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2016年07月29日

第309回 大谷嘉兵衛






文●ツルシカズヒコ



 一九二〇(大正九)年四月三十日、大杉一家は神奈川県三浦郡鎌倉町字小町二八五番地(瀬戸小路)に引っ越した。

 谷ナオ所有の貸家を月六十円で借り、大杉一家四人と村木が住むことになった。

「鎌倉から」(『労働運動』1920年6月1日・1次6号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)によれば、四月中旬、村木が知人の鎌倉の刺繍屋さんを仲介し、決めてきた家だった。

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 野枝は「引越し騒ぎ」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)に、村木の知人(刺繍屋のNさん)は「村木の小父さん」だと書いている。

 この大杉一家の引っ越しを『報知新聞』が「大杉栄氏が鎌倉に定住−−所轄署大警戒」という見出しで報じたことにより、ひと騒動が起きた。

 社会主義者大杉栄氏は伊藤野枝、村木源太郎と共に本日(※四月三〇日)午後三時横浜駅発、戸部署巡査四名尾行の下に三時四十分鎌倉駅に着し、横浜大谷嘉兵衛氏所有の鎌倉小町瀬戸小路二八五新築家屋を借り受け入れり。

 右三名は当地に永住の覚悟らしく鎌倉署にては直(ただち)に私服巡査五名を付近に配し、目下夫(だれ)となく警戒中なり。

 家賃は五十円なり(鎌倉)


(『報知新聞』1920年5月1
日)





 「村木源太郎」は「村木源次郎」の誤記である。

 大杉の書いた「鎌倉から」によれば、鎌倉駅に到着した大杉一家を迎えたのは、高等視察に引き連れられた尾行刑事四人だった。

 大杉の尾行がふたり、野枝にひとり、村木にひとり、合わせて四人の尾行刑事である。

 署長以下総勢二十人の鎌倉署はてんてこ舞いの騒ぎになった。

 そして『報知新聞』により、家主は谷ナオではなくて地元の名士である大谷嘉兵衛であることが判明してしまった。

 引っ越して来てから四、五日して、大杉が仕入れてきた情報として、野枝が「引越し騒ぎ」にそのからくりを書いている。

 著名な実業家である大谷は、また道徳家であり独身主義者でもあったが、五十歳を過ぎて女中に手をつけ子供ができた。

 しかし、その女中がふたりの子供を残して死んだので、残された子供に家庭教師をつけた。

 その女家庭教師が谷ナオであり、谷は大谷の妾でもあった。

 大杉一家が借りた家は、大谷がその家賃を妾の月々の生活費に当てるために建てたものだった。

 道徳家として通っていた大谷は、妾の存在もその生活費を捻出するために鎌倉に家を持っていることも内密にしていたので、『報知新聞』の記事によって身から出た錆(さび)ではあったが、とんだどばっちりを受けてしまった。

 大谷は警察からの使嗾(しそう)もあって、差配を介して「社会主義者には貸せぬ」と言ってきた。

 大杉も野枝も村木も理不尽な要求を突きつける大家とは、徹底抗戦の腹づもりでいたが、道徳家らしからぬ弱味がバレてしまった大谷も強くは出れず、結局、大杉一家は立ち退きをせずにすんだ。

 鎌倉は選挙の時期だったので、始終顔を合わせている地元の有力者連からの圧力もあったが、いつものこととて野枝たちはめげなかった。





 ……『あんな奴らには米味噌醤油を売らない事にすれば閉口して行つてしまふだろう』と云つてゐるさうでう。

 しかしそれも私共には一向何んの影響もないんです。

 何故なら、鎌倉では向ふで買つてくれと云つても私達は出来るだけ買い度くないのですから。

 昨日も或る店で買物をしようとしますと其の店の主人が、今自分の処でもそれが入用で漸く他の店から買つて間に合はせたが、自分の店で売るのよりは三割方も高いと云つて、

『何しろ鎌倉のあきんどさんは高いのを自慢にしているのですからね』

 と真顔になつてゐましたが、それは全くです。

 私達のような貧乏なものは、とても此処の『別荘値段』のおつき合ひは出来かねます。


(「引越し騒ぎ」/『改造』一九二〇年九月号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)


「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p514)によれば、野枝は鎌倉に移ってから、ミシンを購入して洋服を作り始めた。


大谷嘉兵衛

大正時代の江の電 


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:58| 本文

2016年04月09日

第72回 円窓より






文●ツルシカズヒコ





『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p458~459)によれば、一九一三(大正二)年五月一日、らいてうの処女評論集『圓窓より』(東雲堂)が発行されたが、発売と同時に発禁になった。

「世の婦人達に」が収録されていたからである。

 発禁理由は家族制度破戒と風俗壊乱だった。

 野枝はこうコメントしている。


 らいてうの「圓窓より」が禁止になりました。

 私は何と云つていゝか分りません。

 何故にと云ふ事も分りません。

 当分は何も云へません。

 私の感想もあぶなつかしくてとても書く気になりません。

 私は自分の感想として書くものに彼是云はれるのが一番いやです、主張ならばとにかくですが、自分の感想の内容については、私自身にのみ絶対の権利があるのです。

 私は誰にも何にも云つてもらひ度くありません。


(「編輯室より」/『青鞜』1913年6月号・3巻6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p30)

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『圓窓より』は「世の婦人達に」を削除し装幀も変え、六月に『扃(とざし)のある窓』と改題して出版された。

 下田歌子、鳩山春子、嘉悦孝子、津田梅子ら、女子教育家も「軽率にも、無責任にも、ジャーナリズムの描くところの青鞜社なるものを目の敵にし」(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』p462~463)て見当外れの批判をした。

 らいてうの母校である日本女子大の校長、成瀬仁蔵の「欧米婦人界の新傾向」が『中央公論』四月号に載ったが、らいてうから見れば「俗論に媚び」た批判であり、「世の婦人達に」はこの成瀬仁蔵の「欧米婦人界の新傾向」に対する挑戦、反論だった。

 府下巣鴨町に事務所が移ってから、らいてうはそれまで円窓の部屋に迎えていた来客を事務所の方で会うことにした。

 毎日のようにらいてうの書斎に行っていた、野枝の足も次第に遠のいていった。


『青鞜』一九一三年六月号の「編輯室より」は、野枝が執筆している。

 ホワイトキャップや『圓窓より』のほかに、野枝はこんなことを書いている。


 □五月の第一日曜日に茶話会を開きましたが、事務所にお集下すつたのは、内部の四人をのぞく他、多賀さんが一寸(ちょつと)ゐらして下すつたのと岩野さんきりでした。これから一々おしらせ致しませんが、毎週金曜日の他、毎月第一日曜日になるべく御都合の出来る方はゐらして下さいまし。

 □こんな理屈を今更らしく云つた処で仕方がありませんが私はそれが一番いやなのです。全くこの頃は何にも云へません。それから先月号も大変つまらないと云はれましたが私共もつまらないと云ふ事はあくまで自覚して居ります。此処しばらくはやむを得ませんとつい弱さうな事も云はなければなりません。

 □九月号には、皆うんと書くつもりでゐます。思い切つたものをおめにかける事が出来るかと思ひます。

 □今しばらくの間は、お互ひに沈黙して勉強するのが一番だと思ひます。皆様に出来る丈け御勉強をおすゝめ致します。各自の内部の充実と云ふ事が すべての場合に於て最も望ましい事なのです。

 □入社、伊藤智恵

 □青鞜創刊号は方々から送つて下さいましたので もう沢山です。


(「編輯室より」/『青鞜』1913年6月号・3巻6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p28~31)



『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の解題(p455)によれば、「多賀さん」とは『青鞜』一九一一年十二月号に入社が報じられている多賀巳都子のこと。





 五月初旬のある日だった。

 その日、野枝はらいてうの書斎を訪ね、おおかたの話し合いを終えたころ、らいてうが思い出したように微笑みながら呟いた。


「ねえ、燕が大阪から手紙をよこしてよ」

「さう?」

 私は眼をまるくして開いた。

「何時かね、もう、紅吉に脅かされて行つて仕舞つた時に、残(のこり)惜しい気がしたから燕だから時が来ればまた帰つて来るでせうと云ふやようなこと私が云つて置いたのよ、それを忘れずにゐてよこしましたよ」

「さう、今大阪にゐらつしやるの」

「えゝ、もう近いうちに帰るでせう」


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年4月10日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p131~132/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p194)


 三月の末に帝国劇場で公演し大当たりした近代劇協会の『ファウスト』は、五月一日から大阪の北浜帝国座で十日間の公演をしていたので、出演者のひとりだった奥村も上阪していた。

 北浜の旅館・水明館に宿泊していた奥村は、こう回想している。


 ……或る日、孔雀は大阪朝日新聞を持って彼の部屋にはいって来た。

 浩が指差されたところを見ると、学芸消息欄に広岡の病気を伝えている。

 浩は俄に気になった。

 孔雀はすぐに見舞を出せという。

 それで彼は……居どころ知らさず、名前も書かず、女優の誰かに貰った箕面の風景の絵はがきで昭子に見舞を書いた。


 (奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p93)





『青鞜』五月号「編輯室より」には「らいてうは十日ばかり前からひどい熱に苦しめられてずつと床について居ます」とある。

『定本 伊藤野枝全集 第一巻』収録の「雑音」(p194)によれば、らいてうと野枝は奥村について、こんな会話を交わしている。


「だけど、奥村さんってよほど気の弱い方なんですね。あんな紅吉に脅かされて行っておしまいなさるなんて」

「ええ、だけど、紅吉もあのときはずいぶん興奮していましたからね」

「そうですかね。だけど、この前、紅吉に会ったときに、奥村さんとは上山さんのところですっかり仲直りをしたなんて言っていましたよ」

「あの人の言うことですもの、しかし嘘じゃないかもしれないわ」

 野枝はまだ奥村のことを知らなかったので、他に話すこともなく、その話はそれでおしまいになった。

 奥村から絵葉書を受け取ったらいてうは、奥村に手紙を出していた。


 ……近代劇協会と「詩歌」発行所の両方へ奥村の住所を問い合わせると、大塚窪町の新妻莞さんのアドレスを報らせてきました。

 むろんそこが奥村の下宿先と信じたわたくしは、処女出版の「円窓より」に手紙を添えて、その宛先へ送りました。

 奥村はわたしくから離れたとき、「燕ならば季節がくればまた飛んでくるでしょう」と書き送ってきましたが、その季節の春が来て、燕は元の巣に帰ってきました。

 ところがそれは、わたくしの手紙を見たからではありませんでした。

 どういうお考えか、新妻さん気付で送った奥村宛の手紙をこの人は押えてしまい、奥村の手には渡さなかったのでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p473)





 そのころ奥村のねぐらは、築地のむさ苦しい貧乏長屋の二階で、原田潤と同居していた。

 関西を旅していた奥村がそのねぐらに戻ったのは、六月の初めだった。

 らいてうが『円窓より』に添えた手紙の文面は、こうだった。


 燕の来るシイズンがきたのでしょうか、ほんとうに!

 私は何だか夢のような気がして只もうあれから興奮しつづけています。

 どうぞあの頃の私をちょっとでも思い出して見て下さい。

 あのことがどれほど大きく私を悲しませ失望させたかを!


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p99)


 辻と野枝が芝区芝片門前町から、北豊島郡巣鴨町上駒込三二九番地の借家に移ったのも五月だった。

 隣家は『青鞜』の寄稿者でもある野上彌生子の家だった。



★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 13:17| 本文

2016年04月07日

第71回 ホワイトキヤツプ






文●ツルシカズヒコ



 一九一三(大正二)年四月、青鞜社の事務所は本郷区駒込蓬萊町の万年山(まんねんざん)勝林寺から、東京府北豊島郡巣鴨町大字巣鴨一一六三の借家に移転した。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p457)によれば、南湖院の仕事を辞めて青鞜社の仕事に専心することになった、保持の住居の確保のためであり、そして「青鞜」が新聞種になり来訪する新聞記者が多くなり、勝林寺の住職からやんわり立ち退きを言い渡されたからだった。

 院線の巣鴨駅の近く、ひば垣をめぐらした新建ちの三間の借家で、保持の住居も兼ねていた。

 保持、中野初子、哥津、野枝、らいてうが社員の応対に当たった。

 同じころ、岩野泡鳴、清子夫妻も目黒から巣鴨村宮仲に引っ越してきたので、清子もしばしば事務所に顔を出すようになった。

 四月二十日、文部省が婦人雑誌関係の反良妻賢母主義的婦人論の取り締まり方針を決定した。

 そうした官憲の取り締まり強化の中、『青鞜』四月号について警視庁高等検閲係から出頭を命ずる通知が届いた。

 四月二十五日午前十時、警視庁に保持と中野が出向き「日本婦人在来の美徳を乱すところがたくさんある」という注意を受けた。

 特に名指しはされなかったが、当局を刺激したのは、らいてうが『青鞜』四月号書いた「世の婦人達に」だった。


 この小文でわたくしは、良妻賢母主義に対する疑問を提出し、結婚のみにしばられた在来の女の生き方を否定し、現行の結婚制度をーー主として民法親族篇の不条理をあげて、女の新しい生き方を訴えています。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p458)





 野枝は『青鞜』四月号に「この頃の感想」を寄稿している。

 四月二十八日、福島の消印のある封書一通が、巣鴨の青鞜社事務所に舞い込んだ。

 宛名は「事務所内 岩野清子 伊藤野枝 他二名行」とあり、差出人は「ホワイトキヤツプ 党長代理」。

 開封した保持が大まじめに野枝に言った。

「こんな手紙が舞い込んだから、乱暴くらいやられるかもしれません」

 野枝は何が書いてあるのかと思い読んでみた。


 左ノ四名ニ告グ

 汝等ハ偏狭ニシテ「ヒステリイ」的ナル思想ヲ以テ……汝等ノ言ハ常ニ婦人ノ権利ヲ要求シテ、義務ヲ提供セズ……。

 汝等ノ望ムモノハ只、奇激ナル行動及ビ言文ニ依リテ社会ヨリ注目セラレタシト云フ虚栄(虚は誤字)ト岩野抱鳴(抱は誤字)ノ半獣主義ヲ標傍(傍は誤字)シテ己レノ淫心ヲ充タサントスル心ノミナルベシ、汝等対社会ハ、蚤蚊対人間ニ等シク汝等ノタメニ受クル害ハ小ナリト雖モ害ハ害ナリ。

 依テ汝等ヲ左ノ方法ニ依リ全部殺スベシ。

 ……電力ニ依リ、麻酔剤ニ依リ腕力ニ依リ、短銃ニ依リ其他ニ依リテ必ズ殺害ヲ全フスベシ。其期限明言シ難キモ、来月五月一日ヨリ三ケ月間若ハソレ以上ニ渉ル事アルベシ。

 最後ニ、汝等各自ノ死ハ此ノ状ヲ見シ瞬間ヨリ、今ヨリ!!!

 青鞜社中第一期ニ殺スベキモノ

 岩野きよ 林 千歳
 伊藤野枝 荒木いく

 4.27.1913. 

 White Cap.
 ホワイトキヤツプ
 党長代理

 此予告ヲ近時流行セル(日本)ブラツクハンドレターと同視スルモノアラバヨシ右の四人ノ中、何奴ニテモ(モツトモ始メニ)殺害セラレタルトキニ於イテ普通ノ脅迫状ト見シ嘲ヒヲ解ケ。

 我党ノ本部ハ明言シガタシモ准党員ハ九十一名全国ニ渉リテ散在セリ。

    
「編輯室より」/『青鞜』1913年6月号・3巻6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p28~30)


※野枝は〈四月二十六日附〉と「雑音」に書いている。





 野枝はこの脅迫状にこう言及している。


 先づ奇抜な誤字に驚きました。

 驚察なんぞは最もふるつてゐます。

 先づその誤字に印をつけて数へて見ました。

 文字はきれいに極め細かくペンで書いてあります。

 中学あたりに通つてゐる坊ちやんのいたづらか、或は不良少年のいたづら位だらうと思いました。

 とにかくおもしろいと手を叩いて笑つたのです。

 だが林さんを引きづり込んだのはどうした訳だか 一寸見当がつきませんでした。

 青鞜社中でも第一期に殺すべき者なんてありますから、らいてうとでもいふのかと思つたら可笑(おか)しくてたまりませんでした。

 五月一日からとりかゝるさうですが まだ私はかうして編輯室よりを書いたりしてゐますから御安神(あんしん)下さい。

 岩野さんも荒木さんもぶじです。

 林さんもたぶん何事もないだらうと思ひます。

 若し私が編輯室へ出なくなつたらホワイトキヤツプの手にたをれたものと思つて可哀さうに思つて下さい。

 だけども警察もずいぶんですね、ホワイトキヤツプの人たちは大ぜいの人を今まで手に掛けたやうに書いてあるではありませんか、そんな者に横行されては善良なる人間を一番苦しめるのではないせうか。

 私がこう云ひますと、或る人が「ナアニ青鞜社の人たちはいま危険思想だの何だのつてその筋から白眼(にら)まれてゐるのだから却つてホワイトキヤツプの連中に手伝ひしてこの際撲滅しやうなんて云ひますかも知れませんね」と云ひました。


(「編輯室より」/『青鞜』1913年6月号・3巻6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p30)



★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:20| 本文

第70回 荒川堤






文●ツルシカズヒコ



 野枝と岩野清子がらいてう宅を訪ねると、らいてうは折りよく居合わした。

 三人は荒川の方へ歩いて行くことにした。

 本郷区駒込曙町のらいてうの家を出て、駒込富士前町の裏手から田端にかけての道は、野枝がよく知っていた。


 お天気が馬鹿によかった。

 彼方此方に木蓮が咲いてゐた。

 荒川までは大分あつた。

 田端の停車場を出て山の手線の掘割に入らうとする曲がり角近くの断層の処に子供が大勢ゐた。

 平塚さんは小学校の時室外教授に此処に連れられて来たことなどを話した。

 空は綺麗に晴れてゐた。

 私は広々とした田圃道を岩野さんと平塚さんに挟まれて自由に話しながら歩いて行くのに非常な満足を覚えた。

 私は覚えず知らずに愉快になつて声を放つてよく笑つた。

 小台(おだい)近く迄行つたとき平塚さんは、ずつと前によくこの辺に散歩に来たものだと云つて何かを思ひ出すやうな顔付をした。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年2月12日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p88/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p170)


「断層」とは「田端の断層」のことであろう。

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 小台の渡しを渡って荒川堤が見えるようになるころから、三人の後にも前にも花見らしい人たちの姿が続いた。

 荒川堤の桜はまだ六分ぐらいの開き方で、まだ茶屋にもそうたくさんな人の姿は見えなかった。

 三人は川口の渡しの方へとだんだんに上って行った。

 どこまでも行っても桜は尽きなかった。

 野枝はらいてうと清子の間に挟まって歩きながら、本当に子供っぽい気になってはしゃいだ。

 いく度もいく度も洋傘の先で桜の枝を引き下ろしては、美しい花を手折った。

 しかし、野枝はそれをすぐに捨ててしまうので清子に笑われた。

 風がひどくなってきた。
 
 清子は髪に埃がつくのが嫌だと言って、ヴェールを頭からかぶって歩いた。





「栄螺(さざえ)が食べたいわ、食べましょう」

 清子が掛茶屋(かけじゃや)の中を覗き込みながら言った。

「こんなところのはあてにならないわ。アカニシだっていうじゃありませんか」

「そう?」

「こんなところだけでなしに、市内の安料理屋なんかのだって、やはりそうだっていいますよ」

「そうでしょうね、やはり東京じゃ高くて駄目なのでしょうね」

「そうですね、でもたいていの人はアカニシと承知して食べているのですから、アカニシのつぼ焼と書いたらよさそうなものね」

 らいてうはそんなことも言った。

「やはりサザエと言わなければ体裁が悪いのでしょうね。こんど折りがあったら、江ノ島に食べにいきましょう」

「江ノ島なら大丈夫ね。だけどサザエもアカニシも、あんまり味は違わないんですってね」

「そうですってね」

「岩野さん、ずいぶん食べたそうですね」

「ええ、食べたいわ」

「そんなら食べましょうか」

「食べてもいいわ」

 来た道を茶屋の前まで引き返した。

「何だか変ね、よしましょうよ」

「どうして、あなた、食べたいんじゃありませんか」

「だけど変ね」

 そう言ってずんずんまた歩き出した。

 茶屋の若い衆が妙な顔をして三人を見送った。





 野枝たちが話をしながら歩いて行く後から、自転車が走って来て三人を追い抜いた。

 しばらく歩くと、木の下に自転車が立てかけてあり、乗っていた男が野枝たちを見ていた。

 三人は話に気を取られて歩いていた。

 三人が男のそばに近づくと、その男が写真機を持っていることに気づいた。

 直後、その男は三人の姿を写した。

 三人が顔を見合わせていると、その男は自転車をかかえ三人の傍らをすり抜け、大急ぎで駆けて行った。

「まあ、ひどいのね、私たちを写したんですよ」

「いったい、私たちと知って写したのでしょうか。それとも知らずにかしら」

「まさか知ってじゃないでしょう、きっと偶然なんですよ」

「そうかしら、三人が三人妙だから、きっと写したのよ。もし知っているとすれば、またきっと“新しい女の花見”だなんて出ますよ」

「だけど、三人とも講演会には顔をさらしたんだから、知られているのかもしれないわ」

「どんな風に撮れたでしょうね」

「さあ、きっと大変よ」

 目先の景色が変わるように、三人の話題も留まることなくずんずん進んで行った。

 三人はとうとう幾里かの道を歩いて、日暮れに赤羽の停車場に出た。

 電車に乗って腰をかけたときには、本当に三人とも疲れてぐったりした。

 けれども、何とはなしに三人の心は楽しいその日一日に取り交わした談話にやさしく絡まり合って、めいめいに親しい微笑を傾け合った。

 このとき、清子三十一歳、らいてう二十七歳、野枝十八歳である。

 



 らいてうも野枝と清子に突然誘い出されて、綾瀬に菖蒲を見に行ったことがあると回想している。


 こんなとき、きまって清子さんは、厚化粧して、せいいっぱいしゃれこんでくるのですが、この日も、ぼたん色の濃い地色の羽織を着ているのが、おとろえた肌の厚化粧をいっそう目立たせ、さびしいものに見せたのでした。

 清子さんの顔は、平たい大きな顔で、別段美しいという顔ではありませんが、笑うとパッと愛嬌のただよう顔で、なによりも声の美しい人でした。

 ポンポン蒸気に乗って綾瀬までゆき、菖蒲園を中心にあの辺を終日散歩しながら、若い野枝さんのはしゃいだ声に調子を合わせ、清子さんもきれいな声で、よく笑いました。

 その日別れぎわに、「今日は愉快でした。ありがとう」と、挨拶のあとで、「岩野ともう一週間も口をきかないので……」と、ひとり言ともつかずいったことが、そのころ、まだ奥村といっしょになる前のわたくしには、夫婦というものの容易ならぬ葛藤の断面を、見せられた思いで長く心に残りました。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p522)



小台の渡し ※明治後期の荒川堤の桜 ※日本のカメラのはじまり




★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 12:02| 本文

2016年04月04日

第69回 国府津(こうづ)






文●ツルシカズヒコ



『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p449~450)によれば、 一九一三(大正二)年三月、前年暮れの岡本かの子の処女歌集『かろきねたみ』を青鞜叢書第一編として出版したのに引き続き、『青鞜小説集』が第二編として東雲堂から発行された。

 社員の小笠原貞子の自画自刻の装幀本で、野上弥生子ら青鞜女流作家十八名の作品が収録されている。

 しかし、青鞜の講演会は反響を呼んだが、新聞の無責任な記事による被害もまた甚大で、青鞜の「悪評」が人口に膾炙(かいしゃ)されるようになった。

 この受難期に社員の結束を新たにするために、そして世間の雑音に煩わされないために、らいてうらは自分たちを守り育てることに専念すべきだと考えた。

 そのために「青鞜社文芸研究会」と、地方の社員のためにその講義録の発行を計画した。

「青鞜社文芸研究会」はそれまで内輪の社員だけが集まってやっていた研究会を、広く一般から会員を募集し、会費を徴収し、講師陣に講演を依頼するものだった。

 四月開講予定だった。

 しかし、まず会場探しが難航した。


 保持さんがあのふとった体で、文字どおり足を棒にしてあちこち歩きまわり、どこへ行っても、結局、青鞜社では、新しい女ではというので断わられた末、やっと神田のキリスト教青年会館が引き受けてくれホッとすると、あとを追って断わりがきて、ぬかよろこびとなるのでした。

 ある教会では「あたな方はお酒をあがったり、吉原でお遊びになるそうだから」といって断わられ、またあるところでは「お貸しすることはしますが、待合などには使わないで下さい」と、こんな噴飯ものの誤解を浴びせられて、重い足を引きずりながら帰って来た保持さんが、涙ぐんで報告します。

 わたくしたちは、いまさらながら無責任な新聞記事による、被害の大きさに気づきました。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p451~452)


 保持がひと月歩き回った末にやっと会場は確保したが、周囲を慮ってか会員が集まらなかった。

 申し込んだ後のキャンセルもあった。

 計画は頓挫した。

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 そのころの暮らしについて、野枝はこう記している。


 その頃、私達二人はいろ/\な事から芝の去る家の二階を借りて住んでゐた。

 私達は毎日のやうに辛うじて生きてゆくと云ふばかりの困り方であつた。

 さうして丁度私は悪阻(つわり)の為めに不快な日ばかりが続いた。

 私は暗い惨(みじめ)な生活の中にも私を理解してくれる平塚さん岩野さん哥津ちやんに、それから保持さんと云つたやうな人達に取まかれてゐるのが唯一つの私の慰めであつた。

 さうして私達は更に、窮迫に陥る程いよ/\良人との結合を固くすることも一つの喜びであつた。

 私は丁度その頃講演会以後受る不当な圧迫に私達の心は憤りに満ちてゐた。

 私達が多大の労力と熱心とを以て計画した研究会も重なる世間の誤解の為めにとう/\破れてしまつた。

 さうして私達は飽くまで歩調を一つにして各自、一生懸命に勉強しやうと云ふことになつた。

 芝にゐた大分の時間を私は読書に費した。

 私は出来る丈けいろ/\な書物を読んだ。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年2月12日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p86/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p169)





 本郷区駒込蓬莱町、万年山(まんねんざん)勝林寺の青鞜社の事務所に、らいてう、清子、紅吉、野枝が居合わせたときのことだった。

 岩野泡鳴と同棲する前に、清子は失恋から小田原の国府津(こうづ)の海に入水自殺を謀った。

 その話になった。

 森まゆみ『断髪のモダンガール 42人の大正怪女伝』によれば、清子が入水したのは一九〇九(明治四十二)年の夏だった。

 妻帯者だった新聞記者、中尾五郎を熱愛した清子は「私がどうしても欲しいのなら奥さんと別れて下さい」と迫ったが、中尾は清子との別れを切り出してきたのだった。


 この事件が翌日「ハイカラ美人の入水」として住所実名年齢入りで『二六新報』に報じられる。

 茶番ではないかと思えるほど報道は迅速、そして当時のジャーナリズムの人権感覚のなさもこれまた異様である。

 すっかり有名になった清子にストーカーまがいの求婚者もあらわれる。

 泡鳴が清子と会ったのも、興味本位からかも知れない。


(森まゆみ『断髪のモダンガール 42人の大正怪女伝』_p136)





 事務所を出てからも、四人は歩きながらその話をし、紅吉が寄寓している生田長江宅の部屋に行った。

 野枝は清子の話を聞きながら、清子にそんなローマンチックな過去があったことに驚いた。

 それまで野枝にとって清子は硬い感じのする人だった。

 野枝は清子に会うと心がぎこちなくなった。

 らいてうに対しても、彼女がキチンと坐っているときや、電車の中で隣り合わせて腰かけたりするとき、野枝は堅苦しいような感じがしないではなかったが、初めかららいてうに対しては非常に和らかな親しみを持っていた。

 野枝はらいてうのいつも優しいところに引かれていた。

 子供が自分をかわいがってくれる大人に甘えるような、たわいもない気持ちになったりした。

 そのために、紅吉に当たられたことを後になって気づくことが何遍もあった。

 野枝が自分の心を安心して清子に開けるようになったのは、国府津の話を聞いてからだった。

 ローマンチックな愛のために、生命まで投げ出したことが非常な驚異であり、感激であった。

 国府津の海に下駄を脱いでジャブジャブ入って行ったという話を聞いて、野枝はいつもあの汽車の窓から見える国府津の海の色を思い出した。

「ちょうどそのとき、私はこの着物とこの時計を身につけていました。偶然ですが不思議ですね」

 野枝たちはたいがい黙って聞いていた。





 清子の話はなかなか終わらなかった。

 檜町(ひのきちょう)の清子の家に泡鳴が来て共同生活をするようになり、世間からさまざまに言われながら、遠藤、岩野と表札も軒灯もふたりの名前で並べ、とうとう泡鳴の切なる願いによって結婚生活をするまでの経路はずいぶんと時間がかかった。


 平塚さんは、煙草をゆっくり喫(ふ)かしながら微笑をもつてーー又時には深い目の色を一層深くしながら熱心に聞き入つゐいる。

 紅吉もその夜も初めは色々な事を云つて饒舌つてゐたのがそれも沈黙してしまつた。

 私はたゞ不思議な感激に浸つて其話を聞いた。

 一度死んだ人ーー私はそんな奇怪な気持ちにもなつてつく/″\清子さんの横顔をながめた。


 (「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年2月12日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p79/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p166)


 野枝たちはすっかり夜になってから、紅吉の部屋を出た。

 らいてうと清子と別れた野枝は、ひとりで歩きながら、清子の過去をまたつくづくと思い返してみた。

『耽溺』や『放浪』や『発展』を透して見た泡鳴は、現実的で肉欲的な野蛮人である。

 清子は感傷的で伝奇的な背景を持った、厳格なピューリタンである。

 このふたりが一対であることが、野枝の目にいかに奇怪に見えたことか。

 痛々しいほど痩せた清子の傍らに、泡鳴の膏(あぶら)ぎった赤ら顔と精力の満ちあふれるような動作を見ると、いつも野枝は泡鳴に対してある反感を持たずにはいられなかった。

 清子は哥津や野枝にとっては、いつも親切な年長者だった。

 それはらいてうの甘えるような親しい気安さとは違い、厳格な先輩という距離を置いての親しみだった。

 なんとなく近づき難いところがあって、そこになんとなく頼りたさをも覚えさせるものだった。





 桜の咲く時分になると、野枝は悪阻(つわり)がおさまり体調がよくなった。

 目黒に住む清子を訪ねようと思って、野枝は芝区芝片門前(かたもんぜん)町の家を出た。

 その少し前の天気のいい日に、清子とふたりで目黒の苔香園(たいこうえん)からずっと奥に入った万花園(ばんかえん)の方に散歩した。

 その野道の感じがよかったので、また行ってみたくなったのだ。

 野枝が増上寺の大門(だいもん)の電車通りを突っ切って浜松町の山手線の停車場の方へ行こうとしたとき、ちょうど停車場を出て歩いてくる人がいた。

 清子だった。

 ふたりで大門をくぐり山内(さんない=境内)から池の方に歩いた。

 清子はこの二、三日、泡鳴と仲違いをしていて、口をきいておらず、出歩いているのだと話した。

 ちょいちょい、そんなことがあるらしい。

「大久保にいたころにもよくそんなことがあったのだけれど、うちにおいた婆やが近所の人に、うちの旦那様と奥様のように仲のいいご夫婦を見たことがないって言ったそうよ。年寄りなんかには、ちょっとわからないようね」

 と言って清子が笑った。

 昨日は三崎町の荒木郁子のうちに遊びに行って、帰りに三崎神社の中で占いしてもらったという。

 何物にも惑わされそうにない清子でも、そんなことをしてみることもあるのかと、野枝は不思議な気がした。


「占ひと云へばね、岩野の先妻が随分凝つてゐるのよ、子供が皆育つてしまつたら自分は占ひ者になるなんて云つてゐるんですものね、でも信じてゐれば幾分か当る処もあるらしいわね」

 清子さんはそんなことも話した。

 池の畔(ほとり)の茶屋で一と休みしてから二人は山内を斜に、お成門へ出てそれから電車に乗つて曙町の平塚さんを誘ひに行つた。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年2月12日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p87~88/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p170)


 清子と野枝が休んだ茶屋は、高浜虚子が『六百句』の中で「春雨や茶屋の傘休みなく」と詠んだ田川亭のことと思われる。


増上寺絵葉書1 ※増上寺今昔1 ※増上寺今昔2 ※腕時計のはじまり ※腕時計を見せたがる馬鹿の図

※長谷川時雨「遠藤(岩野)清子




★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★森まゆみ『断髪のモダンガール 42人の大正怪女伝』(文藝春秋・2008年4月25日)



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2016年04月03日

第68回 枇杷の實







文●ツルシカズヒコ



 一九一三(大正二)年四月初旬、辻潤と野枝は芝区芝片門前町の間借り住まいをやめ、染井の家での生活に戻った(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p190)。

 上山草人(かみやま・そうじん)の家を訪れた興奮の夜の後も、野枝は紅吉に三回ばかり会った。

 紅吉はあいかわらずらいてうの悪口を言ったが、あの夜ほど興奮してはいなかった。

 巽画会展覧会に出す下描きができたなどの話をした。

 このころ紅吉は根津神社に近い、本郷区根津西須賀町二番地の生田長江の借家の一室に寄寓して、屏風絵の制作に励んでいた。

 荒波力『知の巨人 評伝 生田長江』(p129~133)によれば、長江が根津のこの家に引っ越したのは二年前の一九一一(明治四十四)年六月ごろだった。

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』を初めて日本語に翻訳した長江は、この家を「超人社」と称し、佐藤春夫と生田春月も寄寓していた。

 慶応義塾大学文学部の学生だった春夫が、お使いで出入りする紅吉の妹・尾竹福美(ふくみ)に片恋をしたのは前年、一九一二(大正元)年の秋、紅吉が長江邸に寄寓し始めたころだった。


 野枝の「雑音」によれば、紅吉が長江邸に住むようになったのは、一九一三(大正二)年一月に大森町森ヶ崎の富士川旅館で開かれた、青鞜社新年会から少し経ったころだった。

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 ……紅吉は前々から盛んに広告していたやうに愈々(いよいよ)生田長江さんのお宅に住むやうになつた。

 新しい室に紅吉を訪問した時、彼女は非常な誇りをもつて其処の日当りのいゝ縁側の方の障子をあけて見せた。

 其の室の前は一面の芝生になつてゐて坂の下の根津権現の森が直ぐ鼻の先きにあつて大変いゝ室でした。

「今迄は先生がゐらしたのだけれど態々(わざわざ)私の為に開けて下すつたんですよ」

 さう云つて紅吉は室の真中に座つて、右の手を腰のあたりに当てがつて何時もする様に、胸を張つて室を見まはした。

 室は奇麗に飾られてあつた。

 綺麗な装釘の書物が整然と書架に並べられ、彼女の所謂(いわゆる)「最も芸術的な玩具」が一杯飾られてあつた。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年2月8日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p76/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p164)


「綺麗な装釘」は『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』では「綺麗な装幀」。





「平塚さんとのことが判然と決まったので落ち着けたのです。私は今、仏手柑(ぶっしゅかん)の絵にしようかと思っているんです。紅すずめの絵は見合わせにしました」

「あなたの気に入ったものを描いたらいいでしょう。絵と詩だけは、本当にあなたは立派なものができますよ」

「そうね、詩も自信がないではありません。ああ、このあいだ作った小唄を書いてあげましょうか。あなたは私の字も好きだって誉めてくれましたね」

 紅吉は眼を輝かせて、紙を出しペンを持って「道中」と気どった字で書いた。

 そして、ちょっと首を振って節をつけて吟(よ)みながら書いた。


 春のひくれの戻籠(もどりかご)
 
 めさせ召しませ、のぼりやんせ
 
 どつちもちがふた道ながら
 
 ゆれてゆられてのぼりやんせ

 春の暮方金花鳥の室で 

 K吉

 伊藤のえ様


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年3月27日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p125~126/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p191)






「これをあなたにあげましょう。〈ひくれ〉ってわかって? 夕方のことよ」

「あらそのくらい知ってるわ、ずいぶんね」

「でもわからないといけないから、聞いたのよ。あげましょう」

「そう、ありがとう。大事にしまっておくわ」

「ねえ、おじいさんの顔って実に難しいのよ。おじいさんと子供を描くつもりなんですけれど、たいへんに難しいんです」

「さっき、仏手柑を描くんだって言ったでしょう」

「ええ、まだ定(き)めやしないけど、三つばかり描こうと思うものがあるのよ」

「まあ、そう。ずいぶん気が多いのね」

「だって、できるだけ立派なものを描きたいでしょう。いよいよ描くようになると、生田先生が二階を提供して下さるはずになっているんです」

「私も期待してますよ。できるだけ大きなーーね、いいでしょう」

「ええ、なにとぞ。そのかわり絵が売れたらおごりますよ、どこでも」

「大丈夫ですとも」

 別れ際にすべて忘れ去ったかのように、紅吉は平気でこう言伝(ことづて)した。

「平塚さんによろしく」





「いよいよ描き始めました、見に来て下さい、本当に立派なものを描いてお目にかけます」という葉書が来てから、五、六日して野枝が訪ねると、紅吉は長江の家の二階の画室に案内してくれた。

 広い部屋にいっぱいに六枚屏風を拡げてもう彩色にかかっていた。

 紅吉が完成させた六曲屏風一双「枇杷の實」は、第十三回巽画会展覧会で褒状一等を受賞した。

 中山修一「富本憲吉と一枝の家族の政治学(2)」によれば、ジャーナリストや文化人が参加して、「枇杷の實」の総見が行なわれたのは四月一日だった。

「枇杷の實」は三百円で売れた。

 野枝は「枇杷の實」を見に行く機会を失ってしまったが、多くの人を集めての総見があったという話は方々から聞いた。

 荒波力『知の巨人 評伝 生田長江』には、こう記されている。


 …長江の身近で華やかな出来事があった。

 話題の主は、超人社に同居している尾竹紅吉。

 同年三月二十六日の「東京日日新聞」が、「巽画会への出品作『枇杷の実』完成」の見出しで報じている。
 
 一か月間、二階の部屋に閉じこもって打ち込んだ巽画会への出品作、六曲屏風一双「枇杷の実」が完成した。

 四月一日には、紅吉の知己たちが会場に乗り込んで総見をする。

 総見は、開闢以来の出来事なのだという。

 これは、派手好きな長江のアドバイスではなかろうか。


(荒波力『知の巨人 評伝 生田長江』_p150~151)


 荒波力『知の巨人 評伝 生田長江』の「生田長江年譜」(p441)には、「四月一日、超人社に同居していた尾竹紅吉の屏風絵『枇杷の実』が第十三回巽画会で一等になったので、展覧会場の上野公園・竹ノ台陳列館に出かけて総見」とある。





 らいてうの円窓(まるまど)の部屋でも紅吉の絵の噂が出た。

 そこにいた二、三人はみな、おだてられてはしゃいでいる紅吉の姿を思い浮かべていた。

「思ったほどのできじゃないのね。人物がみななんだかふわふわしていて、ちっとも力がないんですもの」

 らいてうの口からもこんな批評が出た。

「総見なんて下らないことをやったもんですね」

「ああいう人を担ぎ上げるのはいけませんね。勝手に担ぎ上げて、またすぐ下ろすのですからね」

「あんまり騒ぐのは紅吉にとって可哀そうなことなんですね。コキ下ろされるときの紅吉のことを考えると堪らなくて」

「社が誤解されたのは、紅吉ひとりのためなんですがね、それでいてまた私たちのところへ来る人のような気がするし、来たら喜んで手をとりたい気がしますね」

「もう少し真面目になれば、立派なあの天分を伸ばすことができるんでしょうにね、おしいわ」

「絵だって本式にはいくらも稽古してないんでしょう、それであれくらいのものが描けるんですからね」

「詩だってなかなかいいのができるわ」

「だけど、説明には恐れ入るわね。このあいだもね、私の家に朝っぱらから来てね、小唄を作ったからって。それを書いて、さて、その説明よ。『ぬれて』って文句があったのよ。ちょいと『ぬれて』って文句どおりに雨に濡れるってことだけじゃないのよ、他にも意味があるのよって、わざわざお断りなの。まあ、それっぱかしのこと知らないでどうするもんですかって言ってやるとね、それだってもしわからないと、この小唄がみんな滅茶苦茶になってしまうからって澄ましているんですもの、ずいぶんだわ」





 哥津ちやんが可笑しさうに思ひ出し笑ひをするのでも皆も一どに笑つた。

 私も「春のひくれ」にきかされた説明を同じやうに思ひ出して笑つた。

「しかし、たまに描いた絵をあんまりよくもないのにあゝ持ち上げて他で騒いでは此先、紅吉にいゝ絵も詩もなか/\出来なくはないかしら」とは皆心配したことであつた。

 紅吉はもう早く、私達のサアクルからは離れた人であった。

 けれども私たちーー平塚さんを始め、小母さんでも哥津ちやんでも私でもーー皆紅吉の事と云ふと他事でなく気にしたり心配したり親身に思つたのであつた。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年3月27日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p130~131/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p194)



★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★荒波力『知の巨人 評伝 生田長江』(白水社・2013年2月10日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)




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2016年04月02日

第67回 ファウスト






文●ツルシカズヒコ



 奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(p78~)によれば、奥村と声楽家の原田潤が出会ったのは一九一二(大正元)年十一月、文芸協会公演のバーナード・ショーの喜劇『二十世紀』を有楽座で観劇しているときだった。

 幕間にふとしたことから言葉を交わしたふたりは、急速に親しくなり、十一月末に千葉県安房郡富浦に旅に出て、そこの漁村にしばらく滞在した。

 年が明けて梅の花の散るころ、原田に電報が届いた。

 近代劇協会公演の『ファウスト』への出演の誘いだった。

 芝居に興味があった奥村はアルバイトの必要に迫られていたこともあり、原田の勧めで試験を受け、一座に加えてもらったのだった。

 このあたりの経緯は、『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(P471~472)にも詳しい。

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 紅吉は戸惑うどころか、過去のことを容易に忘れ、奥村との再度の出会いを単純に喜び、こんなことまで言い出した。

「私と奥村さんは初めたいへん仲がよかったんですよ。らいてうさえいなければ、仲のよいお友達だったんです。ああなったのだって、平塚さんが奥村さんを誘惑したのですよ。明日見えたら、私がよろしく言いましたって、そう言って下さいな。あのことはなんとも思ってはおりませんってね。なにとぞお願いします」

 野枝はよくもこんなこじつけができるもんだと呆れ、同時に自分の気持ちの矛盾に一切無頓着なのが紅吉の性格をよく現しているので、おかしくなってしまった。

「何かあるの?」

 ニヤニヤ笑っている野枝に紅吉が言った。

「なんでもないのよ」

「そう、だって笑ってるじゃありませんか」

「いいえ、ちょっと思い出したことがあったから」

 野枝は紅吉のように純粋な感情だけで生きている人は珍しいと思った。

 努めてもあそこまで無責任にはなれるものではないし、紅吉の唯一の強みかもしれない。

 
 どんな事をしても紅吉だから許された。

 紅吉位うそを巧みに云ふ人は少かつた。

 心にもない嘘をつくと見えて実はそれを口にするときにはどんな柄にない事でもきつと紅吉の心では真実性をもつてゐた。

 けれどその気持が通りすごすや否やもうそんなことは一つも価値のないことになつて仕舞ふのであつた。

 従つて、自身と他人の区別なく過去に対しての責任と云ふものは全然持ち得ない人であつた。


 (「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年3月13日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p122~123/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p189~190)





 紅吉は顔を輝かせながららいてうのもとに飛んで行き、手柄顔に奥村のことを伝えたという。


「早く会ってあげたらどうですか」などという紅吉の、まるで矛盾した言葉は相変わらずのことですから、怒る気にもなりません。

 紅吉のもたらしてくれたこの「燕」の消息は、やはりわたくしの胸いっぱいに、大きな波紋となって広がるのでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p470)


『ファウスト』は一九一三(大正二)年三月二十七日から三月三十日まで帝国劇場で上演され、帝劇始まって以来の大入りの盛況だった。

 近代劇協会から招待されていたらいてうは、三月二十七日の初日に帝国劇場にひとりで出かけた。

 奥村は「アウエルバッハの窖(あなぐら)の学生・酒場」の学生に扮して、鼠の歌を歌っていた。


 舞台の上で、無心に自分の演技にうちこむ彼の姿を、座席からひとり眺めることで、わたくしは満足しました。

 ふたたび彼を見ることができたことに十分心足りて、ひとまず自分の来たことだけを告げるために、幕間に、真紅の小さなバラの花束を楽屋へ届けて、彼とは会わずに帰りました。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p471)





 奥村は彼の楽屋の化粧鏡に置いてあるバラの花束に名刺が添えられていないので、誰から贈られたものかわからなかったが、伊庭孝かららいてうが観に来ていると教えら、からかわれたので、事情を察した。

 上山草人夫妻は、奥村とらいてうのロマンスを奥村に会う前から知っていた。

 紅吉が吹聴していたからである。

 衣川孔雀は奥村を「燕さん」と呼んで、奥村をまごつかせた。

 そして、奥村は飄々とこんな回想もしている。


 西嶋は珍らしがって二度も浩の楽屋を訪ねた。

 詩人の山村暮鳥を連れても来た。

 山村はすぐその後に詩を書いたはがきを彼によこしたが、彼は自分にデディケエトされたその詩から暗い感じを受けたのを喜ばず、そのまま屑篭に投げ込んでしまった。


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p90)


「西嶋」とは新妻莞のことである。



★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)



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第66回 上山草人





文●ツルシカズヒコ



 一九一三(大正三)年二月二十日、哥津の家で紅吉がらいてうについて散々語った日ーー。

 しゃべった紅吉よりも、野枝はすっかりくたびれて荒木郁子の火事見舞いどころではなくなり、日も暮れたので家に帰ることにした。

 野枝が立ち上がると、紅吉も一緒に行こうと言って野枝より先にさっさと出てしまった。

 ふたりは牛込見附から赤坂見附行きの電車に乗った。

 野枝は外濠線の電車の中で居眠りをするつもりだった。

 しかし、紅吉のらいてうへの悪口は止まなかった。

 しかも、哥津の部屋でしゃべったことの繰り返しだった。

 野枝はフンフン頷きながら聞いてはいたが、紅吉のあの突発的な声が車内の視線をふたりに集中させるので、はらはらした。

 野枝は土橋まで我慢した。

 電車を降りて帰ろうとすると、紅吉は野枝を食事に誘った。

 興奮している紅吉は独りにされることを恐れていた。

 食事をすますと、今度は紅吉がしばしば出入りしている、近代劇協会を主宰している上山草人(かみやま・そうじん)のところに連れて行かれた。

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 野枝は草人にはパウリスタで人を通じて紹介され、青鞜社の講演会の慰労会の席でも会ったことがあった。

 草人は坪内逍遙の起こした文芸協会演劇研究所第一期生で、松井須磨子は同期生だった。

 しかし、文芸協会とは折り合いが悪く、退会して近代劇協会を立ち上げた。

 草人の妻は女優の山川浦路だが、女優の衣川孔雀(きぬがわ・くじゃく)は妻公認の愛人だった。

 化粧品開発に熱心だった草人は、新橋駅近くの自宅階下に「かかしや」という化粧品店を開店し、草人が考案した眉墨は人気を集めていた。

 谷崎潤一郎によると、「かかしや」の商品は以下のような感じだったらしい。


 化粧品と云つても外のものは一向売れもしなかつたが、彼が薬を調合して作ったという眉墨だけが割りに売れてゐた。

 此れを草人は「碁石型浦路眉墨(ごいしがたうらぢのまゆずみ)」と名づけて、自分の発明品だと云つて威張つてゐたが、この眉墨のお陰でどうやら暮らしを立てゝゐた。

 その外には紀州熊野の名産である「音無紙」と云ふ桜紙のやうな紙を扱つてゐたのが、ぽつ/\売れてゐたゞけであつた。


(「老俳優の思ひ出」/『別冊文藝春秋』1954年1月号/「上山草人のこと」に改題し『谷崎潤一郎全集 第十七巻』収録_p27~28)





 帝劇に出ていた浦路は出かける時間だからと言って、すぐに出て行った。

 孔雀はお店に座って眉墨か何かをしきりにいじっていた。

 二階に通されると、紅吉は野枝がうんざりするほど聞かされた、らいてうの話を草人に立て続けにしゃべり始めた。

 草人も紅吉の尾について、らいてうへの反感を語り出した。

 まだらいてうを単純に尊敬していた野枝は、こうした人たちがらいてうに悪い感じを持つということが不思議な気がした。

 そのころ、近代劇協会では森鴎外訳『ファウスト』の稽古が始まっていた。

 野枝が疲れた頭でいろいろ勝手なことを考えているうちに、いつのまにか『ファウスト』の話になった。

「原田という方がお入りになったって本当ですか?」

 野枝はひとりだけあまり話に加わらないと変に思われそうだったので、新聞の消息欄で読んだことを聞いた。

「ええ、今、一生懸命に稽古をしてるんですよ。そういえば、紅吉、若い燕が入ったことを知っていますか?」

 上山は半ば野枝に、半ば紅吉に向かって言った。





「えつ、若い燕つて、本当にさうですか、奥村さんですか」

「えゝさうですよ」

「いゝえ、ちつとも知りません、さうですかそして今あなた方と一緒に稽古をしてゐるのですか」

「えゝさうですよ、なか/\熱心です。」

「どうして這入つたんです? どうして?」

「原田君の紹介ですよ」

「今迄、何処にゐたのでせう」

「何でも千葉県に原田君と一緒に暮してゐたのださうですよ、彼の人はまるで女ですねどう見ても女だ」

「さうでせう、だけど不思議ですね、今夜は来ないんですか?」

「えゝ来ないでせう、愛宕下にゐますよ毎日通つて来ます」

「さうですかね、何だか変ですね」

 紅吉は好奇的な眼をかゞやかしてすべてのことを忘れ果てたやうに上山さんを捉へては根ほり葉ほり奥村さんのことを聞かうとした。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年3月13日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』p119~120/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p187~188)


上山草人2 ※衣川孔雀2 ※森鴎外訳『ファウスト』 ※『ファウスト』あらすじ



★『谷崎潤一郎全集 第十七巻』(中央公論社・1982年9月25日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




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第65回 平塚式






文●ツルシカズヒコ



 三人の話題はいつしか、らいてうのことになった。

「紅吉はね、とうとう平塚さんとは絶交よ」

「そう、どうして? 本当? 手紙でもよこして?」

「ええ、手紙が来たんです。私はなんとも思ってやしません。これから落ちついて勉強するんです。生田先生もたいへん私のために喜んで下さいました」

 野枝は『青鞜』に関わるようになってから、なにかすっきりしないままのらいてうと紅吉と西村のことを考えていた。

 野枝はらいてうと紅吉が、どのくらいまでにいった間柄なのかよくは知らない。

 けれども、ふたりが親しみ合ったことは事実だろう。

 言うことなすことがすべてその場の気分次第である紅吉に、野枝は怒らずにはいられないことがたびたびあった。

 しかし、らいてうは紅吉のそういう気紛れと突飛な行為に、いつも理解を示し寛大だった。

 この点に関して、紅吉はらいてうに一番感謝しなければならない。

 そういうらいてうに紅吉は愛着を持っていたが、同時に不満と疑惑と不安も抱いていた。

 その理由が野枝には最初のうちはよくわからなかったが、次第に見えてくるものがあった。

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 いつでも自分を紅吉より一段上に置くらいてうには、紅吉に対する愛はあっても、自分を忘れるようなことはなかった。

「愛してやる」位置から決して動かなかった。

 だから紅吉に対する理解も寛大さも、野枝や哥津の目にはそっぽを向いて相手にしない調子に見えた。

 らいてうの西村への接し方にも同様のことを感じた。

 そういうらいてうのことを、哥津も当人の紅吉もわかってはいる。

 哥津が言った。

「あんな遊戯的な恋愛が、いつまでも続くものじゃないわ」

 紅吉が続いた。

「ずいぶんふざけたがるのが、あの人のいけないところなんです。あの人の恋愛は片手間なんです。それに気づかなかった私が馬鹿なんです」

「本当にあの方に悪ふざけする癖さえなければ、本当にいいのにね」

森田さんとのことどう思う?」

 紅吉が考え深い顔をして野枝の目を見つめた。

「そうね……」

 野枝はちょっと躊躇したが、すぐに答えた。





「他人の恋愛に立ち入るのは間違っていやしないかと思うけれど、私はこう思うのよ。平塚さんに言わせればずいぶん嘘が書いてあるかもしれないけれど、あるところは非常に正直にありのままを書いていると思うの」

「あなたもそう思う? 平塚さんの方が確かにエライと思う。エライというのは、人が悪いという意味ですよ。平塚さんは初めから死ぬ意志なんか少しもなかったんですよ」

「そりゃ草平という人だって、その点はわからないわね」

「だけど、なんでも平塚さんは繃帯(ほうたい)なんか用意して行ったっていうじゃないの」

「まさか、そんはこともないでしょう」

「いいえ、それは本当なんですって、やはり狂言だわ」

「私はあのときのように嫌な気がしたことはなかったわ」

「なあに?」

「哥津ちゃんが西村さんにあげた手紙を、平塚さんが持っているって聞いたときよ」

「へえ、そんなことがあるんですか」

 紅吉は目を丸くして野枝の顔を見つめた。

「え、紅吉、知らなかったの?」

「知らなかった。そのくらいのことはしかねない人よ、あの人は。だけど、ずいぶんひどいわね」





「ええ、けれどね、私が腹の立つのは西村さんよ。ごめんなさい、哥津ちゃん、西村さんの悪口なんか言って。だけど西村さんは本当に意気地がないわ。平塚さんが持って来いって言ったって、はねつけてやればいいじゃありませんか。それを麗々と持っていくなんて、実に気のきかない話だわ」

「だって断れなかったんでしょうよ」

 哥津は仕方なしにそう言って、火鉢の中をかき回した。

「本当に平塚さんって人が悪いのね」

「ええ、だけど平塚さんはいったいそんなふうな人なのよ。そんなことを言うのは、またなんとも思っていないのだわね」

「そうね、平塚さんが私に言えば、それが哥津ちゃんに伝わるのが見え透いているじゃありませんか」

「そのところが平塚式なのよ」

「西村さんとだって、いつまで続くか疑問だわね」

「でも西村さんって人、承知でおもちゃになっているんなら、なおさら気がきかないわね」





「平塚さんだって、そんなに期待されているほど決して偉くはないんですよ。それは私が一番よく知っているんです。あの人に独創なんてものはないんです、ただ普通の人なんです。ただね、他の女友達よりも悧巧で大胆なんです。あの人はいつでも弱点を見透かされない用意ばかりしているんですよ」

 紅吉は興奮して眼を光らせながらひと息に話し出した。

 野枝もいつのまにか紅吉の興奮に引き込まれてしまった。

 野枝たちは哥津の部屋で日が暮れるのも知らずに話しこんでいた。

 けれども、野枝はらいてうの側になって考えてもみる。

 らいてうは紅吉に絶交を宣告したが、それは冷静な判断だと思える。

 らいてうは、紅吉をもっと真面目な立派な芸術家にしたいと願っているのだ。

 紅吉が生田長江の家に寄宿するようになったころから、紅吉は彼女を取り巻く有象無象にらいてうの悪口をぶちまけ、そして有象無象はそれを安易に信じこみ喜んだ。

 らいてうもここにきて、寛大であることを断念せざるを得なくなり絶交を宣告したが、それは至極、自然な道理である。

 紅吉は無茶苦茶にらいてうの悪口を言っているが、彼女の本心はらいてうへの愛からどうしても逃れられない。


 紅吉はそれを考へまい/\として無闇としやべつた。

 その執着から逃れたいばかりに只すべての平塚さんに対するいゝ思ひ出を打ち消すさうと骨を折つた。

 それは平塚さんの悪い所ばかり取り立てゝ並べやうとした。

 私は幾度もおなじ事をならべてゐる紅吉の顔を痛ましく眺めやつた。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年3月13日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p116/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p186)



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:51| 本文

第64回 神田の大火






文●ツルシカズヒコ



 一九一三(大正二)年二月二十日、午前一時二十分ごろーー。

 神田区三崎町二丁目五番地(現在の千代田区神田三崎町一丁目九番)の救世軍大学植民館寄宿舎付近より出火した火の手は、折りからの強風に煽られながら朝八時過ぎまで燃え続けた。

 全焼家屋は二千三百以上、焼失坪数は四万二千坪以上の被害を出した「神田の大火」であった。

 このころ、辻潤と野枝は染井の家を出て、芝区芝片門前町の二階家の二階に間借り住まいをしていた。

 芝には四月初旬まで住んだ(「雑音」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』p190)。

 大火の夜、辻と野枝は半鐘の音で目を覚ました。

 すぐに窓の戸を開けた。

 火事はかなり遠くのように思えた。

「どこいらにあたるでしょうね」

「そうさな神田へんかな、それともーー」

「荒木さんが焼け出されてるのかもしれないよ」

「まさか」

 野枝たちは冗談を言い合いながら、そこに立って非常な勢いで燃える火で真っ赤になった空をいつまでも見ていた。

「だいぶひどいらしいな。ちょっと止みそうにないや、寒い寒い、もう閉めようじゃないか」

 ふたりは遠くの火事を気にすることもなしに再び眠った。

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 翌朝、ふたりが起きたときに、いつもは早くから出かけてしまう階下の小母さんは、まだ火鉢の前に座っていた。

「おはようございます、火事がまあずいぶん大変でございますね。神田だそうですよ、なんでもまだ焼けているそうでございます」

「おや、まだでございますって、どこいらでしょう」

「なんだか三崎町の耶蘇の何かの家から出たのだそうですよ、今、鎌倉河岸(かまくらがし)まで焼けてきたそうです。それから九段の下から一ツ橋の方へもまわっているそうです。ずいぶん大変じゃありませんかねえ」

「それじゃ、きっと荒木さんの家も焼けましたでしょうね」

「うむ、むろん焼けたろうな」

「大変だわ、私行って来ようかしら」

「どなたかお友達でもいらっしゃるのですか」

「ええ、哥津ちゃんのところまで行けば様子がわかるでしょうね」

「そうだな、行ってみるといい」

 朝のご飯をすますと、野枝は大急ぎで麹町区富士見町五・十六の哥津の家に出かけた。   





 哥津の部屋に通ると、紅吉がマントを着た広い背中をこちらに向けて座っていた。

「さっそくだけど、荒木さんのうち大丈夫?」

「ええ、荒木さんのお家は大丈夫なのよ、私の学校は丸焼けよ」

 仏英和高等女学校に通っている哥津は、座るとすぐにそう言った。


「もう行つて来て、まだ焼けてゐるの」

「もう止んぢやつたわ、私もう今朝すつかり行つて来たの、それや大変よ、学校なんて、何一つ出てゐやしないのよ、ピアノから何から皆ーーずゐぶん惜しいことしちやつたわ」

「彼処(あすこ)の救世軍の寄宿舎から出たつて本当」

「えゝ、彼処からだわ、随分だけど広がつたものね、私の学校のマスールの云ふ事がいゝわ、何事も神様のお思召(ぼしめし)ですつて、他所から火事を貰つて焼け出されて、思召しもないもんだわね」

「其処が宗教家の立派さでせう」

 黙つてゐた紅吉がいきなり口をはさんだ。

「それやさうかもしれないけど馬鹿気てるわ、でも可愛さうだつたわ、私たちが今朝はいつてゆくとね、若い見知らない仏蘭西人(ふらんすじん)の女の人がウロ/\してゐるんでせう、何だかちつとも様子が分らないつて風してゐるから私挨拶したら一昨日仏蘭西から着いたばかりなんですつてさ」

「まあ気の毒だわね、そしてどうしたの、来る早々から焼け出された訳なのね」


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年2月21日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p104/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p179~180)


 しばらく火事場の話が続いた。

 中尾富枝『「青鞜」の火の娘ーー荒木郁子と九州ゆかりの女たち』(p78~79)によれば、神田区三崎町二丁目にあった救世軍大学植民館寄宿舎から出た火は、三崎町一、二丁目、猿楽町に延びたが、荒木郁子の玉名館があった三崎町三丁目はすんでのところで火の手を免れた。

 荒木は『青鞜』三月号に近火事見舞御礼の広告を出した。


仏英和高等女学校2 ※仏英和高等女学校3



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★中尾富枝『「青鞜」の火の娘ーー荒木郁子と九州ゆかりの女たち』(熊日出版・2003年6月24日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 12:50| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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