アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2015年10月30日

第七章第二節 川島芳子と方居士

仏教は東漢明帝の時期に、天竺(インド)より中国に伝わってきた。中国南北朝時代の陳の時代または隋の時代に、高僧智が中国南北の仏教を統一し、体系が完備しており独特な教理を持つ宗派を打ち立て、南北諸師の公認と尊敬を集めた。大師は天台山に住んでいたので、その一派は「天台宗」と名づけられた。天台宗の創立により、中国仏教史の新紀元が開かれ、仏教の中国化の過程が初歩的に完成し、真の意味での中国仏教が誕生した。

西暦六世紀に、仏教は中国は朝鮮半島を経て日本へ伝わり、日本における仏教史が始まった。その後に天台宗の主要な経典である『法華経』が相次いで日本に伝わり、日本僧侶が必読の経典とされただけでなく、護国の聖典としても崇められた。

天台宗の日本伝播は、日本が送った遣唐使と密接な関係がある。中国の唐の時代二百八十九年間のうちに、日本は遣唐使を十八回組織して送り、留学僧は合計九十人に及び、その四分の一の僧は天台山国清寺へ来て、仏縁を取り結んだのである。

これに続き、中国唐代の僧鑑真大師が日本弘法の要請を受けて、様々な困難と危険を経験しながらも、十二年の間に六度渡航を試みてついに成功した。第四回目に渡航した際には、自ら弟子三十余人を率いて、寧波(明宗)阿育王寺から徒歩で旅程を開始し、一路山を越えて水を渡り、ある日の大雪が降る黄昏に、有名な天台山国清寺に到着した。彼らは天台宗を研究し、天台宗を日本に広める決意を固めた。西暦七五三年、鑑真大師は日本の鹿児島に上陸し、日本の朝野は彼を大和尚と呼んで称えた。鑑真は天台宗の教義を広め、日本の僧である最澄を啓発して唐に行き仏法を求めたいとの強烈な願望を抱かせた。

西暦八〇四年最澄大師は弟子兼通訳の義真を連れて遣唐使船に乗り込み、寧波から上陸して、台州を経てそこから直接に長いこと望んでいた天台山国清寺へ登った。最澄の唐での遊学は八ヶ月であったが、持ち帰った経典は合計二百三十部四百六十巻に及び、日本の天皇から賞賛を受けた。このときより日本の天台宗が始まり、平安時代の日本仏教が創立され、今日に至るまでずっと誉れ高い。日本の仏教はずっと中国仏教の影響下で発展してきた。天台宗を中心とする大乗仏教はずっと日本仏教の主流となっている。

長い歴史の営みの中で、日中間の仏教における関係は非常に密接であり、深い友誼を取り結んできた。しかし二〇世紀に入って後、日本軍国主義の中国侵略と《文革》による損害を受け、両国の仏教の正常な関係は破壊された。しかし時代の変遷と日中国交正常化に伴い、両国仏教界の友好活動は日増しに正常化され、ますます密接にますます発展する春の時期を迎えた。このことについて一例を挙げて説明しよう。
一九八〇年四月十四日から十五日、鑑真大師像が日本より中国に帰国して故郷を訪問した。中里徳海を団長とする日本の「天台宗中国天台山参拝訪中団」一行十七人が天台山国清寺を参拝した。中里徳海団長はこう述べた。
「中国天台宗は日本天台宗の祖先で、天台山と日本比叡山は父子のようなものです。我々が今回参拝したのは、祖先の恩に報いるため、また祖先の故郷を参拝するためです。我々両国は一衣帯水で、その友好的な往来は歴史が古く、必ず世々代々伝えていかなければなりません。」
仏教訪中団
中国仏教協会会長であった故趙朴初は、一九七五年十月二十六日に日本天台宗座主山田恵諦長老に付き添って国清寺を参拝したとき、山田長老に一種の五言律詩を贈った。

喜迎
昔日霊山会、同聴法華経
喜今嘗宿願、振錫自蓬瀛
珠耀垢衣解、花飛宝座分
叡台承相照、万古弟兄情

 国清寺と日本仏教の繋がりは長い歴史があり、川島芳子が日本で生活した二十年近くの間に、知らず知らずに感化されて、彼女も大勢の日本仏教徒と同じく、国清寺を日本仏教天台宗の源流とみなして、深い感情を抱いたかもしれない。国清寺に到ったことは、仏門の弟子たちにとって「根」あるいは「家」に到着したのと同じである。国清寺はあたかも巨大な磁石のように、深く川島芳子を引き付け、たとえどんなに困難でも、あるいは旅程がどんなに遠くても、やはり彼女の心は国清寺に始終あったのではないか。

浙江省は中国の亜熱帯地域に属し、気候が温暖で湿潤である。国清寺は浙江東南天台の南麓にあり、四周を五つの峰に取り囲まれ、国清寺は八桂峰の日の当たる側面に建てられている。寺の西北にある映霞峰が最も高く、加えて寺の西には霊芝峰があり、さながら天然の障壁に囲まれて、寺院のために冬季の寒冷な風を遮っている。寺の東にある霊禽峰と寺の南にある祥雲峰の間には、比較的広い峡谷があり、そこが寺院の入り口となり、また夏期には東南からの風の通り道となり、これにより国清寺は冬暖かく夏涼しく、冬は寒さを避け、夏は暑さをやわらげている。つまり国清寺は寒さを避けて冬を越すには絶好の土地であると言うことだ。

その外にも、国清寺は悠久の歴史を有し仏法が厚く信奉され、国内外の仏教界でもとても高い知名度があり、そのため香の煙は絶えることなく、長く衰退することがなかった。国清寺は歴史上「知客」という接待係の職を設置し、専門に僧侶や民衆の出入りを管理し、巡礼の僧侶の参拝を接待したり、山に登ってくる参拝客や、在家の弟子たちが登記して宿を取る管理をしている。この伝統のため、日々に心地よく、客に至れり尽くせりで安らぎの感覚を与える。

何景方と張玉が泊まったのは万字楼の旅館で、寺院内の東部生活区に建設されており、二階建てで円形の建築で、宿泊客二百数人を接待できる。二階の食堂には大食堂と小食堂があり、同時に数百人の食事を寺院内に用意できる。

寺院の北側には、山の形勢によって比較的高級なホテル式の宿泊施設が建築されている。一つの建物は迎塔楼で一九三二年に建築され、五丈部屋二層建築で、二階のバルコニーからは、祥雲峰の上に高く聳え立つ緑影上の隋塔を眺めることができるので迎塔楼と名づけられており。賓客接待用に用いられる。聞いたところによれば、蒋介石の元妻であった毛福梅たしばしば浙江奉化渓口より国清寺へ参拝に訪れ、その宿舎の便として、毛福梅の出資でこの建物が建築されたという。迎塔楼にかかる額の題字は民国の学者である蔡元培の筆であった。

もう一つの建物は吉祥楼で、迎塔楼の東側に隣接している。一九八九年に新築され、三丈部屋の二層建築で、中には宿泊部屋、会議室。小食堂など設備が整っており、古い樹木が鬱蒼と茂り、静かな環境で、賓客用に用いられる。この建物が最初に接待した賓客が故中国仏教協会会長趙朴初と日本天台宗座主山田恵諦長老一行であった。

このことが説明するのは、国清寺の冬の気候は北方に住む方おばあさん(川島芳子)が冬を越すのに適しており、同時に国清寺の宿舎や食事などの条件が比較的完備しているということである。なおのこと、川島芳子の類まれな聡明さと、仏門在家の弟子の身分からして、このように国清寺が家と同じように便利ならば、我々の考えでは、彼女にはありうることである。しかし、詩や画に秀でた川島芳子であるので、国清寺でそれらの寺でどの僧侶と交友があったのか、国清寺になにか書画や筆跡が残されていないか調査したが、それらを見つけることができなかったのは甚だ遺憾であった。

方おばあさん(川島芳子)が毎年国清寺で冬を越したことは、彼女が国清寺をよく知っていたことを説明するだけでなく、なにか知られていない縁があるのかもしれない。方おばあさんの一九七八年死後における遺骨の問題は、段連祥が生前に打ち明けなかったため行方が不明となっていた。張玉がこの問題を母親の段霊雲に尋ねたときにも、段霊雲もはっきり記憶していなかった。しかし、偶然にも手がかりを示す情況が出現した。

 張玉の父親張連挙は彼女ら母子の話を聞いた後、話を引き継いでこう述べた。一九八〇年に彼が軍事工場から四平に戻って親族を訪ねたときに、ちょうど岳父の段連祥が日本の友人を接待しており、同時に国清寺から一人の老齢の僧が来ており、方おばあさん(方居士)の命日のために来たと言っていた。張連挙はまず車を借りて岳父のために日本の客人を送り、二日目に国清寺の僧を送った。老僧は去る時に方おばあさんの遺骨を持ち去った。張連挙の記憶が比較的はっきりしているのは次のような原因である。岳父段連祥が彼にバンを借りて国清寺へ僧を駅まで送るように言ったが、バンは借りることができず、ただ一台のサイドカー付きのバイクを借りることができるだけであった。バイクで送る途中に、うっかり通行人の一人と接触してしまい、通行人には怪我がなかったが、相手が賠償金を要求してきたので、岳父の段連祥が十元をだしたが、相手が少ないといったので、張連挙がいざこざを避けるために、ふたたびポケットから十元を取り出し、示談にした。それで張連挙は、国清寺の僧侶が方おばあさん(川島芳子)の遺骨を持ち去ったことをはっきり記憶していたのである。

第七章第一節 国清寺の調査

大家であった逯興凱が我々に方おばあさんの情況を紹介する時に特に指摘していたのは、彼女は毎年冬になると新立城にはいなかったことで、毎年冬になると方おばあさんの家の中から人影がなくなることであった。この現象は段霊雲と張玉母子はあまり気にしていなかったが、彼女たちが一点だけ肯定したのは、前世紀五、六〇年代に段霊雲が方おばあさんに付き添っていた頃にせよ、七〇年代に張玉が方おばあさんと一緒に生活していた頃にせよ、彼女たちが記憶にあるのはいつも夏の時期であった。冬は彼女たちは新立城に行ったことがなかったのである。

新立城の冬は三四十年前は確かに非常に寒かった。当地の一般の農家は、部屋の中のオンドルと火鉢(釜を焚いた薪木の燃えカスを入れる鉄の鉢)の外に、その他の暖房設備というものがなかった。それでは、毎年長い冬季に、方おばあさんはどこに寒さを避けて行っていたのであろうか?

大家の逯興凱の記憶では、段連祥は毎回「新立城」に到着すると、彼らの家に来て顔を出し、逯興凱の父親逯長站と世間話をしていた。おりには、冬越えのことについて話していることもあった。段連祥が言うには、通常の場合は方おばあさんは浙江省の国清寺で冬を越しているとのことであった。

方おばあさんのこの普通の人の生活と異なる点は、彼女の神秘性を増しただけでなく、我々が今までよく知らなかった国清寺という仏教寺院への関心を引くこととなった。我々はネットで調べた結果、以下の点を知った。国清寺は中国浙江省天台山麓の天台県に位置し、中国仏教天台宗の発祥地で、また日本仏教天台宗の発祥地でもある。我々は国清寺が我国の仏教界でこのような重要な地位を占め、さらに東洋日本仏教にもこのような歴史的に深い関係があるとは予想すらしていなかったので、我々は国清寺への興味をさらに深めたのである。特に、方おばあさんがどうしてこの国清寺を選んで、冬季の隠遁先にしていたのか?国清寺の魅力はどこにあるのか?熟考の末、李剛は決断を下し、何景方と張玉を一緒に国清寺へ向かわせて、方おばあさんが国清寺で生活した記録があるかどうか探し、方おばあさん(川島芳子)の新立城以外の土地での生活の軌跡を探ることとした。

十一月初めの北国長春は、早くも風が落葉を吹きつけ地上には霜が降りる季節である。何景方と張玉は一緒に南方行きの汽車に乗り込み、汽車の中で二泊の旅程を経て、まだ暖かく緑が茂る杭州にやって来た。杭州から長距離バスに乗り天台県に向かい、蕭山、紹興、上虞、嵊州、新昌などの市県を通り過ぎた。特に新昌から天台の区間は高速道路ではなく、険しい山の間を走る山道で、バスはくねくねと起伏する山の周囲を縫うように走り、何景方と張玉の二人はこう考えざるを得なかった。三四十年前には浙江の山地の道路はまだ整備されておらず、交通機関もいまだ発達していなかったのに、すでに高年齢になっていた方おばあさんが、毎年寒い冬の季節に、東北の長春から、千里はるばる天台山の国清寺のような逼塞した地方に来るには、十日から八日かかるはずで、どう考えてもたどり着けないだろうと考えたことからも、その苦労の程度が想像できるだろう。しかし、大きな山を越えて天台県に来ると、まるで別天地のようであった。天台県はとても美しく、天台山の霊気に満たされているようであった。天台県から国清寺へは専用のバス路線がある。多くの観光客がいることからわかるように、国清寺は今でもやはり旅行のホットスポットであった。
国清寺
何景方と張玉は天台山の麓に来ると、当時方おばあさんが国清寺に行くのに通ったであろう路線に沿って、山に入る道路から木魚山を経て、雲の上の峰に高くそびえる千年隋塔を見ながら、寒拾亭、七佛塔を経て、豊幹橋を渡り、国内外に広くなを知られる千年の歴史を持つ古刹―国清寺へ到着した。
七仏塔
二日間をかけて、何景方と張玉は敬虔な面持ちで、国清寺の殿内にある仏像を参観し、寺院周囲の景観を遊覧し、さらに真慧法師、延如小師弟、接待室の梅吉異居士と九十四歳になる高齢の以前は食事係だった林若水老居士らと会い、国清寺の歴史や現状などを尋ね、方おばあさんがかつて国清寺で冬を越し、仏事に参加していた足跡が見つからないか話を聞いた。しかし、既にかなりの年月が経っており、方おばあさんのように普通の在家の仏門弟子の身分では、寺の中には何も記録はないだろうとのことであった。たとえ当時方おばあさんが川島芳子であると寺の住職やそのたの僧が知っていたとしても、他人には決してそのことを口外しないだろうというのである。しかし、何景方と張玉は二日間の国清寺でのおぼろげな理解を通じて、方おばあさん(川島芳子)がどうして毎年国清寺へ来ていたのか、寒さを避けて冬をすごすという客観的な原因の外に、国清寺という千年の歴史を持つ古刹に実際に身をおいて深く考えることができただけでも、今回の旅行は無駄でなかったといえよう。

『国清寺志』の記載によれば、中国南北朝のとき陳国の太建七年(西暦五七五年)、一人の高僧定光が天台山で修行していた智大師に言った。「山の下の皇太子が基礎を据えて、寺院が造成されるだろう」さらにつぎのように予言した。「寺を造成できれば、国すなわち清まる」(国清寺の名前はここに由来する)。こうして高僧智は寺院建設の志を立てた。隋の時代の陳国の後、智は晋王楊広と深い仏縁を取り結んだ。隋の開皇十七年十月、智は遺書を晋王に贈り、寺院建設を求めた。

「天台山のふもとの土地で、非常によい土地があり、伽藍を建設したい。最初は木材を切って基礎をすえ、弟子に建設するよう命じた。寺が完成されなければ、死んでも気がかりだ。」

晋王は書を受け取ると感動して、隋開皇十八年(西暦五九八年)司馬王弘を天台に派遣し、智の遺言に従って寺院を建設した。隋の文帝仁寿元年(西暦六〇一年)に、寺院が完成して、天台寺と呼んだ。大業元年(西暦六〇五年)に隋の煬帝が即位すると、天台寺に「五百段の贈り物」を寄進して、「国清寺」の名を賜った。
国清寺は長い年月の間、皇帝や王からの寄進を受けて、教勢が盛んとなったが、やはり戦乱による災難や皇帝による仏教迫害などにより衰退したこともある。盛衰を繰り返したが、衰退よりも盛んであった時代の方が長く、これが国清寺千年の発展史の特徴でもある。

国清寺に現在残っている建築物は清代の雍正年間に再建されたもので、近代国清寺の建築風格を規定した。一九七三年中国人民政府が全面的に修復し、現在ある寺院は合計一四座、部屋は六百間余り、総建築面積は二万平方米、占地面積は三万平方米近く、中国漢族地区の著名な古刹の一つとなっている。一九八三年、国務院は国清寺を漢族地区百四十二座の仏教重点寺院の一つに認定した。

国清寺は千年に及ぶ悠久の歴史を持ち、仏教中国化の長い年月の中で重要な伝承作用を果たしてきた。歴代の高僧の苦心の研修を経て、仏法は厚く広く深く極められ仏教が東アジアに広まるさいに大きな貢献を果たした。このような寺院であればこそ仏門に入り在家の弟子となった川島芳子が、どうして千里はるばる国清寺へ来て、しかも毎年参観していたのか理解するのはそう難しいことではない。
検索
カテゴリーアーカイブ

川島芳子 [ 川島芳子 ]

価格:1,944円
(2015/10/30 15:54時点)
感想(0件)

清朝十四王女 川島芳子の生涯

価格:802円
(2015/10/30 15:55時点)
感想(0件)

ミュージカル 李香蘭 [ 野村玲子 ]

価格:5,205円
(2015/11/4 13:59時点)
感想(2件)

上戸彩/李香蘭

価格:6,264円
(2015/11/4 14:00時点)
感想(0件)

清朝の王女に生れて改版 [ 愛新覚羅顕キ ]

価格:864円
(2015/11/4 13:58時点)
感想(2件)

戦雲アジアの女王 【DVD】

価格:1,731円
(2015/11/4 18:05時点)
感想(0件)

×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。