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2016年03月29日

第57回 東洋のロダン






文●ツルシカズヒコ



 一九一二(大正元)年十二月二十七日、忘年会の翌々日、らいてうから野枝に葉書が届いた。


 昨夜はあんなに遅く一人で帰すのを大変可愛想に思ひました。

 別に風もひかずに無事にお宅につきましたか。

 お宅の方には幾らでも、何だつたら、責任をもつてお詫びしますよ、昨夜は全く酔つちやつたんです。

 岩野さんの帰るのも勝ちやんのかへるのも知らないのですからね、併し今日は其反動で極めて沈んで居ります。

 そして何でも出来さうに頭がはつきりして居ります。

 今朝荒木氏宅へ引き上げ只今帰宅の処、明日当たり都合がよければ来て下さい。

 色々な事で疲れてゐるでせうけれど。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年1月〜4月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p64~65/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p158)

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 野枝はすぐにらいてうの書斎に行ってみた。

 忘年会の夜、「鴻之巣」に残ったみんなはそこに泊まり、翌朝、荒木の玉名館に引き上げたという。

 その日、野枝はらいてうの書斎で一日過ごした。

 年が押し迫って、雑誌の発送をすませてからは、別に用事もないので、野枝は家の狭い部屋で終日、読書をして過ごした。

 野枝は暮れから新年にかけて部屋に入りっきりで過ごしたので、青鞜の人たちの誰がどうしたというようなことも忘れがちだった。

 そのころ、野枝と辻は窮迫のどん底にいた。

 ペン先一本さえ買えないことがあったくらいなので、正月の年始に出かけようにも着替えるものさえなかった。

 辻潤「ふもれすく」(『辻潤全集 第一巻』)によれば「無産者の教師が学校をやめたらスグト食(く)へなくなる」ので「とりあへず手近な翻訳から始めて、暗中模索的に文学によつて飯を食ふ方法を講じようとしてみた」(p388~389)辻は、陸軍参謀本部の英語関係の書類を翻訳したり、ロンブローゾ『天才論』の英訳本の翻訳に取りかかった。

『天才論』の翻訳は前年六月に取りかかり三か月半余りで訳し終わり、秋ごろ出版予定だったが佐藤政次郎に紹介された本屋がつぶれ、その後出版社がなかなか見つからなかった。





 一九一三(大正二)年一月七日の朝、紅吉から野枝にハガキが届いた。

 大森町森ヶ崎の富士川旅館に宿泊しているらいてうから紅吉に手紙が届き、それには野枝に万年山の事務所に行ってもらい、郵便物に目を通してほしいとのことづてが書いてあったという。

 野枝はすぐに家を出て万年山に行き、郵便物を調べ、送られて来た新年の雑誌の中から目ぼしいものを抜き出し、それを抱えて夕方ごろ帰宅した。

 すると、また紅吉からハガキが届いていた。

 新年会について相談したいので、八日に紅吉の家に来てほしいとの文面だった。

 野枝が翌日の八日、紅吉の家に着いたのはかれこれ日が暮れた六時か七時ころだった。


 二階には神近さんと哥津ちやんと紅吉がゐた。

 紅吉のお父様の越堂氏が客とお酒を飲んでお出になつた。

 紹介されて、それが彫刻家の朝倉文夫氏だと分つた。

 私達もそのお酒の座に一緒に連りながら色々なお話をした。

 神近氏には前に、研究会で一緒になつた限(き)りであつた。

 一座は賑やかに、種々な話をした。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年1月〜4月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p66~67/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p159)






「東洋のロダン」とも称される彫刻家、朝倉は高村光太郎と並ぶ日本美術界の重鎮への道を歩み始めていた。

 実兄の渡辺長男(おさお)も彫刻家で、軍神広瀬中佐像は長男が制作、下部台座の杉野兵曹長の像は朝倉が制作した。

富本憲吉と一枝の家族の政治学(2)」によれば、谷中天王寺に住んでいた朝倉は尾竹越堂と近所付き合いをしていたが、一九一三(大正二)年秋の第七回文展に越堂の父親の倉松をモデルにした《尾竹翁》を出品することになり、当時、朝倉はしばしば越堂宅を訪れていたようだ。

 朝倉は後に、おそらくこの日のことだと思われる、回想を記している。


 ある日、越堂さんから招かれて『きょうは“新し い女”に酌をしてもらおう』ということで、紅吉、市子、 野枝の三女史が青鞜社の出版事務をしているのをつかまえて、越堂老が『青鞜社の事務は青鞜社でやれ、せっかく客を招いたからもてなせ』と大喝したもので、大いにご馳走になったのだが、越堂さんは『芸者の酌などというものはつまらんもので、 “新しい女”のお酌で飲む酒は天下一品』だとひどくごきげんだった。

 おそらく、この人たちのお酌で飲んだ人はあまりいないだろう。


(朝倉文夫「私の履歴書」/『日本経済新聞』1958年12月連載/『私の履歴書 文化人6』_p34~35)





「どうも、家の一枝を連れて歩きますと、実に堂々としておりますな。たいがいの男は、これを見上げていきますので、それだけでも鼻が高いように思われますよ、ハハハハ」

 盃を手にしながら越堂が巨(おお)きな体を揺すって笑った。

「伊藤さんはおいくつです?」

 越堂は、野枝を見ながら言った。

「私ですか」

 野枝が答えかねていると横合いから、

「野枝さんは本当に老けて見られるのね、本当に当てた人はめったにないわ」

 と哥津が笑った。

「私が当ててみましょうか」

 朝倉も笑いながら、

「さあ、おいくつですかね。十九ですか、二十ですかね。一にはおなりにならないでしょう」

「当たりました。朝倉さんは偉いんですね。やはり血色やなんかで当てるのですか」

 紅吉が頓狂な声で朝倉の方に向いたので、みんな声を合わせて笑った。

 シンガポールやボルネオの視察に出かけたことのある、朝倉の南洋の話がみんなの興味を引いた。

 話題はそれからそれへと飛び、刺青の話になった。

「刺青なんて、一般には嫌われていますけれど、芸術的な画でも彫ればちょっとようござんすね」

 と誰やらが言い出した。

「そうですね、しかし人間はかなり倦きっぽいものですから、倦きなければいいけれど、取り替えるわけにはゆきませんからね」

 朝倉に考え深くそう言われてみると、なるほどそうかもしれない。

「けれども、私はこう思いますわ。本当に自分の一生忘れることのできないような人があれば、その人の名を彫るということは大変にいいように思います」

 神近のこの説に一番賛成したのは越堂だった。

 家の娘たちもこれから夫を選ぶ際は、そのくらいの真実な心意気が欲しいなどと、越堂がくどい調子でなんべんも繰り返して、紅吉を嫌がらせた。



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『辻潤全集 第一巻』(五月書房・1982年4月15日)

★『私の履歴書 文化人6』(日本経済新聞社・1983年12月2日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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posted by kazuhikotsurushi2 at 20:55| 本文

2016年03月28日

第52回 阿部次郎





文●ツルシカズヒコ


 一九一二(大正元)年十一月の末。

 その日は夕方から、青鞜社の事務所がある本郷区駒込蓬萊町万年山(まんねんざん)勝林寺で、阿部次郎がダンテの『神曲』の講義をする研究会のある日だった。

 毎月一日発行の『青鞜』の校了は前月の二十五日前後のようだが、この日は『青鞜』十二月号の校了後であろう。

『青鞜』十二月号(二巻十二号)には野枝の「日記より」が掲載された。

 野枝が寺の内玄関の正面にかかった大きな郵便受けから郵便物を取り、選り分けていると、めずらしく自分宛てのハガキがあった。

 特徴のある字から、紅吉からであることがすぐにわかった。


 けふ研究会がすんだらゐらつしやい。

 この間の約束の通りに。

 岩野さんはゐらつしやるらしい。

 晩の御飯は私の家で召あがれ。

 私はあなたの言葉を信じて待つてゐますよ。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年1月〜4月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p20/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p134)

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 岩野泡鳴夫人の清子さんに会いたいという野枝の言葉を、紅吉は覚えていてくれたのだ。

 野枝は紅吉の親切をありがたいと思い、ぜひ行こうと思った。

 万年山勝林寺本堂裏の十畳ほどの座敷が青鞜社の事務所だった。

 野枝は火種をもらって火を起こしたり、卓子(テーブル)を直したり、ボールドの掃除をした。

 この日の研究会に出席するのは、らいてう、哥津、野枝の三人だけだった。

「ずいぶん今日は寒いわね」

 哥津は本当に寒そうに肩をすぼめた。

 日暮れ前の広い座敷の空気がしんしんと三人に迫った。

 らいてうがいつもの静かな調子で言った。

「阿部先生はずいぶん大変ね、大井からですもの。ここまではかなりあるのですものね。それでたった三人くらいじゃお講義していただくのにお気の毒なようね」





 哥津が西崎花世たちが事務所を訪れたときの紅吉のそぶりを、思い出すように笑いながら言った。

「西崎さんのことをよほど気になったらしかったわ。ここにいらっしゃい、いらっしゃいというのがおかしくて、私たまらなかったわ」

 野枝もあのときの紅吉の興奮した言動を思い出し、おかしさがこみ上げてきた。

「でも野枝さんもあの晩は、ずいぶんはしゃいでいたのね。私、あんなに騒ぎやだとは思わなかったわ」

「そう……」

 野枝はきまり悪そうに微笑んだ。

「そりゃそうですともね。まだ若いんですもの。今に騒げなくなるときがじきにくるわ。今、騒いでおかないと。それからね、新年号の執筆をお願いする手紙を書かなければならないから、また来てちょうだいね。また新年号の編集が忙しくなりますよ」

 らいてうが若いふたりの顔を等分に見ながら、気持ちよく調子よく言って、後ろの時計を見た。





 阿部次郎の講義が終わり、三人は外に出た。

 白山までは一緒だった。

 哥津は白山から電車に乗り、らいてうと野枝は曙町まで一緒に行き、そこから野枝は染井まで長い長い通りをひとりで歩いて帰るのだった。

 真向かいから吹きつける寒風に逆らって歩きながら、野枝は紅吉のハガキのことを思っていた。

 この寒い夜に根岸まで行くのはなかなか大変だった。

 電車の不便な駒込の奥からでは、十時より遅くなれば山手線がなくなり、市内電車に乗るしかなくなる。

 そうなれば巣鴨橋で降りて、山手線の掘割に沿った両側の二本の道のどちらかを歩くしかない。

 一本は森に沿った崖っぷちの細い道、もう一本は岩崎の長い長い煉瓦塀に沿った気味の悪い道だ。

 野枝は寒さに堪えながらできるだけ急いで歩いた。

 染井橋を渡り終えると、向こうから飼い犬のジョンが勢いよく駆けて来て、野枝に戯(じゃ)れついた。

 野枝は軽く犬の頭を叩いてやりながら、ジューと音を立てて青い火花を散らしてレールの上を走って行く山手線の電車を見ながら、時間を考えていた。

 ふと、一度家に帰ってから紅吉の家に行ってみる気になった。

 歩いたので体はもう寒くはなかった。

 帰宅して自分たちの部屋に入ると、いつも机の前に座っている辻の姿はなかった。

 正面のスピノザの顔だけが、静かに空虚な部屋をいつものように見下ろしていた。

 野枝は辻が留守だったのでがっかりした。

 あの刺すような冷たい風に逆らいながら、一心に帰ってきた自分の気持ちのやり場がないように立ちつくした。





 隣室から義母・美津に優しい言葉をかけられたので、暖かい部屋に入っていった。

 火鉢に当たりながら、帰りの遅い辻をこのまま待つより、紅吉のところに行った方がよいと決心した。

「寒かろうに……」

 美津の言葉を後ろに、野枝は暗い寒い外へ出た。

 駒込駅の階段を降りるころは寒さに震えていたが、元気がよくはち切れるような、つき出てくるような紅吉の声を思い出しながら、覚えのある根岸のあたりを歩いているころには、たいぶ体が暖かくなってきた。

 根岸には二年あまり住んでいたので、女学校を卒業してからどうしているのかわからない同窓生の家の前などを何軒も通り過ぎながら、いろいろなことを懐かしく思い出していた。

 紅吉の家にようやく着くと、はっとした。

 家の中がひっそりとして、紅吉がいそうなようすがない。

 案内を請い名前を言うと、出て来た女中が早口で言った。

「それならば夕方、お客様と一緒に、神田の三崎町の荒木さんとおっしゃる方のところへお出かけになりました。あなた様がおいでになりましたら、そちらへいらして下さいますようにとおっしゃってございました」

 野枝は紅吉の態度を怒らずにはいられなかった。

 こんな寒い日に、わざわざ呼びつけておいて、自分は勝手に出かけてしまうなんて……。

 神田になんて行くものかと怒りにまかせて足を返したが、帰っても辻はまだ戻ってはいないだろうから、帰る気にもなれなかった。

 寒空をわざわざ染井の奥から出て来たのだから、紅吉にも会って帰りたくなった。

 とうとう電車に乗って三崎町で降りると、尋ねる家はすぐにわかった。


★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:24| 本文

2016年03月24日

第46回 ロゼッチの女






文●ツルシカズヒコ



 伊藤野枝「雑音」(『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)に、らいてうと奥村が一夜をともにした件について、紅吉が野枝に語って聞かせる場面がある。

「雑音(十六)」によれば、らいてうと奥村が一夜をともにしたのは、らいてうが一時帰京するはずだった日の夜だという。

 その日、奥村が南湖院に来たので、紅吉の病室でらいてう、保持、奥村、紅吉の四人で遅くまで話をして、結局、奥村は保持が寝泊まりしている小屋に泊まることになった。

 紅吉はいやな予感がして、眠るどころではなかった。

 じっとしていられなくなり、病室を抜け出し、奥村がいるはずの小屋に行ってみた。

 人の気がないので思い切って戸を開けて見ると、案の定、誰も寝ていなかった。

 敷かれた蒲団にも人が寝たような気配はなかった。

 手で蒲団に触ってみたが、冷たくて人肌の温(ぬく)みがない。

 その瞬間、紅吉はらいてうが奥村を自分の部屋に連れて行ったに違いないと思ったが、夜中なので仕方なく、一睡もせずに夜明けを待った。

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 そして「雑音(十七)」によれば、朝五時ごろ、紅吉はらいてうの宿に駆けて行った。

 すでに起きていたおかみさんが家の外に出ていたが、おかみさんは紅吉の顔を見るとひどく慌てて家の中に入って行った。

 紅吉は胸がドキドキして頭がボーッとしたが、らいてうが間借りしている部屋を開けてみた。

 らいてうの影は見えなかったが、床が並べて敷いてあり、見覚えのある奥村のスケッチ箱や三脚が置いてあった。

 紅吉がおかみさんにふたりはどこに行ったのかと尋ねると、「浜へお出でになったんでしょう」と決まりが悪そうに答えた。

 おかみさんの後について浜の方に行くと、向こうから毛布にくるまったらいてうと奥村が歩いて来た。

 紅吉はカッとなったが、ふたりを迎え、しばらく浜で遊んだ。

 紅吉は不快で不快で面白くもなんともなかった。





 紅吉は病院に帰ってから、保持に黙っていようと思ったが、黙っていられず、すっかり話してしまった。

 保持は紅吉に同情してくれた。

 その日もらいてうと奥村は一日、茅ヶ崎で遊び暮らした。

 夜、奥村は藤沢に帰ると言って病院を出た。

 しかし、紅吉は奥村が帰ったとはどうしても思えず、その夜も眠らず朝を迎えた。

 朝、らいてうの宿に裏から入って行くと、らいてうの部屋の戸は閉じていて、ふたりの下駄が沓脱ぎの上に麗々と揃えて置いてあった。

 ここで紅吉は野枝に、こう語りかけている。

「ね、野枝さん、そういう意地の悪いことをあの人はするんです」

 紅吉はその場に立ちすくんでしまい、しばらく泣いていた。

 真っ紅な鶏頭が咲いていた。

「平塚さん、さようなら!」

 紅吉は力一杯の声を張り上げて怒鳴って駆け出し、病院に帰ってきた。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p388~389)によれば、この後、逆上した紅吉は「きっとこの復讐はするつもりです」という脅迫状を奥村に送ったり、東京に帰ったらいてうのもとへ保持から「紅吉が剃刀をといでいる」という手紙も届いた。

「雑音(十七)」の紅吉の証言によれば、奥村は二夜連続らいてうと床を並べて寝たことになるが、『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』にも、奥村博史『めぐりあい 運命序曲』にも、その記述がない。

 紅吉の「妄想」とも考えられるが、真相は不明だ。





 らいてうは奥村に手紙を書いた。


 これを書く私の手があんまり震えるのを私は只じっと眺めているのです。

 あれからいつも美しいこと悲しいことばかり夢見てる私をどうぞときどき思い出して下さい。

 私の子供(しげりのことを、なぜか昭子はこう呼んでいる)は、あなたからもう便りがありそうなものだと言っています。

 私の子供を可愛がってやって下さい。

 嫉妬深い心にも同情してやって下さい。

 私は三十日までここに居ります。

 それまでにあなたの絵をぜひ一枚頂きたい。

 あなたの自画像ならなお好いのですけれど、こんなこと聞いて頂けるかと心配です。

 三十日の夕刻までに。


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p53)


 らいてうはこの手紙に、南郷の弁天様の境内で撮った記念写真を同封した。


 海水帽に浴衣がけの男の方は評論家の生田長江先生で、一番右の端にお行儀よく立っていられるのが先生の奥様です。

 しげりは坊やのように可愛くとれましたでしょう。

 ある人は私をロゼッチの女だと言いました。

 お便り心からお待ちしております。

 八月二十七日  昭


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p53)



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年03月23日

第41回 同性愛






文●ツルシカズヒコ



 野枝が円窓のあるらいてうの書斎を初めて訪れた日の夜、青鞜社員の西崎花世が友達ふたりを連れてやってきた。

 ひとりは西崎が下宿している家の主婦で、もうひとりはやはり社員の小笠原貞だった。

『元始、女性は太陽であった(下)』(p397~402)によれば、らいてうが西崎に初めて会ったのは一九一二(大正元)年十月十七日、「伊香保」で開催した『青鞜』一周年記念の集まりだった。

 鴬谷の「伊香保」は当時、会席料理の有名店で文人墨客がよく利用していたが、紅吉の叔父・尾竹竹坡も常連だったので、竹坡の紹介でこの店にしたのだった。

 西崎は四国の徳島にいたころから長曽我部菊子というペンネームで、河井酔茗が編集する『女子文壇』の投書家として鳴らしていた。

 文学に精進する決心をして上京し、食べるために雑誌の訪問記者などをしていた。

 人一倍小柄な体を地味な着物に包んで、目立たない束髪に結った西崎は、らいてうにおよそ若さなど感じさせない「生活とたたかっている人」という印象を残している。

「伊香保」での一周年記念の集まりの後、西崎はらいてうの円窓の書斎に顔を出すようになっていた。

 西崎は四国徳島のお国訛で粘っこい話し方をした。

 らいてうに近寄ってくる人に対して誰彼となく嫉妬する紅吉は、小柄な西崎を毛嫌いして「小たぬき」という綽名をつけた。

 『元始、女性は太陽であった(下)』(p413~414)によれば、西崎と同様に『女子文壇』で育てられた小笠原貞も文学を目指していたので、ふたりは親しかった。

 小笠原は絵の勉強もしていたので、青鞜叢書第二編『青鞜小説集』(一九一三年二月/東雲堂発行)の木版の装幀(自画自刻)を手がけた。

 らいてうの記憶によれば「色白の、ほっそりした美しい人、日本的なつつましい感じの娘さん」だった。

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 紅吉はらいてうと哥津の間に座り窮屈らしい体つきをしながら、ばかに丁寧な挨拶をして、まじまじと西崎の顔に見入っていた。

 向き合って座っていた哥津と野枝は、そっと目で笑い合った。

 西崎たちが来る前に、らいてうが話したことを思い出したからである。

「西崎さんと話しているとね、だんだんに夢中になってくると、こんなふうに膝でこちらにいざり寄って来て、しまいにはこちらの膝をつかまえて話すのですもの、なんだか少し薄気味悪いような人よ」

 紅吉はその話をとてもおもしろがって聞いていた。

 それを思い出したのだ。

 七人の会話はなかなか打ち解けなかった。

 イライラし始めた紅吉は、哥津の手を引っ張り寄せて捻ったり揉んだりした。

「紅吉はどうしたの、なんだか落ちつかないじゃないの」

 らいてうがたしなめるように紅吉の方を向いた。

「もう帰ります。西崎さん、ここを開けますから、ここにいらっしゃいまし。私はもう帰ります」

「なんだって急に帰るなんて言い出すの、いやな人ね」

 哥津は肥(ふと)った紅吉の手をグイグイ引っ張りながら、おかしそうに笑った。

 野枝も笑わずにはいられなかった。

「さっきから帰ろうと思っていたんです。西崎さん、本当にここにいらっしゃい。私は本当に帰りますから」

「それじゃ、お帰んなさい。さっきからだいぶ帰る帰るが出ているんですから、もう帰ってもいいでしょう」

 紅吉はらいてうにこのように強く出られると、すぐに当惑してしまうのだった。

 帰っていいか悪いか、まだいたいような帰りたいような。

 そんなとき、子供のような紅吉はいつでもそばにいる哥津のほっそりした肩や背中を、大きな肥った手で力まかせに打つのだった。





 紅吉と明子とは世間にさへ同性愛だなどゝ騒がれてゐた程接近してゐた。

 明子は本当に、紅吉を可愛がつてゐた。

 紅吉は世間からはたゞ多く変り者として取扱はれてゐたが、彼女は子供らしい無邪気と真剣を多分に持つてゐた。

 彼女が並はづれて大きな体をもつてゐながら何となく人に可愛いゝと云ふ感を起させるのはそれだつた。

 彼女は何時でも何か新しいものを見つけ出さうとしてゐた、一寸した動作にも、言葉にも、其処に何か驚異を見出したいと云つたやうな調子だつた。

 で彼女の気まぐれが時々ひどく迷惑がられることがあつた。

 明子は何時でも彼女に愛感をもつてゐた。

 紅吉ももまた夢中になつて明子の傍を殆どはなれることもないやうに、二人の間は非常に強い愛をもつて結ばれてゐた。

 併し紅吉が病気になつて、その夏湘南のある病院に行つてゐたとき其処でーー紅吉の言葉を借りて云へばーー「ふたりの大事な愛に、ひゞがはいつた」のだ、「ひゞはもう決してなほりつこはない」と紅吉は主張してゐた。

 紅吉の大事な愛に「ひゞ」を入れたその明子の恋愛事件が紅吉の子供らしい嫉妬を強くあほつた。

 それに其頃、これも矢張り紅吉の気まぐれから明子と他に一人二人を誘つて紅吉の叔父がよく知つてゐると云ふ吉原の或る花魁(おいらん)の処に遊びに行つたのが大げさに新聞に報道されて問題になつた為に、小母(おば)さんと皆が呼んでゐる、クリスチヤンで、一番道徳家の保持(やすもち)が制裁と云ふ程の強い意志でもなく紅吉に退社をすゝめて、紅吉もそれを承諾して雑誌にそれを発表してから直(すぐ)だつたので、それも紅吉には明子の仕事から周囲から、いくらか遠くなると云ふことが不安なのだつた。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年1月〜4月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p15~17/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p131~132)





 紅吉に打たれた哥津は痛さに肩をすくめながら、

「まあ痛い、本当にひどいわ、私はなにもしないのに」

 またかというふうに顔をしかめながら、冗談らしく紅吉を睨みつけるのだった。

 らいてうはそちらには目もくれずに、静かな調子で向こうの三人に話しかけていた。

 哥津が調子を変えるように言った。

「野枝さん、あなたの頭はずいぶん寂しい頭ね、なんだか私、有髪(うはつ)の尼って気がするわ。私、結ってあげましょうか?」

「そう、じゃ結ってちょうだい」

「ええ、ハイカラな頭に結ってあげるわ。私、学校にいたときはよくハイカラな頭に結ったのよ」

 哥津は気軽に座を立って、自分の懐中から櫛を出して、野枝の頭をとき始めた。

 前を三七に分けて編みながら根を低く下げた、本当は洋服でも着なければ似合わないような頭になった。

「本当にずいぶんハイカラな頭ね」

 野枝はらいてうの本棚の上に載っていた鏡を手にとって、面変わりのしたような自分の顔と頭を驚いたように眺めた。

「よく似合いますよ」

 らいてうも話をやめて微笑みながら言った。

「本当によく似合うでしょう、野枝さん。これからこういうふうにお結いなさいよ」

 哥津は得意らしく、それでもまだなにか思うようにいかないところがあるのか、チョイチョイいじりながら鏡を覗きこんだ。

 みんなが野枝の頭を眺めていた。





 紅吉はひとりつまらなそうにしていたが、突然、お腹の底から跳ね出したような声を出した。

「小笠原さん、あなたは油画をおやりになるのでしょう」

「ええ、描くというほどじゃありませんけれど、好きでただいい加減なことをやっていますの」

 西崎はいつのまにか、らいてうをつかまえて、ねっつりねっつり話している。

 それを見て不快そうに黙りこくっていた紅吉は、なにかじれったそうに膝をむずむずさせだした。

 野枝と哥津は顔を見合わせては忍び笑いをした。

 とうとう紅吉は頓狂な堪えかねたような声で、

「西崎さん、ここにいらっしゃい。私はそっちにゆきます。ここはらいてうさんのそばですから」

「いいえ、それにはおよびません。ここで結構です。どうぞおかまいなさらないで」

 西崎は丁寧にそう言って紅吉に頭を下げた。

 らいてうは「仕方がない」といったような顔をしながら、吸っていた「敷島」の灰を落としていた。

 紅吉は少しも落ちついてはいられなかった。

 このおおぜいの人が、自分の帰った後まで、らいてうのそばに居残っていることが堪えられないような気がして、思い切って立ち上がることもできなかった。


女子文壇2 ※女子文壇3



★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年03月22日

第40回 円窓






文●ツルシカズヒコ




「雑音」第一回は『青鞜』一九一二年十二月号の編集作業のシーンから始まっている。

 野枝が本郷区駒込曙町一三番地のらいてうの自宅を訪れたのは、おそらく十一月も半ばを過ぎたころだろうか。

 野枝が三畳ほどの円窓のあるらいてうの書斎に入るのは、そのときが初めてだった。

「いらっしゃい、この間の帰りは遅くなって寒かったでしょう」

 らいてうは優しく微笑みかけ、火鉢を野枝の方に押しやった。

 この日は小林哥津も来ることになっていた。

「哥津ちゃんはまだお見えになりませんか」

 そう訊ねた野枝の目が本箱の中の書籍の背文字を追った。

「ええ、まだ。ダンテはわかりますか。この次までにね、林町の物集さんがあの本が不用になっているはずですからね、行って借りていらっしゃい。ところはね、千駄木の大観音をご存知? ええ、あすこの前を行ってねーー」

 らいてうは万年筆で地図を書きながら、

「本当に、行ってらっしゃい、本がなくちゃね」

「ええ、ありがとう」

 野枝はそれだけ言うのがやっとだった。

「物集さん」は青鞜社の発起人のひとり、物集(もずめ)和子

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 当初、青鞜社の事務所は、本郷区駒込千駄木林町九番地の物集の自宅にあったのだが、『青鞜』四月号(二巻四号)に掲載された荒木郁の小説「手紙」が発禁になり、刑事が物集邸に来て『青鞜』を押収したことなどがあり、五月半ばごろ青鞜社は本郷区駒込蓬萊町の万年山(まんねんざん)勝林寺に事務所を移転したのだった。

 この寺をらいてうに紹介してくれたのは、らいてうが懇意にしていた浅草区松葉町の臨済宗の禅寺、海禅寺の住職・中原秀岳だった。

 このころ、青鞜社では講師を呼んで講義をしてもらう勉強会を再開していた。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p393)によれば、火曜と金曜の週二回、生田長江「モーパッサンの短篇」と阿部次郎「ダンテの神曲」である。

 しかし、『白樺』一九一二年十月号に掲載された『青鞜』の広告には、阿部次郎「ダンテの神曲」が水曜日、生田長江「モーパッサン」が金曜日とある。

 らいてうは物集が持っているダンテの『神曲』を、借りてきなさいと野枝に言ったのである。

 物集は青鞜社から離れたので、『神曲』が不用になっているはずだからだ。

 
 これから歩き出さうとする私を導いてくれるのは明子(はるこ)の手より他にはなかつた。

 明子もまた、最近にすべての繫累(けいるい)を捨てゝたゞ自分の道に進んでゆかうとする若い私の為めに最もいゝ道を開いてやらうとする温かい親切な心持を私に投げかけることを忘れなかつた。

 私にとつてはこの明子の同情は何よりも力強い喜びであつた。

「私は、この人のこの親切を、この同情を忘れてはならない、この人の為めにはどんな苦しみも辞してはならない。」

 私はさうした幼稚な感激で一杯になつた。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年1月〜4月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p7/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p127)





「今日は紅吉も来るかもしれません。それに晩には西崎さんと小笠原さんがいらっしゃるはずです」

「まあそうですか。ではずいぶん賑やかですね。紅吉さん、私が以前、図書館で見ていたころとはずいぶんお変わりになりましたよ」

 野枝は尾竹紅吉のことを上野高女時代から見知っていた。

 夏休みの間、毎日のように通った上野の帝国図書館でよく見かけていたのだ。

 厖大な体を持った彼女は、本を読まずいつもスケッチブックを広げていた。

 ふたりは同じ根岸に住んでいたので、図書館以外でもちょいちょい顔を合わせた。

 ふたりは一緒になると無言のまま意地を張って歩きっこをした。

「あの方があらい紫矢絣の単衣に白地の帯を下の方にお太鼓に結んであの大きな体に申し訳のように肩上げを上げていたのを本当に可笑しいと思って見ていました。その格好で道を歩きながら、いつも歌っているから、ずいぶん妙な人だと思いましたわ。あの方の叔父様やお父様が画家として名高い方だということも、そのころからわかっていました。あの方の今のお住居は以前、私の叔父の住居だったこともあるのです」

「そうですか、でも紅吉がお太鼓になんか帯を締めていたことがあるのですかね」

 らいてうが可笑しそうに笑った。

「じゃそろそろ仕事を始めましょうね。原稿はたいていそろっていますから、頁数を決めましょう。この社の原稿紙三枚で一頁になるのですから、そのつもりで数えて下さいね」

 教えられたとおりに、野枝は一枚一枚数えていった。

 広い邸内はひっそりしていて、縁側に置いた籠の中の小さな白鳩が喉を鳴らす音が柔らかにあたりに散る。

 後ろの部屋のオランダ時計がカチカチ時を刻む。

 静かだ。

 本当に静かだ。

 らいてうはうつむいて原稿紙にペンを走らせている。





 小刻みな下駄の音が門の前で止まったと思うと間もなく、くぐり戸が開いて、けたたましいベルの音がして、内玄関で案内を乞う声がした。

「哥津ちゃんですよ」

 らいてうがペンを置いて、そこの敷布団を直した。

「ごめんください、こんにちは」

 哥津はスラリと長い体をしなやかに折って座りながら、格好のいい銀杏返しに結った頭をかしげて、らいてうと野枝に挨拶をした。

「他にまわるところがあったものですから、つい遅くなりましたの。もうお始めになってるの。目次やなんかお書きになって? そう、じゃ私が書くわ」

 明るい調子で話す哥津が来てから、急に場は賑やかに伸びやかになった。

「野枝さんて、もっと若い人かと思った。二十二、三には見えるわ。着物の地味なせいかもしれないけど」

「哥津ちゃん、今度は何か書けて?」

「ええ、だけどずいぶんつまらないものよ。私小説は初めてですもの、なんだか駄目よ」

「でも、まあ見せてごらんなさいよ」

 哥津は派手な模様のついたメリンスの風呂敷の中から原稿を出して、らいてうの前に置いた。

 野枝は哥津とらいてうの隔てのない会話を聞きながら、その前に哥津が『青鞜』に書いた「お夏のなげき」という戯曲のひとくさりを思い浮かべていた。

 ちなみに一幕ものの戯曲「お夏のなげき」のラストは、こうである。


 子供の声ーー清十郎殺すなら……お夏も殺せ……。

 お夏の声ーー向こう通るは清十郎ぢやないか、笠がよくにたすげの笠……


(小林哥津「お夏のなげき」/『青鞜』1912年10月号・第2巻第10号_p)





 静かな通りに突然、ソプラノで歌う声がした。

「あ、紅吉が来たわ」

 哥津は一番に耳をそばだてた。

 らいてうが静かに微笑んだ。

 紅吉が三人の笑顔に迎えられて入ってきた。

「編集ですか、手伝いましょうか。だけど私はもう社員じゃないからいけないんですね」

 座るとすぐ、紅吉は原稿紙とペンを持ちながら、あわててそれを下に置いて三人の顔を見まわした。

「あのね、今月号の批評読みましたか。カットが誉めてありました、プリミティブだって。あなたの詩に使ったカットね、野枝さん、あれはね、特別にあなたのあの詩のために私が描いたんですよ。南国情緒が出ているでしょう。ねえ、哥津ちゃん、本当にあの詩のために描いたんですね」

「ありがとう、あんなつまらない詩のために、すみません。平塚さんからもうかがいましたの。私の詩にはすぎるくらいです、本当に」

「哥津ちゃんはどう思います」

「いやな紅吉、私あのときちゃんと誉めてあげといたじゃないの」

「そうそう、すいません」

 可愛らしく頭を下げる紅吉の大きな体を見ながら、哥津と野枝は心からおかしがった。





 紅吉は『青鞜』十月号に掲載された野枝の詩「東の渚」のカットを描いたのだが、「東の渚」は見開き始まりの三頁で、各頁の上に横長の地紋のようなカットがあり(一点描いたものを流用)、絵柄は花壇に咲いているアールヌーボ風のチューリップである。

 らいてうは若い三人の対話から離れて、哥津の原稿を読んでいた。

 鋭い紅吉はらいてうが熱心に原稿に目を通しているのを見ると、すぐ立ち上がりかけた。

「今日は邪魔になりますからもう帰ります。野枝さん、今度、私の家に遊びにいらっしゃい」

 原稿に目を通しているらいてうが、顔を上げて穏やかに言った。

「今来たばかりのくせに、なんだってもう帰るの」

「だって編集の邪魔になるじゃありませんか。それに私はもう退社したのに、ここにいると誤解されるから」

 真顔に答える紅吉の顔を、野枝はあきれて眺めた。


尾竹紅吉2 ※尾竹紅吉3 


★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)





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2016年03月21日

第33回 出奔(五)






文●ツルシカズヒコ





 一九一二(明治四十五)年四月十五日付けの辻の手紙は、こう続いている。


 然し問題は兎に角汝がはやく上京することだ。

 どうかして一時金を都合して上京した上でなくつては如何(どう)することも出来ない。

 俺は少くとも男だ。

 汝一人位をどうにもすることが出来ない様な意気地なしではないと思つてゐる。


「出奔」/『青鞜』一九一四年二月号・第四巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103)


 野枝の脳裏をいろいろなすべての光景が一度になって過ぎて行った。

 今までまるでわからなかった国の方の騒ぎも、いくらかかわるような気もするし、学校での様子などもありありと浮かんできた。


 そうして若し汝の父なり警官なり若しくは夫と称する人が上京したら逃げかくれしないで堂々と話をつけるのだ。

 九日附の手紙をS先生に見せたのも一つは俺は隠くして事をするのが嫌だからだ。

 姦通など云ふ馬鹿々々しい誤解をまねくのが嫌だからだ。

 イザとなれば俺は自分の位置を放棄しても差支ない。


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))

 野枝の目は「姦通」という忌まわしい字の上に落ちて止まった。

「本当にそうなのかしら……」

 野枝は身震いしたが、末松福太郎が憎らしいよりも滑稽になってきた。

 あの男にそういうことが言える確信が、本当にあるのかおかしくなってきた。

「私妻」などと書かれたことの腹立たしさよりも、麗々しく書いた男が滑稽に思えてきた。

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 俺はあくまで汝の身方になつて習俗打破の仕事を続けやうと思ふ、汝もその覚悟でもう少し強くならなければ駄目だ。

 兎に角上京したら早速俺の処にやつてこい。

 かまはないから、俺の家では幸にも習俗に囚はれてゐる人間は一人もゐないのだから。

 母でも妹でも随分わけはわかつてゐる。

 そうして俺を深く信じてゐるのだ。


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))


 いろいろな感情が一時に野枝をかき回し、それが鬨(とき)の声を挙げて体中を荒れ狂うように走った。


 遠慮せずにやつて来るがいゝ、だが汝はきた上でとても俺の内に辛抱が出来ないと思つたら、何時でもわきに行くがいゝ俺は全ての人の自由を重んずる。

 兎に角東京へくれば道はいくらでもつく、そんなに心細がるなよ、だが汝は相変らず詩人だな、まあ其処が汝の尊いところなのだ。


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))





 野枝は辻の愛をこんなにも早く受けようとは思いもしなかった。

 ただ彼女の気持ちをときどき不快にするのは、辻との恋のためだけに家出したと思われることだった。

 彼女はなんとはなしに、自分にまで弁解がましいことを考えていた。

 けれどもそれもひとつの動力になっていると思えば、そんなことはもう考えていられなくなり、今すぐにでも上京したくなった。


 俺は近頃汝のために思ひがけない刺戟を受けて毎日元気よく暮してゐる。

 ずいぶん単調平凡な生活だからなあ。

 上京したらあらいざらひ真実のことを告白しろ、其上で俺は汝に対する態度を一層明白にする積りだ。

 俺は遊んでゐる心持をもちたくないと思つてゐる。

 なんにしろ離れてゐたのぢや通じないからな、出て来るにも余程用心しないと途中でつかまるぞ、もつと書きたいのだけれど余裕がないからやめる。(十五日夜)


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))





 野枝は目を据えて東京に着いたときのことをいろいろに想像してみた。

 そして、上京するまでの間に見つかるなどということをそれまで少しも考えなかったので、急に不安で胸が波打った。

 辻からの手紙を読み終えた野枝はしばらく唖然としていた。

 空っぽになった頭に、早く行きたいという矢も盾もたまらない気持ちが、いっぱいに広がった。

 いつにない楽しい気持ちで、電報為替をじっと見つめながら、鏡を出して頭髪に差したピンを一本一本抜いていった。

「出奔」に書かれている辻の手紙の文面は、辻が実際に野枝宛てに書いた手紙の文面だと考えてよいのだろう。

 そうなると、このとき野枝が辻に宛てて書いた手紙の文面も知りたくなるが、残念ながら、その手紙は空襲で焼失し現存していない。

 しかし、辻のハートを一気に鷲づかみにする文面だったのだろう。

「あきらめない生き方・その二」も、野枝の手紙文を書く文才が新たな道を切り拓いたことになる。


★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




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第32回 出奔(四)






文●ツルシカズヒコ



 辻からの手紙、四月十三日の文面にはこう書いてあった。


 今日帰ると汝の手紙が三本一緒にきてゐたのでやつと安心した。

 近頃は日が長くなつたので晩飯を食ふとすぐ七時半頃になつてしまふ。

 俺は飯を食ふとしばらく休んで、たいてい毎晩の様に三味線を弄ぶか歌沢をうたう。

 或は尺八を吹く。

 それから読む。

 そうすると忽ち十時頃になつてしまふ。

 何にか書くのはそれからだ。

 今夜はこれを書き初める前に三通手紙を書かされた。

 俺は敢て書かされたと云ふ。

 Nヘ、Wへ、それからFヘ、なんぼ俺だつてこの忙しいのに、そう/\あつちこつちのお相手はできない。

 それに無意味な言葉や甘つたるい文句なぞを並べてゐるといくら俺だつて馬鹿/\しくつて涙がこぼれて来らあ。

 人間と云ふ奴は勝手なものだなあ。

 だがそれが自然なのだ。

 同じ羽色の鳥は一緒に集まるのだ、それより他仕方がないのだ。

 だが俺等の羽の色が黒いからといつて全くの他の鳥の羽の色を黒くしなければならないと云ふ理屈はない(十三日)


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p101)


「Nへ、Wへ、それからFへ」三通手紙を書かされたとあるのは、野枝失踪に関する始末書のようなものか。

 Nは西原、WとFは校長と教頭だろうか。

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 学校へ「トシニゲタ、ホゴタノム」と云ふ電報がきたのは十日だと思ふ。

 俺はとう/\やったなと思つた。

 しかし同時に不安の念の起きるのをどうすることも出来なかつた。

 俺は落ち付いた調子で多分東京へやつてくるつもりなのでせうと云つた。

 校長は即座に「東京へ来たら一切かまはないことに手筈をきめやうぢやありませんか」と如何にも校長らしい口吻を洩らした。

 S先生は「知らん顔をしてゐようじやありませんか」と俺にはよく意味の分らないことを云つた。

 N先生は「兎に角出たら保護はしてやらねばなりますまい」と云つた。

 俺は「僕は自由行動をとります。もし藤井が僕の家へでもたよつて来たとすれば僕は自分一個の判断で措置をするつもりです」とキツパリ断言した。

 みんなにはそれがどんな風に聞えたか俺は解らない。

 女の先生達は唯だ呆れたといふ様な調子でしきりに驚いてゐた。

 俺はかうまで人間の思想は異ふものかと寧ろ滑稽に感じた位だつた。

 S先生はさすがに汝を稍や解してゐるので同情は充分持つてゐる。

 だが汝の行動に対しては全然非を鳴らしてゐるのだ。

 俺はいろ/\苦しい思を抱いて黙つてゐた。

 その日帰ると汝の手紙が来てゐた。

 俺は遠くから客観してゐるのだからまだいゝとして当人の身になつたらさぞ辛いことだらう、苦しいことだらう、悲しいことだらうと思ふと俺は何時の間にか重い鉛に圧迫されたやうな気分になつて来た。

 だが俺は痛烈な感に打たれて心は勿論昂(たかぶ)つてゐた。

 それにしても首尾よく逃げおうせればいいがとまた不安の念を抱かないではゐられなかつた。

 俺は翌日(即ち十二日)手紙を持つて学校へ行つた。

 勿論知れてしまつたのだから秘(かく)す必要もない。

 そうして手紙を見せて俺の態度を学校に明かにする積りだつたのだ。

 で、俺は汝に対してはすこしすまない様な気はしたがS先生に対しても俺は心よくないことがあるのだから。
(十四日)


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p101~102)


 S先生は佐藤教頭、N先生は西原のことであろう。





「十五日夜」の辻の手紙によれば、四月十二日、辻宛てに末松福太郎から極めて露骨なハガキが舞い込んだ。

「私妻伊藤野枝子」という書き出しだった。

 野枝はたぶん上京しただろうから、宿所がわかったらさっそく知らせてくれ、父と警官と同道の上で引き取りに行くという。

 さらに自分の妻は姦通した形跡があるとか、同志と固く約束したらしいというようなことが書いてあった。

 辻は野枝が去年の夏、結婚したという話は薄々聞いていた。

 しかし、どういう事情でなされた結婚なのかは知らなかった。


 ……汝が帰国する前になぜもつと俺に向つて全てを打ち明けてくれなかつたのだとそれを残念に思つてゐる。
 
 少くとも先生へなりと話して置けば俺等はまさか「そうか」とその話を聞きはなしにしておくような男ぢやない。

 それは女としてそう云ふことは打ち明けにくからう。

 しかしそれは一時だ汝が全てを打ち明けないのだからどうすることも出来ないぢやあないか。


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p102~103)





 野枝は夏休み明け以降の、ほとんど自棄のような生活を思い浮かべていた。

 野枝は何度かその苦悶を西原先生に訴えようとした。

 しかし、考えることの腹立たしさに順序を追って話の道筋を立てることができなかった。

 そしてなるべく考えないように努めた。

 そのころは、野枝にとって辻は、そんなことを面と向かって話せる相手ではなかった。

 煩悶に煩悶を重ね、焦(じ)り焦りして、頭が動かなくなるほど、毎日そればかり考えていても、考えは決まらなかった。

 月日だけが遠慮なく過ぎ去り、とうとう西原先生にも打ち明ける機会がなくなった。



★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




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2016年03月20日

第31回 出奔(三)






文●ツルシカズヒコ



 金の問題もあった。

 着替えも持たず、お金も用意する暇もなく、不用意にフラフラと家を出てしまったのだ。

 三池の叔母の家で金を算段するつもりだったが、ついに言い出せなかった。

 そして、家出したことが知れそうになって、思案のあまり志保子の家に来たのだ。

 手紙を出して頼んだら、お金の算段に応じてくれそうな二、三人のあてはあった。

 その手紙の返事を待つ間に連れ返されそうなところは嫌だったので、志保子を頼ったのである。

 しかし、手紙を出して一週間になるが、どこからも返事は来ない。

 もうどうなってもいい。

 なるようにしかならないのだ。

 あの命がけでその日その日を生きていく炭坑の坑夫のようなつきつめた、あの痛烈な、むき出しな、あんな生き方が自分にもできるのなら、こんなめそめそした上品ぶった狭いケチな生き方よりよほど気が利いているかしれない。

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 親も兄妹もみな捨てた体だ。

 堕ちるならあの程度まで思い切ってどん底まで堕ちてみたいというふうなピンと張った恐ろしく鳴りの高い調子のときもあるが、すべてのものに反抗して自分で切り開いた道の先は真っ暗で何もないかもしれない。

 自分を自由に扱える喜びに浸れたのは、このまま逃れようと決心した瞬間だけだった。

 今日まで一日だって明るい気持ちになったことはない。

 肉親という不思議なきづなに締めつけられて、暗く重苦しい気持ちが離れない。

 上京したら辻を頼るつもりだが、辻の気持ちだってどちらを向くかわからない。

 考えると不安なことばかりだ。

 どうせ人は遅かれ早かれ死ぬのだ。

 どこか人の知らないところへ行って静かに死にたい。

 どうにでもなれという気にもなる。

 考えに考えたが、疲れてしまった。

 もう何も考えまいと思うが、やはりそれからそれへと考えが飛んでいった。





「郵便! 伊藤野枝という人はいますか?」

「はい」

 野枝が出てみると、三通の封書を渡された。

 受け取った封書の一通は西原先生から、一通は辻から、あとの一通は鼠色の封筒に入った郵便局からので開けてみると電報為替だった。

 野枝は西原先生が送金してくれるとは思っていなかったので、目にいっぱい涙が溜まった。

 一昨日に届いた先生からの電報を見たときにも、自分のことを気にかけてくれる気持ちにやはり涙が溢れ、志保子に先生のことを話した。

 野枝はまず西原からの手紙を読んだ。


 御地からの手紙を見て電報を打つた。

 ……金に困るのなら何処からでも打電して下さい、少々の事は間に合せますから、弱い心は敵である。

 しつかりしてゐらつしやい……自分の真の満足を得んが為に自信を貫徹することが即ち当人の生命である。

 生命を失つてはそれこそ人形である。

 信じて進む所にその人の世界が開ける。

 如何なる場合にもレールの上などに立つべからず決して自棄すべからず

 心強かれ 取り急ぎこれ丈け。

 今家へあて出した私の手紙の最後の一通があなたの家出のあとに届いたであらうと思はれる、誰れか開封して検閲に及んだかもしれない、熱した情を吐露した文章であつたからもしそれを見た人があるとすればその人は幸福である。


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p99)


 野枝はぐずぐずしていられないと思った。


 先生はこんなにまで私の上に心を注いで下さるか、私は本当に一生懸命にこれから自分の道をどんなに苦しくともつらくとも自分の手で切開いて進んで行かなければならない。

 私は決して自棄なんかしない。

 勉強する、勉強するそして私はずん/\進んでいく。


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p99) 





 西原からの手紙を読み終えた野枝は、最後に辻の手紙を開けた。

 軽いあるうれしさに微かに胸が躍った。

「出奔」に収録されている、辻からの手紙には日付がある。

「八日」「十三日」「十四日」「十五日夜」である。

 辻は野枝からの手紙を受け取った後、そのつど文章をしたため、野枝の落ち着き先に封書にして郵送したのであろう。


 オイ、どうした。

 俺は今やつと『S』を卒業したところだ。

 明日から仕事が始まるのだから……。

 俺は汝(おまえ)を買ひ被つてゐるかもしれないが可なり信用してゐる。

 汝は或は俺にとつて恐ろしい敵であるかもしれない。

 だが俺は汝の如き敵を持つことを少しも悔ひない。

 俺は汝を憎む程に愛したいと思つてゐる。

 俺は汝と痛切な相愛の生活を送つてみたいと思つてゐる。

 勿論悉(あら)ゆる習俗から切り離されたーー否風俗をふみにじつた上に建てられた生活を送つてみたいと思つてゐる。

 汝の其処までの覚悟があるかどうか。

 そうしてお互ひの「自己」を発揮するために思ひ切つて努力してみたい。

 もし不幸にして俺が弱く汝の発展を障(さまた)げる様ならお前は何時でも俺を棄てゝどこへでも行くがいゝ。(八日)


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p100)


「S」はドイツの哲学者、マックス・シュティルナーのことだ。

「明日から仕事が始まる」とあるから、四月九日から上野高女の新学期が始まるわけだ。



★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




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第30回 出奔(二)






文●ツルシカズヒコ



 一九一二(明治四十五)年四月、出奔した野枝は福岡県三池郡二川村大字濃施(のせ)の叔母・坂口モトの家に一時逃れ、その後、友人の家に身を潜めていた。

「出奔」はその友人の家に身を潜めていたときの実体験を創作にしている。

「出奔」の登場人物は仮名になっている。

 藤井登志子(野枝)、志保子(友人)、夫・永田(末松福太郎)、叔母(代キチ)、N先生(西原和治)、教頭のS先生(佐藤政次郎)、光郎(辻潤)。

 このとき、辻は二十八歳、野枝は十七歳。

 辻は北豊島郡巣鴨町上駒込四一一番地の家に、母と妹と暮らしていた。

 叔母・坂口モトの家を出た野枝は、博多に出た。

 そのまま上りの汽車に乗るつもりだったが、少し考えることがあって、そうはしなかった。

 友人の志保子のところに行ってみることにした。

「動揺」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』p35)によれば「十里ばかりはなれた友達の家」である。

 冷たい雨が降る中、田舎道を人力車に揺られて、長い道のりだった。

 志保子が留守かもしれない、在宅していても、彼女が自分を受け入れてくれるとはかぎらないーーそんな不安がよぎった。

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 四、五年会っていなかった友人の突然の訪問を、志保子は涙をいっぱいに湛えた目で、野枝の顔を見上げながら、わずかにうなづき温かく受け入れた。

 質素な木綿の筒袖に袴をはいた、野枝の凍った悲しい気分が、いくぶん溶けた。

 なぜ突然やって来たのか、野枝がその理由を切り出したのは、ふたりで冷たい床に入り、いろいろなことを話した後だった。


『私ねずいぶん見すぼらしいなりしてゐるでせう。ふだんのまんま家を逃げ出して来たのよ、直ぐにね東京へ引き返して行かうと思つたんですけれど少し考へることがあつてあなたの処へ来たの、長いことはないのだから置かして頂戴な』

 漸くこれ丈け云ひ出したのは冷たい床の中に二人して這入つてからよほどいろんなことを話して後だつた。

『まあさう、だけどどうして黙つてなんか出て来たの、どんな事情で? さしつかへがないのなら話してね、私の処へなんか何時までゐてもいゝことよ、何時までもゐらつしやい、あなたがあきるまで――でも本当にどうして出て来たの』

『いづれ話してよ、でも今夜は御免なさいね、随分長い話なんですもの』

『さう、それぢや今にゆつくり聞きませう、あなたのゐたい丈けゐらつしやい。ほんとに心配しなくてもいゝわ』

『ありがたう。安神(あんしん)したわ、ほんとにうれしい』


(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p96)





 一週間たったが、野枝はそのことについては何も話さなかった。

 なんでもぶちまける性質の野枝が話しにくそうなので、志保子も敢えて聞こうともしなかった。

「いい天気ね。今日帰って来たら、一緒にそこらを歩いてみましょうね」

 志保子は家の門を出ると、すぐそこに見える小学校に勤めていた。

 野枝は毎朝、門まで出て黄色い菜の花の中を歩いて行く友達の姿を見送った。

 縁側の日当りに美しく咲き誇っていた石楠花(しゃくなげ)も、もう見る影がなくなった。

 野枝は塀の近くに咲いているを眺め、差し迫った自分の身の置きどころについて考えようとした。

 志保子には「今日はすっかり話してしまおう」と思い、話の順序を立てようとするのだが、長い道程の中で起きたさまざまな出来ごとや、その間の自分の苦悶を考えると、話の道筋を立てることができなくなった。

 そして思いは、自分が無断で家を出た後の混乱、父の当惑の様子、叔母や叔父が自分をさんざん罵っている様子、母の憂慮、そういう方にばかり走った。

 自分の道を自分で切り開く最初の試みをした、というような快い気持ちなどはまるでなくなり、暗い気持ちになり、また父の傍らに泣いて帰っていこうかというような気になったり、死を願うより仕方がないとさえ思う日もあった。

 志保子は注意深く野枝の様子を見ていた。

 夕方、野枝が沈んだ目つきをして縁側にボンヤリ立っていたりすると、近所の子供たちを集めて騒がしたりして、野枝の気を紛らすように努めた。

 野枝は志保子の目に浮かぶ優しい暖かい友情にしみじみ泣いた。





 どうかして志保子の帰りの遅い時には登志子は二度も三度も門を出てはすぐ其処に見える学校の屋根ばかり眺めてゐた。

 黄色な菜の花の間に長々とうねつた白い道を見ていると遠いその果もわからない道がいろ/\なことを思はせて、つい涙ぐまれるのであつた。

 前を通る人達は見なれぬ登志子の悄然と立つた姿をふしぎさうにふり返つて見て行く。

 そんな時登志子は、もう本当に遠い/\知らない処にたつた一人でつきはなされた様な気がして拭いても/\涙が湧いて来て、立つてゐられなくなつてくる。

 燈をつけても燈の色までが恐しく情ない色に見えた。

 読む書物をもつて出なかつたことがしきりに悔ひられた。

 うすらかなしい燈の色を見つめながら彼女は何時も目をぬらして友達を待つた。

 それでもなほ悲しい心細い考へが進もうとする時は彼女はのがれる時に持つて出た光郎の手紙を開いて読んでは紛らした。

 そうして心弱い自分の気持ちをいくらかづゝ引きたてるのだつた。


(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p97)



★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)






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第29回 出奔(一)






文●ツルシカズヒコ



 野枝が出奔したのは、一九一二(明治四十五)年四月初旬だった。

 野枝は後に「動揺」を発表するが、その中の木村荘太宛ての手紙に出奔についての言及がある。

「動揺」によれば、新橋から帰郷の汽車に乗った野枝は徐々に落ち着いてきて、いろいろ思考をめぐらせた。

 最も思いをめぐらせたのは、辻からされた抱擁と接吻のことだった。


 私はそれが何だか多分の遊戯衝動を含んでゐるやうにも思はれますのですがまた何かのがれる事の出来ないものに捕へられてゐるやうな力強さを感ぜられるのです。

 私はどうしていゝか迷ってゐるうちに汽車はずん/\進んで行つてもうのがれる事が出来ないやうなはめになりました。

 そうして仕方なしにとう/\帰りましたが帰つてもぢつとしてゐられないのです。

 私はすべて私の全体が東京に残つてゐる何物かに絶えず引つぱられてゐるやうに思はれて苦しみました。

 そして直ちに父の家を逐(お)はれて知らない嫌やな家に行かねばならないと云う苦痛も伴つてとう/\私は丁度帰つて九日目に家を出てしまつたのです。

 暫くの間十里ばかりはなれた友達の家にゐました。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p177/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p34~35)

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 野枝が今宿に帰郷したのは三月二十九日なので、それから九日目に家を出たとしたら、それは四月六日である。

「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)には、帰郷して九日目に「婚家を出」たとあるが、「動揺」の文意からすると婚家の末松家には行かずに出奔したようにも受け取れる。

 出奔した野枝は叔母・坂口モト(父・亀吉の次妹)や友人の家を訪ね歩いた。

 叔母の坂口モトの婚家は福岡県三池郡二川村大字濃施(のせ)の渡瀬(わたぜ)駅前の旅館だった(現・福岡県みやま市)。

「従妹に」は坂口モトの娘・坂口キミに宛てた書簡形式で書かれていて、出奔したその理由を「きみ」ちゃんに説明する内容になっている。

「伊藤野枝年譜」によれば、坂口キミは野枝より一歳年下で、幼いころ今宿の家で一緒に育ったこともあり、ふたりは仲がよかった。





 今、私の頭の中で二つのものが縺(もつ)れ合つて私をいろいろに迷はして居ります。

 私は今まで斯(こ)うして幾度きみちやんに手紙を書きかけたか知れないのです。

 けれども私の書いたものが果して正当に何の誤もなくきみちやんに理解されるかどうかとそれを考へては、若しきみちやんに理解が出来なかつたときにはきみちやんの為めにもまた私の為めにも大変不幸だと思はれますので止めました。

 けれども、どうしても書きたくてたまらないので。

 二つのものと云ふのは、その書きたいのと、書いて、もし悪い結果になるといけないと云ふ心配とを云つたのです。


(「従妹に」/『青鞜』1914年3月号・4巻3号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p58)


 という書き出しで始まる「従妹に」だが、以下、現代の口語調にして要約してみた。





 人は私のことを我がままで不孝者だと言います。

 自分でもそうは思いますが、人を苦しめておいてなんとも思わないと言われるのは心外です。

 私だって苦しくてたまらないのですが、それを我慢して自分の道に進んで行かなければならないのです。

 私は自分以外の人の都合で無理に結婚させられたのです。

 我慢して結婚したら孝行娘とは言われるかもしれないけれど、幸福であるはずがありません。

 誰も侵害することのできない自分の体と精神を持って生まれてきたのに、他人の都合で生きるなんて、生き甲斐のない人生と言わざるを得ません。

 人間は誰でも自分が可愛いのです。

 自己犠牲とかいっても、それから得られる名誉欲を満足させているわけですから、結局は自分のためなのです。

 きみちゃん、よく考えて御覧なさい。

 自分がこうしたい、そうしないとすごく困るというような、自分にとって重大なことはなかなか思うようにならないですよね?

 そして、それはそういうことをされると困る人が自分のまわりにいて、その人が邪魔するからです。

 自分の意志でした結婚ではなかったので、私はそれを破戒しようとしました。

 両親や叔父さんたちは、そうされると困るので邪魔するのです。

 私は他人が困るからといっても、自分自身が苦しいので無理にも破戒しました。

 それで一番困ったのは私に無理強いをした人たちです。

 その人たちが困るのは本当は当然なのですが、嘘で固めたいわゆる世間の道徳というものが、それが当然だとは人に思わせないのです。

 自分より年が上だとか親だとかということを盾にして、わずかな経験とかを無理な理屈にこじつけて、理不尽に人を服従させてもいいはずがありません。

 みんなは私のことを我がままだとか手前勝手だと言いますが、私の周囲の人たちの方がよほど我がままです。 
 私は自分の思うことをどんどんやるかわりに、人の我がままの邪魔はしません。

 私の我がままと他人の我がままが衝突したときは別ですが。

 自分の我がままを尊敬するように、他人の我がままを認めます。

 けれども世間にはそういうふうに考えている人は、そんなにいません。

 自分はしたい放題のことをして、他人にはなるべく思うとおりのことをさせまいとします。

 自分は自分だけのことを考えて行動し、他人は他人の勝手に任せておくのが本当なのですが、自分と他人の区別を明確につけることができないのがたいていの人の欠点です。

 それはその人たちが悪いのではなくて、日本のいわゆる道徳がいけないのです。

 今の日本の多くの人を支配している道徳は、ひとつも本当のものはなく、みな無理な虚偽で固めたものなのです。
 
 だから窮屈なのです。

 自他の区別がつかない人たちには、本当の意味の正しい個人主義と、自己本位や自分を甘やかす我がままや傲慢な専横との違いが理解できないのです。

 各自が我がままをすると共同が成り立たないから、相互に我慢しなければならないとよく言います。

 これも根本的に間違っています。

 みんなが他人に関わらず、自分は自分だけのことをやれば、最も自然な共同が可能になります。

 自分を抑圧するような不快な感情がないから、嫌な下らない争闘なんかは決して起こらずにすみます。

 けれども、共同とか言う人たちにかぎって、自分が他人にかけている迷惑には鈍感で、他人のしていることが自分に関わりだすと、すぐに邪魔をするのです。

 それも妙に道徳とかいうものにとらわれて、回りくどい嫌味な愚劣な争いをしているのです。

 私は自分を貫徹させるにあたって、そこに突き当たりました。

 私は他の多くの人たちのように、悧巧な狡いことはできなかったのです。

 道徳には何をさしおいても服さなければならない、そういう考えを私は抱くことができません。

 軽蔑しているものに屈するには、私の気位が高すぎるのです。

 他人が自分の行為に対してどんな思惑を持つか、というようなことを考える余裕を私は持てないのです。

 そしてそのことが悪いことだとは思いません。

 私はみんなの一番尊敬している、そして私を縛する最も確かなものであると信じる道徳や習俗を見事に踏みにじりました。






 野枝がこの「従妹に」を脱稿したのは、一九一四(大正三)年二月二十三日、出奔した約二年後であるが、野枝が坂口キミに実際にこのような内容の手紙を書いたのかどうかは不明である。 

 しかし「……こんなしどろもどろな言ひ方でなくもう少しきちんとした答が出来るつもりですから。気持ちが落ちつきしだいに書き代へて送ります」(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』p62)という下りもあるので、実際にこのような内容の手紙を書いたのかもしれない。



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 19:03| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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