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2015年10月30日

第三章第四節 川島芳子の写真

川島芳子が病死した後も、段連祥はその遺品を丁寧に保管していた。上述したように、我々は段連祥が臨終前に、箱に入っていた川島芳子の遺品の一部を孫娘の張玉に渡したことを紹介した。しかし段連祥が逝去して三年後に、家人は意外にも段連祥が丁寧に保管してきた物品を発見したが、ある物は川島芳子の遺品かどうかは不明であり、ある物は相当貴重な物的証拠であった。

発見の事情はこのようなものであった。段連祥が生前に住んでいたのは団地の2LDKの一室であったが、そこに孫の張継宏とそれぞれ一間を占めていた。彼の居室は門を入って左側に位置し、幅が一メートル近くある隔壁があり、それが窓のコーナーまで続いていたが、その壁に収納棚がおり、中には段連祥の衣服が入っていた。二〇〇四年段連祥が病逝した後、張継宏はずっと祖父の収納棚を動かすことはなかった。二〇〇七年国慶節の長期休暇の際に、張継宏は妻と相談の上、祖父の部屋の壁と収納棚を取り壊して、部屋の面積を広くすることにした。そこで祖父の衣服を整理して、収納棚を取り壊す準備をしていた際に、壁の中にさらに小さな収納棚があることに気がついた。そこを開けると長さ五十センチ、幅三十センチ、高さ二十センチの鉄製の黒色金庫が置かれており、箱の周囲には幾冊かの古本が置かれていた。張継宏は金庫を開けて箱の中に何か《宝物》があるか見ようとしたが、鍵がなかったので開けることができなかった。そこで彼は金庫と古本を隅に置いておき、母親と姉が四平に来たときに渡せるようにしておいた。

二〇〇七年十二月二十三日、張玉の母親段霊雲と父親の張連挙は二人で一緒に四平を訪問し、父親の段連祥の三周忌(二〇〇四年十二月二十四日〜二〇〇七年十二月二十四日)の線香を上げるためにやって来た。四平を離れるときに、張継宏は母親と父親に金庫とその周囲にあった古本を長春に持って帰らせた。張玉はそれを知るとすぐに、《秘密》を明らかにする有力な証拠があるのではと焦る気持ちを抑えて、すぐに工場で溶接工をしたことがある父親に金庫をこじ開けさせた。金庫を開けたときには、大きな音で警報ベルが鳴り響き、これには段連祥が川島芳子の遺品保管に細心の注意を払っていたことを感じさせた。金庫を開けると、中にはいろんな物品が詰め込まれており、張玉は一つ一つ手にとって調べ、それを表に記した。

これらの段連祥が臨終前に張玉に渡せなかった遺品の中には、川島芳子が残した唯一の老年時の写真があった。これは白黒の四寸画の写真で、次のような来歴があった。川島芳子が一九四八年三月二十五日死刑から逃れて、長春市郊外新立城に来た後に、名前を偽り、隠遁生活を送り写真を写すこともなかった。しかし、仏門に入る「帰依証」(居士証)を作成する際に、彼女は已むを得ず戦後唯一の写真(一寸画白黒写真)を撮った。川島芳子が病死した後に、段連祥は彼女の《帰依証》上の一寸白黒写真を取り、記念に残したが、《帰依証》は川島芳子の遺体と共に荼毘に付した。

一九八六年、張玉は高校を卒業すると、芸術美術大学を受験した。学校の要求により、美術専攻の学生は、一幅の油絵の作品を創作して提出しなければならなかった。この時に段連祥は突然、川島芳子の写真を拡大して記念として残すことを思いついた。彼は張玉に川島芳子の白黒写真を元にして方おばあさん(川島芳子)の肖像画を描かせた。そこで、張玉は入学試験のための作品を創作すると同時に、ついでに方おばあさんの白黒写真を元に油絵の肖像画を描いた。段連祥は肖像画をみると、絶賛して「似ている!よく似ている!」と言った。段連祥は張玉が描いたこの川島芳子の白黒の油絵を写真屋に持って行って写真を作成し、これまで封印されていた金庫の中にこの写真を保存していたのである。元になった川島芳子の一寸画の写真は段連祥が彼自身の仏門《帰依証》に挟んでいたので、彼が病逝した際に共に荼毘に付されてしまった。
川島芳子
その他に、段連祥が生前に次男の段続平に預けて保管させていた、方おばあさん(川島芳子)が新立城生活時期に使用していた手回式の蓄音機も張玉が丁寧に保管することになった。

第三章第三節 川島芳子を匿った段連祥

段連祥の経歴から見て、一九三四年五月から一九三五年一月までに、彼が瀋陽虎石台協和学院実習科で日本語を勉強していたのは、彼が十六歳から十七歳のときで、今の我々で言えば高校生に相当する。当時、川島芳子はちょうど満州国安国軍司令であり、威勢良く名声も轟いていた時期であった。段連祥は完全に日本殖民当局の意志で運営された学校で、この名声赫々たる「金璧輝司令」に対し、噂を耳にしただけでなく、彼が臨終の際に張玉に語ったように、川島芳子に対して好奇心と羨望を抱き、川島芳子のファンとなり、一九三七年以後には、天津東興楼へまで追いかけて行って川島芳子と相知ったのである。
段連祥が日本語に精通しており、彼が川島芳子に日本語で手紙を書けたことは、半日本人とでもいえる川島芳子と交流するための重要条件であった。
段連祥は川島芳子より十二歳若く、この年齢差は二〇世紀三〇年代に川島芳子の秘書であった小方八郎の年齢と比較的近く、これも川島芳子が男性の伴侶を選ぶときの心理特性と符合する。
 小方八郎は中年の川島芳子にたいへん忠実であったが、段連祥も老年に入ろうとしている川島芳子にたいへん忠実に仕えた。川島芳子が新立城で生活した三十年の期間中に、《七哥》と于景泰の世話を受けたこともあるが、彼ら二人から世話を受けた期間は短く、どちらも途中で離れてしまった。于景泰は一九六六年《文革》が開始したころ原因不明の死を遂げ、《七哥》秀竹は于景泰の死後まもなく、雲南にいる老母の世話をすると故郷に帰って以来、音信普通になってしまった。しかし、段連祥は川島芳子に対し最後まで仕えた。そのほか、彼と川島芳子は夫婦のように装い、自己を完全に川島芳子に捧げたのである。彼は自分の養女とした段霊雲を川島芳子の養女とし、段霊雲から言えば《方ママ》は彼女の第二の母親であった。段連祥の孫娘張玉からすれば、方おばあさんは彼女の第二のおばあさんであった。段連祥から祖孫三代に渡り川島芳子の余生に付き添い、川島芳子の三十年にわたる孤独と寂寞を慰めたのである。段連祥のあり方は、死中に一生を得て、意気消沈していた川島芳子にとって大きな心の支えになったに違いない。もし日本にいる小方八郎がこのことを知れば、自分が付き添えなかったことを悔いていただろう。
段連祥の臨終の遺言によれば、彼は一九四八年末に川島芳子の救助に参加し長春市郊外新立城へ落ち着かせた。その時から、川島芳子を世話して付き添うことが段連祥の生活において一つの責任となった。段連祥は新中国成立後の一九五〇年、瀋陽鉄路局蘇家屯駅で新たに仕事に参加し、機関車修理溶接工と検車員を務めた。一九五一年には四平鉄車輌場の検車員に転属された。「粛反運動」「三反五反運動」「反右派闘争」など政治運動の中で、段連祥は逃亡変節などの経歴上の問題を組織に知られたが、彼には何の処分もなされなかった。しかし、一九五八年の「大鳴大放」運動において、段連祥は多くの「不満言論」をなした。当時の状況下で、段連祥は経歴と現行の問題により、四平鉄路車輌場の公職を追放され、輝南県杉松岡鎮に送られて労働教育を受け、一九六五年になり労働教育から解かれ、四平の家に戻り、七年にわたり隔絶された川島芳子との連絡を取り戻した。しかし、川島芳子は段連祥が労働教育を受けたときも、彼女の新立城での生活に影響を受けることはなかった。
一九七八年初頭に、川島芳子は病気で逝去した。彼女がこの世に別れを告げたときに、唯一彼女のそばで看取ることができたのは、彼女の親戚ではなく、親戚よりも親しくしていた段連祥であった。こうして段連祥は川島芳子の世話と最期を看取るという責任を果たし終えたのである。

第三章第二節 段連祥の経歴ファイル

段霊雲と張玉母子の段連祥の家系と人生経歴の紹介は、我々が段連祥を理解するために一つの参考としたに過ぎない。段連祥が歴史上川島芳子と交流があった可能性を示す証拠を探すため、また段連祥が川島芳子の逃亡を幇助するのに主要な役割を果たしたことを示す根拠を探すため、我々は段連祥の個人ファイルを調査する必要があった。
段連祥は最後に四平巻きタバコ工場を退職しているので、普通であれば段連祥の個人ファイルは当該工場に保管されてあるはずであった。
しかし、現実はこちらの期待に反し、李剛・何景方・張玉の三人が四平巻きタバコ工場を訪問して、段連祥の経歴ファイルを見た際には大いに失望させられることとなった。段連祥の人事経歴ファイルの袋の中には、ただ四枚の給料調整の為に記された登記表だけで、少なくとも記録としてあるはずの職工経歴の登記表も何もなかった。我々はただ以下の記録を得ただけであった。
「段連祥、男、一九一八年生まれ、一九七二年就職、一九八二年退職、二〇〇四年十二月二十四日病逝。」
我々は戻ってから、段連祥の経歴ファイルの問題について、分析と推測を進めた。我々が理解できたのは次のような点である。段連祥が四平巻きタバコ工場で仕事をしたのは、彼が四平鉄路車検場で公職を剥奪され、輝南県松岡鎮での労働教育が満期になり四平に戻った後であり、まず四平巻きタバコ工場で臨時雇いとなり、後に政策転換により工場の正式な職工となったため、彼の個人経歴ファイルは労働教育部門から送られてこなかった可能性が高い。我々はこの推理に従って、李剛が以前に吉林省政法部門で仕事をした事があるので、我々はそのコネを使い司法系統から段連祥の経歴ファイルの行方を探すこととした。
その筋からの情報で次のようなことがわかった。一九五八年吉林省労働教育総隊が吉林省輝南県の杉松岡鎮に設けられ、《文革》後に双陽区土頂鎮(現在の長春亜泰セメント工場所在地)に移り、一九八〇年に新しく成立した長春市北郊労働教育所に帰属した。北郊労働教育所は一九八七年監獄に改造され、もともとの労働教育人員ファイルは、全部吉林省労働局九台労働教育所に移された。そこで、我々は段連祥の経歴ファイルは、少なくとも労働教育ファイルがあるはずで、それは長春北郊監獄ではなくきっと九台労働教育所(住所は九台市龍家堡鎮)にあるはずだと考えた。そこで、長春北郊監獄事務室の同志と吉林省九台労働教育所でファイルを管理している同志の手を煩わせてまる一週間の時間をかけて探したが、我々が探している段連祥の「経歴ファイル」は、ついに見つからなかった。
こうして我々は出発点に戻って調査を再開することにした。張玉は我々が段連祥の経歴ファイルを探している事を母親の段霊雲に告げた。段連祥が一九五八年労働教育を受けた際、全ての手続きを当時まだ十五歳に満たなかった段霊雲が行ったからである。そこで、段霊雲の予想では段連祥のもともとの経歴ファイルは四平鉄路検車場にそのままあるのではないかということであった。
まず穏当な手段をとり、張玉が四平鉄路検車場に向かうこととした。ちょうど、張玉の伯父(張連金)の長女張秀艶の伯父に当たる李海平が四平鉄路検車場で働いており、しかも調度室主任であった。そこで李海平の協力を得て調査することになり、検車場でファイルを管理している同志の答えでは、段連祥のファイルは検車場にあり、我々が組織の手続きを通せば閲覧できるとの事であった。この意外な発見は、我々を大いに喜ばせた。そこで第二日目の朝早くに、何景方は紹介状を持って汽車に乗り込み四平に向かい、張玉と合流して、四平鉄路検車場の書類室で「除名、死亡」ファイルの棚から、多年にわたり封印された、番号「一〇一」の段連祥のファイルを見つけ出した。幸いなことに、国家鉄路系統の規定では、人事ファイルの保管期限が百年となっていた。それで段連祥は四平鉄路検車場から解雇されて五十年近くが経っており、その人事ファイルはすでに廃棄ファイルに分類されていたが、当該検車場は鉄路系統の規定を厳格に守り、ファイルは完全に保管されていたのであった。
我々は段連祥の経歴ファイルを真剣に調査し、さらに段霊雲と張玉母子の語る状況を参考にして、我々は段連祥の人となりについてはっきりした客観的理解を得ることができた。
段連祥のファイルの記載から見て、以下の重要な事実を確定することができた。
第一に、一九三四年五月から一九三五年一月、段連祥が奉天(瀋陽)虎石台協和学院日本語実習科で九ヶ月勉強し、彼の日本語の基礎を据えたこと。しかしこの学歴について少し説明が必要なのは、段連祥が一九五一年瀋陽蘇家屯鉄路検車場で検車員となっていた期間に、乗務中に勝手に仕事場から離れ、労働規律に違反したため、免職となり、その後に四平鉄路車両場で溶接工に配属され、後に再び検車員の職務に復帰していることである。この期間に、彼は職場組織に経歴と自己紹介の材料を提供しているが、どちらにも奉天虎石台協和学院日本語実習科で学んだという学歴は書かれていない。段連祥は一九五六年三月十五日の第一次自白書で次のように告白している。
「私が過去に履歴に書いた、瀋陽県立初級中学を卒業して直接鉄路に入ったというのは嘘で、私は奉天日本語協和学院専門科を卒業し、満鉄の仕事に配属になった。いわゆる専門科というのは外国語(日本語)を学び、鉄路(満鉄)の為に専門の技術人材を育成するところである。段連祥は奉天日本語協和学院専門科を卒業後に、満鉄奉天鉄路局皇姑屯検車場に配属された。その後に西安(遼源)検車場に転勤になり、前後して雇用員・検車員および技術員などの職を担当した。」
段連祥は自白書の中でこの学歴を隠した原因を語ってはいないが、我々の分析では、彼のこの時期の経歴は次のことを説明しているだろう。彼は伯父の于徳海の関係を通じて、満鉄総裁松岡洋右の関係により虎石台日本語協和学院に入学した。さらに松岡洋右との関係により、彼は協和学院卒業後に満鉄に就職した。松岡洋右と川島芳子は親しくしていたから、これで段連祥と川島芳子の距離が近づき、後に彼が川島芳子と接触し知り合う基礎となった。段連祥がこの期間の歴史を隠した目的は、彼と川島芳子のいかなる関係をも隠蔽しようとしたからではないか。
第二に、一九三五年一月から一九四二年九月まで、八年近くもの期間にわたり、段連祥は前後して、奉天(瀋陽)皇姑屯、西安(遼源)検車場で検車員となり、その間には吉林(市)鉄路局講習所で半年勉強している。この八年間はちょうど段連祥が十七歳から二十四歳の青年時代に当たる。ファイルは個人が書くので、段連祥は自分が日本語通訳を勤めた経歴を書かなかった。しかし、否定できないのは段連祥は日本統治下の満鉄で仕事をしたということだ。段連祥がかつて生前に張玉に語ったところでは、彼は満鉄で毎月の給料が六十大洋(中華民国時の貨幣単位)で、当時二大洋で一袋の小麦粉が買えたということからすると、この収入は高給取りに属する。一九三五年から一九四〇年、段連祥はまだ独身で自由であったが、一九四〇年に彼は妻の庄桂賢と結婚した。段霊雲の紹介によれば、彼女の「母親」庄桂賢の実家は西安(遼源)で有名な金持ちで、段連祥はこの時期に、生活が比較的裕福であったし、彼が満鉄で汽車に乗るには便利で、さらに松岡洋右の恩恵を受けて、恩に報いたいという思いがあり、段連祥は天津の東興楼で自分の憧れであった川島芳子を追っかけたというのは完全にありうることである。
第三に、一九四五年一月から八月、段連祥はかつて満州国吉林省第三国立警察学校に入学し、警尉候補生となっている。この期間の経歴は、段連祥が満鉄で問題を起こして進路変更した経歴である。本来であれば、段連祥は一九三七年二月十日から八月十日まで満鉄の当局者から吉林(市)鉄路局講習所に送られて半年学習したが、これは十九歳の若い段連祥から言って、業務上における特別なエリート訓練であった。彼は鉄路講習所から西安(遼源)検車場に戻った後、既に従業員の身分で、業務上は検車員と技術員を兼ね、検車業務訓練の講師でもあった。彼はこの当時たいへん前途ある青年であったといえよう。しかし、こうして五年ほど仕事をした後に、一九四二年九月四日の日に、段連祥が忙しく仕事をしていると、西安(遼源)駅の連結員、貨車清掃員、電気工事士と警備員が彼を誘って、合計五人で汽車にあった九包(箱)の巻きタバコを盗んで分配し、その結果日本人に見つかってしまった。日本鉄路警護隊は段連祥ら五人を捕え、西安(遼源)地方裁判所に送り、それぞれ懲役一年の判決を受けて、一九四三年九月二十四日に釈放された。(訳者註:後の調査によれば段連祥はこの時期に満鉄調査部で通訳をしており、満鉄調査部事件の影響で逮捕されたことが判明した。)
一九四五年一月、満州国警務局は満州国の範囲内で警尉候補生を募集し、合わせて募集応募人数は千五百名であった。全東北には四つの国立警察学校が設立され、それぞれ設置されたのは、新京(長春)、奉天(瀋陽)、吉林(市)、ハルピンであった。無職になり家で一年余り暇を託った段連祥は吉林(市)第三国立警察学校に入学した。当該警察学校は四平地方警察学校の校舎を借用していたので、第三国立警察学校は実際には四平に設置されていた。吉林警察学校には百五十六名の学生がおり、三つの班に別れ、学期は一年であった。しかし段連祥が実際に学んだのは八ヶ月と十日で、日本が投降したため、警察学校もこれにより解散となったのである。
段連祥のこの時期の経歴は、たったの半年あまりの時間ではあったが、我々が思うに、これも段連祥が満州国時代により深い社会関係を築いた期間であった。彼は一度の過失により、満鉄の良い仕事の職場と発展の機会を失ったが、彼はそれにより人生をあきらめてしまったわけではなく、警察学校募集の機会が到来した際に、二十七歳の段連祥からすれば年齢がやや高かったものの、彼は機会を掴んでコネを通じて警察学校に合格したのである。もし満州国がこんなに早く滅亡しなければ、彼は「権勢のある」満州国の警察官となっていたであろう。警察学校で勉強していた期間には、先生や同級生との関係ネットワークを築き、これも後に彼が川島芳子を助けて長春市郊外新立城で匿う準備となる条件となった。
第四に、段連祥は日本が投降し、警察学校が解散し、瀋陽蒲河の実家に戻って暇をもてあまして数ヵ月後に、一九四六年一月、同郷人を通じて、共産党八路軍駐鉄嶺の二四旅七一団一営で供給員であった徐永保(徐純恒)の紹介で、共産党軍に参加し、二四旅七一団一営の衛生員・事務員などの職に就いた。その後に、彼と徐永保、欒祥茂、候振福、葉成文などと共に、共産党軍での規律の厳しい生活に不満を抱いて、気の合う仲間で小団体を結成し、前後して二回にわたり秘密に会を開き、機会を見つけて国民党軍に寝返った。一九四六年四月、共産党軍が移動撤退し梨樹県陳大煙筒屯で宿営した時に、徐永保を首謀として、欒祥茂、段連祥、候連祥、葉成文など五人で共産党軍の馬車一両を引き、馬車に歩兵銃、ピストル、手榴弾、投擲弾など各種の弾薬を若干載せて脱走した。段連祥本人はさらに三八式騎馬銃を一丁持ち、鉄嶺、開原、法庫、昌図四県の地図を各一枚、共産党軍の人員・馬・武器・弾薬統計表を一枚、彼の所在一営人員の名簿一冊と幾らかの宣伝資料を持ち出した。彼らは叛乱して共産党軍から脱走した後、馬車に乗って二、三日走り、西安(遼源)に赴いて国民党の二〇七師六二〇団に投降した。彼らは国民党軍に共産党軍の活動状況を報告したのみならず、部隊番号、戦略戦術および部隊編成など軍事秘密を教え、さらに共産党軍のことを「匪賊」とか「貧乏猪八戒」などと罵った。段連祥は二〇七師六二〇団の二営営部で上士事務官となった。一九四七年三月、国民党二〇七師は共産党軍に敗北離散し、段連祥は瀋陽蒲河の実家に逃げ帰った。
段連祥が共産党軍に参加した後に脱走して国民党軍に投降したしたことについて、共産党軍四一五二部隊長梅明善同志は一九五六年に証明書を書いて、彼が指導したこの部隊の状況を紹介しており、その中から段連祥たちの当時の状況を詳しく知ることができる。
「我軍駐鉄嶺二四旅七一団一営部隊は日本投降後に組織され、組織された当時にはまだ共産党の幹部指導者がいなかったため、撫順炭鉱工人と当地の群集、および抗戦時期に関内で共産党軍に参加し、苦しい戦闘生活と困難に耐え切れずに東北に逃げて仕事をしていた者、これらのものが我軍の状況を理解し、日本投降後に、彼らにより組織された支部隊である。まもなく(一九四五年十二月)組織は私をこの支部隊の指導者として派遣した。私が赴いたときには四連隊で六百数人がいた。これらの支部隊成員は、鉱工、特務、警察などで、純粋な農民はほとんどいないかとても少なかった。後ほど、彼らは我軍の規律が厳格で、生活が不自由なので、少数の人員が逃亡した。後に三個連隊に編成した。まもなく、国民党軍が東北に侵攻し、我部隊は北に向けて撤退し、北に撤退する際に多くのものが逃亡し、武器も持ち去ってしまった。あるときには全班が逃亡したり、大勢の幹部例えば副営長、副政教、連隊長などが逃亡した。当部隊が四平に撤退したとき(これは第一回目の戦闘による)、上級幹部はこの支部隊がもし本部隊と合流しなければ、数日後には殆どの人が逃亡して武器も持ち去ってしまうと考えた。以後(一九四六年春)に本部隊に合流した。ともかくこの部隊を編成した兵の素質が悪く、そのため逃亡が非常に多かった。」
段連祥が一九四七年三月に家に帰った後は、しばらく巻きタバコを売ったり、鉄道関係で仕事を探そうとしたが、どれもうまくいかなかった。一九四八年六月、彼は瀋陽で彼がよく知る国民党の新しく整理編成された二〇七師団に参加し、当該師団一旅一団二営で上士文官、軍需などの職務に就いた。一九四八年十一月遼瀋戦役が終わると、段連祥が所属していた国民党二〇七師は消滅し、彼はまた家に逃げ帰った。
段連祥のこの時期の経歴については、粛反運動中に四平鉄路車輌場がすでにその結論を下しているので、我々はこれを評論しない。しかし説明できることは、解放戦争時期に、戦乱の中で、段連祥は生活の糧を得るために、かれは三度兵士となり、第一回目は共産党の指導する八路軍に参加したが、それはただ盲目的なもので、同郷のものに連れられて行っただけだったので、わずか三ヶ月たらずで、段連祥は人民軍の規律の厳格や、生活の困難、武器装備の欠乏などの客観的条件に適応できず、敵前逃亡の危険を冒して敵に投降した。第二回目に入隊した際には、段連祥が共産党軍から離反して、国民党の部隊に寝返ったときである。段連祥がこのときに敵に投降したのは、同郷の徐永保に誘われたからだとしても、なぜ国民党二〇七師が共産党軍に打ち負かされ、段連祥が一年あまり職業を探した後、一九四八年六月に国民党の大勢がすでに定まり、失敗が目に見えている形勢下で、段連祥は第三回目も国民党の軍隊に入隊することを選んだのか。結果として五ヶ月も経たないうちに、東北は全土が共産党軍により解放されたのであるが。我々が思うに、段連祥の学識と三十歳の人生経歴から考えて、彼はまったく判断能力がなかったというわけではあるまい。しかし彼の人生の分かれ道での選択からして、また彼の思想傾向、生活方式と人との交流から見て、これらはみな国民党の二〇七師団と大きな関係があるようだ。
段連祥が敵に投降して変節し、二回国民党の軍隊に参加した経歴について、彼は生前に養女の段霊雲には真相を話したことはなかった。以前に段霊雲が我々に父親段連祥のこの時期の経歴を紹介した時には、父親がかつて彼女に次のように述べたと語った。彼が八路軍の隊伍にいた際に、ある日の夜に行軍し、彼が便を足す場所を探していたために軍からはぐれてしまい、隊伍を追っかけていると、国民党軍隊の巡邏隊に捕まってしまい、やむなく国民党の軍隊に参加した。後に張玉が母親の段霊雲にファイルの中にあった記載を紹介し、祖父の段連祥が投降して変節した真相と彼が二回も国民党の軍隊に参加した事実を知ると、段霊雲は父親の家系についての記憶から、自分の推測を語ってくれた。
一九四〇年九月、第二次世界大戦を引き起こしたヒットラーのドイツは、空軍を使って大規模に英国のロンドンとその他の工業都市を爆撃し始めた。段連祥の伯父于徳海がロンドンで開いていた幾つかの店舗も破壊され、さらに不幸なことに、彼の英国の妻子であるジェニーと息子のアンリもみな空襲で亡くなった。于徳海はそのために再び英国に戻ることはなかった。一九四〇年十月于徳海は瀋陽で二十二歳の段連祥のために婚礼を執り行った。一九四一年、段連祥と新婚したばかりの妻庄桂賢は遼源(当時は西安と呼んだ)の岳父の家に住んだ。段連祥の岳父は姓を秦(妻の庄桂賢は幼いときに母親が再婚したが、自分の姓を変えなかった)といい、遼源でも一番の裕福な家で、邸宅と土地があるだけでなく、家のそばの街路沿いには幾つかの店舗も有していた。満州国での日本統治下では、こうした郷紳は一方では日本人に協力し、同時に社会上の様々な派閥の人間と交流をする体面を重んじる人物であり、こうした人たちの中には、日本人に協力して漢奸となったものもおれば、国民党の地下工作員となったものもいた。
一九四一年太平洋戦争が勃発した後、日本が東南アジア各国と太平洋諸島への侵略を拡大すると、段連祥の岳父の邸宅と街路沿いの店舗はすべて日本関東軍に徴用された。しかし、段連祥は日本語に精通していたため、秦家に駐屯した日本軍の人員と仲良くなり、徐々に日本人の信頼を得た。一九四五年一月、段連祥の満州警察学校入学は、彼の遼源の岳父の家に居住していた期間に日本人と密接な交友をしていたことと直接関係している。
一九四五年八月十五日に日本軍の敗北により「光復」すると、日本人が去った後に、まもなく今度は国民党がやって来て、やはり段連祥の岳父の邸宅に目を付け、国民党の遼源(県)党本部として使った。段連祥は日本人と交流した経験から、国民党の兵士たちとの関係をつけるのも自然と容易いことであった。段連祥が共産党八路軍を離反し、遼源に駐在していた国民党軍隊二〇七師団に投降し、さらに段連祥が当該師団の営部で上士文官と配属されたのも、彼と国民党の人士の交流があったことと関係があるだろう。段連祥が二回目に国民党二〇七師団に参加し、共産党軍に打ち負かされた後、瀋陽で再び新しく編成しなおされると、自然に段連祥を知る者が多いので、再び彼を呼び戻したのである。当然、前提条件はやはり段連祥本人がそれを望んだからでもある。

第三章第一節 段連祥の経歴

段連祥は、川島芳子が一九四八年三月二十五日に死刑を逃れた後に、長春市郊外新立城に逃亡し落ち着くまでの主要な幇助者の一人で、また解放後には川島芳子と夫妻の形式で共に生活し、忠実に川島芳子が一九七八年に死去するまで付き添い、三十年間の長きに渡る唯一の当事者であるが、そこで次のような質問が避けて通れないだろう。「すなわち段連祥とはいったい何者か?」という問である。歴史上彼と川島芳子にはどんな関係があったのか?彼の話は信頼性があるのかどうか?
これは我々が川島芳子生死の謎を調査するのにまず先にはっきりさせておくべき問題であった。
段連祥の唯一の娘である段霊雲と段連祥の最愛の孫娘張玉は、段連祥の生前に、多年にわたる言語交流と共同生活を通じて、段連祥の家系の歴史と個人の経歴について以下のように理解していた。
段連祥は一九一八年の馬年生まれで、遼寧省瀋陽市蒲河郷人、漢族である。父親は農民で土地を耕して生計を立て、経済的には自給自足であった。母親の于氏は、母方の実家が満州族正黄旗人、その祖先は清王朝で関外皇陵で陵墓を見張る正黄旗武官の出身である。段連祥の伯父は于徳海といい、清朝末年に乾清宮で「御前宮廷侍従」官を務め、宮中でよく王侯大臣たちが朝廷で国事を談ずるのを見ていた。こうして于徳海は川島芳子の生父粛親王善耆を知っただけでなく、彼と親密に往来するようになり、またある時には粛親王善耆は朝廷への建議書を、于徳海に彼の代わりに提出するよう託すこともあった。于徳海はしばしば北京郊外に新しく落成した粛王府で客となり、さらに善耆と義兄弟の契りを結んだ川島芳子の養父で日本人の大陸浪人川島浪速に出会った。
于徳海は非常に聡明な人間で、もはや清王朝の運命がそう長くはないことを見て取ると、早めに家産を売り払い、長年の貯蓄をすべて持ち出して、すべてを英国のスタンダード・チャータード銀行に預けた。一九一一年の辛亥革命により清王朝が滅亡した後、于徳海は素早く英国に赴き、英国の首都ロンドンで幾つかの宝石店を開設した。一九二〇年に于徳海は帰国して親戚に会い、子供がいなかったので、姉の三男に当たる、当時二歳の段連祥を養子として英国に連れ帰った。この時、前清朝の粛親王善耆はちょうど東北の旅順で逃亡生活を送っており、于徳海も善耆に会いに行った。旅順の粛王府で、于徳海は早くより善耆の《義兄弟》となっていた川島浪速と出会い、そこで川島浪速とも親密な関係を築き、しばしば手紙を遣り取りするようになった。
当時、善耆と川島浪速はともに于徳海を才人と認め、彼にも日本人のために働くよう紹介したが、于徳海は日本人が善耆を支持して行っている満蒙独立を胡散臭く思っていたため、英国に商売があるので暇がないと言い訳をして婉曲に断った。
一九三二年、満州国が成立した後に、于徳海が瀋陽に親戚に会うため帰った際に、ある会社の成立式典で、当時の満鉄副総裁であった松岡洋右(一九三五年満鉄総裁)に会い、両者は自然と自分の古い知己である粛親王善耆と川島浪速の話となり、関係はより一層近づいた。松岡洋右の勧誘により、于徳海は英国の大部分の資金を満鉄に投資し、さらに于徳海は松岡洋右の推薦で、満州重工業開発株式会社の顧問に就任した。
于徳海は満州国成立後に、すすんで満鉄に投資し、日本人に手を貸したのは、彼が日本がすでに中国東北に足場を固め、前清王朝の遜帝溥儀も日本人により担ぎ出され、この前清王朝の遺老にあたる彼も、大清王朝の復活の希望を夢見たからであろう。そこで彼は英国のいくつかの宝石店舗を彼の英国人妻ジェニーの管理に任せ、彼自身は主要な精力を満州への投資事業に当てることになった。彼の英国人妻ジェニーはもともと于徳海の養子となった段連祥の家庭教師であった。一九二四年に段連祥が六歳のときに于徳海とジェニーは結婚し、一年後にジェニーは男の子のアンリを産んだ。七歳の段連祥は自分に弟ができたことを知り、また自己が疎まれるようになったと感じ、かつての家庭教師で、いまは継母となったジェニーから疎遠に振舞うようになった。于徳海はそれを知ると、段連祥を国に連れて帰り、また彼を瀋陽蒲河の姉の家に戻した。段連祥に国内で比較的良い成長の環境を与えるため、于徳海は瀋陽の皇姑屯に姉一家のために比較的広々とした新しい邸宅を買い与え、さらに段連祥に十分な学費を与えた。段連祥は伯父の于徳海の資金援助により、小学校を卒業し、また中学校で学んだ。段連祥が中学を卒業した後、于徳海は松岡洋右の日本との関係を通じて、段連祥を瀋陽虎石台日本語学校に入れて日本語を専門に学ばせた。一年後に卒業すると、于徳海は再び松岡洋右との関係を通じて、段連祥を満鉄の皇姑屯駅で検車員としたが、実際の主要な仕事は日本人の通訳であり、後には四平鉄路局の日本警察局長専門の通訳となり、月給は六十大洋(中華民国の貨幣単位)で当時としては大変な高給取りであった。
段連祥は小さい頃から伯父であり養父でもある于徳海との関係を通じて、川島芳子の父親の世代の人たちの恩恵を受けてきた。それで、段連祥が成人した後に、こうした経歴を理解して、彼は内心からの川島芳子の父親たちへの感謝の気持ちを、川島芳子の身上にすべて集中して注いだのである。こうして、我々は段連祥が男装の麗人金璧輝司令を敬慕し、憧れを抱いて、わざわざ遠くの東北から天津東興楼に川島芳子の容姿を一目見るためにやって来て、さらに川島芳子が危機に遭遇して彼に頼ったときにも、段連祥は危険を顧みずに、川島芳子救助に参加したこれらの行動も、理解しがたいことではないのである。
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