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2016年08月15日

第323回 日本社会主義同盟






文●ツルシカズヒコ



 日本社会主義同盟の発会式が開催されたのは一九二〇(大正九)年十二月十日だったが、前日の十二月九日、鎌倉の大杉宅で発会式に出席する四十余名の各府県代表者歓迎会が開かれた。

 大阪、山梨、名古屋、岩手、富山、兵庫、堺、横浜、東京からの出席者たちで、東京からは高津正道、久板卯之助、吉田一、大阪からは武田伝次郎などが出席していた。

『東京朝日新聞』(十二月十日)が「鎌倉では示威運動で十三名検挙 大杉氏歓迎招待の四十名」という見出しで報じている。

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 正午に大杉の挨拶で開会した歓迎会は、まもなく官憲の中止解散命令によって散会させられた。

 一同は鎌倉見物と称して鶴ヶ岡八幡宮から雪の下通りを練り歩き、示威運動を試み、午後二時半に再び大杉宅に集会した。

 四十余名の巡査が大杉宅を包囲し、鎌倉署が一同を検束、十三名を残し放還されたが、午後五時半ごろ放還された同志が革命歌を合唱しつつ鎌倉署に押し寄せ「検束者を放還するか、全員を検挙せよ!」と叫んだ。

 野枝は新橋で倒れて妊娠中の体を痛め、前夜には医師の往診を受けるなど安静にしていた(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 この騒擾により、大別荘連(鎌倉に大きな別荘を持っている有力者たち)の間に、大杉一家が鎌倉に居住することは鎌倉の安寧を害するという話が持ち上がり、それが警察に伝わり、大家を巻き込んだ立ち退き要求につながっていく。

 大杉はこの騒擾について、こう書いている。





 四五十人の仲間が、三度も警察へ押しかけて、怒鳴る、歌ふ。

 中にはいつてゐる仲間もそれに応じる。

 そして其の四五十人が先頭になつて百人あまりの群集が、バケツで音頭をとつて、町の大通りを練り歩いた。

 此の群集の中の、あとの四五十人は、勿論町の人達だ。

 皆んなは、東京から来た本職と同じやうに、よく歌う。

 それから二三日して、家にゐる村木が町のお湯屋へ行つて見たら、そこではまだ、其の晩の話で持ち切つてゐたさうだ。

 そして七十余りになる一老人が『あの勢いぢや、もう一度、御維新が見られべえ』と喜んでゐたさうだ。


(「鎌倉の若衆」/『労働運動』1921年2月・2次2号/『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄全集 第14巻』)





 翌十二月十日、神田区美土代(みとしろ)町の東京基督教青年会館で開催された、日本社会主義同盟の創立報告会は荒れに荒れた。

『東京朝日新聞』(十二月十一日)によれば、午後一時の開場と同時に四、五百の聴衆が会場になだれ込んだ。

 植田好太郎が「大会を中止して演説会を開く」旨を述べると、官憲から解散を命じられ、場内騒然。

 午後六時から改めて講演会を催すことになったが、館内外が人で埋まり、一時は電車も停まるほどの大盛況だった。

 神田錦署の巡査が続々と応援に駆けつける中、午後六時、大庭柯公が開会宣言をすると、即座に錦署署長から中止解散を命じられた。

「横暴! 警官横暴! なにゆえの解散ぞ!」

 聴衆から怒号が浴びせられた。

 錦署署長は「今夜の会合は警視庁でも錦署でも認めていない。治警法第八条に基づいて解散を命じた」とコメントしている。





 武田伝次郎「大杉君と僕」(『自由と祖国』一九二五年九月号)によれば、この日、大杉は風邪で熱があり床についていたが、我慢ができなくなり、武田と一緒に大会会場に出かけた。

 マフラーを頭からかぶり覆面をしたようになった大杉が会場に着くと、「大杉だ、大杉だ」と叫び、すぐに検束された。

 堺や水沼辰夫なども錦署に検束され、大杉は警視庁に送られ夜遅くに釈放された。

 この夜、鎌倉に帰る汽車がなくなった大杉は、迎えに来た近藤憲二と、赤松克麿らが起居している本郷森川町の新人会の合宿所に泊まった。(『日録・大杉栄伝』)

 近藤は大会会場の神田に行く前に日比谷の服部浜次宅に寄り、そこで日比谷署の巡査に検束されそうになり、外出することができなかったのだ。


★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)






●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年08月14日

第322回 暁民会






文●ツルシカズヒコ




 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九二〇(大正九)年十二月四日、横浜市在住の吉田只次宅で開催された同志集会に、大杉と野枝が出席した。

 欧州から帰国した石川三四郎が講演したが、大杉と石川は七年半ぶりの再会だった。

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『日録・大杉栄伝』によれば、牛込区山吹町・八千代倶楽部で、暁民会主催の講演会が開催されたのは十二月五日だった。

 聴衆約四百人、大杉も講演者として参加していたが警察の解散命令が出て講演会は混乱。

 大杉の発声で「社会主義万歳」を連呼しながら、一同は第二会場の早大グラウンド前の広場へ向かった。

 このとき十九歳、中央大学の学生だった岡本潤は初めて見た大杉の姿を、半世紀後にこう回想している。





 ぼくが大杉という人物をはじめて見たのは……高津正道らの暁民会が戸塚が原で野外演説会をひらいたときのことである。

 ……出る弁士は片っぱしから臨検の中止を食い、何人目かに大杉が現われた。

 筒っぽのきものの上にレインコートを着て、頭にはトルコ帽、フランス風のあごひげをはやした大杉は、特徴のある大きな目玉をギョロッと光らし、うまれつきのドモリで何かひとこと言ったかと思うと、臨監がたちまち「弁士中止!」と叫んだ。

「バ、バ、バカヤロー、おれは、おれはまだ、なにも言っとらんぞ!」と、大杉はどなりかえした。

 その勢いに圧倒されながら、臨監が虚勢を張って肩をいからし、「検束!」と叫ぶ。

 数人の警察官がサーベルをガチャつかせて、大杉の身辺へ駆けよった。

「警官横暴!」「弾圧やめろ!」という声が主催者や聴衆のなかからわき起って、あたりには険悪な空気がみなぎっていた。

「おい、車を呼べ、車を。キサマらがおれにこいと言わなくても、おれのほうから警視総監に言論弾圧の抗議をしに行ってやるんだ。さア、はやく車を呼ばんか。そうしないと、おれはここを動かんぞ!」

 そう言ってどっかり坐りこむと、おちつきはらって煙草を吹かしはじめた。

 不敵とイタズラ気と謀叛気のかたまりのような大杉の本領を発揮した行動だろうが、まるで千両役者の演技でも見るように、集まった聴衆のなかから拍手喝采がおこった。

 始末にこまった臨監は巡査に命じて、人力車を一台つれてこさせた。

 大杉はニヤッと笑って、

「やア、ご苦労。じゃ諸君、ぼくは警視総監に抗議に行ってくるからね。かまわずに演説会をつづけてくれたまえ。」

 聴衆に向かって手を振りながら、警官につきそわれて悠然と車に乗って行った。

 ぼくがはじめて見た、こういう人を食った大杉栄の姿は、いまもぼくの網膜にやきついている。


(『詩人の運命 岡本潤自伝』)





 ちなみに、岡本は近藤憲二についてこう書いている。


 大杉のふところ刀といわれたコンケン=近藤憲二は、早大出身の若手で、色白のキリッとひきしまった顔の口もとに傷痕があり、それがいっそうかれに精悍な感じをあたえていた。

 無口で敏捷な近藤は尾行をまく名人でもあったので、スパイなどからはとくに警戒されていた。

 のちにぼくのところへもくるようになった警視庁のアナ系刑事が「コンケンくらい、ぼくらを困らせるやつはいないよ」とコボシていたことがある。

 後年、ぼくは近藤といっしょに平凡社で百科事典の仕事をすることになったが、そのときぼくは、それまで知らなかった近藤の半面に接する思いがした。

 精悍な近藤は半面、じつに細かいところに気をくばる緻密な神経のもちぬしで、それは几帳面ともいえる手ぬかりのない仕事によくあらわれていた。

 その点を社長の下中弥三郎に高く買われていたようである。


(『詩人の運命 岡本潤自伝』)





 吉田一(はじめ)についての記述もある。


 鍛冶工の吉田一(みんなはピンと呼んでいた)は、浅草観音の仁王のようなたくましい体格で、北風会のなかでも、あばれ者の随一とみられていた。

 はえぬきの労働者で、理屈ぎらい、行動一点ばりの男だったが、かれが大杉栄について、こんなふうに言ったことがぼくの耳にのこっている。

「スギ(大杉)は、おれたちにむかって、ああしろとか、こうしろとか、そんなことは一ぺんも言ったことがねえ。だけどな、スギの話を聞いて、あの目玉を見ていると、どういうわけだか知らねえが、ああしなきゃならん、こうしなきゃならんというような気もちが、ひとりでに起ってくるんだ、そこがスギのえらいところじゃねえかなーー」


(『詩人の運命 岡本潤自伝』)



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『詩人の運命 岡本潤自伝』(立風書房・1974年)



 ●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:31| 本文

2016年08月13日

第321回 クロポトキンの教育論






文●ツルシカズヒコ




 大杉の著書『クロポトキン研究』アルスから出版されのは、一九二〇(大正九)年十一月五日だったが、売れ行き好調で版を重ねた。

 上記『クロポトキン研究』のリンクは国立国会図書館のデジタルライブラリーだが、奥付けを見ると同書は一九二三(大正十二)年十二月二十日発行、つまり大杉と野枝の死後に発行されている。

 奥付けには「三刷」とあるので、三年間で三十三回も増刷されたことがわかる。

『クロポトキン研究』には、野枝が書いた「田園、工場、職場−−クロポトキンの経済学」(初出は『改造』一九二〇年六月号)と「クロポトキンの教育論−−頭脳労働と筋肉労働の調和」(ふたつとも再録は大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)が収録されている。

 野枝の「クロポトキンの教育論−−頭脳労働と筋肉労働の調和」(大杉栄『クロポトキン研究』)は、末尾に「一九二〇年五月」と記されているが、『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば発表誌、発表年月日は不明である。

『労働運動』が一次六号で終刊になったが、同誌一次七号に寄稿する予定だったのかもしれない。

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 以下、抜粋要約。

〈一〉

●現代社会の最大の欠陥は、経済生活の不条理から生じている。

●アダム・スミスは生産を増加させる最良の方法は「分業」だと唱えたが、この「分業」こそが経済生活の不条理を生む根本の原因である。

●分業の行きつく先は、極度の専門化であり、それは例えば人間に一生涯、小さな針の頭だけを造ることを強いる。

●分業を謳歌できるのは、奴隷のような分業労働者を使って富を得る特権階級だけである。

●聡明な社会主義者ですら、その組織を運営するにあたり、分業という思考を棄てられずにいる。





〈二〉

●アダム・スミスは国家の富の総量だけを基準にしているが、それは真の経済学ではないとクロポトキンは言う。

●人間の欲求をその最少限の労力で満たす手段を研究するのが、真の経済学だとクロポトキンは言う。

●国家の生産が増し、それがどんどん金に代わっていっても、その恩恵を享受できるのは特権階級だけで、肉体労働に携る労働者階級はその恩恵に与れないだけでなく、生産過剰になると失業する。

●生産者階級と名付けられる労働者は、自分で生産したものを自分のために用いることもできず、特権階級に生活を蹂躙さている。

●しかし、労働者はようやく自分の置かれている地位の不合理さに気づき、特権階級と戦い始めた。これは正しい成り行きである。

●この労働者と特権階級との戦いが、労働者の勝利に終わったとき、現在の経済学は根底から覆されてしまうだろう。

●そして、消費者階級と生産者階級という区別もなくなる。

●誰もが必要に応じて労働し、同時に趣味に応じて学問や技芸の研究に耽る時間を持つことが可能になるのである。

●労働は現在のように不愉快極まるものではなくなるであろう。

●分業の結果として生産者階級と消費者階級が截然と分かれた。

●すなわち頭脳労働と筋肉労働が切り離されたが、すべての人はこのふたつのものを並び持たなければならないと、クロポトキンは指摘している。

●そのために有効な具体的な手段としてクロポトキンが注目しているのは、現在の教育の改善である。





〈三〉

●かつての職工は科学を習得する機会はなかったが、工場の種々の仕事に従事していたので、必要に応じた総合的な知識を持っていた。

●最近百年ほどの間に産業上の革命を起こした機械の発明や改良は、学者や専門の機械師ではなく、総合的な知識を持っていた職工によってなし遂げられた。

●科学者が自然の方則を発見し、機械師がそれを応用して模型を造り、労働者が鋼鉄や木材や石で実際の機械を造り、労働者は自分が造った機械で単調な労働を強いられる。

●これは間違っている。

●最近の工業発展に貢献したのは、科学者でもなくただの機械師でもなく労働者でもなく、それらのすべての能力を併せ持っている現制度では少数の例外者である。

●科学的教育と工場での実際の仕事が結合されることによって、そういう人材が生まれる。

●すなわち、筋肉労働者であると同時に知識的研究に耽る頭脳労働者を、教育によって生み出すことが必要である。

●クロポトキンは具体例として、モスコウの工芸学校の教育について言及している。

●モスコウの工芸学校では、十四、五歳の子供がまず五、六年の間、高等数学や物理学や科学などの知識を学び、それから社会に出て実際の工場で熟練した技術を習得する。

●つまり、学校で習得した科学の知識を実際に応用することを学ぶのである。

●この教育により、分業によって生じた科学者、機械師、労働者という階級が消滅するのである。

●クロポトキンは、人類を幸福にしない分業を廃滅すべきだと繰り返し言う。

●この教育方針は農業においても同様である。

●現在の農業は土地の善悪、気候の寒暖、空気の乾湿に左右されなくなった。

●土地は有限だというマルサスの人口論は根底から覆されてしまった。

●科学的な集約農法がより発展すれば、人間の最少限の労力で必要に応じた食物を生産することが可能になるだろう。

●人類は長い間、食物を得るために奴隷のように働かなくてはならなかったが、それは遠い過去のことになるだろう。

●そうした多くの実例を引用して書かれたのが、クロポトキンの『田園、工場、製造所』(※「製造所」は単行本目次では「職場」)である。





〈四〉

●学者はその知識を大学で学生に講義する。そして本を書く。

●しかし、その知識を世人の日常生活に応用するには、大工と一緒になって自分の考案を具体化したり、機械工場で油染みた職工と一緒に働かなければならないこともあるだろう。

●自ら土地を耕し百姓仕事をしなければならないこともあるだろう。

●しかし、現在、そういう学者は希有だ。

●近代文明の一特徴である工業は、十七世紀の末から十九世紀の初期にかけて非常な速度で発達したが、それに貢献したのは科学者ではなかった。書斎から出ない専門の科学者は、みな無能だった。

●蒸気機関を発明したワットは機器製造人だったし、蒸気機関車のスチーブンソンは炭鉱で縦坑の巻上げギアを制御する「制動手」だった。

●クロポトキンは学者について、こう語っている。

●学者たちは批判されると、こう言うだろう。「我々は自然の法則を発見する。それを応用するのは他の仕事だ。それが分業の簡単さだ」と。

●しかし、熱力学の理論は蒸気機関の発明の前にはなく、蒸気機関の発明に追随して生まれたものなのだ。

ジュールによって発見されたジュールの法則を、科学者たちは非科学的だと書いた。

●科学の応用が発明を生む例はまれで、むしろ発明によって学説が生まれるのである。

●頭脳労働しかできない学者と筋肉労働しかできない労働者を分割し、ときどき出現する例外者を待って文明の進歩発達を願うよりも、すべての人がその例外者になって、進歩発達の機会をより多く持つ方がいいことではないだろうか。

●現在の学者の一番悪いところは、学問を俗衆のおよばない高いところに祭り上げていることだ。

●彼らは開祖たちの本当の偉さを知らない。開祖たちは少しも労働を軽蔑しなかった。





〈五〉

●学校教育において教える方も教わる方も、まずもって苦労するのは数学や語学だが、それらの学科が複雑だからというよりは、教授の方法が間違っているのではないだろうか。

●教師が教えすぎるのがいけないのである。教師が説明しすぎるから、生徒は自分で考えることをしなくなる。ただ教師の説明する言葉を生徒は覚えるだけで、本当に理解することはできない。

●クロポトキンは言う。

●幾何などは暗記させようとするから、子供は定理に頼ることができない。理解せずに丸暗記したものはすぐに忘れる。

●本当に理解させるには、教師が定理に解釈をつけず、それを問題として生徒自身にその解釈をつけさすように導くことである。

●生徒に紙の上で問題を解かせたら、すぐに運動場で棒や糸で実際の形を見せてそれを解かせたり、細工場でその知識を応用させねばならない。

●眼と手を通して頭へ−−これが教授法の時間経済の原則である。

●しかし、現実は知識をむやみに頭の中に詰め込まされ、そして子供の研究心はへし折られる。

●こういう教育法は、クロに言わせると「我々の心に服従的な惰性を持たせる、鸚鵡のように繰り返しばかりやらせる皮相な教育」なのだ。

●教育はまず、大量に堆積した知識を覚え込ませることをやめて、生徒を知識から解放すべきなのだ。

●人間が朝から晩まで、自分が何をしているのかも満足に考えることができずに、機械のように働いて一生を終えることに、なんの意味があるのだろう。

●自分の生活の必要のために必要な時間だけ自分で働き、労働以外の時間はその人の好みによって学問や芸術をしたり、自由に時間を使うことができたら、どんなにか愉快だろう。

●自分たちの口に贅沢な食物を運ぶために、他人を虐げることもなくなるだろう。





『実業之世界』十二月号は「当代名流の安心する所=を問ひたるに対する回答」を掲載した。

 五百枚の往復葉書を出して、百二十一名からの回答を得たという。

 野枝も回答を寄せた。


 私は自分をゴマカして生きて居る事の出来ない性分ですから、世間からは、随分悪るく云はれる代りに、自分の生活にビクつくやうなことのないことを、ひそかに誇として居ます。

 経済界がどうあらうと、思想界がどうあらうと、我に何んの不安も動揺もありません。

 世間に悪るがられやうと、お上に睨まれやうと、監獄にブチ込まれやうと、新聞でコキ下されやうと平気なものです。

 同様に火事に遇おうと、泥棒にはいられやうと平気であります。

 いまでも私の家では夜明けぱなしで寝て居ますが、之れは何んにも取られて、惜しいものが無いからです。

 同様に私は他から突つかれてグラ/\する様なヤクザな、自分を持ち合はせませんから安心です。


(「当代名流の安心する所=を問ひたるに対する回答」/『実業之世界』12月号・第17巻第12号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p227)


 野枝と同頁には伊藤Y子花柳はるみ澤モリノ上司小剣、生田長江などの名がある(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題)。


★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 11:20| 本文

2016年08月10日

第320回 コミンテルン(三)






文●ツルシカズヒコ




 大杉が上海に着いたのは一九二〇(大正九)年十月二十五日ごろだったが、その翌日、ヴォイチンスキー(ロシア共産党の極東責任者)、陳独秀(中国共産党初代総書記)、呂運亨(大韓民国臨時政府外交次長)ら六、七人が一品香旅館にやって来た。

 それから二、三日おきに陳独秀の家で会議を開いた。

 支那の同志も朝鮮の同志もヴォイチンスキーの意向にほぼ賛成しているようだったが、大杉はそういうわけにもいかず、会議はいつも大杉とヴォイチンスキーの議論で終始した。

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 ……僕は、当時日本の社会主義者同盟に加わっていた事実の通り、無政府主義者と共産主義者の提携の可能を信じ、またその必要をも感じていたが、各々の異なった主義者の思想や行動の自由は十分に尊重しなければならないと思っていた。

 で、無政府主義者としての僕は、極東共産党同盟に加わることもできずまた国際共産党同盟の第三インタナショナルに加わることもできなかった。


(大杉栄「日本脱出記」/『改造』1923年7月号/『日本脱出記』・アルス・1923年10月/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)





 ある日、ヴォイチンスキーはふたりで会いたいと言って、大杉を自宅に招いた。

 金の話だった。

 どんな計画があり、それにはどれくらいの金が必要なのかと問われた大杉は、週刊新聞を出したいが一万円あれば半年は支えられるだろうと答えた。

 当時の一円を今の六百円として換算すれば、当時の一万円は今の六百万円ということになる。

 金は貰えることになったが、ヴォイチンスキーは大杉と幾度も会っているうちに、新聞の内容について細かいお節介を出し始めた。

 大杉は自分が上海に来たのは金をもらうためではなく、東洋各国の同志の連絡を謀るためであり、それができさえすれば各国は各国で勝手に運動をやればよい、これまでも日本は日本でやってきたし、これからもそうしていくつもりだ、条件つきの金など不要だとヴォイチンスキーに伝えた。

 ヴォイチンスキーと大杉は英語で話していたが、大杉はこの話のときは特に紙に書いてヴォイチンスキーに自分の意志を明確に伝えた。

 ヴォイチンスキーは承諾し、一般の運動の上で必要な金があればいつでも送ると約束し、大杉がいよいよ帰国する際に二千円を大杉に渡した。





 上海滞在中、大杉は三、四軒のホテルに十日ほどずつ泊まった。

 同じホテルに長くいると危ないからである。

 ホテルが代わるたびに、大杉は支那人の変名を使ったが、その漢字を支那音でどう発音するかわからなかったので、戸惑ったようだ。

 ホテルのボーイとの必要最少限のコミュニケーションは、英語で誤魔化した。

 近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、中国国民党の要職にあった張継が、大杉が滞在している上海のホテルを訪問、ふたりは十数年ぶりの再会を果たしている。

 張は日本に留学中、無政府主義に傾倒し大杉と親交を結んでいた。





 大杉が行方不明になっている間、日本ではいろいろなデマが飛び交った。


 北信の温泉へ原稿書きに行っているとか、いや上州の温泉だとかといううちは罪がなかったが、それがシベリアになり、ロシアになり、お伽噺はさらに進んで、ロシアから時価十五万円のプラチナの延棒をもってきて十二万円で売ろうとしているとの噂まで飛んだ。

 そのうち大杉が有楽町の電車通りに面した「露国興信所」の看板のかかった家、実はロシア人の下宿屋へ越したから、それ見ろ、やっぱりということになったのである。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p226)





 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、大杉が鎌倉の家を留守にしている間、野枝は魔子を連れて福岡に帰省した。


 戻ればいつものごとく、今宿の実家と従姉千代子宅と代準介・キチの家を行き来している。

 ……今津湾の潮風で英気を養う。

 当然、刑事たちは見張っており、村の防犯にも結果役立っている。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p144)


 代準介は大杉一家が引っ越すたびに土産を携えて上京し、野枝の家に顔を出し、その暮らしぶりを心配していた。

 当時は福岡から東京までは丸二日かかった。

 早朝出れば一泊二日だが、遅く出れば二泊三日である。

 博多から門司港へ、そこから関門連絡船に乗り下関へ。

 下関から汽車に乗り、大阪で下車して一泊。

 翌朝、大阪から東京行きの東海道本線に乗るのである。

 野枝は代準介が上京すると、必ず駅まで出迎えていたという。


 野枝は生活に困窮すれば先ず実家よりも叔父叔母を頼る。

 野枝は幼い頃から、実の親よりも叔父叔母に遠慮なくわがままを言って育ってきた。

 上京の叔父をいつも駅まで出迎えていたのは、姪というより、娘としての感情のほうが強かったからであろう。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p145)





 十一月二十三日、第二回黒燿会展覧会が京橋星製薬ビル七階で開催され、主催者の望月桂、堺、大杉、山川菊栄などの作品が展示されたが、警視庁の検閲が入り作品撤回問題が起きた(『日録・大杉栄伝』)。

『日録・大杉栄伝』によれば、大杉が上海から自宅に戻ったのは十一月二十九日の夜だった。

 翌日、鎌倉署から警官が臨検に来たが、彼らの目的のものは何も発見されなかった。

 帰国した大杉は上海での顛末を堺と山川に報告した。

 
 帰るとすぐ、僕は上海での此の顛末を、先ず堺に話しした。

 そして堺から山川に話しして、更に三人で其相談をする事にきめた。

 そして僕は、近くロシアへ行く約束をして来たから、週刊新聞も若し彼等の手でやるなら任してもいゝ、又上海での仕事は共産主義者の彼等の方が都合がいいのだから、彼等の方でやつて欲しい、と附け加へて置いた。

 が、それには、堺からも山川からも直接の返事はなくて、或る同志を通じて、僕の相談には殆んど乗らないと云ふ返事だつた。


(大杉栄「日本脱出記」/『改造』1923年7月号/『日本脱出記』・アルス・1923年10月/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)



★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 23:05| 本文

第319回 コミンテルン(二)






文●ツルシカズヒコ



 上海で開かれるコミンテルン極東社会主義者会議に出席するために、大杉が鎌倉の家を出たのは、一九二〇(大正九)年十月二十日の夜だった(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、この日、近藤は大杉と上海行きの打ち合わせをすることになっていた。

 鎌倉の大杉の家に行くために新橋駅のホームで列車を待っていると、信友会の桑原錬太郎と遭遇した。

 桑原も大杉に会いに行くという。

 正進会が十五新聞社のストライキを敢行し、惨敗したばかりだったが、その経過報告書を大杉に書いてもらうためだった。

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 近藤は困ったことになったと思った。

 この夜、大杉は鎌倉の家から極秘に抜け出すことになっていたからである。

 近藤が桑原と鎌倉の大杉の家に行くと、大杉は早い夕食をすませて、トランクに手まわり品を詰めていた。

「どこかへ行くんですか?」

 桑原は困ったような顔をした。

「何か用だったかね」

「ええ、争議の報告書を書いてもらおうと思ってきたんですが……」

 近藤はこんなときに大杉がなんというか、興味深くふたりの会話を聞いていた。





 ところがどうだ、大杉は言下に答えた。

「よし、では手っとりばやく内容をいってくれ」

 私はいささかあきれた。

 いま出発しょうとするまぎわに、面倒な報告を書こうというのだ。

 大杉はひと通り聞き終わってから書斎へひっこみ一時間あまりして出てきた。

「これでいいか読んでみてくれ」

 そういって、また書斎へひっこみ、こんど出てきたときには、いちばんの特徴である山羊ひげをそり落としていた。

 もっとも簡単な変装をしたのである。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』)





 大杉の家の前には尾行小屋があり、絶えず尾行が三人で見張っていたが、近藤がこの尾行の注意を引きつけている間に、大杉は桑原にトランクを持たせ家を抜け出た。

「日本脱出記」によれば、ふたりは鎌倉駅ではなく、一里ばかりある大船駅に足早に向かった。


 もう夜更けだつたが、ちよい/\人通りはあつた。

 そして家を出る時に何んだか見つかつたやうな気がしたので、後ろから来るあかりは皆な追手のやうに思われて、二人とも随分びく/\しながら行つた。

 殊に一度、建長寺と円覚寺との間頃で後ろからあかりをつけない自動車が走つて来て、やがて又それらしい自動車が戻つて来た時などは、こんどこそ捕まるものと真面目に覚悟してゐた。


「日本脱出記」/『改造』1923年7月号/『日本脱出記』・アルス・1923年10月/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)





 その自動車はただ通り過ぎただけで、ふたりは無事大船駅に着き、桑原は東海道線の上り列車に乗り、大杉は下り列車に乗った。

 大杉は自分がやっていることの真相を桑原に話せないことをすまなく思ったが、桑原は何も聞かず、そしてこの夜のことは誰にも口外しなかった。

 大杉が上海に着くまでは、その筋に知られたくないので、大杉の関係者の間では大杉が病気で寝ていることにした。

 しかし、尾行はすぐに疑いを持ち、三歳の魔子をつかまえて聞き出そうとしたが、魔子もまた尾行を撹乱させる巧者だった。

「パパさんいる?」と尾行が聞くと、魔子は「うん」と頷く。

 今度は尾行が「パパさんいないの?」と聞くと、やっぱり「うん」と頷く。

 おやと思った尾行がまた「パパさんいる?」と聞くと、やっぱりまた「うん」と頷く。

 そして尾行が「パパさんいないの? いるの?」と聞くと、「うんうん」とふたつ頷いて逃げて行った。

 結局、十日ばかりの間、尾行はどっちともはっきりとさせることができなかった。





 大杉は十月二十五日ごろ上海に着いた。

「日本脱出記」には大船から列車に乗った後、上海に到着するまでの記述がないが、おそらく神戸から船に乗ったのだろう。

 大杉は旅券は持っていたのだろうかという疑問が生じるが、戦前、日本人が中国へ渡航する際に旅券は必要なかったのである。

 上海の街では抗日と反帝国主義を掲げる五四運動が高揚している最中であり、「抵制日貨」という日本の商品をボイコットする札がいたるところの壁に貼り付けられていた。

「日本脱出記」と『日録・大杉栄伝』によれば、上海に到着した日、大杉は上海の朝鮮人町で李増林と会い、李東輝大韓民国臨時政府軍務局長)と一時間ほど会談、李増林の案内で前週までバートランド・ラッセルが滞在していた一品香旅館に支那人の名前で投宿した。

 北京大学客員教授として招かれたバートランド・ラッセルは、十月十二日に上海に到着していた。



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年08月09日

第318回 夜逃げ







文●ツルシカズヒコ




 葉山に住んでいたコズロフが、鎌倉の大杉宅にふとやって来たのは、十月初旬のころだった。

 コズロフはしきりに何かを大杉に訴えていたが要領を得ず、大杉は何を言っているのかわからないまま、大杉がよくやる手でウンウンと頷いてわかったような顔をしていた。

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『分りましたか?』

 云ふだけの事を云つて了つたあとで、コズロフは日本語で云つた。

 僕は顔をあげて彼れの顔を見た。

 すると、不思議な事には、一と言も分らなかつた彼れの話しの意味が、ふいと僕の頭にはいつて来た。

 僕は、コズロフには『分りました』と笑つて答へて置いて、別の部屋にゐた村木を呼んだ。

『先生夜逃げをしたいと云ふらしいんだがね。君一つ、よく話を聞いて、手伝つてやつてくれ給へ。』

 僕は村木にさう頼んで置いて別の部屋へ引き下つた。


(「コズロフを送る」/『東京毎日新聞』1922年7月29日から13回連載/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)





 英語での会話ができない村木と、ほんの片言の日本語しかしゃべれないコズロフが、しきりに手真似足真似で何かを話していた。

 村木が厄介そうな顔をして大杉の部屋に入って来て言った。

「やっぱり夜逃げなんです。女房と子供はひと足先にもう横浜にやってあるが、今晩そっと荷物を持って逃げたいと言うんで、今からすぐ来てくれって言うんです」

「しょうのない奴だな。しかし、まあ仕方がない。行ってやってくれ」

 大杉もはなはだ厄介だと思ったが、肺を患って大杉の家にゴロゴロしていた村木に、改めて厄介ごとの助っ人を頼んだ。

 大杉がコズロフのいる部屋に行くと、さっきまでの彼の沈んだ顔はどこかへ行き、ふざけすぎるほどの快活さで、

「オスキさん、ヨニゲです、私今晩ヨニゲです」

 などと、村木から教わったばかりの夜逃げという言葉を面白そうに繰り返していた。

 コズロフは前年十月から横浜・山下町の商社にタイピストとして勤務していたが、失業したらしかった(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。





 暗くなつたら直ぐに出かけると云つてゐたから、どんなに遅くなつても、十二時前には着くだらうと思つてゐたが、一時になつても二時になつても来なかつた。

 僕等夫婦は村木が途中でへたばつたのぢやないかと心配してゐた。

 そしてとうたう、夜明け頃になつて二人が一台の大きな車を引いて、へと/\になつてやつて来た。

『実際、トンネルのところで一たんはへたばつたのですがね。コズロフが薬をやると云ふから飲んでみたら、ひどい奴で、アルコオルを飲ませやがるんです。それでも薬はたしかに薬で、それで又元気が出ましたよ。』

 と村木は青い顔をして汗をふいてゐた。


(「コズロフを送る」/『東京毎日新聞』1922年7月29日から13回連載/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)





 コズロフは二週間ばかり大杉の家に潜伏し、ある夜、秘かに大杉の家のまわりの厳重な警戒を突破して、脱出に成功した。

 コズロフが脱出した後、大杉は三日ばかりときどきひとりで大声で英語を話し、コズロフがまだ大杉の家にいるかのようにカモフラージュした(「日本脱出記」)。

 コズロフ一家は神戸に滞在することになったが、この夜逃げのおかげで大杉家はコズロフの債権者に攻められ、彼が残していった家賃の一部を払わされた。

 コズロフをお得意にしていた鎌倉の「亀谷」という西洋食品店は、大杉家もよく利用していたが、それ以来、御用を聞きに来なくなった。

 コズロフと親交のある大杉家も危ないと思ったからである。

 その後、大杉と村木はコズロフの話が出るたびに、この夜逃げのことを思い出し、笑って話すのだった。

「……毛唐の夜逃げというのは初めて見たな」



★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)



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2016年08月08日

第317回 有名意識






文●ツルシカズヒコ



 野枝は『改造』九月号(第二巻第九号)に「引越し騒ぎ」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)、『婦人世界』九月号(第十五巻第九号)に「婦人の不平は意志の欠乏から」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)を寄稿した。

『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、「引越し騒ぎ」の目次には「(社会主義者奇譚)引越さはぎ」というコピーがついている。

「婦人の不平は意志の欠乏から」は「現代婦人の不平」特集欄の一文で、他に山田わか、西川文子、厨川蝶子、平塚明子、帆足みゆき林歌子、神近市子など十七名が執筆している。

 以下、抜粋要約。

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 ●不平と愚痴は一切言わないことにしたいと私は思っている。

 ●愚痴や不平ほど見苦しいものはありません。

 ●諦められることは綺麗さっぱりと諦めればいいし、それができないなら不平や愚痴をならべるより、自分の気がすむまでその事実にぶつかっていくことです。

 ●誰でも不平や不満はありますが、それに積極的にぶつかっていく意志のある人は少ないようです。

 ●日本の女たちにもっと強情に、我がままになってほしいと思います。

 ●本当に生きがいのある生活を享受するには、どこまでも積極的な生活をしなければなりません。

 ●強い意志の生活をしなければ、とうてい強い生活をすることはできません。

 ●日本人の生活は非常に消極的であるが、女はより消極的に教育されてきた。

 ●自分ひとりの生活を自分でつくり出すことが、不道徳とされてきた。与えられた生活に満足しないと、不道徳の者と扱われます。

 ●自由に観て考えることを、学校教育は非常にいやがります。

 ●正しい真理探究の知識欲の芽は、現代の学校教育ではできるだけ刈り取られるのが普通です。

 ●婦人の場合は、妻として母としての準備にのみ没頭させて、他人の保護の下に生きることを最大の要件として教育します。

 ●教育者は人生に対する根本的な知識を授けることができません。だから生徒は不屈の意志を養うことができません。

 ●教育者は消極的な生活のみを讃美します。

 ●私は思います。これからの若い娘さんたちが、強い意志を持った人になってくれるといいと。
 
 ●教えこまれることを鵜呑みにせず、自分で判断するだけの知識を持つこと、不必要な教育を拒絶して自分に必要な自己教育をするだけの意志をぜひ持ってほしいものです。

 ●女学校を卒業すると、娘たちの両親は娘の結婚のことばかり気にしています。

 ●しかし、ようやく社会のことがわかり始めのは二十歳をすぎたくらいです。それから四、五年しっかり知識 を身につけてから結婚を考えるのがベストではないかと、私は思います。

 ●現在の婦人たちに一番欠けているのは強い意志です。それは自力で獲得するしかありません。

 ●一身上のことは一切、他人に頼らず、他人から干渉されずに、解決するという覚悟が不可欠です。





 九月八日、大杉は横浜・吉田亭で開かれた社会問題研究会で演説、解散命令により屋外で演説し同志たちと革命歌を歌うなどしたため、大杉ら七名が伊勢佐木署に検束され、大杉は公務執行妨害で送検された(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 九月のある日、比叡山から下山した宮嶋資夫が帰京途中に鎌倉の大杉宅を訪れた。

 宮嶋資夫「遍歴」によれば、そのとき宮嶋は桧の笠をかぶり太いステッキを持っていたが、それは山の上の生活で自然に身についたものだった。

 それを見た大杉がこう言ったという。

「その格好で東京を歩き廻ったら、じき有名になるよ」

 宮嶋は変なことを言うなと思ったが、そのときはあまり気にかからず、「東京に帰ったら、すぐ帽子くらいは買うよ」と答えた。

 後にいろいろなことを考え合わせてみた宮嶋は、大杉が持っているあるものの見方、考え方にハタと気づいたと書いている。





 つまり葉山で野枝を擲つたのも、比叡山で暮したのも、桧の笠もステッキも、みんな私が有名になるために意識的にやつた事と彼は解釈してゐるようであつた。

 私は呆れてしまった。

 そういう風に彼の眼に映つた私には何かがつがつした所があつたかも知れない。

 が、私は自分の売名のために行動した事は曽てない。

 自体私共のように都会で生れ育つた人間には、有名意識といふものは余りないのである。

 地方の人は風を望んで都会に上り、錦を着て故郷に帰ることを思ふが、都会人には上るべき都もなければ、帰るべき故郷もなく、そして身辺には有名人がうようよゐる。

 閣下も侯爵も同じ電車に乗つてゐるし、一世に名高い芸能人も街頭を歩いてゐる。

そしてそれ等の人に会つて話をして見れば、何も変つたとこのないただの人間である。
 
 従つて、有名になるといふことをそれほど有難い事とも思はないし、お酌が役者の素顔を見たがるように、有名人を見たいとは思はないのである。


(「遍歴」/『宮嶋資夫著作集 第七巻』)



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『宮嶋資夫著作集 第七巻』(慶友社・1983年11月20日)



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2016年08月07日

第316回 コミンテルン(一)






文●ツルシカズヒコ




 一九二〇年八月十七日、「社会改造運動の闘将養成」を目的にした、山崎今朝弥主催の平民大学夏期講習会が大杉宅で開催され、受講生二十人ばかりがやって来た(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 開始してすぐに解散を命じられたので、鎌倉署の署長に向かって大杉が馬鹿だの野郎だのと抗議、鎌倉中の評判になり、家主からの立ち退き話にまでなった(「鎌倉の若衆」/『労働運動』一九二一年二月一日・二次二号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)。

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 このころ大杉は「新獄中記」を執筆していたが、その原稿に三月に出獄して以来、運動不足で太ってきたと書いている。


 出た当座の十四半のカラが今では十五半になり、九文七分の足袋が十文になり、六寸五分の着物が七寸三分になつた。

 目方も三貫近く増えて、十六になん/\としてゐる。


(「新獄中記」/『漫文漫画』・1922年11月・アルス/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)


 カラ(首回り)はオックスフォードシャツサイズのインチであろうから、十五半は三十九センチ、十文の足袋は二十四センチ、体重十六貫は六十キロである。





 この八月ごろ、大杉と和田久太郎と近藤憲二が大森の山川均宅を訪れた。

 菊栄は病気のために転地していて、均はひとりで自炊生活をしていたので、大杉たちが焼豚を手みやげに訪れたのである。

 三歳になった振作もいた。

 四人の話はいつのまにかロシア革命の批評になっていた。

 焼豚がつきたころ、大杉が思い出したようにこう言った。
 

『一たい、クロポトキンがパンの略取の中に描いたやうなあんな理想的の社会が、革命後にすぐに実現するものだらうか? 君はどう思ふ? すると思はれるかい。』

『無論、しないに極まつてゐるよ。』

『ウン、僕にもそんな気がするんだ。然し……。』


(山川均「大杉君と最後に会ふた時」/『改造』1923年11月号)


 大杉のこの「然し」をきっかけに、もう一度話に花が咲いた。





 生産者のデイクテートル・シツプという思想は、早くからアナキストのうちにも唱へた者がある。

 地方々々に於けるソヴイエトの執政はよい。

 然し地方のソヴイエトの権力を集中して、中央政府を造つたのが悪るい。

 ボリセヰキは秩序の恢復を急いだために、もつと進展する筈の革命を縊びり殺したのだ。

 外国の武力干渉に対抗するためには、バルチザンで沢山だ。

 赤軍の必要はない。

 要するにロシアを革命状態のうちにおいたまゝ、もつと撹きまぜてをれば、クロポトキンの理想通りの社会が実現せぬまでも、もつと善い社会が其中から生まれてゐたに相違ない。

 これが大杉君の結論であった。

 四人は暫く黙つてゐた。


(山川均「大杉君と最後に会ふた時」/『改造』1923年11月号)





「日本脱出記」と大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、二十三歳の朝鮮人の青年が鎌倉の大杉宅をふいに訪ねて来たのは、一九二〇(大正九)年八月の末ごろだった。

 青年は上海の朝鮮仮政府の主要な地位にいる同志の使者として来た李増林だった。

 近く上海で開かれるコミンテルン極東社会主義者会議に、日本の代表者として大杉に出席してくれないかという要請だった。

 李は大杉に会う前に堺と山川に要請したが、断られたという。

 李をどこまで信用していいのか皆目わからないし、極秘性の高い案件なので社会主義同盟の同志に謀るわけにもいかず、堺と山川が断ったのも無理はなかった。

 しかし、大杉は快諾した。





 ……一二時間と話ししてゐるうちに、M(※李)が本物かどうか位の事は分る。

 そして本物とさへ分れば、其の持つて来た話しに、多少は乗つてもいい訳だ。

 しかも堺や山川は、当時既に、殆んど、或は全くと云つてもよかつたかも知れない、共産主義に傾いてゐたのだ。

 が、堺や山川の腹の中には、それよりももつと大きな、或物ものがあつたのだ。

 それは危険の感じだ。

 ……まかり間違ふと内乱罪にひつかけられる恐れがある。

 これは其の当時僕等が皆んな持つてゐた恐怖だ。

 そして此の恐怖が、堺や山川をして、上海の同志の提案にまるで乗らせなかつた、一番の原因なのだ。

 Mは其の事は十分に知つてゐたやうだつた。

 そして僕が……『よし行かう』と一言云つた時には、彼れは寧ろ自分の耳を疑つてゐるかのやうにすら見えた。


(「日本脱出記」/『改造』1923年7月号/『日本脱出記』・アルス・1923年10月/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)


★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年08月05日

第315回 幸子






文●ツルシカズヒコ



 さて、大杉は九人兄弟(姉妹)の長男であり、五人の妹と三人の弟がいたが、ここで整理してみたい。

 長男・栄(一八八五年生・一九二三年没)

 長妹・春(一八八七年生・一九七一年没)/中国・北京在住。三菱商事北京支店長・秋山いく禧・いくぎと結婚。※『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題(書簡・柴田菊宛て・一九二二年十一月二日)

 次妹・菊(一八八八年生・一九八一年没)/アメリカ在住。柴田勝造と結婚。

 長弟・伸/のぶる(一八九〇年生・一九二二年没)/中国・漢口在住。三菱商事漢口支店勤務。

 三妹・松枝(一八九三年生・一九五八年没)/中国・天津在住。軍の通訳書記官・牧野田彦松と結婚。

 次弟・勇(一八九四年生・一九四六年没)/横浜在住、電気会社の技術者。

 三弟・進(一八九七年生・一九八〇年没)/神戸在住、電気会社の技術者。

 四妹・秋(一八九八年生・一九一六年没)

 五妹・あやめ(一九〇〇年生・一九二九年没)/アメリカ・ポートランド在住。レストラン料理人・橘惣三郎と結婚。

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 四妹・秋は日蔭茶屋事件で縁談が破談になり自殺したので、この時点で大杉には四人の妹と三人の弟がいた。

 七人の弟、妹のうち五人がアメリカと中国に住んだのは、官憲の監視を避けたからだという(大杉豊「大杉栄を受けとめた弟妹と娘たち」/『新日本文学』二〇〇三年九月・十月号)。

 ちなみに『日録・大杉栄伝』の著者、大杉豊は大杉勇の子息である。

 一九二〇(大正九)年の七月下旬、大杉の長弟・伸と、三妹・牧野田松枝が鎌倉の大杉宅を訪れた(『日録・大杉栄伝』)。

 大杉の長妹・春の夫は三菱北京支店長をしていたが、伸はその伝手で三菱漢口支店に就職していた(「大杉栄を受けとめた弟妹と娘たち」※以下、特に資料を提示していない伸と松枝に関する記述は『日録・大杉栄伝』と「大杉栄を受けとめた弟妹と娘たち」を参照)。

 天津在住の松枝は、天津で軍の通訳書記官をしていた牧野田彦松と結婚していた。

 伸は社用で帰国すると大杉の家によく来ていたので、このときは伸と松枝が一緒に帰国し、大杉の家を訪れたようだ。

 大杉は安谷に伸をこう紹介した。


『僕のとこの変り種で、こいつ一寸違ってるんだ、何だか薬や歯磨きなどを仕入れてシナからモウコの奥に行くんだって、歯磨きや仁丹で大概の病気が治るので、珍しい石とか毛皮など貰って来ると云ふんだ、何だか面白いじゃないか!』

(安谷寛一「晩年の大杉栄」/『展望』1965年9月・10月号)





 伸と松枝は大杉宅に二、三日滞在し中国に戻った。

 そして大杉家から生後七ヶ月の次女・エマの姿も消えた。

 松枝の来訪はエマを養女に貰いたいという懇望のためだった。

 大杉と野枝は、結婚後九年、子供がいない松枝に同情してしぶしぶ承諾した。

 松枝は喜び、大杉と野枝の気持ちが変わらないうちに、エマを連れてすぐに中国に帰ったのだった。

 安谷は野枝と次女・エマの別れについて、こう書いている。


『エマ、もう今日あたり連絡船に乗るわネ』

 野枝さんが思い出してポツンとそんなこと云った。

 このママ平気かなと思っていたが、やっぱり気になっていたらしい。


(安谷寛一「晩年の大杉栄」/『展望』1965年9月・10月号)





 エマは八月、「幸子」と改名され牧野田夫妻の養女として入籍された。

 大杉はエマの改名についてこう書いている。


 ……第二の女の子は、其の母親によつて、エマと呼ばれた。

 が、此の子は、生れると直ぐに、僕の妹の一人に殆んど搔つさらはれて行つて、さち子と云ふ飛んでもない名に変へられて了つた。


『二人の革命家』序・アルス・1922年7月/『労働運動』3次6号・1922年8月に一部省略して掲載/日本図書センター『大杉栄全集 第7巻』)





 牧野田幸子(結婚後、菅沼幸子)は天津の小学校卒業後、静岡英和女学校に入学。

 幸子の寄宿先は、アメリカから帰国して静岡市に在住していた叔母・柴田菊(大杉の次妹)の家だった。

 幸子が生みの親のことを知ったのは、静岡英和女学校の学生時代だったという。


 私が両親のことを知ったのは、十五歳の時だった。

 その家の洋間の本棚には、『大杉栄全集』『伊藤野枝全集』などが並んでいた。

 ある日、従妹と、その洋間でおしゃべりをしていた。

「話に聞いていた物書きの叔父さんて、この人なのね。何が書いてあるのかねェ」と言いながら、パラパラ頁をめくると、家族の写真の斜め上に、丸く囲まれて、なんと私の写真がある。

 おかしい、なんの間違いかと、次の頁を繰ると、系図が出ていた。

 その中に、長女魔子、次女幸子とあった。

 もう疑いようのない事実に、一瞬は胸を衝かれたが、父も母も、すでに亡き人達のことでもあり、「それはそれで」と心の中に呟いて、そうだったかと納得のようなかたちで、隅っこに押しやった。

 それより何より、従姉と信じていたマコが、姉だったことの喜び、妹が二人もいる。

 今宿には祖父母もいた。

 そして兄たち二人も現われて、嬉しさの方が大きかった。


(菅沼幸子「伊藤野枝 はるかなる存在のひと」/『いしゅたる』十号・1989年2月/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」・2000年3月)





 幸子が手にしたのは『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・一九二五年十二月)である。

 幸子は実母についてこう記している。


「あんたのママはお産しても、翌日から腹這いになって原稿用紙に向い、赤ん坊が泣こうが、おむつが濡れようが、夢中になって何か書いていた人だった。いよいよ、あんたを連れて出発する日、東海道の国府津まで送ってきて、そこで下車し、汽車がゴトンと動いたとたん、あんたのママは、大声をあげて泣き出した」、と養母は話していた。

 生後一年目の写真を養母が送ると、あの忙しい母から、白羽二重の生地に鶴と松の模様の日本刺繍を、自分で刺した写真立てが送られてきた。

 それが長い間、箪笥の上に飾られていたのを覚えている。

 その後、えんじ色の絹にこまかい梅の花模様の、綿入れの被布と長着が、やはり自分で手縫いして送られてきた。

 日本のおいもを「幸ちやん」に食べさせてやって、という手紙と一緒に、さつま芋がたくさん届き、その手紙も後に見せてもらった。

 そんな風で、泣きわめく赤ん坊にもかまわず、原稿用紙に向っていた母親も、遠くへ手離した親心というのは、はるばるとこうしたかたちに、”母の想い”を託していた様子である。


(菅沼幸子「伊藤野枝 はるかなる存在のひと」/『いしゅたる』十号・1989年2月/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」・2000年3月)


★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第7巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)



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2016年08月04日

第314回 航海記






文●ツルシカズヒコ


 一九二〇(大正九)年六月十五日に開かれた労働運動同盟会の例会で、岩佐作太郎尼港事件パルチザンを話題にした。

 大杉はパルチザンについてこう書いている。

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 パルチザンの首領が何んとか云ふ無清酒主義者で、其の秘書官がやはり何んとか云ふヒステリイ性の食人鬼、女無政府主義者だ、と事ふ(ママ/※「云ふ」であろう)やうな事も、誰も問題にはしなかつた。

 厄介な手に負へない奴は、何処ででも皆な無政府主義者にして了ふのだ。

 ただ、皆んなの注意をひいたのは、パルチザンと云ふ戦術の一形式だ。

 パルチザンは正規軍ではない。

 即ち、ちやんとした組織のある、旗鼓堂々の、立派な軍隊ではない。

 二人でも三人でも、或は五人でも十人でも、一種の自由軍を形づくつて、敵のすきを窺つては不意打ちをし、それが済めば又知らん顔をして、家に帰つて働いてゐる、と云ふ、実際厄介な、ちよつと手に負へない奴等だ。

 嘗つてナポレオンがロシアに侵入したとき、モスコオで大火に会つて……遂に退却を余儀なくされた際……此の自由軍の不意打ちに会つて、散々悩まされた。

 其の事はトルストイ『戦争と平和』なぞにも詳しく書いてある。

 ロシアのボルシェヰ゛キは、赤衛軍と云ふ正規軍を造つて、外国軍や反革命軍に対抗してゐる。

 しかし、若し此のパルチザンが十分に発達すれば、革命にはそんな常備軍の必要ななくなるだらう。

 又、革命政府などと云ふものの必要もなくなるだらう。

 尤も、其のパルチザンで、こんどのやうな虐殺ばかりやるようでは、甚だ困りものだが。


(「パルチザンの話」/北風子の筆名で『社会主義』一九二〇年九月号に掲載/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)


 また大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、橋浦時雄が「大杉君は日頃無政府主義ではなく大杉主義だ、と言つているとのことだが説明してほしい」と質問すると、大杉は「僕は無政府主義だ。ただ外国の主義そのままではないということだ。多少はクロポトキンの思想を基にしているが」と答えた。





 この年の六月から七月にかけて、安谷寛一が大杉宅に寄寓していた。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉が安谷を呼び寄せたのは、安谷の勉強も兼ねて『昆虫記』の翻訳の手伝いをさせるためだった。

 大杉はこまめに辞書を引く主義だった。

 大杉が鎌倉に引っ越したのは贅沢をするためではなく、債稿(原稿料を前借りしてまだ仕上げていない原稿)を片づけるためだった。

 同志の出入りが多い本郷区駒込曙町の労働運動社では、集中して仕事ができないからだ。





 村木は、毎日お勤めのように出かけては夕方になると、私にとビールを一本持って帰って来た。

 材木座の氷屋とかに手伝いに行くのだと云っていた。

 私は辞書ひき、そして野枝さんの話し相手、つまり私達に仕事を持たせて話しかけさせない手段だった。

 それに野枝さんもダアウィンの『航海記』をひねりまわしていた。


(安谷寛一「晩年の大杉栄」/『展望』1965年9月・10月号)





 大杉の訳稿「蟷螂の話」は『新小説』七〜八月号に掲載され、「行列虫の話」は『改造』九月号に掲載された。

 ダーウィン の『航海記』を翻訳中の野枝について、安谷はこう記している。


 丁度その頃、野枝さんはダァヰンの航海日記の翻訳をしてゐたが、その傍で寝はらばつて雑誌を読んだり午睡したりしてゐる私に、その難解なヶ所をよく尋ねた。

 それが余り熱心なので、つひ引き入れられて、ほかの字引をひいて見たりもしたが、なんでもそれは船や航海上の専問(ママ)語のやうなものなので、たいてい好い訳語は見つからなかつた。


(安谷寛一「野枝さんを憶ふ」/『自由と祖国』一九二五年九月号)





 七月二日、野枝と大杉は新橋駅の楼上にある東洋軒で開かれた、山川均・菊栄夫妻の帰京歓迎会に出席した。

 山川夫妻は均の老母が重体のため、前年十二月に一家で倉敷の均の実家に帰省、四月に老母の死を看取り、半年振りに帰京したのである(山川菊栄『おんな二代の記』)。

 七月五日『読売新聞』(朝刊)に与謝野晶子、堺真柄、山川菊栄、望月百合子、伊藤野枝、岡本かの子、堺為子の集合写真が掲載されている。



『ビーグル号航海記』


★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:54| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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