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2017年06月24日

第450回 大杉栄追想






文●ツルシカズヒコ



『改造』一九二三年十一月号は「大杉栄追想特集」を掲載している。

 七十七頁にわたる大特集である。

 以下、執筆者と寄稿文のタイトルである。


 山川均「大杉君と最後に会ふた時」(目次は「大杉君と最後に会つた時」)

 村木源次郎「ドン底時代の彼」(目次は「どん底時代の彼」)

 安成二郎「かたみの灰皿を前に」

 山崎今朝弥「外二名及大杉君の思出」(目次は「外二名及大杉君の思ひ出」)

 和田久太郎「無鉄砲強情」

 賀川豊彦「可愛い男 大杉栄ーー悪口云はれても悪い気はしないーー」

 岩佐作太郎「飯の喰へない奴」(目次は「飯の食へない奴」)

 堀保子「小兒のやうな男」(目次は「小兒の様な男」)

 魯庵生「第三者から見た大杉」(目次の署名は「内田魯庵」)

 松下芳男「殺さるゝ前日の大杉君夫妻」(目次は「殺される前日の大杉君夫妻」)

 土岐善麿「印象二三」

 近藤憲二「大杉君の半面」

 馬場孤蝶「善き人なりし大杉君」

 宮島資夫「追憶断片」

 有島生馬「回顧」

 久米正雄「一等俳優」


(『改造』一九二三年十一月号)

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 同誌同号の表四(裏表紙)には、十一月二十四日に改造社から発行された、大杉栄の著書『自叙伝』の広告が載っている。

 以下、そのコピー。


 一代の風雲児大杉栄君の一生は、殊にその最後は劇的のものであつた。

 氏が尤も意を籠めたと称さるる本書が、君の代表的作物であるばかりでなく、本書によりてのみ、氏の人格的全相を知り得べく、そして氏の生立がいかに革命的雰囲気に満ち、そしてその作物が一個の創作としても恥しからぬ価値を有するは具眼者の均しく認識する所である。

 大正大震災の半面を劇的に強く彩つた大杉君、その大杉君の風貌は本書によりて躍如たるものがある。


(『改造』一九二三年十一月号)





 なお同誌同号には、吉野作造が「甘粕事件の論点」を寄稿している。

 当時、吉野は東京帝国大学法学部教授である。

 その冒頭にこうある。


 甘粕大尉の減刑運動及び之に感じた調印を犯罪行為だと僕が云つたと或る新聞に出たとて、いろ/\の人から詰問を受けて閉口してゐる。

 この機会を利用してこの点を簡単に弁明さして貰ひたい。


(吉野作造「甘粕事件の論点」/『改造』一九二三年十一月号)


 吉野は治安警察法、直接行動(※超法規的暴力のことと思われる)、軍隊主義(軍法会議)、新聞雑誌に対する掲載禁止、アメリカ国籍である橘宗一などの問題を論じている。







●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 02:57| 本文

2017年06月22日

第449回 女らしい女






文●ツルシカズヒコ




『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号の特集「殺された野枝さんの事」。

 五十里幸太(五十里幸太郎)は「世話女房の野枝さん」を寄稿している。

 五十里は辻潤とは「子供の時からの知り合ひ」だったという。

 五十里が初めて野枝に会ったのは小石川の指ケ谷の「辻君の叔母さんの家」だった。

「辻君の叔母さん」とは辻の母・美津のことかとも思えるが不明。

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 其処(そこ)での僕の彼女に対する第一印象は、寧ろ予期に反したものであつた。

 ……青鞜社に関する概念や、僕が瞥見した其の時分の平塚雷鳥女史、尾竹紅吉女史等から受けた感じから想像してゐた野枝さんと、初対面の野枝さんとは非常な相違があつた。

 野枝さんは無邪気さうな愛嬌のある顔と、大きな可愛いらしい目と、いゝ髪毛の持主で、何処となく家庭的の女といふ風だつた。

 その時から僕は彼女に親しめるやうに思つた。


(五十里幸太「世話女房の野枝さん」/『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号)



 五十里が野枝に二度目に会ったのは「指ケ谷町の辻君の家、即ち青鞜社」だったというから、野枝が『青鞜』編集長時である。


 ……野枝さんの手料理の馳走を受けた。

 それから時々其処へ訪れる毎(ごと)に、彼女が子供の世話をしたり、洗濯をしたり、台所を働いたり、原稿を書いたりしてゐるのを見た。

 原稿を書いて居る時は別だが、其の他の場合に受けた僕の印象は、野枝さんは普通の家庭の女、悪く云へば所謂(いはゆる)良妻賢母だといふことに過ぎなかつた。


(同上)





 辻と同棲していたころの野枝を、五十里はこう記している。


 野枝さんはハイカラなものも食ふし、西洋の歌も唱(うた)ふ。

 然(しか)し一緒に居た辻君のお母さんが生粋の江戸つ子であつた故か、江戸前の食ひ物も好きだし、長唄も唱ふし、三味線も少しは弾いた。

 辻君のお母さんは長唄と哥澤(うたざわ)に長じて居て、唄好きの僕の妹が好きで……僕は妹同伴で出掛けたことが度々あつた。

 其の時は、野枝さんも大いに唱ひ、大いに弾(ひ)いたものだ。

 たゞこの時分から僕が野枝さんに反感を持つのは、彼女が江戸つ子の僕に対して、江戸前の食ひ物の通(つう)を振り廻すことだ。

 洋食に関しても同様の場合が可成りあつた。

 然し新しい女と世間から思はれてゐる彼女が、全く下町の女らしい気分に浸つて終(しま)ふ時は、僕も思はず拍手したいやうな気持ちになつた。


(同上)





 五十里は大杉とも「永い知己であつた」という。

 五十里の妻の父親が大杉の父親・東と軍隊の同僚だったこともあり、大杉と「妙に近親的な私交があつた」からだ。

 辻とも大杉とも親交があった五十里は、意外なエピソードを披露している。


 指ケ谷町時代の終り頃に、大杉君は辻君の家に二三回遊びに行つた。

 野枝さんはその頃農民問題について何か考へて居たので、大杉君に共鳴してゐた。

 辻君と大杉君とは決して仲が悪くはなかつた。

 ……遂に辻、大杉、野枝の三人は、実際超人的(?)の諒解の下に、辻君は野枝さんを離別し、野枝さんは大杉君の下に走つたのである。

 最初野枝さんの隠れ家は、荒木滋さんの玉名館(ぎよくめいくわん)といふ神田三崎町の旅館だった。

 その頃大杉君は九段上の第五福四万館に下宿して居た。

 一夕(せき)何の酔興(すいきよう)でか、僕は辻君を恋敵大杉栄の下宿に誘つた。

 そして三人車座になつて痛飲した。

 全然酒のいけない大杉君も、盃を重ねること三度(たび)、辻くんは徐(おもむ)ろに腰間の尺八を取り出して、千鳥の曲を奏したといふ内緒話は、誰も御存知あるまい。


(同上)





 五十里によれば、辻と離婚した後の野枝と一(まこと)、辻家との関係は悪くなかったようだ。


 このまあちやんは此の間の甘粕事件の時に、柏木の大杉の家へ焼香に来たが、随分大きくなつて、親父(おやぢ)やお袋よりも悧巧ものゝやうに見受けられた。

 扠(さ)て辻君の家は其後、下谷稲荷町に引越した。

 辻君は例によつて、天蓋(てんがい)を我がものと心得て飲み歩いてゐる。

 留守はお母さんと子供だけである。

 其処で野枝さんが時々安否を訪ねて行つた。

 お母さんも野枝さんもお互ひにお互ひが好きであつた。

 或る時はお母さんが、大杉家を訪れることもあつた。

 嫁と姑とが、斯うした行きがゝりになつた時にも、斯(か)くも親しくあつたことは、よく彼等の一面を語つて居るではないか。


(同上)





 しかし、五十里は野枝のよさをその「世話女房」的なところに見出している。


 その後の野枝さんは、大杉君の妻女として家事向きの事や、二人の間に出来た四人の子供の面倒を見る事に忙しかつた。

 その片手間に原稿を書いた。

 労働運動にもなつた(※ママ/「もになつた」か?)。

 しかし野枝さんは、矢張り女らしい女、普通の世話女房としての好さを多く持つて居たやうに思はれる。

 私はエレン・ケイを論じ、エマ・ゴールドマンを云々する洋装の野枝さんよりも、無邪気に端唄(はうた)に合せて三味線を弾く下町気分の時の野枝さんの方が遥かに好きであつた。


(同上)


 五十里は菊富士ホテルで野枝に殴る蹴るの暴力をふるったりして、野枝とはずいぶん喧嘩もしたがすぐに和解し、ふたりの交友は彼女の死の直前まで続いていたという。





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:00| 本文

2017年06月20日

第448回 ゴルキイの『母』






文●ツルシカズヒコ




『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号の特集「殺された野枝さんの事」。

 和田久太郎は「僕の見た野枝さん」を寄稿している。


 僕は『青鞜』時代の野枝さんを知らない。

 大杉君との恋愛が始まつた頃の野枝さんも、謂(いは)ゆる『葉山事件』前後の野枝さんをも、全(ま)るで知らない。

 千葉病院を大杉君が退院してから、二人はあらちこちらの下宿をさまよつた末に巣鴨の宮仲へ家を持ち、長女の『魔子ちやん』を産んで、大晦日の晩に夜逃同様の姿で亀戸に移つた。ーーその亀戸時代以後の野枝さんしか知らない。

 大正七年の春ーー、野枝さんが廿四で、大杉君が丗四だつた。

 それから今年の震災のドサクサ紛れに憲兵隊で惨殺されるまで、僕は一緒に暮らして来た。


(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号)

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 上記の書き出しから、まず「亀戸時代の野枝さん」に筆は進んでいる。

 野枝の三味線の爪弾きの思い出も、亀戸時代だった。

「田端、曙町時代の野枝さん」は、和田にとって「野枝さんの一等よかった時代」の思い出であり、第一次の月刊『労働運動』を発行していたころである。

 和田の筆は「嫌やな性質を発揮しだした」「鎌倉以後の野枝さん」へと進み、逗子時代についてもこう記している。


 ……逗子へ引越した時分には、殊(こと)に昨年の暮に大杉君がフランスへ行つた留守中には、労働運動社へ遊びに来る労働者諸君にさへ、『フン』と云つたやうな、鼻であしらふやうな態度をさへ見せだした。

 社の同人は、皆んな横を向いて眉をひそめねばならぬことが度々あつたのだ。

『大杉君の名声が野枝さんをして慢心せしめたのだ』と、或る同志は嘆じて云つた。

 僕も亦(また)、至言だと思ふ。


(同上)





 和田は野枝の身近にいた同志のひとりだったが、野枝とは折り合いが悪かったと言われている。

 それだけに、野枝の死の直後に身内が言いにくい「貴重な証言」を残したのかもしれない。

 和田の寄稿は「いろ/\の追想」で結ばれている。

 それは野枝が料理上手だったことなどに続けて、以下である。


 又、野枝さんは非常なやきもち屋だつた。

 大杉君と女郎買いに行つた馬鹿話しなどをうつかり聞かれようものなら、後で大杉君が大変だったのだ。

 こんどフランスへ行つた時にも『或る女と一緒に飛び廻つてゐる』といふ大杉君の通信に対して、何か野枝さんは変な事を言つてやつたらしい。

 それに対して大杉君がウンと野枝さんを怒鳴り付けたフランスからの手紙が最近見付かつた。

 野枝さんは字がうまかつた。

 男のやうな字を書いてゐた。

 落書きする時なんか、『山の動く日来(きた)る』といふ文句を、よく大きな字で書いたものだつた。

 野枝さんは小説が好きだつた。

 ゴルキイの『母』は何度読んでもいゝと言つて居た。

 また、アンドレエフの『星の世界』に出て来る何んとかいふ女と、地球をさゝげるやうな恰好(かつこう)をする何んとかいふ労働者とが大好きだ、とも話してゐた。

 野枝さんの著書には、旧く青鞜社時代に出した『婦人解放の悲劇』がある。

 エマ・ゴウルドマンの翻訳だ。

 それから『乞食の名誉』といふ大杉と共著の小説集がある。

 同じく大杉君と共著の『二人の革命家』がある。

 大杉君の『クロポトキン研究』の中にも、『悪戯』の中にも、野枝さん署名のものが大分ある。

 これは大分前だが、シヨウの『ウオウレン婦人の職業』を抄訳して十銭本か何かで出した事もあつたやうだ。


(同上)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 23:38| 本文

2017年06月03日

第447回 自然女






文●ツルシカズヒコ






『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号の特集「殺された野枝さんの事」。

 平塚らいてうは「私の見た野枝さんといふ人」を寄稿している。

 以下、全文の引用。


 感情の自由、思想の独立、個性の尊重といふやうなことは明治の終りから大正の始め我が婦人運動の初期に於て私共がしきりに要求したことですが、丁度その頃私の前に突然現はれて来た野枝さんは日本婦人には珍らしいほどに感情の自由性を生れ乍(なが)らもつてゐる人でした。

 私が最初野枝さんに引きつけられ、あの人の快活なキビ/\とした性格に興味と愛をもつたのもこのためでした。

 全くあの人は自分自身の偽ることの出来ない自由な感情に生き、そのために肉身を捨て、友と離れ、世間にそむき、三度(みた)び夫をかへ、二人の子供を捨て、苦しみもし、悲しみもし、怒りもし、戦ひもし、酔(ゑ)ひもしました。

「感情の自由」この一語こそ野枝さんの生活を、生涯を示すもので、あの人の幸福も不幸も皆此処から出てゐます。

 ですから感情の自由性を、同時に情熱の価値といふものを認めることの出来ない人にとってはあの人の生涯は恐らく無であるばかりでなく非難をもつて満されてゐるのかも知れません。

 野枝さんほど好き嫌ひの烈しいそしてそれはつきりと示した人はありませんでした。

 このために随分苦しまなければならない事もあつたやうですけれど、抑へようとは決してしませんでした。

 我慢をするといふやうなことはあの人め(※ママ/に)ははじめから出来もしないことだつたのでせう。

 又あんな負け嫌ひもないものでした。

 非常に自我の強かつたあの人はちよつと他から誤解されたり、攻撃されたりしてもすぐ腹を立て、涙を浮べてくやしがりました。

 そして何かして報いるまでは蟲(むし)がをさまらないといふ風でした。

 併(しか)しこれは瞬間の感情からなので、神経質のために無頓着でゐられないといふのとは全然違ひましたから言ふ丈のことを言つてしまつた後は案外あつさりして居ました。

 又あの人ほど自分の言ひ出したことを引込めない人も少なかつたでせう。

 かうと思うつたが最後、人が何と説いても思ひ返しのつく人ではありませんでした。

 不幸にして剛情を通してやつたことが、他の人達が言つた通りの結果に終るやうなことが忽(たちま)ち後から現はれて来ても、あの人は決して後悔もしなけてば不面目さうな顔付もしませんでした。

 もうまるでそんなことは忘れてしまつたやうな、自分の関係したことではないといつたやうな平気さでした。

 それが非常に図々(づう/\)しくも見え、又子供のやうな無邪気さとも見えました。

 ほんたうに野枝さんのいふ人は正直で、純粋で、自然で、無邪気で、小娘のやうに可愛く、それでゐて剛慢で、我儘(わがまゝ)で意地張りで、利己的で、無責任で、図々しく憎々(にく/\)しいといふやうに不思議に全く相反した印象を人の心に残して行(ゆ)く人でした。

 あの人があの人を愛した男達の心に忘れられないものを興へて行つたのは矢張りこのさま/″\に発現するあの人のもつて生れた熾(はげ)しいそして自然な感情の力ではなかつたでせうか。

 ほんたうに、可愛らしい人であり、憎らしい人であつた野枝さんは人の心に愛といふことと、憎しみといふこととを残して行つてしまひました。

 併(しか)しこれほどまでに感情の自由性をもつてゐた野枝さんも自分自身の思想らしい思想は遂(つひ)にもちませんでした。

 思想の独立といふやうなことはあの人には求められないことだつたかも知れません。

 元来健康で、多血質で、衝動に生きることの多かつたあの人は、静に思索するとか、研究するとか、又絶えず反省すし反省して歩くとかいふようなことは出来ない人でしたから。

 只あの人は自分の好きなこと、好きなもの、好きな人に対して丈非常に敏感な聡明な理解力をもつて居ました。

 ですからあの人はその時々の愛人の思想を理解し、共鳴し、それに同化することによつて自分を育てゝ行つた人で、愛人の思想があの人の思想であるといつたらそれで尽きてゐるでせう。

 実際愛するといふことと、理解するといふこととはあの人に於(おい)ては一つであつて、愛のもてないものに対しては随分無智で、無理解で、誤解も多かつたやうでした。

 理智は感情の奴隷であるといふことはあの人にとつては一層意味深い気がします。

 私はあの人の力強い感情を信じあの人がもつ最も貴(たふと)い徳としてこれを尊敬して来ましたが、あの人の理智に対しては最初から信用を置いて居ませんでした。

 あの人の好悪によつていつもあまりに支配され過ぎて居ましたから。

 ほんたうに野枝さんといふ人は最も女性らしいいいところとわるいところをされけ出して生きた日本に於(おい)ては珍らしいほどの自然女(しぜんぢよ)でした。

 こんな社会に置かれたのでなかつたら、もつともつと延び/\と生れたまゝで育つたでせうに。(一二、一〇、二六)


(らいてう「私の見た野枝さんといふ人」/『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号/『女の言葉』に「自然女伊藤野枝さん」の題名で収録/『平塚らいてう著作集 第三巻』・大月書店・一九八三年十月十四日)

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 末尾の「こんな社会に置かれたのでなかつたら、もつともつと延び/\と生れたまゝで育つたでせうに」は、『平塚らいてう著作集 第三巻』では「こんな社会に生まれたのでなかったら、もつともつと伸び伸びと生れたままでいつまでも育っていったでしょうにほんとうに惜しまれてなりません」という文面で掲載されている。

 ともかく、この一文にらいてうの伊藤野枝観が凝縮されていると考えてよいのだろう。

 野枝の死の直後に執筆した文章なので、後に出版された『元始、女性は太陽であったーー平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・一九七一年)より、らいてうの野枝に対する評価がストレートに表明されているはずである。

「理智ではなく感情の人」という、このらいてうの野枝に対する評価が、後世に多大な影響を与えてしまった観があるが、この連載のモチベーションのひとつが、そういう野枝に対するステレオタイプな評価に新たな視点をもたらすことだ。

 野枝は当時の女性としては類い稀な大局的な視点を持った女性だったのではないかーー筆者はそういう仮説を持っているのである。




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 23:05| 本文

2017年05月28日

第446回 本能主義者






文●ツルシカズヒコ




『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号の特集「殺された野枝さんの事」。

 山川菊栄が寄稿した「大杉さんと野枝さん」はまず、菊栄と野枝の最初の接点となった、『青鞜』誌上で交わされたふたりの廃娼論争について言及。

 それが縁になり、一九一六(大正五)年の一月に野枝、菊栄、神近が対面し、菊栄が大杉の仲介で野枝宅(辻家)を訪問したこと、一九一七(大正六)年暮れには大杉一家が山川夫妻宅を訪れて正月を過ごしたことなどに言及している。

 大杉と野枝、両者と親交があった菊栄の証言には重みがある。

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 私は結婚後程なく病を得て籠居(ろうきよ)がちであつたから、大杉さんと野枝さんの同棲生活を訪(と)ふたことも遂に一回として無く、殊にこの三四年殆ど交際が絶えてゐたので家庭の様子などは一向知らない。

 が金のはいつた時は、いはゞ手当り次第賑やかに華やかに面白可笑(おかし)く使つて楽しむ代り、無い時はまた極端で、文字通り飢ゑるやうな生活にも平気でゐるやうな点では、二人ともいかにも呼吸が合つてゐたらしかたつた。

 或年の冬、私のところで主人が入獄の留守中に、『野枝さんが見舞にいきたがつてゐんだが、まだ浴衣の寝衣(ねまき)で顫(ふる)へてゐる仕末で外出ができない』といふ手紙が大杉さんから来たことがある。

 がその後程なく、どこからか好い風が吹いて来たと見えて、野枝さんが新調のお召の重ねで自働車をとばしてゐるといふ噂が伝はつて来た。

 二人は何年かの間、パツと日の射すやうな華やかな享楽生活と、食ふにも事を欠く寒貧(かんぴん)な生活とを交互に繰返して、その間ぢう、降つても照つても呑気に睦まじく暮して来たらしく想像される。


(山川菊栄「大杉さんと野枝さん」/『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号))





 大杉については「彼は天成(てんせい)の社交家であり、天才的な魅力の持主」であり、「男に珍らしい子供好き」だったと言及。


 今度殺された宗(そう)一さんなども、大杉さんがその病身を気づかふ余り、自分の手許へ引取ることにした上、鶴見からの帰りをわざ/\診察を受けさせるために医者の家へよつて一時間余り待ち、それから柏木へ帰る途中であんなことになつたのだといふ。

 大杉さんの例外の子供好きと其親切とが、却(かへつ)て自分と子供とを亡す結果にならうとは誰が思ひがけよう?


(同上)





 野枝については、以下である。


 野枝さんの方は、大杉さんのやうに著しい特徴のある人でもなく、世間の愛憎の的となるやうな英雄的な人物でもなかつた。

 至つて普通な婦人でどちらかといへば寧(むし)ろ非理智的な、感情によつて動くたちの人で、理論的な方面ではとり立てゝ云ふほどのこともなく、何処までも本能的、衝動的な、単純な人だと思はれた。

 外出の時はよく夏も冬も無地の縮緬(ちりめん)の羽織などを着流してなまめいた様子をしてゐたに拘らず、都会人といふ感じがせず、何となく野生的な、生地のまゝの『文明』や『教養』によつて磨きもかけられぬ代り、自然を曲げたり偽善化されたりしてもゐない原始的の女性を思はせるところがあつた。

 時には非打算的で強く勇敢に、時には無思慮無責任でめくら滅法、行(ゆ)き当りバツタリの感を抱かせたのもそのためであつた、その云ふこと、為(す)ることに秩序が立たず、矛盾があつて足もとが危なかしく思はれた一方、人間としては無邪気な、表裏(へうり)のない、気分にムラはあつても悪気のない人であつた。

 その美点でもあれば欠点でもあつた単純な衝動的な性格こそは、それよりも遥かにスケールが大きく、複雑で、よく発達しては居(お)つたが、同じく本能的、衝動的な傾向を多量に帯び、且つその傾向を理論的に重要視してゐた大杉さんとよく一致した原因かと思はれる。

 野枝さんのやうな人は、世間の賢夫人とか貞女とかの標準から見ればいろ/\難も多いことであらうが、少くとも大杉さんにとつては申分のない良妻であつたらしい。

 実際あの二人は無政府主義者であると同時に、かなり徹底した本能主義者であり享楽主義者であつた。


(同上)





 菊栄はこの文章を、こう結んでいる。


 天才的、劇的な大杉さんの一生は、名誉ある帝国軍人の活動により、おあつらへ向きの劇的な場面をもつて其幕を閉ぢられた。

 日本の陸軍が天才的な戯曲家の役を務めることにならうとは、運命の皮肉も徹底して居(ゐ)る。(十月十五日)


(同上)





 なお、菊栄が大杉と野枝、橘宗一虐殺の第一報を得たのは、麹町区四番町の彼女の実家に一家で寄寓しているときであったが、その感懐をこう回想している。


 九月二十三日の朝でしたか、まだしらじら明けのころ「お客さま」といって姉によび起され、玄関へ出ると、

「ああ生きてましたか。山川さんは? 山川さんはぶじですか」

 と、とびつきそうにして感動に声をふるわせている人は、もう十年も前、まだ若々しい学生姿で私の家へ一、二度来たこのある吉本哲三氏。

 今は見ちがえるほど成長して、堂々とした『時事新報』の記者で、ゲートルばきの非常時姿でした。

「大杉君がやられましたよ、野枝さんもいっしょに、憲兵隊で。あなた方もやられた、行方不明だというもっぱらの評判で、心配してとんで来たんですよ、ここへきたらわかると思って。ああよかった。よく生きてましたね」。

 子供好きの大杉さんは妹あやめさんの子で病身の橘宗一少年を震災のドサクサから守るために引きとって帰る途中、奥山先生に寄って注射をうけさせ、自宅まで来た所を待ちうけた憲兵の車にのせられたのでした。

 その夏奥山先生の所で会った美しく弱々しいあやめさんと、関節炎で片腕のうごかぬ青白い宗一少年の顔を思いうかべ、私の子と同じ年ごろだけに、私には言葉も出ませんでした。

 あやめさんもこのあと幾年も生きなかったようです。

 大杉さんたちの虐殺は吉本記者がまっさきに知り、その日『時事新報』のスクープとなって世論をわきたた せ、それによってそれ以上の残虐行為が防がれたのでした。

 もしもあの事件があんなに早く新聞にもれなかったら、何も知らずにこの憲兵隊本部とは眼と鼻の麹町の実家へ避難した私たち一家も、大杉さんと同じ運命にあったかもしれません。

 そのころ、松下芳男という陸軍中尉が軍人をやめて一時社会主義者の仲間入りをしていましたが、後年山川にあったとき、士官学校のクラス会で同期生の一人がこんな思い出話をしたと話したそうです。

「あの当時自分は大森方面の警備隊長を命ぜられ、山川夫妻をやるつもりでさんざんさがしたが家がつぶれてどこかへ避難した、警察にきいても、誰にきいても、わからなかった。そこへ大杉の事件がバッとなり、甘粕が軍法会議にひっぱられてびっくりした。あの時は社会主義者をやっつければ出世できるとわれわれ仲間はみな思ってたんだが、危いところだったよ」。

 結局私たち親子三人は天災と人災とをともにまぬがれ、一時に二度命びろいをしたわけですが……。


(山川菊栄『おんな二代の記』_p356~357/岩波文庫・二〇一四年七月十六日)







●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:05| 本文

2017年05月22日

第445回 野枝姉さん






文●ツルシカズヒコ




『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号の特集タイトルは「殺された野枝さんの事」である。

 以下の面々が寄稿している。

 山川菊栄「大杉さんと野枝さん」

 和田久太郎「僕の見た野枝さん」

 橘あやめ「親切な野枝姉さん」

 らいてう「私の見た野枝さんといふ人」

 五十里幸太「世話女房の野枝さん」

 荒木滋子「あの時の野枝さん」

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 橘あやめ「親切な野枝姉さん」は、冒頭で野枝が大杉の次妹・柴田菊に書いた手紙(九月十五日投函した絶筆)を引用し、こう記している。


 思ひやりの深い親切な野枝姉さんは、以上の手紙を静岡の姉(栄兄さんから二人目の姉)に下すつて、そして、翌十六日に勇(やはり私の実兄)さん夫婦の避難所へ栄兄さんと二人で駆けつけ下さいました。

 避難所から幼い宗一(むねかづ)の身を引取らうとして行つて下さいました。

 同志の方々から『危険だから成可(なるべ)く外出しないやうに……』と度々注意されてゐるその危険をも冒(おか)して、勇さん夫婦と宗一とのために鶴見まで出向いて下さいました。

 そして、あゝ、そして、宗一をやゝ安全な自分達の家へ引取らうと急いで東京へ連れて帰つて下さる途中だつたのです。

 栄兄さんも、野枝姉さんも、宗一も、三人共憲兵隊に連れ行(ゆ)かれて、あのやうな惨(むご)い非道な殺され方をして了ひましたのはーー。

 私は、栄兄さんや野枝姉さんの思想だとか行動だとかゞ、何(ど)れ程社会に害を流すものなのか、或は又、どんなに立派な尊いことなのか、一向に存じません。

 そんな難しい事は私には解りません。

 ですけれども、虐殺して仕舞はねばならぬ程に悪い人間なのなら、その罪状を詳しく社会に発表して正々堂々とやつたらよささうなもの、と、女の浅はかな愚痴かも知りませんが、私は考へます。

 宗一のことは此処(ここ)に何事も申しませんが、兎に角憲兵隊ともあらうものゝ行動としては、随分と卑劣ななされ方だと思ひます。

 栄兄さんや野枝姉さんには、『何時(いつ)死んでもいゝ』といふ立派な覚悟が常からちやんと出来てゐたことゝ思ひます。

 が、しかしあの場合、何事も知らぬ頑是(ぐわむぜ)ない宗一が一緒であつたために二人は何(ど)れほど心を患(わずら)はされたか知れなかつた事でせう。

 いはゞまあ、宗坊(むねぼう)のためにわざ/\危険を冒して鶴見へ行つて下すつた姉さん兄さんですもの、惨殺される間際までも、毒手をあの兒が逃れるやうと、あらゆる手段をつくして下すつた在様が、私には眼に見えるやうにはつきりと感じられます。

『姉さんや兄さんは宗一を迎へに鶴見へ行つて下すつた為にあんな最後をなさつて了つたーー』。

 夜中にふとんなことを考へ出しますと、熱い/\涙がとめどないほど流れてまゐります。

『なあに、予審調書を見ても分るぢやありませんか、あの日は何うしたつて駄目だつたんです。お湯に出たつて、煙草を買ひに出たつてやられたんです。鶴見へさへ行かなかつたら、宗坊を道連れにせず済んだ位のものなんですーー』と、斯(か)う労働運動社の人達は言つて下さいますが私や宗坊のことをあんなに思つて下すつた姉さんのことを憶ひますと、私にはどうも宗坊のために死なれたやうにしか考(かんが)ら(※ママ)れません。

 済まない事だつたと思つて居ります。

 野枝姉さんは、ほんたうにいゝ姉さんでした。

 私が初めて姉さんに会ひましたのは、大正七年の冬に四年振りでアメリカから帰つて来た時でした。

 田端の小さな家に貧しい暮しをして居られましたが、初対面の私を幼ない時から共に育つて来た親味のやうにやさしくして下すつたので、遠い処から久し振りに帰つて来ました私は、まあ何(ど)んなに嬉しかつたことでせう。

 その時には、いつとう上の魔子ちやんがまだ歩くか歩かないかでしたが、私の宗坊は、同い年でも少し早く生まれましたのでそろ/\歩くやうになつて居りました。

 で、二人を日向で遊ばせながら、姉さんと私は子供の話しでよく夢中になつてゐる事がありました。

 今年の春、私が病気のために再び宗一を連れて日本へ帰つて来ました時も、姉さんは魔子ちやんを連れて横浜の波止場まで迎へに来て下さいました。

 そして、栄兄さんがフランスへ行つて居られる留守中なので、いろんな心配ごとや忙しい事に追はれてゐたんでせうに、私の病気のために、病院から何から何までよく世話をして下さいました。


(橘あやめ「親切な野枝姉さん」/『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号)





 文の最後にあやめは、野枝が七月の末に菊に宛てた宗一とあやめの体調を気遣った手紙を引用しているが、その前文でその手紙を読んだ気持ちを、こう記している。


 左に記します野枝さんの手紙は、私も最近になつて菊子姉さんから見せて戴き、嬉し涙に濡れながら読んだ手紙なのです。

 これは七月の末頃に菊子姉さん宛てに下すつたものでして、宗坊の病気のことが書いてある為に、菊子姉さんは病院に居る私の体を気遣つて其の当時は見せて下さらなかつたのでした。


(同上)





 荒木滋子は玉名館に訪れた野枝と大杉の思い出を書いている。

 一九一六(大正五)年春、そして一九一九(大正八)年ごろの思い出である。

 滋子は冒頭でこう記している。


 さうですね、野枝さんに就(つ)いて何かと云ふお話ですが、私は野枝さんと格別のおつき合ひがあつたと云ふわけでもないし、と云つて無いと云ふわけでもありませんけれども、差出てお話する程の事も、実は無いのです。

 併(しか)し、あの方が、ああ云ふことになつたに就いて、種々の思出も私にはあります。

 とりとめもないことですが、それでも書かせて頂きませう。


(荒木滋子「あの時の野枝さん」/『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号)



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2017年05月17日

第444回 お餅代






文●ツルシカズヒコ



 橘あやめ「憶ひ出すまゝ(栄兄さん夫婦と宗坊のこと)」は、あやめが大杉と野枝、および橘宗一について書いてほしいという依頼に応じたものだが、しかし、あやめは宗一について書くことはできないと冒頭で記し、その心境をこう述べている。


 最初の程は、親切にお見舞ひ下さいます人々から『宗(そう)一さんが……』の一言を云はれましたゞけで、直ぐ悲しさに身中が慄(ふる)へて了ひました。

 泣き崩れて了ひました。

 私のこの様子を見て傍(そば)の人達ちも『それでは貴女の体が持つまいからーー』と種々になぐさめて下さいますし、それに私自身でも『こんなに泣いてばかり居ては折角アメリカから養生に帰つて来て入院してゐ程の私の体が一さう悪くならう。ーーさうなつては猶さら夫に申訳けが立たない』と思ひ、気を取り直しまして、其の後ちは成可く誰れにも御会ひせぬやう、たゞ静かに寝てゐるやう、そして、なるだけ宗一の事は考へぬやう、憶はぬやうと心懸けて来ました。

 さうして、只今では少しく心も静まつて参りました。

 ですけれど、宗一のことを憶ひ出すまゝ、それを文字で記して行かうといたしましたなら、悲しい私は、二三行書きかけてゐるうちに必(き)つと泣き崩れて了ふことでせうーー。


(橘あやめ「憶ひ出すまゝ(栄兄さん夫婦と宗坊のこと)」/『女性改造』一九二三年十一月号・第二巻第十一号)

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 兄・栄については、まずこう記している。


 栄兄さんは学問の出来る偉い人なのだと、たゞぼんや知つて居ましたばかりで、兄さんの書かれた本などは全(ま)るで読んだことのありません。

 兄さんの主張なさる思想や、行動などが、どんなに悪いことなのか、いゝことなのか、私には少しも分りません。

 けれども、四五年前に一度久しぶりでアメリカから帰つて参りました時、いくら牢に入れられても少しもひるまず、ひどい貧乏な生活をしながら自分の主張のために活動せられてゐる兄さんを見ましては、『あゝ偉い人だーーと』感ぜずにはゐられませんでした。


(同上)





 あやめは一九〇〇(明治三十三)年生まれである。

 二歳の時に母・豊(とよ)を亡くし、継母や親戚の手で育ち、九歳の時に父・東(あずま)を亡くした。

 あやめは父の死に際して、初めて十五歳年長の長兄・栄の存在を知った。

 この時、長兄・栄は赤旗事件で千葉監獄に入獄中だったので、妻の堀保子があやめに面会に来た。

 一時、保子があやめを引き取り面倒を見ていた時期があったが、あやめは間もなく甲府の親戚に預けられた。

 大逆事件との関連の取り調べのため、千葉監獄から東京監獄に移監されていた大杉は、一九一〇(明治四十三)年十一月に出獄。

 出獄後、大杉は甲府の親戚に預けられていたあやめを引き取りに行った。



 
 或る日のこと、私が近所の子供たちとおもての柳の木の下で遊んで居りますと、がらがらつといふ響きと共に私の家の前へ俥(くるま)が着きました。

『あらつ俥が来たーー』と、子供心にたゞ何んとなく嬉しい様な気がして傍(そば)へ駆け寄つて見ますと、それは洋服姿の、大きな眼がぎろつと光つてゐるおつかない人でした。

 そして、其のおつかない人が私の顔ばかりをじろじろと見ますので、私はそつとお友達の後ろへ隠れて了ひました。

 これが千葉監獄から出たばかりの栄兄さんだつたので、私は此の時初めて栄兄さんの顔を知つたのです。

 私は栄兄さんに連れられてまた東京(家は大久保にあつた)へ参りました。


(同上)


 一九一六(大正五)年にあやめはポートランド在住の橘惣三郎と結婚、一九一七(大正六)年に宗一を出産、一九一八(大正七)年暮れに病気療養のために宗一を連れて帰国し、当時、田端に住んでいた大杉家に寄寓した。

 大杉一家はその後、西ヶ原、千葉県の中山、駒込と転居したが、その都度あやめも同居。

 あやめが帰米したのは一九一九(大正八)年秋だった。

 帰米したあやめは大杉一家と折々に文通するようになり、野枝からは「女らしい注意の行き届いた」手紙をもらうようになった。

 あやめはアメリカから大杉一家に送金したこともあったという。


 私は田端に居りました時に、栄兄さん達(た)ちがお正月のお餅を買へなかつた状態をつくづく見て来て居(ゐ)ますので、せめてお餅代なりともお送りしたいと思つて少しづゝ貯め始めました。

 いつの年だつたかよく覚えませんがそのお金を送つて、その後しばらくたつてからふと新聞を見ますと、『大杉栄は近頃非常な成金になつて逗子へ大きな家を構へた』といふ記事が載つております。

 それでは、あのお送りしたお金は正月のお餅代にならずに何にかのご馳走になつたことだらうと、私はその新聞を眺めながら独りでほゝえんだことでした。


(同上)





 大杉一家が逗子に引っ越したのは一九二一(大正十)年十一月だから、あやめが送金したのは、この年の暮れであろう。

 あやめが再度、病気療養のため宗一を連れて帰国したのは、一九二三(大正十二)年四月だった。


 ……栄兄さんはフランスへ行つて居(を)られる(※ママ)お留守で、野枝さん一人で何やかやと親切に世話をして下さいました。

 病院のことや何にやかやと、本当に親味の姉も及ばぬごめんどうを見て下さいました。

 女は女同志ーーと深く感じました。

 それらの親切が、胸の底からこみ上げて来る程嬉しく感じました。

 あゝ、しかしその野枝さんも今は殺されて了ひました。

 栄兄さんも殺されて了ひました。

 可愛い宗坊(そうぼう)までが惨(むごたら)しく殺されて了ひました! ーー十月十六日夜ーー


(同上)





『女性改造』一九二三年十一月号巻末の「文芸欄」に掲載された「或る男の堕落(遺稿)」は、例の吉田一(はじめ)の一件について野枝が書き残していた原稿を掲載したものである。

 アナからボルに転向したかつての同志についての記述だけに、その原稿の発表の場がなかったのか、あるいは発表のタイミングを計っていたのか、ともかく野枝の死後に未発表の原稿が発見され掲載されたのであろう。


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2017年05月11日

第443回 可愛い単純な女性






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年十一月から十二月にかけて発行された主な雑誌で、大杉栄と伊藤野枝の虐殺に関して特集を組んだのは『女性改造』『婦人公論』『改造』である。


『女性改造』十一月号(第二巻第十一号)には、特に特集のタイトルはないが、野上弥生子「野枝さんのこと」、大杉栄・伊藤野枝「七年前の恋の往復」、橘あやめ「憶ひ出すまゝ(栄兄さん夫婦と宗坊のこと)」(目次は「憶ひ出づるまゝ」)を掲載。

 巻末の「文芸欄」には伊藤野枝「或る男の堕落(遺稿)」を掲載している。

「哀しき避難者の手記」という記事もあり、何人かの寄稿者に交じって、平塚明子が寄稿した「震災雑記」が掲載されている。

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『女性改造』同号の編集後記「読者諸姉へ」には、こう記されている。


「女性改造」も今月でほぼ復旧しました。

 殊に本月号には野枝さんの最後の作で、女史近来の力作と称せらるる遺稿や、殺された宗一少年の母である橘あやめ女史のとどろく胸を打ちおさへつゝ追憶の筆を執つて下さつた原稿、大杉夫妻の若き日の燃ゆるやうな恋文、我一流作家たる野上女史の追憶記などは他の雑誌には見られぬ異彩あるものであります。


(『女性改造』一九二三年十一月号「読者諸姉へ」)


「七年前の恋の往復」には、大杉と野枝が交わした手紙三通が掲載されている。

 大杉から野枝宛て・一九一六年五月二日野枝から大杉宛て・一九一六年六月六日、大杉から野枝宛て・一九一六年六月二十五日(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「戀の手紙ーー大杉から」の日付けは六月二十三日)、の三通である。

「七年前の恋の往復」のリードには、こう記されている。


 我武者と思はれる大杉氏にもかうしたこまやかな情の半面があつた。

 野枝さん神近市子さんとの三角恋愛はこの大杉氏の書翰により多く明瞭になります。

 この恋文は例の葉山事件前後(大正五年)野枝さんと大杉氏との恋愛の高潮時代に往復されたものです。

 そして上記の写真は、大地震の日柏木の大杉氏宅前の路次に避難中の氏夫妻を、安成二郎氏が撮影された二人の最後の写真です。


(『女性改造』一九二三年十一月号「七年前の恋の往復」)


「上記の写真」はタイトルとリードの上に掲載されている。





 野上弥生子「野枝さんのこと」は、冒頭に「野枝さんに就いて何か話せと云ふことでお引き受けしたけれども」とあるので、記者による口述筆記であろう。

 野上は『青鞜』を通じて野枝と出会い、自宅が隣接していたことによりふたりの交流が親密になり、野枝が辻家を出て大杉のもとに走り、葉山事件が起きて、それ以来まったく疎遠になったことなど、小説「彼女」(『中央公論』一九一七年二月号/『野上弥生子全集 第三巻』・岩波書店・一九八〇年)に記されていることをまず時間軸に沿って語っている。

「彼女」には記されていない、こんな記述がある。


 大杉氏とのことが起つたのは野枝さんがもう小石川の方へ引き越された後でしたからその過程に就いては私は何んにも存じません。

 たゞたつた一度その家へお訪ねした時に(二度目の赤さんに産着を持つて行つてあげたのだと記憶します)、野枝さんのゐた小部屋の机の上に大杉氏の訳した「相互扶助論」が置いてあつたのを覚えてゐます。

 発売禁止だけれども借りてゐるのだとか云ひました。

 でも誰から借りたのか私は聞かうともしなかつたし、野枝され(※ママ/「野枝さん」)も黙つてゐました。


(野上弥生子「野枝さんのこと」/『女性改造』一九二三年十一月号)





 さらに、野枝が辻との結婚を解消して辻家から出る決意をしたことを報告をするために、野上家を訪れた一件について野上が語っている。

 野枝が訪れたその日、野上家では謡会(うたいかい)が催されていたが、小説「彼女」ではその日が「四月下旬の或日」と記されているが、「野枝さんのこと」では「大正五年の三月」と記述されている。

 この一九一六(大正五)年春の野上家でのふたりの面会が、野上と生前の野枝との永久の別れになったが、「野枝さんのこと」によれば、一九二二(大正十一)年春にふたりは手紙を交わしたという。


 昨年の春であつたと思ひます。

 私たちは或る機会に一度何年ぶりかで手紙の往復をしました。

 野枝さんはいつもの情味のこもつた長い手紙でいろ/\書いて来ました。

 人間は本質的にさう変はるものではありません。

 私はあの頃と何んにも変はつてはをりません。ーーそんなことも書いてありました。

 それから又、考へると今直ぐにも訪ねて行(ゆ)き度(た)い気がするけれども、私のためにあなたの静かな生活を乱すことを思ふと気が引けて行(ゆ)かれません。

 私には尾行なぞがついてゐるものですからーーと云ふ意味を書いて、何処かで偶然の機会で逢へるのを待つてゐるとありました。


(野上弥生子「野枝さんのこと」/『女性改造』一九二三年十一月号)


 一九二二年春といえば、大杉がアルスに売り込んだファーブルの「科学知識叢書」の出版企画が通り、大杉と野枝はその準備に取りかかっていたころである。

 野枝はどんな手紙を野上に書いたのであろうか。

 翻訳仕事をすることになった野枝が、近況報告と久闊を叙する手紙を野上に出したのかもしれない。





 それから一年半後、甘粕事件で野枝が虐殺されたことを知った野上は、その悲しみをこう語っている。


 併(しか)しどんな偶然も決してこの地球上では私たちを出逢はせはしないと云ふことを知つた時の私の驚きと悲しみを想像して下さい。

 あの人に何の罪がありませう。

 あの人の社会主義かぶれなぞ、私の信ずるところが間違つてゐなければ、百姓の妻が夫について畑の仕事に出ると同程度のものにすぎないと思ひます。

 若(も)し大杉氏が貴族か金持であつたら、悦んで貴族や金持の生活をしたでせう。

 ーーこれは決して野枝さんを軽蔑しての意味ではなく、それ程にあの人は愛する人の世界に身を打ちはめて行(ゆ)ける人だと申すのです。

 あの人の一番美しいのはその点ではなかつたか。

 ただそれだけの可愛い単純な女性が、何故生かしておかれなかつたらうと思ふと、可哀想でなりません。


(野上弥生子「野枝さんのこと」/『女性改造』一九二三年十一月号)


 この期に及んでの野上の野枝に対する評価が、「ただそれだけの可愛い単純な女性」という夫唱婦随の良妻の枠にとどまっていることに注目したい。



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2017年05月03日

第442回 今宿の葬儀






文●ツルシカズヒコ




 一九二三(大正十二)年十月八日、事件の第一回公判が青山一丁目の第一師団軍法会議公判で開かれた。

 同日、事件の記事が解禁になり「外二名」が伊藤野枝と甥の橘宗一であることが発表される。

 十月十六日、福岡県糸島郡今宿村の野枝の実家近くの松林(松原)で三人の葬儀、埋骨式が営まれる。

 親族の他、東京の同志代表・川口慶助、村人など百名近くが参列し、遺骨は今宿海岸の墓地に埋葬された。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、その葬儀には右翼や在郷軍人らの反対が多く、警察が警備に当たった。

 右翼系国士の非情さに真の国士とは何かを考え始めていた代準介は、今宿や福岡博多一帯での葬儀反対を覚悟を持って一蹴し、執り行った。

 この時、陰に陽に葬儀を妨害から守ったのが松本治一郎だったという。

 今宿の松原で執り行われた葬儀の模様を『福岡日日新聞』が報じている。


「開会に先立ち野枝の伯父代準介は遺児ネストルを栄と改名し、之を喪主とする旨挨拶をなし、僧侶数名の読経につぎ、代氏は先ず野枝の叔母(モト)に抱かれたネストルの栄に代わって焼香をし、続いて海老茶色の洋装をした眞子、並びに灰色の洋装をした可愛らしきエミ子ルイ子等は、何れも親類の人達に抱かれ無邪気な眼を瞠(みは)って焼香場に導かれた」

(『福岡日日新聞』一九二三年十月十七日/矢野寛治『伊藤野枝と代準介』より孫引き引用)

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 野枝が十四、十五歳の時に作った短歌もその場で紹介された。


 死なばみな一切の事のがれ得て いかによからん等とふと云ふ

 みすぎとはかなしからずやあはれあはれ 女の声のほそかりしかな


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』)


「枝折れて根はなおのびん杉木立」と弔句した代は、野枝が上野高女入学を切望した際、妻・キチに「伸びる木を根本から伐れるもんか」と言ったことを思い出していたという。

 十月二十二日、代家に引き取られた真子が春吉尋常小学校一年生として初登校。

 一九一七年九月生まれの真子は満六歳で学齢前だったが、三月生まれとして届け出たのである。

 福岡市住吉花園町の代家は、代千代子(今宿村在住)の長女・嘉代子も預かっていたので、真子は嘉代子と一緒に春吉尋常小学校に通い始めた(嘉代子は四年生)。

 大杉が訳した『ファブルの昆虫記』や大杉と野枝の共訳ファブルの『科学の不思議』を、嘉代子は真子に読み聞かせたという。





 十月二十五日、大杉の著作『日本脱出記』(アルス)が発行されたが、収録原稿中「外遊雑記」と「同志諸君へ」は、大杉の死後に机の引出しから見つけ出された遺稿である。

 十一月二十一日から二十五日まで、軍法会議の第三回〜七回公判、重要証拠である「死亡鑑定書」が非審議になる。

 十一月二十四日、大杉の著作『自叙伝』(改造社)発行。

 十一月二十五日、伊藤野枝の追悼会が野上弥生子宅で旧青鞜同人によって開かれる。

 幹事は平塚らいてうと岩野英枝(故・岩野泡鳴夫人)。

 十二月八日、軍法会議で甘粕ら五名に判決が下る。

 東京憲兵隊大尉・甘粕正彦 懲役十年

 憲兵隊曹長・森慶次郎 懲役三年

 憲兵隊上等兵・鴨志田安五郎 無罪

 憲兵隊上等兵・本多重雄 無罪

 憲兵隊伍長・平井利一 無罪

 十二月十一日、大杉の遺骨は親族相談の結果、父・東の墓所である静岡県清水町の鉄舟寺に埋葬することにしたが、同寺住職・伊藤月庵は断ると言明した。



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2017年04月29日

第441回 煙草盆






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年十月二日、代準介、野枝の叔母・坂口モト、お手伝いの水上雪子、魔子、エマ、ルイズ、ネストル、そして大杉の末弟(三弟)・大杉進も神戸まで同行し、一行は大杉、野枝、橘宗一の遺骨を携えて福岡に向かった。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』は、代準介の自伝「牟田乃落穂」を引用し、一行のこの道中を詳述している。

 一行は十月二日、新宿駅発午後二時五十五分の中央線で名古屋経由で福岡に向かった。

 中央線を利用したのは、東海道線にまだ不通区間があったからである。

 塩尻(長野県)まで警視庁特高課員三人が付き添った。

 新聞記者たちが入れ替わり立ち替わり車中に押しかけ、質問するので、子供たちは泣き叫んだ。

 十月四日、午後一時三十二分に下関に到着し、野枝の妹・武部ツタがホームに出迎えた。

 船で門司に渡り、午後三時発の汽車で出発し、午後五時五十分に博多駅に着いた。

 その夜は全員、住吉花園町の代の家に泊まり、長旅の疲れを癒した。

 車中、代は大阪朝日新聞の記者に取材され、「後々のことは布施(辰治)、山崎(今朝弥)の両弁護士と同志の方に総てをお頼みして帰って来ました」(大阪朝日新聞・一九二三年十月五日)と答えている。

 帰福した代は野枝の父・亀吉と相談し、遺児たちを野枝の私生児として戸籍に入れ、同時に四児たちの改名をした。

 魔子は真実の「真子」、エマは笑みを絶やさぬように「笑子」、ルイズは両親の遺志を留めるように「留意子」、ネストルは大杉の名を与え「栄」と改名した。

 遺児たちの当面の落ち着き先は、魔子は代家で預かり、エマとルイズは今宿の野枝の両親のもとへ、まだ乳飲み子のネストルは代千代子(今宿に住む千代子もこの年に男児を出産していた)が預かった。

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 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、十月四日、改造社の提唱により識者が組織した「二十三日会」が、首相、陸相、戒厳指令官、軍法会議弁護士を訪問して、次のような建白書(下記三十二名が署名)を提出した。


一、大杉氏殺害の真相殊に同氏以外の被害者の氏名、年齢、被害場所、その他一切の事情を速に公表す可し

二、甘粕大尉に関する軍法会議は完全に之を公開す可し

三、右事件に関する新聞記事差止めの命令は直ちに之を解除す可し

 伊藤文吉、長谷川万次郎馬場恒吾堀江帰一、千葉亀雄、渡辺鐵蔵、吉野作造、吉阪俊蔵、 饒平名智太郎(よへな-ちたろう)、鶴見祐輔、中野正剛永井柳太郎大川周明、太田正孝、山川均、山本実彦、松木幹一郎桝本卯平福田徳三小村欣一小村俊三郎、小松原弥六、権田保之助、安部磯雄、秋山高、北玲吉城戸元亮末広厳太郎三宅雄二郎三宅驥一下村宏、鈴木文治


(大杉豊『日録・大杉栄伝』・社会評論社・二〇〇九年九月十六日)





 この建白書が提出された十月四日、ギロチン社田中勇之進が松坂駅前で、甘粕の弟・五郎を短刀で襲撃し、逮捕された。

 十月七日、大杉らの遺骨や遺品は本郷区駒込片町の労働運動社へ運ばれ、大杉の末妹・橘あやめも仮寓。

 遺骨はその後、神奈川県・鶴見の大杉勇宅へ引き取られた。

 大杉と野枝の家(豊多摩郡淀橋町柏木)の留守を守っていた勇夫妻が、この家から退去したのは十月九日だった。

 空家になったこの家を借りたいという人物が現われた。

 菊池寛である。

 以下、菊池が安成二郎に宛てた手紙である。


 拝啓

 今住宅に困つてゐるのです。

 ところが宮ア光男氏が来られて、大杉氏のアトの家を借りてはどうかとの事ですが、右の家は何うなつてゐるでせうか。

 若し借りられるやうなら、一見いたしたいと思ひます。

 甚だ突然で恐れ入りますが、御世話ねがへませんでせうか。

 十月七日 菊池寛

 安成二郎様


(安成二郎『無政府地獄 - 大杉栄襍記』_p298・新泉社・一九七三年十月一日) 


 安成によれば、この手紙は松屋の四百字詰め原稿用紙に筆で書いたものだったが、菊池は結局、この空家に転居はしなかった。





 安成は大杉と野枝の形見分けについて、こう記している。


 西洋の煙草盆とでも言ふのか、灰皿と、巻煙草を立てゝ置く容器と、それらを載せる盆と、チユーリツプの模様のある硬質陶器の三つ揃ひを、私は彼のかたみとして貰つた。

 十月六日の夜、勤め先きから帰つて、机の上にそれを見出した時、『これは好いな、一番好いものだなア』さう妻に言つたが、急に胸の疼くやうな堪らない気がして、私はそれを目の前から取り除いた。

 この煙草盆は彼の鎌倉の家には無かつた。

 逗子へ移つてから、洋館の籐のテーブルの上に置かれてゐた。

 それから駒込の労働運動社、柏木の最後の家と移るたびに、籐のテーブルの上にこの煙草盆は何時でも載つてゐた。

『あれは逗子で買つたんだね』翌る朝、村木源次郎君に会つた時、さう言ふと、村木君はさうだと言つた。

 大杉は煙草が好きで、よくマドロスパイプを啣(くは)へてゐたが、然し余り味覚の鋭い方では無かつたらしく、金口でも朝日でも手当り次第に吸つてゐた。

 野枝さんのかたみの支那扇は妻が貰つた。

 支那の芝居の絵らしい絵のある扇だ。

 いつか野枝さんが私の家へ遊びに来たとき、『逆輸入ぢやありませんか』と、それをとつて見ながら言ふと、誰とかゞ買つて来たのだから、本物だと言つたが、多分大杉がフランスからの帰りのお土産でもあらうか。

 その時野枝さんの言つた買つて来た人の名前は私の耳に残らなかつた。

 珈琲をつぶす器具が、も一つ私の家にかたみに贈られた。

 彼等は自分の家庭の珈琲が自慢であつた。


(安成二郎「かたみの灰皿を前に」/『改造』一九二三年十一月号/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』・新泉社・一九七三年十月一日/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』収録時に「かたみの灰皿を前に」を「かたみの灰皿」に改題)




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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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