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2015年10月30日

第六章第二節 逯興凱の川島芳子目撃証言

幾らかの準備をした後、二〇〇七年十月四日の国慶節ゴールデンウィークに、何景方ならびに段霊雲と張玉母子は自動車に乗り新立城の斉家村があったところを探しに向かった。車が長春市を出ると、何景方は運転手に新立城鎮政府の所在地に向かわせた。なぜなら彼はそこの地名が斉家村と言うことを知っていたので、それが当時の斉家屯であるかどうか、聞けばすぐにわかるからである。
車をドライブして長春市区から新立城鎮へ向かう片道あるいは二車道の一級道路上で、改革開放後の長春市近辺の変化がとても大きいことに感慨を禁じえなかった。
百年前、すなわち一九〇七年(光緒三三年)四月二十日、清光緒皇帝は命令を発布して、東北地方に奉天、吉林、黒龍江三省を設立し、「吉林省印」を鋳造させた。それにより、吉林省が正式に現在の中国の歴史的版図に出現した、しかし長春の歴史は吉林省の歴史よりさらに百年ほど早い。
清嘉慶五年五月戊戍(西暦一八〇〇年七月八日)清王朝は吉林将軍秀林の求めにより、まず蒙古の境界内に「借地統治」を決め、長春庁が成立し、理事通判衙門を設置した。
たいへん優雅で美しい名前―長春がここに伊通河畔に誕生した。長春庁の名称は長春から東に五キロ離れたところにあった長春堡に由来する。長春という名前の意味はこの吉祥を象徴する二字で、四季のなかでも春が長くあるように、生命が溢れ、万物が復興する春を待望する気持ちが詩的に表されている。
長春庁は最初は長春堡の伊通河東岸に建設された小さな町にあり、その名を新立城と呼んだ。長春庁の行政長官は理事通判で、巡検衙門はここで所属民の戸籍や訴訟や治安などの事務を扱った。
当時の長春庁の人口は一万人にも足らず、管轄範囲は、南は伊通河、北は吉家屯で南北の長さ百八十里、東は沐石河、西は彦吉魯山で、東西二十里、行政区分は懐恵、沐徳、撫安、恒裕の四郷であった。
長春庁遺跡は新立城(屯)小街南側に位置する。現在もとの位置に「長春庁衙門」が復元建設され、観光客の訪れる旅行スポットとなっている。
一八二五年、長春庁は開墾地区の不断の拡大に伴い、元の新立城の土地が交通不便で、行政区が南に偏って、地勢が比較的低地だったため、長春庁は衙署を寛城子に移動した。すなわち現在の長春市南関区一帯が、昔の都市の廃墟上の比較的住民が多かった地点で、人々が集中して住んでいた場所であった。長春庁が移動した場所は、現在の南関区四道街一帯であるが、そこに庁衙が修築され、周りにも街道、商店、作業場などが出現し、現在の長春市都市区の歴史的雛形となった。
それゆえ、新立城の成立の方が先で、長春市の成立の方が後なのであり、ただ歴史的な大きな変化により、今日の都市と農村の配置が形成されたのである。
我々の自動車は新立城鎮政府の所在地の道路西側の、新立城鎮斉家村民委員会の額が掛けられた建物の前に停車したが、ちょうど二人の農民がそこでお喋りしていた。段霊雲は車を降りなかったが、何景方と張玉の二人がそこへ近寄って尋ねた。
「すみません。お聞きしたいのですが、斉家村はむかし斉家屯と呼ばれていた場所ですか。」
土地の村民はとても親切で、我々が遠くから自動車で来たのを見て、詳しく我々に説明した。
「斉家屯は上斉家屯と下斉家屯に分かれておって、上斉家屯はこの道路の東側で、今の斉家村民委員会の所在地が下斉家屯じゃ。あんたら誰を探しに来なすったんじゃ?それとも何か他の用事かの?」
「ちょっとお尋ねしたいのですが、誰か三十年ほど前に、ここに住んでいた老夫婦を知りませんか。男の方は段連祥と言い、女の方は《方おばさん》と言うのですが。」
張玉はすぐに我々がここに来た来意を二人の村民に喋ってしまった。
ちょうどそこ西側の小道から一人の背の低い、三十過ぎの中年の男がやって来た。少し年長のほうの村民が彼を指差して我々に言った。
「あそこの逯家の次男に親爺のところに連れて行ってもらうがよかろう。あそこの親爺はここでも古くからおる村民で、解放前からここにおるから何でも知っとるよ。」
我々はこう聞いて、「ありがとう」と言って、すぐに振り向いて、逯家の次男を迎えた。逯家の次男も親切な人で、彼は自信たっぷりに我々に言った。
「おいらに出会えたのは丁度良かった。おいらの親爺はここらの生き字引じゃからの。おいらが連れてってやろう。」
そこで、何景方と張玉の二人は逯家の次男の来た方向に、彼に付いて行き、二回角を曲がると、一軒の普通の民家にたどり着いた。
「親爺!人が来たぞ。」
逯家の次男は家の戸を開けると、中に向かって一声かけた。
中に入って、左の方に曲がると、東向きの部屋から一人の六十歳過ぎの老人が出てきた。体はとても痩せ細っているが、大きな二つの目ははっきりしていた。老人は客人を部屋に招きいれると、逯家の次男が我々に代わって我々の訪問の目的を説明した。
老人はしばらく躊躇してから、こう説明した。
「わしは逯興凱、今年六十四歳で、この村に昔から住んでおる。この村は昔は斉家屯と呼ばれておった。公路の東側の集落が上斉家屯じゃ。二つの屯の三十年前の旧家はみなわしが知っておる。じゃが、あんたらの探しておる段連祥と方おばあさんというのは知らんの。」
逯興凱は一つ一つの家を数えるかのように、二つの村の旧家を説明した。当時、何景方と張玉の二人は互いに目線を交わし、二人とも心の中で、陳良の言った地名が間違っているのではないかと思っているようであった。この時に張玉はさらに逯興凱に、付近に十里堡という屯がないかどうか尋ねた。逯興凱はうなずいて答えた。
「ここから西に五、六里離れたところに、十里堡という屯があるが、やはり新立城鎮の管轄じゃ。」
これほど土地勘がある逯興凱が段連祥と方おばあさんの二人を知らないと言うからには、何景方と張玉は当時こう考えた。きっと陳良の勘違いだ、帰ってからもう一度陳良によく聞いてみよう。こうして、我々は逯興凱に別れを告げてから、成果を挙げることなく戻ってきた。
新立城から帰ってきた後に、何景方は方おばあさん(川島芳子)調査の結果を李剛に報告し、二人は調査中に何が間違っていたのかを分析した。まさか陳良が嘘をついて、段霊雲と張玉母子に話しを合わせて、故意にでっち上げているのでは?しかし我々は再び思い直した。陳良には嘘をつく必要が何もないと。もし彼が段連祥と方おばあさんと会ったことがないのなら、どうして段霊雲が説明した段連祥と方おばあさんが新立城にいた時期の経歴とこんなに符合するのか。そこで、二人は張玉に再び陳良に会ってよく確かめさせることに決定した。
張玉は疑惑を抱いて陳良の家に二回目の訪問をした。陳良は張玉が方おばあさんの旧宅を訪ねた結果を聞き、少し考えていった。
「わしは今年でもうすぐ七十歳になるが、まだ親爺の住んでおった土地を間違えるほど耄碌はしておらん。斉家村には逯という姓の家があるはずじゃ。お前さんたち、もう一度行って段連祥と方おばあさんの住んでいたところがわからなければ、わしの所に戻ってきなさい。わしが案内してやろう。」
張玉は陳良が確信を込めて話すので、それ以上何も尋ねなかった。張玉は帰ってきた後に、我々に説明して、陳良は我々がもう一度新立城へ行って、もし祖父と方おばあさんの住んでいた土地を探し出せなければ、また自分のところへ来るようにと言ったと報告した。
もう一度新立城に行くかどうかで、我々の間では当初意見の相違があった。何景方は言った。「逯さんはもう高齢だから、知っていて言わないなんてことはないだろう。それに彼は解放前から《文革》期間もずっとあそこに住んでいて、家を一つ一つ挙げることができるのに、段という姓の人間も方おばあさんという老婦人のことも言わなかった。もう一度行っても無駄だろう。」
李剛は話を続けて言った。
「逯興凱が事情を知っていて我々に言わない可能性もあるのではないか。我々と彼とは初対面でもあることだ。これには逯興凱に言えない事情があるのかもしれない。」
最後に、張玉が発言した。
「陳良さんがせっかく言ってくれたのだから、もう一度斉家村に行ってみて、無駄足でも確認してみましょう。」
我々は三人ともこのことについて心の中では確信が持てなかったが、ともかくもう一度新立城に行くほかはなさそうであった。
二日目に、張玉は朝早くに李剛の事務室を訪れて、部屋に入るなりこう尋ねた。
「誰か財布に三枚の五角コインを持ってないかしら。私、まず今日の出発がうまくいくかどうか占ってみたいの。」
何景方が財布から三枚の五角コインを取り出して張玉に手渡した。張玉はコインを両手で握って振り、繰り返して三回投げた。出たコインの裏表を記録して占ってみた結論は
「上上、大吉、今日は必ず成功する。」
李剛と何景方の二人は互いに見合わせて笑った。なぜなら二人はコイン占いなどというものを理解できなかったからで、ただ調子を合わせて
「そうなることを願うよ。順調に行けばいいな。」と言っただけだった。
今回は何景方と張玉の二人で行く二回目の新立城であった。
一〇三路線の公共バスに乗り斉家村のバス停で降り、何景方と張玉の二人は逯興凱の家に真っ直ぐ向かった。
逯興凱はどうやら我々が再び来ることを予想していたようで、我々に席を勧めると、疑惑の目線を向けて、我々を見ながら尋ねた。
「あんたらは何がしたいんだ?どうして段連祥と方おばあさんを探してるんだ。」
逯興凱の言葉に含みがあるのを聞いて、張玉はすぐに答えた。
「私は段連祥の孫娘です。私の祖父と方おばあさんが三十年前に昔新立城の斉家屯に住んでいたので、私たちは斉家村が当時の斉家屯かどうか知りたくて来たのです。もしそうなら、この二人をご存じないですか?」
逯興凱はこの時目が輝いて、張玉に向かってすぐに尋ねた。
「そういうと、あんたは段連祥があのころいつも連れてきていた孫娘の小波叨かい?」
張玉はこれを聞いて、逯興凱がすでに三十年も呼ぶ人がいなくなった自分の子供の頃の呼び名を口にしたのを見て、我々が事情を知る人を捜し当てたことを確信した。この逯興凱こそ祖父段連祥と方おばあさんがここに住んでいたことを知っている人のはずだ。
逯興凱はこの時に本当の事情を告白した。
「そういうことなら、本当のことを話そう。前に来たときに、段連祥と方おばあさんの二人がいるかどうか尋ねられたとき、わしは知っておったが、言わなかったのじゃ。わしはあんたらが何しに来たのか知らんかったし、知らない人に突然来られても、知ってることをなんでも話せるもんじゃないからの。わかってくれ。わしのとこの逯家はここの大地主じゃったが、土地改革のときに富農分子にされて、過去に何度も政治運動でひどくやられての。それじゃから、責任を問われるのを恐れて用心しておったのじゃ。もちろん今はもう前とは違って、罪を問われるようなことはないがの。じゃが、あんたらはこの二人のことを何の目的で聞くのじゃ。うちの家族に何か悪い影響がありやせんか。」
逯興凱のこの内心からの言葉は、我々が理解できるだけでなく興奮もさせた。興奮したのは、「あちこち探していたときは見つからないのに、探すのをやめたら見つかった」からである。意外にも段連祥と方おばあさんの新立城での生活の痕跡を、この逯興凱の所で答えを得ることができた。我々は張玉が祖父の段連祥と方おばあさんを回顧して本を書く準備していること、彼らが新立城で暮らしていたかどうかを確かめたいという思いを伝え、逯興凱に説明した。さらに彼に安心するように、絶対に家族に累を及ぼすようなことはないことを言い含めた。
そこで、逯興凱は彼の記憶を語り始めた。
「わしは段連祥をしっておるぞ。彼とわしの伯父于景泰は満州国警察学校の同窓生だった。」
段連祥と方おばあさんについて、逯興凱は言った。
「父の逯長站(一九八七年逝去)がこう話すのを聞いたことがある。解放前夜、だいたい一九四八年末から一九四九年初ごろ、わしはまだ幼い頃じゃった。ある日、わしの伯父の于景泰が段連祥と方おばあさんを連れてきて、もう一人男がおったが、名前は知らぬ、全部で三人の男が連れてきた。伯父の于景泰が、この三人が家に住みたいといっているが、どこか空いている部屋はないかと言った。当時、わしの親爺は伯父の面子を立てて、わしの大伯父(当時すでに逝去して、妻はほかに嫁いだ)が残した部屋に住ませる事にして、少し整理してそこに住まわせた。この家は部屋が三間あり、その他にも東西の小部屋と門に番小屋があり、門を閉じれば一戸の家になった。そのとき相談して、彼ら三人はこの家を借りることにした。しかし段連祥はわしの伯父の同窓生で、もう一人来たあの男は(背は高くなく、少し太っていて、金縁めがねで、少し威張っていた)、やはり伯父と段連祥の昔の警察学校の教官で、わしの父親もいくら長く住んでも金を幾らくれと要求するのも気が遅れていたようであった。」
「住居が決まったあと、方おばあさんは臨時にこのわしの家の小部屋に数日泊まり、あの教官が去って、残った段連祥と伯父の于景泰が部屋を片付けているうちに、天気が寒くなった。二年目の春になると、やはりあの四人、方おばあさん、于景泰、段連祥、それからあの教官が、馬車で大きな荷物や小さな荷物を車一杯運んできて、正式に修理したわしの大伯父の部屋に住むことになった。わしの親爺は二人の姉を連れて行き、彼らが住んでいる家の庭に各種の野菜やトウモロコシの種をまいた。」
逯興凱の印象では、段連祥は大柄で、少しやせており、白髪まざりであったが、意志が固そうな顔つきであった。方おばあさんは背丈は普通で、目が大きく、皮膚が白く、体型は普通で、とても綺麗好きでテキパキしており、北京なまりがあった。
逯興凱はこう紹介した。段連祥と方おばあさんが食していた米と小麦粉は、みな彼らが自分で買い、食べていた野菜は逯家の人間が手伝って家の前後の庭に植えた物で、火を焚くマキは逯家のものを使っていた。
解放初期、前世紀の五〇年代に段連祥はしばしば娘の段霊雲をここに残して方おばあさんのお供をさせていたが、段連祥の娘である段霊雲と逯興凱の年齢は近かったので、幼いとき二人はよく遊んでいた。
およそ一九五八年ころ農村に人民公社が成立する頃になると、段連祥は来なくなったが、逯興凱が伯父の于景泰から、段連祥は経歴の問題と「右派言論」で労働教育に送られたと説明するのを聞いた。それから《文革》前になると、逯家の者は再び段連祥が方おばあさんを探しに来るのを見た。この六、七年の期間は、ずっと于景泰が方おばあさんの生活の面倒を見ていた。当時、于景泰は逯家の小部屋に住んでいた。
一九六六年《文革》が始まったばかりの頃に、どういう原因か不明だが于景泰は捕まって連行され、旧満州国皇宮近くにあった長春監獄か収監所(長春市郊区公安分局の逮捕と聞いた)に入れられた。取調べが終わらないうちに、于景泰は収監先で死んでしまった。
前世紀の七〇年代初頭、段連祥はほとんど毎月のように方おばあさんのいるここへ二回ほど訪れ、外孫娘の「小波叨」を連れてきて「小波叨」を残して方おばあさんの供をさせた。およそ「四人組」が打倒された後の一九七八年のある日に、段連祥は陳連福という名の老人(新立城鎮十里堡住人)を連れて逯家に来て、逯興凱の父親に方おばあさんの住んでいた家を売買したいと言った。その時、逯家ははじめて方おばあさんが既に死んだということを知った。段連祥の仲介で、逯興凱の父親は方おばあさんが住んでいた家を陳連福に売り、当初部屋の値段は二百元と話していたが、陳連福は百五十元しか払わなかった。陳連福は数年も住まない内に、また部屋を同じ村の張某に売った。前世紀の八〇年代に新立鎮の道路拡張に伴い、方おばあさんが住んでいた部屋はちょうど道路に当たっていたので、政府の補償を受けて立ち退きになり、現在はもう跡形も残っていない。
逯興凱の証言は陳良の証言と基本的に一致している。我々は段連祥の臨終の遺言の真実性に確信を深めた。方おばあさんは新立城に来た時期は、解放前後の一九四八年末で、川島芳子が北平第一監獄から脱走した時期とも符合している。さらに段連祥と于景泰ならびに彼らの教官《老七》が一緒に付き添っていたことも、当時川島芳子と関係のあった者が北平から東北に逃げるのを助けたという伝聞を検証することになった。

第六章第一節 陳良の川島芳子目撃証言

段連祥は臨終での遺言の中で、川島芳子は一九四八年三月二十五日に北平で死刑から逃れ、《七哥》と于景泰による護送のもと、瀋陽を過ぎる途上で段連祥を探し出したと語った。彼ら三男一女は長春市郊外の新立城の農村にやって来た。川島芳子は対外的には方おばあさんと呼ばれていた。段霊雲は彼女を《方おばさん》(或いは《方ママ》)と呼んでいた。我々の調査は新立城に方おばあさんが実在したかどうかを確かめるところから始まった。
段霊雲の記憶の中の新立城は、張玉が一九六七年に生まれる前のことで、すでに四十年も過ぎていたので、彼女はただ次のことを覚えているだけであった。方おばあさんの家に行くには、バスに乗りまず胡家店という地点に行き、バスを降りて、さらに農家の馬車に乗り方おばあさんの家に行く。張玉が方おばあさんと別れたのは、まだ十一歳に満たないときで、すでに三十年が過ぎていたため、方おばあさんが新立城にいたころの記憶はかなり薄れていた。新立城(鎮)はさほど大きくはないが、数十平方キロの農村の範囲の中で、何の手がかりもない状況下では三十年前の方おばあさんの住んでいたところを探すのは、海で一本の針を探すくらい難しいことである。どうしたらいい?張玉は最初は自信たっぷりに言った。
「新立城(鎮)の範囲内で、あちこち聞きまわれば方おばあさんの手がかりが得られないとは思わない。」
段霊雲と張玉母子はかつて新立城で方おばあさんと一緒に暮らしたことがあるので、我々は必ず探し出せると自分たちを励ました。
我々は相談の結果、何の目的地なく新立城の区域を村から村へ探し回っても、苦労多くして効果少なしで、無駄が多いだけだ。段霊雲が新立城の方おばあさんの家に行くには胡家店を経由したと証言しているからには、先にそこをあたってまず胡家店で手がかりを探して見ようということになった。
調べてみると、長春市区から新立城(鎮)に向かう道沿いに胡家店と言う名前の地点は二箇所あり、一つは長春市区からさほど遠くないところにある胡家店で、十数年前には浄月潭公路の料金所の名前であった。もう一つの胡家店で新立城ダムを過ぎて、長春市から二十五キロほど離れた場所であった。段霊雲が言うには、記憶している方おばあさんの家はさほど離れてはおらず、長春市区からさほど遠くないということであった。そこで、我々は長春市区から出たばかりの所にある胡家店を訪ねてみることにした。
八月のある日、何景方ならびに段霊雲と張玉の母子は自動車で「胡家店」へ真っ直ぐ向かった。改革開放後に、長春市の都市区には大きな変化が起こっていた。長春市経済開発区が長春市の東南郊外に新しい町並みとして建設されていた。三十年前の以前の様子はもはや見る影もなくなっていた。窓から目に入るのは全て真っ直ぐな大きな道と両側に並び立つように立つ高層ビルであった。我々はあちこちと走り回った後に、もともと胡家店公路の料金所跡地で、かつて胡家店村民であった一人の清掃員から聞くと、かつての胡家店(屯)は、現在既に市経済開発区の新世紀広場にほとんどを占められ、残りの土地はすでに道路か高層ビルに占められているとのことであった。胡家店(屯)の以前の住民も計画された住宅地区に引越し、もともとの農家はみな無くなってしまっていた。それでも我々はあきらめられず、胡家店がもとあった地点を歩き回って見たが、ちょうど先ほどの五十歳くらいの清掃員が述べたように、家を探すどころか、手がかりを与えてくれそうな人までいなくなっていた。
数日してから、おそらく記憶がはっきりしていなかったか急いでいたためか、段霊雲は突然ある人物のことを思い出した。それは前世紀の五〇年代初めに、彼女が方おばあさんの家に住んでいた頃、陳連福という名の老人が、毎年息子の陳良と方おばあさんの家に鴨卵を持って来ていたというのである。現在、陳連福はとっくに世を去っていたが、その息子の陳良はまだ生存していた。陳良は数年前によく段霊雲が住んでいた団地に野菜を売りに来ており、段霊雲に家の住所を書き残していた。陳良という証人が見つかれば、我々の調査もなにか手がかりが見つかるかもしれない。何景方と張玉は陳良が段霊雲に書き残した住所をたよりに、陳良を訪ねることにした。

初秋、農村ではちょうど農産品の収穫の季節であった。長春市朝陽区永春鎮平安村窩瓜屯に住む陳良夫婦は、親切にも農家で取れた野菜で客人をもてなし、トウモロコシ、ジャガイモ、ナス、ネギの味噌漬け、新鮮なトマトなどで何景方と張玉の二人に農村風味の料理を振舞った。
陳良はいまだ七十歳に達していないが、歯は全て抜けて総入れ歯になっており、耳も遠くなっており補聴器を使って人と話をしなければならず、顔中に深く刻まれた皺が多年の苦労と風雪を物語っていた。しかし往時のことを話し出すと、彼は楽しそうに話し始め、声も弾んできた。段連祥と方おばあさんのことは彼の記憶に深く残っており、さっそく我々に証言を提供してくれた。
もともと、陳良の父親陳連福の祖先は山東省昌邑県で、幼いときに陳良の祖父に従って関東地方に移住し、長春市郊外の新立城の十里堡(屯)に落ち着いた。村の中で、陳連福も故郷の山東の習慣である鴨の養殖を学び、十里堡周辺の十里八村では鴨の養殖家で有名だった。
中華人民共和国になって初期のころ、陳連福から鴨卵を買う人が少なからずおり、その中に張玉の祖父である段連祥もいた。段連祥と方おばあさんは十里堡から五、六里はなれた斉家村に住んでいた。段連祥は鴨卵を買うときにはいつも一籠ごと買い、甕の中に塩漬けにして、方おばあさんに少しづつ食べさせていた。さらに陳連福と息子陳良は毎年端午の節句の前にいつも鴨卵を籠一杯にして方おばあさんの家に届けていた。長年そうしていたので、段連祥と陳連福は顔見知りになった。
今でも陳良がよく覚えているのは次のようなことである。段連祥は背が高く、少し白髪があり、体がやせており、なかなか男前で、話を聞くと学問があるようであった。陳良も父親の陳連福が段連祥は満州国時代に日本語通訳をしていたと話していたのを聞いたことがある。
毎回鴨卵を部屋に届けていたので、陳良は《方おばさん》の家と本人のこと良く覚えていた。方おばあさんと段連祥は独立した家に住み、部屋は三部屋あり、東西両側には小部屋があった。庭の門は黒漆の木の門で、門の両側には番小屋があった。庭には野菜が植えてあり、さらに鳩を飼っており、ウサギと小鳩のような鳥がいた。方おばあさんはとてもやせており、とても色白で、大きな目が炯炯と光っていた。格好をきめて小奇麗にしており、てきぱきしており、頭の上に曲げを結い、少しモダンな感じで、一目見て農村のおばあさんのようではなかった。部屋の中は比較的きれいにしており、屋内の配置も整っていた。大きなタンスがあり、タンスの上には大きなラジオと置時計が並べてあり、部屋の中には壁沿いに大きなテーブルと幾つかイスがあり、赤ペンキを塗った床板が敷いてあった。
前世紀の五〇年代後半には、農村では人民公社化が始まり、鴨の養殖も個人ではできなくなったので、陳連福と陳良親子は段連祥と《方おばさん》に鴨卵を届けることはしなくなった。しかし段連祥と陳良の父親の陳連福はその後も連絡を取り合っていた。文化大革命が終了してまもなく、方おばあさんが病気の期間には、陳良と父親の陳連福は見舞いにも行ったことがある。
方おばあさんが逝去した後に、段連祥が紹介人となって、大家に方おばあさんと彼が住んでいた部屋を陳連福に売った。陳良は当時の価格二百元で話をつけたが、父親の陳連福は大家に百五十元しか払わなかったことを覚えていた。陳連福が部屋を買い取った後に、家族は十里堡から斉家村に引っ越した。そのときは陳良も既に結婚しており、妻は実家で一人っ子であったので、陳良は妻方の実家に引っ越して落ち着き、それが現在彼が住んでいる場所―長春市朝陽区永春鎮平安村窩瓜屯である。
前世紀の八〇年代初め、新立城鎮は道路拡張計画により、陳連福の家はちょうどその立ち退き範囲に入っていた。陳連福はそれを聞いた後、前もって家を四百元で同じ村の張さんに売り、彼も陳良の現在住む家に引っ越してきた。一九九五年に陳連福は享年九十二歳で病逝した。
陳良家から帰って、我々はとてもほっとしたが、それは方おばあさんを知っており見たことのある人が段霊雲と張玉母子のほかに、陳良という第三者の証人として現れたからである。さらに陳良の証言を通じて方おばあさん(川島芳子)が新立城に住んでいたころの村の名前は斉家村(屯)であることがわかった。
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