2017年04月17日

第440回 さよなら!






文●ツルシカズヒコ




 一九二三(大正十二)年十月一日、橘あやめと大杉進が米国大使館に行き、虐殺された米国籍の宗一の処置を訊く。

 米大使館は外務省と折衝し、係員が軍法会議を傍聴できることになる。

 九月八日に駒込署に保護検束された近藤憲二が、大杉らの死を知ったのは駒込署の留置部屋の中だった。

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 日は忘れたが、看取のおき忘れた新聞を見ると、戒厳司令官の更迭と憲兵司令官停職のことが出ている。

 おや、これは何かあったな、と思った。

 同時に、ある不吉なものが私の胸を流れた。
 
 そしてそれが、事実のように心のなかにひろがるのだ。

 一口にいえば第六感とでもいうのであろうか。

 そして十幾日がすぎた。

 十月二日の夕刻である。

 私は特高の部屋へ呼び出された。

 和田(久太郎)が面会にきているのだ。

「君だけ、あすの朝だしてもらうことに話がついた。君は何もわかっていないだろうが、大杉の子どもたちが、福岡の野枝さんの実家へ引きとられて出発することになっている」

 和田は身じろぎせず、私を見つめていった。

 私は「わかっている」と答えたが、実は何もわかってはいなかったのだ。

 ただ私の予感と和田君の言葉とを結びつけて、そのときはじめて一つの結論を得たにすぎなかったのである。

 留置部屋へ帰って、話があるから集まってくれというと、みんなが輪になった。

「いま和田がきてね……」と私がいいだすと、望月桂が「大杉がやられたんだろう」というのだ。

 二人とも十数日来、同じことを考えていたのである。

 そして、お互いそれをいいだし得ないでいたのだ。


(近藤憲二「大杉栄のこと」/『一無政府主義者の回想』_p39・平凡社・一九六五年六月三十日)





 十月二日、四人の遺児とそれに付き添う代準介・モト夫妻、お手伝いの雪子が、分骨した遺骨を携え福岡へ向かう(進は神戸まで同行)。

 近藤憲二「大杉栄のこと」によれば、近藤は十月三日の朝に駒込署から出してもらい、遺児たちを見送ったことになるが、これは近藤の記憶違いで近藤が駒込署から出してもらったのは十月二日朝であろう。

 内田魯庵がこのあたりの経緯をこう記している。


 告別式の済んだ跡の大杉の家は淋しかつた。

 遺子を中心として野枝さんの伯父さん老夫婦と大杉の実弟と、大杉の異体同心たる数四の同志に守られてゐた。

 刑事の眼は門前に光つて看慣れぬものは一々誰何したから、誰もイゝ気持がしないで尋ねるものが余り無かつた。

 愈々明日は一と先づ郷里へ引上げるといふ其前夜、長い汽車の旅の兒供眠気さましにもと些かの餞けを持つて私の妻が玄関まで尋ねた時も誰何され、何の用事かと訊問された。

 十月二日だつた。

 五人の遺子は野枝さんの伯父さん老夫婦に伴はれて此の恨の多い父の家を跡に郷里へと旅立つた。

 親しい友や同志に送られて行つたが、魔子は先きへ立つて元気よく『さよなら、さよなら!』と云つて駆けて行つた。

 パパもママも煙のやうに消へて了つた悲みをも知らぬ顔の無邪気の後ろ姿が涙ぐましかつた。


(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)



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2017年04月16日

第439回 遺骨






文●ツルシカズヒコ




 一九二三(大正十二)年九月二十七日の身内の告別式について、堀保子はこう記している。


 私は安成の奥さんと一所に淀橋の大杉家へ行つた、

 八畳の座敷の床の間には画家望月桂氏の筆になつた大杉が裸体で机に向かつてゐる一幅がかけてあつた。

 その前に皆さんから贈られたお花白木の机なぞ遺骨を迎へる準備ができてある、

 そのそばで村木さんや和田さんが四五人の来客に殺害当時のお話しの最中であつた、

 次ぎの六畳の座敷には二十日ばかり前に生まれたといふ男の赤ん坊が蠅になやまされてうるさそうに寝てゐる、

 私は安成の奥さんとほろ蚊帳をさがしだしてつゝてやつたりした、

 それから持つて行つた花を床に飾つたりして骨の来るのを待つた。

 そんな間にも大杉がきまりの悪そうな顔をして『ヤア』といつてそこらから出てくるやうな気がしてならなかつた、

 間もなく大勢の人に護られた三つの小さな白い箱が大杉を中にそれぞれ白木の机の上に並べられた。

 大杉のすべてはこの箱の中に納められてゐるのだと思へば気が変になるまで胸がワク/\した、

 次ぎから次ぎへといろ/\な思ひ出やら想像やらが車の輪のやうに急転した。

 一座はしんとして声を出すものもなかつた、

 それ/″\思ひ出にふけつてゐるらしい。

 子供達はついぞ見た事もないおばさんだといふ様な顔をして私を珍らしさうに見てゐたが、

 親戚のおぢさんの注意で一番上の子が私にお辞儀をした、

 そしてお骨に向かつておじぎをする、

 そんな事を繰返し/\幾度もやる、

 それをみた外の妹達も同じ様にやるので、

 一座の人々を涙の中に笑はせた、

 私はかうした子供達の頑是ない無邪気さに打たれて、

 人がゐなかつたら引よせて思ふ存分泣いてみたかつた。

 大杉の弟達にも久しぶりで逢つた、

 話しは後になつたり前になつたりいろ/\な事をくり返へされた、

 死体は何分日数もたつてゐるのでほとんど見分けがつかない、

 係りの人も『どんな風に殺されたのか分らない、甘粕の白状はこれ/\だ、どうかそう思つて三人の死体を引とつて貰ひたい』といつて衛戍病院の解剖の報告といふやうなものをくれたそうだ、

 死体は棺の中に全身包帯を捲いた、

 そして石灰でつめてあつたさうで其まゝ火葬に付してしまつた、

 私は非常に物足らなく思つた。

 そんな話をしてゐるうちに、

 子供達は思ひだしてか、

 折々『パパア……』といつてあたりをさがす、

 皆が『無理もない大杉は随分と子供を可愛いがつたしよく面倒をみたからね』といふ、

 実際大杉は以前から子供は好きであつた、

 よく『アナタが子供を生めば僕は家にゐて守をする』といつてゐたことまで思うひだされた。


(堀保子「小兒のやうな男」/『改造』一九二三年十一月号)

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 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』の記述に従い、九月二十三日に入京した代準介の動向を追ってみる(代準介の自伝「牟田乃落穂」からの引用は、同書からの孫引き引用)。

 上京中の代には特高課の刑事が常に付き添い、その移動には新聞社や通信社が車を提供したという。

 代は死体の引き取りすらままならない状況を鑑みて、頭山満や杉山茂丸に相談した。

 国士舘へ頭山を訪ねたのは九月二十四日の朝だった。

 九月二十七日の骨揚げでは、三人の遺骨は大杉家(大杉勇)と伊藤家で分骨された。

 実兄・栄夫妻と一粒種の実子・宗一を一度に惨殺された、あやめの悲嘆は「殆ど狂人の如く泣き入り五時間に渉るも鎮静せず」(「牟田乃落穂」)だった。

 代はあやめとは初対面だったが、彼女の病気のことも慮り、こう言って彼女を慰めた。

「此の突発せる惨事に逢い、実に同情に堪えず。然り乍ら前代未聞の大なる死なり、クリストと雖も裁きを受けて刑せらる。官憲即ち憲兵本部に拉致し、暗殺の上死体を匿す等、其の愧悪手段、実に言語に絶す。世界的大なる死なり。兹に諦めらるるは、肉親の執るべき処なりと談じたり」(「牟田乃落穂」)





「牟田乃落穂」には、内田魯庵についての記述もある。

「内田魯庵氏は明治大正時代の文豪に新派排撃の旗頭として論陣に立ち、(徳富)蘇峰先生と併称せられたる大家なり。予、固より氏を知らず、大杉邸の隣家にて生前の大杉とは懇親の間柄、死後は昼夜の別なく殆んど詰切の様なり。其風采金持風而も家主とのみ推定し、真(魔)子に家主さんなりやと問ふに、さうよと答ふ。依って毎日の話相手としたり。而して退京の前日多数の文士等集り来り、談話中初めて魯庵先生なることを知り、率直に心得違ひたりし事を述べ、併せて毎日無学者と文豪との説話等を謝したり。其一齣を先生の随筆に物せられたり、此は盲目蛇に恐れざると同じからん」

 代は頭山を人生の師と仰ぎ、頭山のために奔走してきたが、この事件を機に社会主義者の正義感、教養、知性、人格、弱者への愛情を知ったという。

 代は「牟田乃落穂」に、その感慨をこう記している。

「大杉事件当時……大杉邸へ来集の同志、文士、画家、弁護士等に面接せしに、個人としては何れも品性の高尚にして、実に異様の感に打たれり」

「而して、國士館に頭山先生の許に至れば、来訪者何れも国士型の人なり、是等の動作言語は聊か粗暴の嫌ありたり」





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2017年04月13日

第438回 葉鶏頭






文●ツルシカズヒコ




 一九二三(大正十二)年九月二十七日、朝八時から落合火葬場で骨揚げ。

 魔子、エマ、ルイズ三人の遺児と勇らの近親、岩佐、服部ら同志、安成、松下ら友人が骨を拾い、三つの骨壺に納め、遺骨は柏木の家の祭壇に置かれた。

 この夜の告別の集いには近親のほかは、近藤憲二など検束中の同志は列席できず、病身の和田久太郎と村木、服部夫妻が列席。

 友人知人は山本実彦、北原鉄雄、内田魯庵、足助素一、山崎今朝弥、布施辰治、安成夫妻、橋浦泰雄、佐々木孝丸、小牧近江、青野季吉、堀保子らが列席した。

 内田魯庵は、こう記している。

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 大杉は無宗教であつたが、遺骨の箱の前に三人の写真を建て、祭壇を設けて好きな葡萄酒と果物を供へた。

 其晩は近親と同志とホンの小数の友人だけが祭壇の前に団居(まどゐ)して、生前を追懐しつゝ香を手向けて形ばかりの告別式を営んだ。

 門前及び付近の要所々々は物々しく警官が見張つて出入するものに一々眼を光らした。

 折悪しく震災後の交通がマダ常態に復さないので、電車の通ずる宵の中に散会したが、罪の道伴れとなつた不運の宗一の可憐な写真や薄命の遺子の無邪気に遊び戯れるのを見て誰しも涙ぐまずにはゐられなかつた。


 大杉の一生を花やかにした野枝さんとの恋愛の犠牲となつた先妻の堀保子も、イヤで別れたので無い大杉に最後の訣別(わかれ)を告げに来て慎ましやかに控へてゐたが、恋と生活とに痩(やつ)れた姿は淋しかつた。


(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)





 橘宗一の母である大杉の末妹・橘あやめは、大杉の次妹・柴田菊とともに静岡市から駆けつけた。

 そのときのシーンを和田久太郎が鮮烈に記している。

 和田は一九二四(大正十三)年九月一日、福田雅太郎(大杉と野枝殺害時の戒厳司令官)をピストルで狙撃するが未遂に終わった。

 以下の文面は市ヶ谷刑務所に拘置中の和田が、あやめ宛てに書いた書簡(一九二五年九月四日)からの引用である。





 淀橋の家で、三人の遺骨を祭壇にのせて、ささやかな手向けの花などを立ててゐた時、貴女は柴田さんに連れられて入つて居らつしやいました。

 其処に居た服部(浜次)夫妻と安成(二郎)の細君と僕とは、ハツと胸を打たれて面を伏せました。

 吾々は貴女の顔を見るに堪えなかつたのです。

 と、貴女は入つて来るなり庭から『宗坊はゐますかツ』と叫ばれました。

 僕等がそれにどう答へることが出来ましよう……女達はすぐ『わつ』と声をあげました。

 それを聞いた貴女は『ぢやア、あれは本当なんですかツ……本当なんですね……宗……』と言ひさして縁先きへ崩折れてしまはれました。

 其処へ、二階から村木が降りて来ました。

 勇さんも降りて来られました。

 そして、『兎に角まあ……』と言つて、泣き入る貴女を二人で二階へ連れて行きました。

 僕は下に、ぢつと遺骨の傍で俯向いてゐました。

 そして、悲痛な腸をかきむしる様な貴女の泣き声を聞きながら、ガリ/\と歯を噛んでゐました。

 やがて一時間ほど経つて、貴女は二階から下りて来られました。

 僕はやはり何も言ふ事が出来ず、ただ心の中で『とんだ飛ばつちりで、申訳けがありません』と詫びながら、そつと目礼をしました。

 貴女は三人の遺骨の前へ行つて焼香をなさいました。

 そして、其処に祭つてあつた三人の写真を見つめてゐるうちに、再び『わつ』と泣き伏してしまはれました。

 無理のない事です。

 が、僕等は病中の貴女の体をどんなに気遣つたか分りません。

 貴女はまた、勇さん(大杉)や女の人達に連れられて、二階へ行かれました。

 僕はやはりぢつとして其の場に残つてゐました。

 傍には、服部の細君ときよ子さんが居ました。

 と其処へ、こんどは魔子ちやんがエマちやんと連れ立つて、ニコニコ笑ひながら入つて来ました。

 その後からは、まだ足つきの危ないルイちやんが、これもキヤツキヤツと嬉しさうに笑ひながら、よち/\とついて来ました。

 マコちやんエマちやんは、そうと遺骨の前に行き、ぴつたり並んでお線香を上げました。

 そして、二人で顔を見合せて悪戯さうに笑み交しては、合掌礼拝するのでした。

 それを見たルイちやんがまた、後ろでキヤツキヤツと喜びながら、四ツ這ひになつてお尻を突つ立て、頭でコツ/\と畳を叩くのでした。

 服部の親子は、もうさつきから子供達のすることを眺めて、泣いてゐました。

 エマちやんを探しに来た九州の伯母さんと、ルイちやんを探しに来た女中のお雪さんとは、襖の処へ突つたつたまゝ、子供達を指さして泣き出しました。

 僕も堪らなくなつて、玄関から前庭へ走つて出ました。

 其処には葉鶏頭が、秋の日を充分に受けて真つ紅に燃えてゐました。

 僕はその真紅な血のやうな葉鶏頭をぢつと見つめました。

 僕の眼からは泪は落ちませんでした。

 しかし、その葉鶏頭の血の色からは、しばらく眼を離す事が出来ませんでした。


(和田久太郎『獄窓から』・労働運動社・一九二七年三月十日/黒色戦線社・一九七一年九月一日)


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2017年04月01日

第437回 大杉外二名






文●ツルシカズヒコ




 九月二十三日、勇宛てに第一師団軍法会議から、事件の証人として召喚する旨の通知。

 大杉らの殺害を察知した近親者、同志、友人らが善後策を講じる。

 九月二十四日、勇と進と村木が憲兵司令部に遺体引き渡しの交渉。

 午後、福岡から上京した代準介も同行し、山田法務部長に面会。

「明朝九時に下げ渡す」との回答。

 勇は宗一の証人として軍法会議に出頭。

 午後三時、陸軍省が甘粕憲兵大尉が大杉外二名を殺害した旨の発表をする。

 そのニュースを朝刊が第一面の大活字で報じた日のことについて、内田魯庵はこう記している。

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 朝の食卓は大杉夫妻を知る家族の沈痛な沈黙の中に終わつた。

 今日も魔子は遊びに来るかも知れないが、『魔子ちやんが来ても魔子ちやんのパゝさんの咄をしてはイケナイよ、』と小さい兒供を戒めた。

 何にも解らない小さい兒供達が何事か恐ろし事があつたのだといふ顔をして、黙頭(うなづ)いてゐた。

 暫らくすると魔子果して平生(いつも)通り裏口から入つて来た。

 家人を見ると直ぐ『パパもママも死んぢやつたの。伯父さんとお祖父(ぢい)さんがパゝとマゝのお迎へに行つたから今日は自動車で帰つて来るの、』と云つた。

 お祖父(ぢい)さんといふのは東京より地方へ先きに広がつた大杉の変事を遠い故郷の九州で聞いて倉皇上京した野枝さんの伯父さんである。

茶の間へ来て魔子が私の妻を見て復た繰返した。

『伯母さん、パパもママも殺されちやつたの。今日新聞に出てゐませう。』

 私は兒供達に『魔子ちやんのお父さんの咄をしてはイケナイよ、』と固く封じて不便な魔子の小さな心を少しでも傷めまいとしたが、怜悧な魔子は何も彼も承知してゐた。

 が、物の弁へも十分で無い七歳の子である。

 父や母の悲惨な運命を知りつゝもイツモの通り無邪気に遊んでゐた。

 同い年の私の兒供は魔子を不便(ふびん)がつたと見えて、大切(だいじ)にしてゐた姉様や千代紙を残らず魔子に与(や)つて了つた。


(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)





 震災後十日間ほど野天生活をしていた辻潤は、その間、夜警に出たりしていたが、妊娠中のK女(小島キヨ)を彼女の実家に預けることに決め、老母と子供(一/まこと)をK(川崎)町からあまり遠くないB町の妹のところへ預けて、辻とK女は西へ向かった。

 名古屋でK女を汽車に乗せた辻は、それから二三日して大阪に行き、金策などしながら一週間ほど暮らした。

 辻が「大杉外二名」を報じる号外を手にしたのも、大阪滞在中だった。


 夕方道頓堀を歩いてゐる時に、僕は初めてアノ号外を見た。

 地震とは全然異なつた強いショックが僕の脳裡をかすめて走つた。

 それから僕は何気ない顔つきをして俗謡のある一節を口吟(ずさ)みながら朦朧とした意識に包まれて夕闇の中を歩き続けてゐた。

 妹の家に預けてあるまこと君のことを考へて僕は途方にくれた。

 それから新聞を見ることが恐ろしく不愉快になりだした。

 だから不愉快になりたい時はいつでも新聞を見ることにきめた。


(辻潤「ふもれすく」/『婦人公論』一九二四年二月号/『辻潤全集 第1巻』 )





 九月二十五日、勇、進、代準介、山崎今朝弥、安成二郎、服部浜次、村木の七人が、遺体引き取りのため憲兵隊本部へ出頭後、車で三宅坂の陸軍衛戍病院へ向かう。

 午後二時、陸軍衛戍病院に到着。

 中へ入れるのは親族と友人二名とされ、服部と村木は外で待つ。

 遺体は釘打ちされた寝棺に納められていたので、蓋を開けさせると、棺の中は防腐用の石灰で埋まり臭気芬々(ふんぷん)。

 掻き分けて指を差し込むと、スブッと中に入るくらい腐乱していた。

 棺は火葬のため軍用の幌付き自動車で落合火葬場に運ばれた。

 村木と安成が同乗。

 火葬場は大震災で倒壊しているうえに、多数の横死者が運ばれて渋滞。

 安成が三つの棺に「栄」「野枝さん」「宗ちゃん」と名前を墨書。

 九月二十七日払暁、荼毘に付された。





 安成二郎はこの間の経緯について、下記のように回想しているが、引用文中に「近藤憲二」とあるのは間違いである。

 近藤はこのころ駒込署に検束されているからだ。

 近藤ではなく村木か服部のことだと推測される。


 三君の死体は二十日に井戸から上げられ、第一師団で解剖に付した後、三宅坂の衛戍病院に置かれた。

 それを二十五日に遺族に引渡すといふので、近藤憲二君と私とで受取に衛戍病院に出かけた。

 三つの棺を置いた部屋に大勢の軍人がゐた。

 棺にはちやんと蓋をして釘づけになつてゐた。

 そのまゝでは受取れない。

 近藤君が蓋を明けることを要求した。

 軍人はぐぢ/\したが、強硬に云ふと兵隊に釘を抜いてあけさせた。

 しかし棺の中一杯にぎつしり石灰で埋まつて臭気を発してゐた。

 近藤君は石灰に手を突込んで死体に触れて見た。

 そのまゝ蓋をし、陸軍のトラツクに三つの棺を積み、私たちと兵隊が何人か乗つて、落合の火葬場に向つた。

 よく晴れた残暑の日の午後であつた。

 トラツクが四谷見付を通るとき、交通整理で一寸停止した。

 するとそこでバスから下りた宇野浩二君と邂逅し、宇野君は私達のトラツクにカメラを向けた。


(安成二郎「大杉君の死」/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』_p116・新泉社・一九七三年十月一日)




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2017年03月30日

第436回 号外






文●ツルシカズヒコ




 この第436回以降は、一九二三(大正十二)年九月十七日以後、つまり大杉と野枝の死後について記述してみたい。

 時間の経過と出来事は、大杉豊『日録・大杉栄伝』の記述をベースにしている。

 九月十八日、大杉の次弟・勇夫妻が衣類などを受け取りに淀橋町柏木の栄宅を訪問した。

 留守宅では三人が帰らないのは鶴見の勇宅に泊まったと推測していたので、淀橋署に捜索願を出した。

 この日の報知新聞夕刊に、大杉夫妻と「長女」三名が麹町分隊に留置されているという記事が載った。

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 九月十九日、勇は三人が検束されているという記事を読み、大手町の憲兵隊司令部へ行き、面会と宗一の引き取りを要求するが、「そんな者は来ていない」と門前払いされる。

 内相・後藤新平が警察情報により事件を知る。

 首相・山本権兵衛が陸相・田中義一に調査を指示、発覚して陸軍は軍法会議と小泉司令官らの処分を決める。
 
 甘粕らに拘引状、予審開始。

 九月二十日、東京朝日新聞記者から勇へ、栄は憲兵隊によって殺され、他の二人も殺された可能性が高いという知らせがある。

 勇は再度、憲兵隊司令部に行き問い質すが追い払われた。

 大阪朝日新聞と時事新報が号外で「甘粕憲兵大尉が大杉栄を殺害」の報道、以後、報道が禁じられた。

 午後一時半、三人の遺体は憲兵隊本部の古井戸から引き上げられ、三宅坂の東京第一衛戍病院へ送られ
た。

 死亡鑑定のため、田中隆一軍医が午後三時半から二十一日午前十一時二十六分まで死体解剖を行なう。

 陸軍が東京憲兵隊分隊長・甘粕正彦が違法行為を犯したとして、以下の処分を発表。

 戒厳司令官・福田雅太郎を更迭、憲兵司令官・小泉六一と東京憲兵隊長・小山介蔵を停職。

 大杉が検挙されたという風説を内田魯庵が耳にしたのは、九月十六日の午前中に大杉と野枝が出かけるのを目撃してから二、三日後だった。

 魯庵は風説を一笑に付していたが、九月二十日ころの夜十一時すぎに、安成が来て「大杉が行方不明となりました」とひどく興奮して話した。

「十六日に鶴見へ行ったきりで帰って来ません。家でも心配して八方捜しているのですが、さっぱり行方が解りません。検挙されたならどこかの警察にいそうなもんですが、どこの警察にもいません。警察では検挙したものを検挙しないと秘すことは絶対にないので、警察にはいないようです」

 安成は満面に不安の色を浮かべて魯庵に話した。

 魯庵も不安に堪えられなくたった。





 安成は、其日恰も戒厳軍司令官を初め二三の陸軍の重職が交迭し、一大尉一特務曹長が軍法会議に廻されたといふ明日発表される軍憲の移動を話して、恁(こ)ういふ重職の交迭は決して尋常事(ただごと)では無い。

 余程の重大な原因が無ければならない。

 当局者の言明に由れば数日前に突発した事件に関聯するといふが、その突発事故といふのは何だか、マダ発表を許されないと堅く緘黙(かんもく)してゐる。

 が、ウッカリ当局者が滑らした口吻に由ると不法殺人であつて、殺されたものは支那人や朝鮮人で無いのは明言するといふのだ。

『どうもそれが大杉らしいのです、』と安成は痛(ひど)く昂奮してゐた。


(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)





 九月二十一日、勇が淀橋署と警視庁へ行き、安否確認の要求をするが明確な回答を得ず。

 九月二十二日、村木が布施辰治弁護士と警視庁へ行き、大杉ら三人の調書依頼書を提出。

 神戸在住の大杉の三弟・進が、あやめからの依頼で静岡経由で宗一の衣類を持って柏木の大杉宅に着く。

 この間、魯庵の家には魔子が相変わらず遊びに来ていた。


 兒供の事で周囲の不安には一向感じないらしく、毎日来ては家の兒供と一緒に歌を歌つたりダンスをしたりして無邪気に遊んでゐた。

 大杉の家もヤゝ人出入(ひとでいり)が繁く取込んでゐらしく想像されたが、安成も夫(それ)ぎり見えないので、不安を感じながら身辺の雑事に紛れてゐると、或時魔子がイツモの通り遊びに来てゐると家から迎へが来て帰つた。

 暫らくすると復た来て、新聞社の人が来て写真を撮つたのよと云つた。

 新聞社が兒供の写真を撮りに来たといふは尋常では無いので、恐ろしい悲痛な現実に面する時が刻々迫つて来たやうな感じがした。


(同上)





 大杉と野枝の殺害事件発生後、野枝方の近親者の責任者として、その事後の対処に当たったのが代準介だった。

 代準介はその一連の経過を自伝「牟田乃落穂」に記しており、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』に詳述されている。

 大杉が殺害されたという新聞報道があった九月二十日、東京の報知新聞や都(みやこ)新聞から、代準介宛てに電報が入った。

 大杉、野枝、遺児(まだ宗一とは判明していない)三名が、憲兵隊麹町分署で殺害されたという電文だった。

 代は戒厳令下の東京府内に立ち入る許可を得るため、即座に警察と福岡県庁に行き上京許可証を取った。

 福岡日日新聞(一九二三年九月二十八日)に、代キチ、代準介、野枝の父・亀吉のコメントが載っている(取材日は九月二十一日と思われる)。

 代キチは震災直後、米や小児用のミルクを送ってくれという野枝からのハガキや電報が届いたとコメントしている。

 代準介は八月上旬に三女・エマを連れて上京し震災前に帰福、大杉の実弟にだけ任せておくわけにはいかないので自分も上京したい、天津にいる次女・幸子以外の三女一男は無籍なのでその処置もしたいとコメントしている。

 亀吉は、大杉は二度亀吉宅を訪れたことがある、八月中旬にネストルが生まれたという手紙をくれた、おまえらのしていることはよく解らないないと言うと、野枝は言ってもあなたがたには解らない、三十までは自由にさせてくれ、野枝は強情なところもあったが小遣い銭を送ってくれたりだいぶ優しくなったなどのコメントをしている。





 代準介と野枝の父・亀吉が相談した結果、東京事情に詳しく頭山満にも人脈のある代が、一人で上京することになった。

 亀吉も代と一緒に上京した旨の記述や書籍があるが、亀吉は上京していないので、『伊藤野枝と代準介』はその間違いを指摘している。

 たとえば、井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・ちくまぶっくす20・一九七九年十月三十日)に「九州の実家からかけつけた野枝の父と代準介は、遺児たちをつれて、十月二日に九州に旅立った。」(p212)という記述があるが、これは間違いである。

『伊藤野枝と代準介』によれば「魔子が子供の頃、代準介のことを『おじいちゃん』と呼んでいたので、記述に誤解が生じたのであろうと思う」。

 代は船で下関に渡り、大阪に立ち寄り、食料や幼子たちへの菓子、棺桶まで買い込んだ。

 棺桶類の大きい荷物はすべてチッキにして東京に送った。

 東海道線は小田原あたりが壊滅的状況で不通なので名古屋まで行き、中央線に乗り換えた。

 代が入京したのは九月二十三日だった。



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2017年03月27日

第435回 梨 






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年九月十六日、大杉たち三人は日比谷を経て往路と逆に帰ったと推測される。

 大杉たちが薩摩原(三田四国町)で下車したときから、尾行が三人を見失った。

 鴨志田が憲兵隊本部に戻ると、佐藤特高係長にお前が淀橋にいると思い、甘粕と森らは淀橋に行ったと言われ、車で淀橋署に駆けつけた。

 江崎は日比谷経由で柏木の大杉の家に行ったが、大杉が不在なので淀橋署に戻った。

 江崎と鴨志田はほとんど同時に張り込み中の甘粕のところへ行き、大杉らがまもなく帰宅することを伝えた。

 甘粕は森、本多、平井利一を従えていた。

 五時半ごろ、大杉、野枝、宗一が柏木に着き、自宅まで二、三分の角にある八百屋で野枝が梨を買い出て来たところを、甘粕らの憲兵隊に検束された。

 甘粕が「調べることがあるから憲兵隊まで同行してもらいたい」と詰め寄ったので、大杉は「用事があるなら行ってもよいが、一度家に帰ってからにしてもらいたい」と言うと、言下に拒否された。

 大杉は淀橋署に停めてあった車に、野枝と宗一は鴨志田が乗って来た車に乗せられ、七時ごろ大手町の憲兵隊本部に連行された。

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 瀬戸内晴美(現・寂聴)が、大杉ら三人が連行されたこのシーンを目撃したという女性から、手紙を受け取ったのは、瀬戸内が『文藝春秋』に「諧調は偽りなり」を連載中の一九八一(昭和五十六)年十二月だった。

『文藝春秋』の創刊以来の愛読者であり「諧調は偽りなり」にも目を通しているという玉井協子は、在米十二年、シアトル郊外に在住、「間もなく八十歳になります」というから当時、満年齢は七十九歳、一九〇二年生まれだろうか。


 あの日はまだ残暑がきびしく流れる汗にまみれ乍ら、私は柏木の当時郡役所通りとよばれる青梅街道の北側の通りを大久保駅方面に歩いて居り、右へ曲ると淀橋第一小学校、今一つは左の方へと三つ股になっている角に公衆電話のある二三軒先の果物店へ参りました。

 どこにもある小さな店で中央と両側に商品を並べてその間が通路になって居ります。

 私より先にその頃としてはまだ珍しいハイヤーが止っていてそこから降りたであろう客が三人店内に居り、洋装の婦人が右奥の方で贈物らしい立派な手かごをとみこうみしておりました。

 婦人の洋装などこの田舎町で身(ママ/筆者ツルシ註)かけたことのない当時二十一歳の至って旧式に育てられた無智な私は忽(たちま)ちこの姿に目を奪われました。

 時たま街中で見かける洋装は大方無地か細い柄ですのにこれは白地に大柄なワンピースで美しいとはいえない平顔にベッタリと厚化粧して智的な感じはなく三十歳代の感じでした。

 同伴の男性はチラッと視た丈(だけ)でどんなだったか殆ど印象に残りませんが婦人よりずっと上品で紳士的でした。

 好奇心に満ちた年頃の娘とて洋装ばかり注目していたので男の子がいたのは見ていますが、これもさっぱりどんな様子だったか記憶にありませんで、その洋装に似合わない厚化粧やら深い夏帽子との調和も考えられずみんなチグハグと私の眼にうつりました。

 唯この三人が親子とも夫婦とも思われず、好感を持てないのに何となくはなやかフンイキが漂い、帽子のツバに手をかけ乍ら車にのり込んで走り去ったあとの淋しさというかホッとためいきをつきたい気分になりました。

 私は店内へ一歩入った所に佇(た)って、多分ポカンと唇でもあけてこの情景をみていた事でしょう。

 後日新聞で、あれは死の首途の数時間前の彼等だったと覚り、読みかけのおくの細道の塚も動けの句に慟哭する芭蕉と一緒にひとの命のはかなさ、測り知られぬ運命等に涙していつになってもこの情景が目に灼きついて忘れることが出来ません。

 其後私は遠方へ移りこの店の前を通る事もなく、どうなったか存じませんがあの辺は明治末年現在の安田ビルあたりに煙草専売局が出来たについて発展した処とて土着の人が多く、戦災は最後の五月二十五日の大空襲を被った処で避難先もなく大部分小屋など建てて居残りましたから今もあるかもしれませんし、付近の古老に知っている人もありますでしょうーー略ーー


(瀬戸内晴美「諧調は偽りなり」・『文藝春秋』・一九八三年五月号/『諧調は偽りなり』・文藝春秋・一九八四年三月/『諧調は偽りなり』・文春文庫・一九八七年四月十日/『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』・新潮社・二〇〇二年一月十日/瀬戸内寂聴『諧調は偽りなり 伊藤野枝と大杉栄(下)』p229~232・岩波現代文庫・二〇一七年二月十六日)


 玉井の手紙には地図まで書き込んであったという。

 津田光造(辻潤の妹・恒の夫)も、大杉が憲兵隊本部に引っ張られて行くのを目撃したという(小牧近江『ある現代史』/法政大学出版局/一九六五年 )。

 大杉は八時半ごろ憲兵司令部応接室で、野枝は九時半ごろ元憲兵隊長室で、宗一は同時刻ごろ特高課事務室で、次々に扼殺された。





 安成二郎「甘粕の供述」によれば、扼殺される直前、甘粕に話しかけられた野枝は甘粕とこんな会話を交わした。


 私は室内を歩行しながら、

 戒厳が布かれてバカなことであると思つてゐるであらうと言ひましたら笑つてをり答へませぬから、

 兵隊なんかバカに見えるであらうと言ひましたれば、

 今日兵隊さんで無ければならぬやうに言ふではありませんかと答へ、

 自分等は兵隊で警察官であるから君達から見れば一番いやな者であらうと言ひ、

 且つ君達は只今より一層混乱に陥ることを好んでゐるであらうと言ひましたれば考へ方が違ふのでありますから致し方ありませんと笑ひながら答へ、

 ドウセ斯様(かよう)な状況を原稿の資料にするであらうと言ひましたれば既に本屋から二三申込を受けてゐると答へました。


(「甘粕の供述」/安成二郎『無政府地獄 - 大杉栄襍記』・新泉社・一九七三年十月一日)





「甘粕の供述」によれば、十時半ごろ、三人の死体は裸にされ、菰で包み麻縄で梱包され、憲兵隊内の火薬庫のそばにある井戸の中に投げ込まれた。

 三人の遺体が投げ込まれた井戸には、震災で破壊された火薬庫の煉瓦が多数投入され埋められた。

 翌、九月十七日、三人の遺体が投げ込まれた井戸には、甘粕の指図により人夫によってさらに尿糞や塵なども投げ込まれ、井戸は全く埋没してしまった。

 三人の着用していた衣服、およびオペラバッグ、手提袋、帽子、靴下、下駄などは、同日の夕方、甘粕が築地に巡視に行った際、自動車に積み込み、逓信省の焼け跡の石炭が燃えている中に投げ入れて焼却した。

 扼殺される前に、大杉と野枝が肋骨が骨折する激しい暴行を受けていたことが判明したのは、五十三年後の一九七六(昭和五十一)年だった。

 同年八月二十六日の『朝日新聞』が、三人の死体解剖をした軍医・田中隆一の残した「死因鑑定書」が発見されたと報道し、その事実が公になったのである。



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2017年02月28日

第434回 鶴見






文●ツルシカズヒコ



 内田魯庵「最後の大杉」によれば、それは一九二三(大正十二)年九月十六日の朝九時ごろだった。

 魯庵の家人が、大杉と野枝が洋装で出かけるのを裏庭の垣根越しにチラっと見た。

 魯庵はすぐ近くの聖書学院の西洋人だろうと思っていると、ちょうど遊びに来ていた魔子が後ろ影を見て、垣根の外へ飛び出した。

 すぐに戻ってきた魔子が言った。

「うちのパパとママよ」

 午後にまた魯庵の家に来た魔子が言った。

「パパとママは鶴見の叔父さんのところへ行ったの。今夜はお泊まりかもしれないのよ」

 伊藤真子(魔子)はこのときのことを、二十二年後にこう回想している。


 私が最後に父母と別れたのはやつぱり他所(よそ)へ遊びに行つてゐる時だつた。

 夢中で遊んでゐると父と母が外出のかつかうでやつて来た。

 横浜で震災に会った叔父達(現在私の居る叔父のところ)が鶴見に居るからこれから行つて連れて来ると云ふのだ、何時(いつ)もの私なら私も一緒にと云つて父にぶらさがるのだが、その時は、遊びが余り面白かつたせゐか"マコは集(ま)つてゐる"と云つてキヤア/\さわいで遊んでゐた。

 それがとう/\最後だつたのだ。


(伊藤真子「父大杉栄の記憶」/『婦人公論』一九三五年七月号)

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 一九六五(昭和四十)年春(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』p32)、福岡市に取材に訪れた瀬戸内晴美(寂聴)に、伊藤真子はこう語っている。


 殺された日は、珍しく父が私を置いていきましてね。

 やっぱり虫が知らせるというのでしょうか。

 どこへ行くにも私を連れていきたがる父が、その日にかぎって、私をお隣りの内田魯庵さんのところに置いていったんです。

 もし、私があの日いつものようにつれていかれていたら、一緒に殺されていたんですね。

 内田魯庵さんが、いつも私が大杉と出かけるのに、後追いもしないので後で考えたら不思議だったといってらっしゃいました。

 ええ、魯庵さんの家へは、毎日遊びにいっていて、自分の家にいるより長くいたくらいなんです。


(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」・『文藝春秋』・一九六五年四月号〜十二月号/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・文藝春秋・一九六六年二月/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・角川文庫・一九六九年八月二十日/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』・岩波現代文庫・二〇一七年一月十七日)





 以下、特に引用を明記しない記述は、大杉豊『日録・大杉栄伝』の記述に従って、この日の大杉と野枝の行動を追ってみたい。

 九時過ぎに自宅を出た大杉と野枝は、自宅前の尾行の監視小屋の前を通ると「どこへ行くのか」と訊かれたので、外出先と目的を明確に答えた。

 ここでふたりの尾行がついた。

 淀橋署特高係巡査・江崎鎌次郎と、淀橋署に泊まっていた東京憲兵隊特高課上等兵・鴨志田安五郎である。

 大杉は白の綺麗な背広にソフトの中折帽を被り、品物を入れた手提を手に持っていた。

 野枝は麦藁帽を被り、オペラバッグを手に持っていた。

 自宅から十分ほど歩いて市電の終点付近(大ガード西)でバスに乗り、日比谷で乗り換えて八ツ山で降車した。

 品川から京浜電車に乗り、川崎(砂子町)で下車、神奈川県橘樹(たちばな)郡川崎町の辻潤の家を訪ねたが、辻の家は損壊していて一家は不在だった。

 後年、辻一(まこと)はこう回想している。


 ……もし地震が八月にあったら、夏休みは例年大杉の家に居候する習慣であったから、母親伊藤野枝とともに、刃物をもった狂人の狂気の犠牲と相成ったかも知れないのである。

 実際いっしょに殺された宗一少年は長いこと小生だとおもわれていた。


(辻まこと「居候にて候」/『東京新聞』一九六四年九月十四日/『居候にて候』・白日社・一九八〇年十月)





 大杉と野枝は再び京浜電車に乗り、生麦で下車。

 大杉の次弟・勇の避難先である、神奈川県橘樹郡鶴見町字岸(現・横浜市鶴見区岸谷三丁目)の大高芳朗の家を訪ねた。

 勇一家は近くの家に移っていたので、大高の母らしき人に案内してもらい、鶴見町東寺尾(現・横浜市鶴見区東寺尾五丁目)に行った。

 勇と妻・富子、橘あやめの長男・宗一は激震地の横浜で被災し、倒壊した家屋から這い出て、線路端に野営しながら三日間、飲まず食わずで鶴見にいた。

 勇一家は会社の同僚・大高を頼って避難したが、まもなく貸家を見つけて落ち着いた。

 勇の勤務先の東京電気(現・東芝)川崎工場も倒壊したので、勇は仕事にも行けずに在宅していた。

 大杉と野枝が勇宅に着いたのは十二時半ごろだった。

 昼食をともにして、互いの震災の体験談をした。

 この家で頑張るという勇に、衣類などを取りに来るように言い、宗一を連れて二時半過ぎに勇宅を出た。

 着るものがなく、宗一は女の子の浴衣姿だった。

 勇も三人を送って同行し、生麦から京浜電車に乗り川崎で下車。

 六郷川鉄橋の橋脚が折れたので、六郷(六郷土手)まで歩き、六郷の駅で勇と別れた。





 品川に着いたのが四時ごろだった。

 市電に乗り薩摩原(三田四国町)で下車し、医師の奥山伸を訪ね見舞ったが、奥山は留守だった。

 大杉たちは奥山の家に上がり、台所で水を飲み、少し待ったが諦めて帰路についた。

 当時、奥山のところに通院していた鈴木茂三郎が、奥山から聞いた話としてこう記している。


 大杉夫妻は……先生不在のため立ち去った。

 その直後、帰宅した先生は、いそいで電車通りまで追っかけて、じっとレールに耳をあて、いつまでも大杉夫妻を乗せて走り去った電車の車輪の音をなつかしそうに聞いていた。

 大杉夫妻が殺されたのは、その日の夜半である。


(鈴木茂三郎『忘れえぬ人々』・中央公論社・一九六一年)


 

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2017年02月26日

第433回 オートミル






文●ツルシカズヒコ


 一九二三(大正十二)年九月十五日、乳母車に子供を乗せて出かけた大杉は、豊多摩郡大久保百人町の荒畑寒村宅を訪れた。

 寒村はロシアに亡命中で留守だったが、寒村の妻に「お玉さん、寒村がいないでも、僕らがついているから心配することはないヨ」と励ました(筑摩叢書34『新版 寒村自伝 下巻』)。

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 松下芳男「殺さるゝ前日の大杉君夫妻」によれば、『中央法律新報』編集長だった松下が、大杉宅を見舞いに訪れたのはこの日の午後だった。

 松下は郷里の新発田では大杉の家の背中合わせに住み、大杉の長弟・伸とは竹馬の友、大杉の三妹・松枝とは小学校の同級で、大杉は新発田中学の先輩でもあった。

 仙台の陸軍幼年学校から士官学校に進んだ松下は、大杉の『近代思想』に触れて「社会」への目を拓かれ、陸軍歩兵中尉時代に「社会主義に共鳴」した将校として新聞に報じられ停職処分を受けた。

 松下にとって大杉は、主義や運動に共鳴するところは少なかったが、最後まで親しい懐かしい、そして尊敬する先輩だった。





「大杉さんはいますか」

 煙草を吸いながらぼんやり縁側に座っていた服部浜次に、松下が声をかけると、服部が答えた。

「ああ、いるよ。入り給え」

 すると、服部のそばで遊んでいた魔子が大声で、

「パパー、パパー、お客様!」

 と、二階を見上げて呼んだ。

 大杉は原稿書きに疲れて昼寝をしていたが、しばらくして下りて来て、庭の籐椅子に腰かけた。

「大杉さん、まだ生きていましたね。僕は方々で大杉栄の暗殺を聞きましたよ」

 と、松下が言うと、大杉は充血したような目をむき出し、笑いながら、

「僕はこのとおりさ。僕も訪ねて来る人から大杉栄の暗殺を聞かされるけれども、どこかの大杉はやられても、この大杉はかくのごとくに健在さ、アハハハハ」

 と、こともなげに言い放ち、香の強い煙草を例のごとくスパスパやっていた。

「近ごろの流言やら騒ぎやらで、何か押し寄せては来なかったですか」

「いや、さっぱり。このへんは比較的静かなものさ」

「どこかへ出ましたか」

「焼け跡を見たいと思っているが、なにしろ君、歩くんだろう。たまらんから、家にばかりいるよ。でも、この間の晩、ちょっと散歩と思って提灯つけてこの付近を廻ったら、夜警していた連中が『大杉の旦那が夜警して下されば、主義者も鮮人も大丈夫だ』と喜んでいたよ」

 そこへ野枝が出て来た。

 野枝も出産後で外出をしていなかったので、外の話に興味を持った。

 日比谷の家を焼け出され、日比谷公園で何日か家族とともに野宿をした服部が、こんなことを言った。

「なにしろ自分の家が丸焼けになると、焼けない家が癪にさわるのは、どうも共通の心理らしいね。避難者の中にずいぶんこんな意味のことを言った、不届き者があったぜ」

「そんなやつが放火する気になるのかな」

「そうかもしれないね」

「今度の地震で、そんなにたくさん放火をしたやつがあったのかね」

 九月七日ごろ、松下が御茶ノ水付近を歩いていると、鉄道省の制服を着たふたり連れの男が、鎌倉の惨状について話していた。

 そしてひとりが、こんなことを言った。

「なにしろ鎌倉には大杉栄という社会主義の親分が住んでいたので、子分二、三十人を指揮してずいぶんあばれたそうだよ」

 松下がそのときの話をして、

「たくさん放火したと伝えられるのは、たいがいはこんな類いじゃないですかね」

 と、言うと、みんなが笑った。

「とにかく今度の流言蜚語はたいしたものさ。宇都宮師団の参謀長のごときは公然と、東京の騒乱を社会主義者と朝鮮人と露国過激派との三角関係によるのだと明言し、その地方の新聞は三段抜きで大々的に書いているのだから、助からんよ」

「いったい主義者の放火というが、どの連中がやったのかね」

 大杉は不思議そうに言った。

「さあ、わからんね。どうも郵便はきかず、電車はなし、同志の消息などちっともわからんので困るよ」

 服部が困ったような顔をして言った。

「わからんと言えば、僕の弟の勇がね、あの川崎にいる。どうもあれの家もむろん潰れたと思っているが、音信がないのでその生死さえ懸念していたところ、今朝ようやく無事だというハガキに接して安心したわけさ。ずいぶんひどくやられたらしい。明日にでも見舞い行こうかと思っておるところさ」

 みんなは地震以来のさまざまな珍談を語り合い、そして玄米食には誰も弱ったなどと笑い合った。





『僕は玄米飯は余り厭でもないよ』

 大杉君がそういつた。

『でも子供が食べないので気の毒ですよ』

 野枝さんはそういつた。

『此間の新聞にあつたぢあないか、一昼夜米を水にひたして、十何時間とか煮ればいゝつて……』

『ひたすのはいゝとしても、十何時間側に居て炊く人が大変ですわ』

 更に野枝さんは言葉を継いだ。

オートミルの様にしてやつたら、子供も食べるでせう。私、明日そうしませうかしら』

 其中にマコちやんが、蒸し甘藷を満たした鍋を抱いて来て、座敷中を持ち廻り、俗謡「何所までも」の節で、

『おいもの蒸かしたのはいりませんか、蒸かしたおいもはいりませんか』

 などゝ歌つたら、大杉君は

『マコ! おいもをお呉れ、みんなに一つ宛上げなさい』

 マコちやんは其言葉の通りにして、尚も持ち廻りを初めたら野枝さんから、

『マコちやん! 止めなさい!』

 と強く云はれたら、鍋を放りだした。

 甘藷は一面に散つた。

『マコ! 仕方のない児だね』

 野枝さんは叱りながら甘藷を拾ひ集めて、私共の前に置いた。

 私共は尚暫く語り合つた後私が辞さうとした時野枝さんは、いつた。

『お宅はどの辺? あの火葬場の付近ですか』

『エゝ、火葬場と小滝橋との中間です。どうぞ御閑の時御出で下さい』

『有り難う、私、火葬場付近ならよく存じてゐますわ』

 私は辞し去つた。

 ーーそしてそれは大杉夫妻と最後の別になつたのである。


(松下芳男「殺さるゝ前日の大杉君夫妻」/『改造』一九二三年十一月号)





 村木源次郎「彼と彼女と俺」(『労働運動』一九二四年三月号)によれば、村木が柏木の大杉の家を訪れたのは、九月十五日の夕方だった。

 村木と大杉は労働運動社の関係者がみんな検束されている話などをし、大杉は社の今後の展望を語った。

「みんなが出て来たら、大阪に本社を移して活動するも面白い。東京には俺一人頑張っていれば大丈夫だろう。こっちの通信は俺が送ってやるようにして。ひとつみんなが出て来たら相談してみたい」

 夕立の烈しく降る中、野枝と村木は柏木の家を一緒に出た。

 ふたりは神楽坂上で別れ、野枝は神楽坂にある叢文閣の足助素一を訪ね、村木は労働運動社に戻った。

 野枝が足助を訪ねたのは借金をするためだった。

 野枝は前日も叢文閣に足助を訪ねたが、足助は留守だった。

 この日、社にいた足助は「赤ん坊にやるミルクも買えない」という野枝に、二十円貸した(安成二郎「二つの死」/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』・新泉社・一九七三年十月一日)。

 大杉と野枝はこの二十円を手に、翌日、神奈川県・鶴見に避難している大杉の次弟・勇の見舞いに行くことになる。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、「この日夕刻、東京憲兵隊大尉・甘粕正彦は大杉を検束する目的をもって、特高課員の森慶治郎曹長と鴨志田安五郎・本多重雄両上等兵を連れて淀橋署へ行き、同署特高課の巡査部長・滋野三七郎の案内で大杉の家を確認した。その際、鴨志田を淀橋署に残し、大杉の監視に当たらせた」。




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2017年02月21日

第432回 栗鼠






文●ツルシカズヒコ



 石山賢吉『回顧七十年』(ダイヤモンド社/一九五八年)によれば、一九二三(大正十二)年九月十二日ごろ、大杉は石山に借金の申し込みをした。

「金がなくて困る。十円ばかり貸してくれ」ということだったが、あいにくモラトリアムが敷かれ、銀行から預金を引き出せなかったので、石山は手持ちの金十円から五円を都合した。

 大杉と石山は主義は互いに相入れなかったが、別懇の間柄だった。

 そのころ、大杉家は金欠で困っていたが、安成の妻が安成にこう言ったことがあったという。

「今日野枝さんが来ているとき、沢庵売りが来てうちで買いましたから、野枝さんにお宅でもいかがですかって言ったら、お金がなんにもないって蟇口(がまぐち)を開けて見せるんですよ。私、一円だけあげてきましたよ」
(安成二郎「二つの死」/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』_p266・新泉社・一九七三年十月一日)

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 安成二郎「かたみの灰皿を前に」と「二つの死」によれば、安成が大杉と野枝に最後に会ったのは九月十三日の夜だった。

 まだ省線が動いていなかったので、安成は新宿から歩いて来て大杉の家に立ち寄った。

 二階に上がると、いつものように野枝が珈琲を入れてくれた。

 大杉の家には珈琲をつぶす器具があり、大杉と野枝は自分たちの家庭の珈琲が自慢だった。

「こんなうまいやつは、どこ行ったって飲めないだろう」

 大杉は、よくこう言って自慢していた。

 地震で銀座が壊滅した後にも、大杉がそう言うので、

「今は銀座がないからね」

 と、安成が言うと、

「なに、銀座があったって飲めはしないよ」

 と、大杉は頑固だった。

 安成は大杉家の珈琲は少し味が薄いと思っていた。





 安成は家に引っ込んでいる大杉に、東京市内の様子などを話して聞かせた。

 地震発生から一週間ほどして、柏木のあたりには電燈がついた。

 電燈は灯ったり消えたりしたが、とにかく人々の気持ちを明るくさせた。

「電燈が来てなにしろ愉快だよ。銀座の真っ暗な焼け野から帰って来ると、ここらの田舎がまるで天国のようだ。こんなあべこべの世の中になったんだね」

 大杉も明るい電燈を楽し気に見ていた。

「この隣りの家の女中が」

 と、大杉が大きな目をくりくりさせて吃りながら言った。

 右隣りの家の裏庭が、そこから見下ろせた。

 台所の前に井戸があって、そこで女中の働いているのを、昼、安成も見かけたことがあった。

 「昨夜だ。この部屋の電燈がつくと、その井戸端で働いていた女中がふたりいたが、ひとりは近所の女中らしい。あっ、電燈だ、ついたついたと手を叩いて喜ぶんだ。消えたりついたりしたが、つくたんび、ついたついたとやるんだ」

 それは、手を叩いた女中たちよりも、大杉がその無邪気な女中たちの様子を何十倍も嬉しがっているようだった。

 野枝も大杉のそばに腰をかけて、微笑していた。

 ひと月ほど前に生まれたネストルが、部屋の隅の揺りかごですやすや眠っていた。

 いつも十日と産褥にいないという野枝は、栗鼠のように健康そうだった。

 安成は一時間ほどして、大久保百人町の自宅に帰った。

 安成も大杉が夜警に出ているのを目撃していたが、近所の植木屋などに、

「大杉の旦那が夜警に出て来られた」

 と、言って喜ばれて、大杉のいわゆる人望を集めている光景が不思議に思えた。





 安成が来訪した九月十三日、野枝は大杉の次妹・柴田菊に手紙を書いた。


 三日に書きました手紙はつきませんでしたでせうね。

 私共は郊外で高台でしたので、地震の被害も大しては被(こうむ)らず、火事にもあひませんでしたので皆んな、まづ無事でした。

 けれども、心配なのは勇さんの一家です。

 実は五日に事務所の方の人に頼んで横浜をさがして貰ひましたが、一昨日帰つての話に、まるで消息が分らないとのこと、それに川崎の会社は大分ひどく潰されてゐるさうです。

 私の考へでは、皆んな無事でゐてくれたら、勇さんのこと故きつと私の処までは何んとかたよりがある筈だとおもひますけれど、今日まで全く何んのたよりもありません。

 富子さんと宗坊の方は如何とも手の下しやうがありませんけれども、せめては勇さんの消息をと思つて大杉からは警察や新聞社方面へ頼んでゐますが今だに分りません。

 けれどもそんな悲観の中にも、ひよつとして、そちらへでも避難して皆んな無事なのではあるまいかと僅かな希望につながれてゐるのですけれどどうなのでせうか。

 もし御無事なら急いでおしらせ下さいませ。

 大杉が出かけられるといゝのですが、あまり先へは出かけられないのです。

 戒厳令のおかげで、少し外を歩いたりするとぢきに検束されますので。

 私はまだとても押しあいへし合ひの汽車にはのれず、歩くことも出来ませんーー事務所の方の人達はみんな検束されてしまひますし、一昨日横浜から戻つた人にもまだ会へないでたゞことづけを聞いただけな位で、その人も勿論ひつぱつてゆかれたのだと思ひます。

 そんなわけで勇さんの方は捜すにしても私共としては自ら手の出せない風なのでどうかして他でさがしてくれるのを願つてゐるやうな訳なのです。

 京浜間の電車が通るようになつたとかいふ話ですから、二三日したら女でものれるやうになるかもしれませんからそしたら出かけて見ます。

 けれども、あなたの方へ無事避難してお出でになればいゝのですけれども、あやめさんがどんなにか心配してお出でのことでせう、みんなに怪我があつたとは思ひたくはありませんが消息不明なので心配でなりません。

 此度の地震と火事の災害は本当に恐ろしいものです。

 私の家でも二家族の避難者をひかえてゐますが、私共も関係書店が全部滅茶々々なので、途方にくれて居ります。

 一二ケ月はしなくては、方針も整理もつかないやうな風らしいので、俄に貧乏でよはつてゐます。

 何しろ米は玄米しか食べられません上に副食物と云つたら野菜だけ、乾物もカンヅメももう今ではまるで何んにもありませんし、子供等のおやつのお菓子にも困る程で、大人はまだいゝのですが可愛想なのは子供等です。

 本当にそれはミジメなものです。

 けれども焼け出されたり一家離散したり怪我をした人々から見れば私共は本当にしあはせだとおもひます。

 何にしても私共の今の一番の憂慮の種は勇さん一家、殊に宗坊の消息についてのあやめさんの心配をおもひますとたまりません。

 勇さんの処も家は勿論焼けてしまつてゐるのでせう。

 三四日横浜にゐて、戸部(とべ)の警察で充分調べて来たのでせうとおもひますが、何処へ避難してゐなさるのでせう。

 川崎工場もまるで滅茶に潰れてゐるのですから無事であれば、よほどのしあはせです。

 しかし此度の地震では落ちついた人の方がよほどひどい目にあつてゐるやうですから心配でなりません。

 それでもいろんな話を聞くうちに不思議な助かり方をした方が多いのでさういう風にして運よく何処かで助かつてお出なのかもしれないとおもつたり、毎日あゝかこうかと悩まされて居ります。

 もしいよ/\あなたの方へも避難してお出でないとしましたら恐れ入りますけど、電報ででも進さんを呼んで頂けますまいか。

 そしてあの人に少ししつかりさがして貰ふ外はないと思ひます。

 中央線を来れば少しの徒歩連絡で来られるやうですから。

 何んだか、書きたいことは山ほどあるやうな気持がしますが今はまづとりあへず要事だけ。

 それからもし、勇さん一家がそちらへも行つてゐないとしましても、あやめさんにはなるべく力を落さないように、はつきりと分りますまではなるべく希望を持つてゐるようにあなたから力をつけてあげて下さい。

 お願ひします。

 九月十三日 野枝

 菊子様

 
 此の手紙を出さないうちに勇さんのたよりがありました。

 みんな無事で鶴見に避難してゐるさうです。

 私共も明日は行つて見ます。

 何よりも、三人の着物を都合してあげて下さい。

 宗坊の着物をと思ひますが私の方ではどうにも出来ません。

 また富子さんの着物も、私は避難者の家族にあてがつて何んにも残つてゐないで洋服でゐますので困ります。

 出来得るだけはやく着物をおねがひします。

 ではまた書きます。

 勇さんの処は

 神奈川県橘樹(たちばな)郡鶴見町字岸一八五八

 大高芳朗様方です。


(『東京日日新聞』一九二三年十月九日/「書簡 柴田菊宛」一九二三年九月十五日・『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、宛先は「静岡市鷹匠町三丁目一〇五番地」、水色のレターペーパー二枚、ペン書き。

 追伸の部分がいつ書かれたかは不明だが、封筒裏に「九月十五日」の記載があるので、九月十五日投函と推定される。

『東京日日新聞』(一九二三年十月九日)に「殺害される前日書いた野枝の手紙 義弟と宗一の安否を案じた優しい心遣ひ」という見出しで掲載された。

「川崎の会社」は大杉の次弟・勇が勤務する川崎の東京電気会社。

「富子さん」は勇の妻。

「私の家でも二家族の避難者をひかえてゐますが」は、服部浜次と袋一平一家が避難していること。

「戸部の警察」は、勇が住んでいた横浜市西戸部町の所轄の警察署。

 大杉の三弟・進は神戸に在住していた。

 この手紙が野枝の絶筆になった。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2017年02月19日

第431回 奇禍






文●ツルシカズヒコ



 近藤憲二『一無政府主義者の回想』(p37)によれば、病身の村木を除く、近藤、和田久太郎ら労働運動社の関係者が保護検束の名目で駒込署に留置されたのは、一九二三(大正十二)年九月八日だった。

 四十度近い熱を出していた和田はひと晩で帰された。

 所轄の駒込署には望月桂ら小作人社の関係者も引っ張られて来た。

 東京の各地で主要な社会主義者六十余名が検束されたが、なぜか大杉と山川均は検束されなかった。

 堺利彦はこの年の六月に起きた第一次共産党事件で検挙され、市ヶ谷刑務所の未決監にいた(山崎今朝弥『地震・憲兵・火事・巡査』)。

 荒畑寒村はロシアに亡命中だった(『寒村自伝』)。

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 近藤は駒込署に留置されていた「ある日」のことを、こう回想している。


 ある日、なにか気にくわぬことがあったのか、食いもののことからでもあったか、連中がみんなで騒ぎだすと、何ごとがおこったのかと留置部屋へとんできた巡査部長が、「あまり騒ぐと習志野の騎兵隊へ引き渡すぞッ」といったことがある。

 そのときには気づかなかったが、出てからその意味がわかった。

 純労働者組合の平沢計七、南葛労働の河合(ママ/「川合」の誤記)義虎らは習志野の騎兵隊に殺されたのである。

 いわゆる亀戸事件だ。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p38/平凡社・一九六五年六月三十日)





 大杉に対する界隈の物騒な噂が、魯庵の耳に度々入るようになった。

 大杉は外国の無政府党から資金を持って来て革命を起そうとしているとか、毎晩、子分を十五、六人も集めて隠謀を密議しているとか、「あんな危険人物が町内にいては安心ができないからヤッつけてやれ」とか、ある近所の自警団では大杉を目茶苦茶に殴ってやれという密々の相談があるとか、嘘か実(まこと)かそういう不穏の沙汰を、魯庵は度々耳にした。

 相当分別のある人までがそういう噂を信じて、魯庵と大杉とが交際あるのを知らないで、

「アナタのお宅の裏には大変な危険人物がいて、毎晩多勢集って隠謀を企らんでるそうです」

 と告げたものもあった。

 同じ近所のある口利きの男は、これも大杉と魯庵が友人関係であるのを知らないで、

「柏木には危険人物がある。大杉一味の主義者を往来に並べて、片っ端からピストルでストンストン撃ったら小気味がよかろう」

 とパルチザン然たる気焔を吐いて、いい気持ちになってるものもいた。

 こういう危険な空気が一部に醸されてるのを知ってか知らずか、大杉は一向平気で相変わらず毎日、乳母車を押していた。


 近所に住む大杉の或る友達が夫となく警戒したが、迫害に馴れてる大杉は平気な顔をして笑つてゐたそうだ。

 唯笑つてるばかりならイゝが、『俺を捕まへやうてには一師団の兵が要(い)る』ナドゝ大言してゐた。

 大杉には恁ういふ児供げた見得を切つて空言を吐く癖があつたので、此の見得を切るのが大杉を花やかな役者にもしたが、同時に奇禍を買う原因の一つともなつた。


(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)





 袋一平一家は柏木の大杉の家に世話になっていたが、袋の母と妻とふたりの男児の四人は、神戸の安谷寛一の家に世話になることになった。

 村木の紹介状を持って、袋が家族を安谷の家に連れて行った際、袋が安谷に大杉のこんなエピソードを語ったという。


 ……震災後十日ばかりたって誰か周囲も割合静かだったのでレコードをかけようかと云ったのがいたらしい。

 何しろ、袋もやはり鴬谷の方にいたのが上野公園に逃げ込んで柏木まで歩いて大杉のところに転りこんだような訳ですから、ごちゃごちゃしているその中の一人がそう云った。

 すると大杉が『とんでもない話だ。困っている人が沢山いるのにこんな場所でレコードをかける馬鹿があるか』と血相変えて怒ったということです。

 その話の続きではないけれども、『革命というのはこんな時にやるんじゃないか』と云った人があった。

 それにも『どさくさまぎれにどたどたとやるのが革命じゃないんだ。だから多くの人が家もなければ食う物もないといって右往左往しているときに変なことをして困っている人をなお困らせてはいけないんだ』と大杉が云ったと袋が話しておった。

 こんなようなわけでどさくさまぎれに爆弾を持って走り廻る恐れは全くなかったし、実際夜警か何かに出て近所の人にも感謝されていたというようですから、そう妙な殺され方はしなくともよかったんです。


(安谷寛一「大杉栄と私」/『自由思想研究』一九六〇年七月号)




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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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