運動』1921年12月26日・3次1号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p654/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p310)


「無政府の事実」冒頭のこの文章の初出は、一九二一(大正十)年発行の『労働運動』なので、野枝が二十六歳のころの今宿である。

 街道とは唐津街道のことだ。

 野枝は明治維新から半世紀余を経た大正末期に、昔、つまり江戸時代の繁栄のあとなどどこにもない一廃村で死んだよう村だと今宿のことを書いているのである。

 ウィキペディア[今宿村(福岡県)]によれば、今宿村が発足したのは一八八九(明治二十二)年四月、今宿村が近隣と合併して糸島郡に編入されたのが一八九六(明治二十九)年四月。

 福岡市へ編入されたのは一九四一(昭和十六)年十月である。

 野枝の出生地は「糸島郡今宿村」とされているが、彼女の出生時には今宿村はまだ糸島郡に編入されていない。





 今宿の没落については井出文子の説明がわかりやすい。


 徳川幕藩体制のもとでは、この村は藩内交通の結節点として港を持ち、また唐津、長崎へむかう街道の宿場としても繁盛していたのである(糸島郡教育会編『糸島郡史』)。

 だが廃藩置県、経済流通経路の変化、鉄道の開通はこの村の繁盛をおき去りにした。

 明治中期にはいり北九州一帯の石炭産業の興隆をそばにみながら、この村はいわば陥没地帯として、今宿瓦などのささやかな産業をのぞいてはなにもない一寒村となっていった。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p12)


 岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』によれば、福岡県糸島郡教育会編『糸島郡誌』は一九二七(昭和二)年に発行されているが、今宿村についてはこう記されている。


 今宿村は……現在戸数五〇〇、現在人口二、九四五なり。……明治四十三年北筑軌道敷設せられ、また大正十四年四月十五日北九州鉄道開通し交通大いに便なるに至れり。

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p54)


 野枝の生家と育った家の現況(二〇一五年現在)については、田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』(p114~)に詳しい。

 同書によれば、野枝の生家は現在「唐津街道……に面した住宅で、そこには製畳店の看板がかかっている。……生家の道路を挟んだ向かい側に役場」があるという。

 一九八五年ごろまで、野枝の育った家の木戸近くに「伊藤野枝生誕の地」という標柱があったが、郷土史家・大内士郎の調査により、それは野枝の生家ではなく育った家であることが判明した。

 野枝の育った家には現在、伊藤義行(野枝の甥/父は野枝の次兄・由兵衛?)が暮らしているという。



★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」(學藝書林・2000年3月15日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』(岩波書店・2016年10月21日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




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あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index





「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」の目次です。タイトルをクリックすると各ページへ飛びます。


文●ツルシカズヒコ




第450回 大杉栄追想

第449回 女らしい女

第448回 ゴルキイの『母』

第447回 自然女

第446回 本能主義者

第445回 野枝姉さん

第444回 お餅代

第443回 可愛い単純な女性

第442回 今宿の葬儀

第441回 煙草盆

第440回 さよなら!

第439回 遺骨

第438回 葉鶏頭

第437回 大杉外二名

第436回 号外

第435回 梨

第434回 鶴見

第433回 オートミル

第432回 栗鼠

第431回 奇禍

第430回 流言蜚語

第429回 キュウビズム

第428回 最後の写真

第427回 くらちゃん

第426回 ネストル・マフノ

第425回 柏木

第424回  Science

第423回 コケテイツシユ

第422回 和田久太郎

第421回 安成二郎様

第420回 帰朝歓迎会

第419回 有島武郎の死

第418回 白の洋装

第417回 情熱の子

第416回 来神

第415回 姉御

第414回 無産階級独裁

第413回 ポタアジユ

第412回 性教育

第411回 箱根丸

第410回 エリゼ・ルクリュ

第409回 似たもの夫婦

第408回 佐藤紅緑

第407回 ラ・サンテ監獄

第406回 c'est ça

第405回 individualism

第404回 平林たい子

第403回 日本人

第402回 rien á faire

第401回 裁縫の話

第400回 水平運動

第399回 ヤキモチ屋

第398回 足下

第397回 Vous avez une raison

第396回 バル・タバラン

第395回 多数は力だ

第394回 パリの便所

第393回 四平街

第392回 ベルヴィル通り

第391回 おいねさん

第390回 アナナス

第389回 仏歯寺

第388回 アンドレ・ルボン号

第387回 頭脳改造

第386回 フランス租界

第385回 アインシュタイン

第384回 有島武郎

第383回 国際無政府主義大会

第382回 蕎麦喜千

第381回 死刑囚の思い出

第380回 毛皮

第379回 東屋

第378回 黒地の洋装

第377回 求婚広告

第376回 広津和郎

第375回 野坂参三

第374回 コズロフを送る(六)

第373回 コズロフを送る(五)

第372回 コズロフを送る(四)

第371回 コズロフを送る(三)

第370回 コズロフを送る(二)

第369回 コズロフを送る(一)

第368回 二人の革命家

第367回 里見ク(二)

第366回 ルイズ

第365回 科学知識叢書

第364回 見張小屋

第363回 アイスクリーム

第362回 平和紀念東京博覧会

第361回 里見ク(一)

第360回 浅原健三

第359回 猫越(ねっこ)峠

第358回 ヒサイタアマギニシス

第357回 徳富蘇峰

第356回 無政府の事実

第355回 直接行動論

第354回 暁民共産党事件

第353回 ピンポン

第352回 新興芸術

第351回 原敬

第350回 弾丸

第349回 典獄面会

第348回 バートランド・ラッセル(二)

第347回 バートランド・ラッセル(一)

第346回 赤瀾会講習会

第345回 新発田

第344回 百円札

第343回 花札

第342回 男女品行問題号

第341回 赤瀾会(二)

第340回 赤瀾会(一)

第339回 ミシン

第338回 Confidence

第337回 壟断(ろうだん)

第336回 高村光太郎

第335回 聖路加病院(五)

第334回 聖路加病院(四)

第333回 聖路加病院(三)

第332回 聖路加病院(二)

第331回 聖路加病院(一)

第330回 チブス

第329回 新婦人協会

第328回 アナ・ボル協同戦線

第327回 日本の運命

第326回 駿台倶楽部

第325回 週刊『労働運動』

第324回 露国興信所

第323回 日本社会主義同盟

第322回 暁民会

第321回 クロポトキンの教育論

第320回 コミンテルン(三)

第319回 コミンテルン(二)

第318回 夜逃げ

第317回 有名意識

第316回 コミンテルン(一)

第315回 幸子

第314回 航海記

第313回 クロポトキンの経済学

第312回 ローザ・ルクセンブルク

第311回 堺利彦論

第310回 不景気

第309回 大谷嘉兵衛

第308回 入獄前のO氏

第307回 トルコ帽

第306回 自由母権

第305回 出獄

第304回 ロシアの婦人運動

第303回 豊多摩監獄(四)

第302回 豊多摩監獄(三)

第301回 下婢

第300回 教誨師

第299回 山川菊栄論

第298回 豊多摩監獄(二)

第297回 スパイ

第296回 豊多摩監獄(一)

第295回 婦人労働者の覚醒

第294回 労働運動の精神

第293回 婦人労働者大会

第292回 東京監獄八王子分監

第291回 ソシアルルーム

第290回 出獄の日のO氏(二)

第289回 出獄の日のO氏(一)

第288回 外濠

第287回 柿色

第286回 警視庁(三)

第285回 警視庁(二)

第284回 警視庁(一)

第283回 正力松太郎

第282回 築地署(二)

第281回 築地署(一)

第280回 森戸辰男

第279回 トスキナ(二)

第278回 トスキナ(一)

第277回 演説もらい

第276回 おうら山吹

第275回 婦人参政権

第274回 スペイン風邪

第273回 尾行

第272回 山羊乳

第271回 クララ・サゼツキイ

第270回 タイラント

第269回 無遠慮

第268回 無政府主義と国家社会主義

第267回 米騒動

第266回 野枝さん野枝さん

第265回 大杉栄と代準介

第264回 茶ア公

第263回 戯談

第262回 後藤新平様

第261回 MAKO

第260回 東京監獄・面会人控所(六)

第259回 東京監獄・面会人控所(五)

第258回 東京監獄・面会人控所(四)

第257回 東京監獄・面会人控所(三)

第256回 東京監獄・面会人控所(二)

第255回 東京監獄・面会人控所(一)

第254回 カムレエドシップ

第253回 日本堤

第252回 僕の見た野枝さん

第251回 半耄碌(もうろく)のお婆さん

第250回 東洋モスリン

第249回 襁褓(むつき)

第248回 中條百合子

第247回 築地の親爺

第246回 第二革命

第245回 魔子

第244回 世話女房

第243回 第二の結婚

第242回 夫婦喧嘩

第241回 伊藤野枝論

第240回 百姓愛道場

第239回 平塚明子論

第238回 評論家としての与謝野晶子

第237回 三月革命

第236回 自働電話

第235回 特別要視察人

第234回 古河

第233回 菜圃(さいほ)

第232回 田中正造

第231回 廃村谷中

第230回 葦原

第229回 センチメンタリズム

第228回 塩瀬の最中

第227回 宮嶋資夫の憤激

第226回 オースギカミチカニキラレタ

第225回 新婚気分

第224回 第一福四万館

第223回 フリーラブ

第222回 豚に投げた真珠

第221回 短刀

第220回 私は何もしない

第219回 陽が照ります

第218回 お源さん

第217回 キルク草履

第216回 午前三時

第215回 だけど

第214回 寺内内閣

第213回 大崩れ

第212回 抜き衣紋

第211回  菊富士ホテル

第210回 ポワンチュの髯

第209回 霊南坂

第208回 和歌浦

第207回 河原なでしこ

第206回 野狐さん

第205回 スリバン

第204回 ミネルヴア

第203回 二人とも馬鹿

第202回 いやな写真

第201回 ララビアータ

第200回 福岡日日新聞

第199回 私達の関係

第198回 金盞花 (きんせんか)

第197回 カンシヤク玉

第196回 豆えん筆

第195回 青鉛筆

第194回 電話

第193回 パツシヨネエト

第192回 蓄音機

第191回 狐さん

第190回 上野屋旅館

第189回 両国橋駅

第188回 白山下

第187回 桜川

第186回 謡い会

第185回 別居について

第184回 拳々服膺(けんけんふくよう)

第183回 新富座

第182回 福岡の女

第181回 厚顔無恥

第180回 チリンチリン

第179回 日比谷公園

第178回 欧州戦争

第177回 ねんねこおんぶ

第176回 公娼廃止

第175回 婦人矯風会

第174回 御大典奉祝

第173回 戦禍

第172回 早良(さわら)炭田

第171回『門司新報』

第170回 千代の松原

第169回 野依秀市(四)

第168回 野依秀市(三)

第167回 野依秀市(二)

第166回 野依秀市(一)

第165回 フランス文学研究会

第164回 三面記事

第163回 ロンブローゾ

第162回 日常生活の日誌

第161回『痴人の懺悔』

第160回 堕胎論争

第159回 伊藤野枝オタク

第158回『エロス+虐殺』

第157回 マックス・シュティルナー

第156回 同窓会

第155回 婦人の選挙運動

第154回 死灰の中から

第153回 友愛会と青鞜社

第152回『谷中村滅亡史』

第151回 待合

第150回 革命のお婆さん

第149回 羞恥と貞操

第148回 新貞操論

第147回『三太郎の日記』

第146回 中村狐月

第145回 ゾラ

第144回 谷中村(九)

第143回 谷中村(八)

第142回 谷中村(七)

第141回 谷中村(六)

第140回 谷中村(五)

第139回 谷中村(四)

第138回 谷中村(三)

第137回 谷中村(二)

第136回 谷中村(一)

第135回 ジャステイス

第134回 生き甲斐

第133回 タイプライター

第132回 砲兵工廠

第131回 四ツ谷見附

第130回 山田わか

第129回 編輯室より

第128回 思想の方向

第127回 貞操論争

第126回 身の上相談

第125回 引き継ぎ

第124回 平民新聞

第123回 人間問題

第122回 根本の問題

第121回 小石川植物園

第120回 毒口

第119回 自己嫌悪

第118回 義母

第117回 下田歌子

第116回 世界大戦

第115回 ヂョン公

第114回 三角山

第113回 色欲の餓鬼

第112回 妙義神社

第111回 染井の森

第110回 読売婦人附録

第109回 猫板

第108回『婦人解放の悲劇』

第107回 武者小路実篤

第106回 ウォーレン夫人

第105回 羽二重餅

第104回 サアカスティック

第103回 少数と多数

第102回 出産

第101回 エマ・ゴールドマン

第100回 アンテウス

第99回 ジプシイの娘

第98回 生の拡充

第97回 赤城山

第96回 あの手紙

第95回 二通の手紙

第94回 筆談

第93回 絵葉書

第92回 ヴハニティー

第91回 第二の会見

第90回 牽引

第89回 自我主義

第88回 アウグスト・ストリンドベリ

第87回 ピアノラ

第86回 アルトルイズム

第85回 木村様 

第84回 ドストエフスキイ

第83回 動揺

第82回 校正

第81回 第二の手紙

第80回 高村光太郎

第79回 文祥堂

第78回 フュウザン

第77回 拝復

第76回 中央新聞

第75回 魔の宴

第74回 堀切菖蒲園

第73回 瓦斯ラムプ

第72回 円窓より

第71回 ホワイトキヤツプ

第70回 荒川堤

第69回 国府津(こうづ)

第68回 枇杷の實

第67回 ファウスト

第66回 上山草人

第65回 平塚式

第64回 神田の大火

第63回 姉様

第62回 女子英学塾

第61回 青鞜社講演会

第60回 相対会

第59回 新らしき女の道

第58回 夏子

第57回 東洋のロダン

第56回 軍神

第55回 メイゾン鴻之巣

第54回 西村陽吉

第53回 玉名館

第52回 阿部次郎

第51回 伊香保

第50回 若い燕(二)

第49回 若い燕(一)

第48回 新妻莞

第47回 モンスター

第46回 ロゼッチの女

第45回 雷鳴

第44回 運命序曲

第43回 南郷の朝

第42回 吉原登楼

第41回 同性愛

第40回 円窓

第39回 青鞜

第38回 椎の山

第37回 野生

第36回 染井

第35回 出奔(七)

第34回 出奔(六)

第33回 出奔(五)

第32回 出奔(四)

第31回 出奔(三)

第30回 出奔(二)

第29回 出奔(一)

第28回 わがまま

第27回 日蓮の首

第26回 帰郷

第25回 抱擁

第24回 おきんちゃん

第23回 天地有情

第22回 仮祝言

第21回 縁談

第20回 反面教師

第19回 西洋乞食

第18回 遺書

第17回 謙愛タイムス

第16回 上野高女

第15回 大逆事件

第14回 編入試験

第13回 伸びる木

第12回 東の渚

第11回 湯溜池

第10回 大人の嘘

第9回 波多江(はたえ)

第8回 長崎(二)

第7回 長崎(一)

第6回 代準介

第5回 能古島(のこのしま)

第4回 ノンちゃん

第3回 万屋がお

第2回 日清戦争

第1回 今宿



ワタナベ・コウ漫画『動揺』(原作・伊藤野枝)販売中です。



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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