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2016年08月18日

補足7:中国中央テレビ「川島芳子死亡調査」


2016年8月17日ー19日に中国中央テレビ科学教育チャンネルCCTV−10の「探索・発見」という番組で、「川島芳子死亡調査」と題して3回にわたり川島芳子の生存説が紹介された。川島芳子の生存説は中国でも民放でこれまで何度も放送されてきたが、今回の放送は中央テレビでしかも教育チャンネルでの有名な番組での紹介とあって反響が大きい。

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基本的な内容は李剛/何景方著『川島芳子 生死の謎』にある内容に沿って紹介されており、アニメや切り絵などを使用した場面説明なども入りかなりまじめに制作されている様子が伺える。すでに川島芳子が処刑を替え玉を使って逃れ、方おばさんと名乗って長春で1978年まで生存していたことが中国で発表されてからかなりの年数がたっていることから、今までの番組のようにセンセーショナルな描かれ方はされなくなったが、手堅く長春での川島芳子生存説の調査を再現する番組であった。

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方おばさんと名前を変えて中国の田舎に身を隠していた川島芳子の遺品の一つが蓄音機だが、これはスイス製の高級機で上海のマフィアのボスであった杜月笙の旧宅に今も飾ってある蓄音機と同じメーカーである。川島芳子の自伝によれば誘拐されたロシア人を救出しに杜月笙の家に乗り込んだそうだから、その二人が同メーカーの蓄音機を持っていたというのは興味深い。
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李香蘭・川島芳子・白光という3人の美女と関係が深かったのが、日本の陸軍で宣伝映画を制作していた山家亨だ。川島芳子の初恋の相手で、後に李香蘭をスカウトして映画スターとしてデビューさせている。川島芳子は山家亨と李香蘭の男女の仲を疑って李香蘭に喧嘩を吹っかけたことがあった。やはり中国人の映画スターだった白光は山家亨と同棲していたが、山家亨を追っかけて日本にまで探しに来るほどだった。戦後に山家亨は李香蘭に子供の世話を託した後に逃亡先で死体となって見つかっている。山家亨の死体は愛人との心中自殺として処理されたが、実際には他殺の可能性が高いというから美女の嫉妬は恐ろしい。

2016年05月08日

補足6:フランス人記者の証言


フランス人記者であるロジェ・ファリゴとレミ・クーファーによる中国の諜報機関を扱った"The Chinese Secret Service"という本の中でも川島芳子の生存説について取り上げられている。この書は黄昭堂訳で『中国諜報機関』1990年光文社出版と日本語訳があるのだが、この日本語版は一部しか翻訳されていない抄訳でちょうど川島芳子生存説の部分は抜け落ちているため、全体を知りたい人は英語版あるいはフランス語版を参照してほしい。

著者のフランス人記者であるロジェ・ファリゴとレミ・クーファーはフリー・ジャーナリストを名乗っているが、その著作がほとんどスパイ物という経歴から見ると、記者というのは表向きの身分で本当はフランス情報機関の人間である可能性が高い。

フランス人記者2人によるこの書は主に康生という毛沢東の時代の中国情報機関のボスの伝記を中心に書かれている。この康生という男は中国特務機関のボスとして麻薬取引や文化大革命を背後から指揮し恐れられた人物である。元女優の江青を毛沢東に近づけて篭絡し、背後から毛沢東を操ろうとしたのも康生であった。

この書の中では川島芳子が次のように紹介されている。「中国の“マタ・ハリ”。満州国で生まれ、日本人により育てられた。土肥原大佐の情報機関のために働いた。中国のラスト・エンペラーを日本の支持の下で満州国の皇帝にしようとした。数多くの情報工作に関わったが、康生のためにも動いたとされている。国民党により捕縛され北京で銃殺されたが、今なお北京で生きているという説もある。」

ここで注目したいのは、川島芳子が北京で生きているという説をフランス人記者が耳にしていることである。これは川島芳子が長春の郊外で方おばあさんと名乗り暮らしていたという話とは矛盾しない。なぜなら方おばあさんが長春にいたのは夏の数カ月だけで、そのほかの時期には各地の工作拠点に出没していたからである。方おばあさんはしばしば北京で元首相の息子であった西園寺公一を訪問していたという情報がある。そもそも西園寺公一が民間大使として中国に派遣されたのは、1957年に溥傑の長女の慧生が表向きは恋人との心中自殺という名目で殺害され川島芳子を日本の皇室との秘密外交に使えなくなったためである。

さらにフランス人記者は中国共産党の情報機関のボスであった康生と川島芳子が協力関係にあったとほのめかしている。では康生と川島芳子とは具体的にどのような関係にあったのであろうか。本文の別の部分を読むと、康生は1930年代にモスクワから中国に戻ると満州国皇帝溥儀の統治下にあった中国東北地方の情報活動を始めた。そこで溥儀の宮廷で料理人をしていたある男から情報を得て、その男を通じて川島芳子とも連絡を取っていたというのである。大変にグルメであった康生は満州国崩壊後に溥儀の宮廷でコックをしていたこの男を雇い入れて自分専属の料理人とした。後に康生亡き後このコックはケ小平によって暗殺されたそうだ。ともかく川島芳子が康生を通じて中国共産党と連絡があったというのは注目すべき情報である。

2016年02月29日

補足5:川島芳子と戦後に会った阿尾博政氏

阿尾博政著『自衛隊秘密諜報機関ー青桐の戦士と呼ばれて』には阿尾氏が戦後に古谷多津夫氏の自宅で白髪の老婦人を見かけ、それが誰か尋ねると川島芳子だと告げられたという証言が載せられている。

古谷多津夫とは、戦時中、上海におけるスパイ組織である「南城機関」の機関長をしていた人物である。古谷は三十歳にならずして同機関の機関長となり、日本人、フランス人、インド人、ロシア人、中国人など約八百四十名のスパイを自らの指揮下に置いていた。そして、彼らを上海から広東省までの華南一帯に展開し、国民党、共産党への熾烈な特務戦をおこなってきた人物である。南城機関は日本海軍第三艦隊司令部付兼上海在勤海軍武官府付の特務機関であった。

この当時の上海は〈東洋の魔都〉と呼ばれ、世界四十八カ国および中国国内の各勢力が、生死を賭した諜報戦を展開していた。当然のことながら、諜報の一手段としてテロが横行した。古谷は戦後も内閣調査室の顧問として、日本の各諜報機関の現場において神様≠ニ評価されていた。古谷は、アメリカの安全保障に緊要な地域である極東の日韓台の情報網の中で、優れて信用された人物だった。

戦後に川島芳子が日本に潜入していたのは某財団関係者によれば1955年前後であるから、阿尾博政氏が古谷多津夫の自宅で川島芳子を目撃したのもこのころになろう。戦時中に上海で海軍のスパイをしていた児玉誉士夫や、児玉を海軍に紹介した笹川良一などとも関係があったことは想像に難くない。

阿尾博政氏と川島芳子のつながりはもう一つある。それは阿尾氏が佐郷屋留雄の書生をしていたことだ。佐郷屋留雄は1930年に首相の浜口雄幸を東京駅で銃撃して暗殺した右翼のテロリストである。佐郷屋が犯行に使用したピストルはもともとは川島芳子が所蔵していたピストルであった。

元はというと、このピストルは張作霖の部下であった張宗昌という男が川島芳子の弟である愛新覚羅・憲開の殺害に使用したピストルであった。川島芳子は死んだ弟の形見の品としてピストルを譲り受けたのだった。

川島家に出入りしていた右翼活動家の岩田愛之助は川島芳子に結婚を迫り、川島芳子はそれを拒否してこのピストルで自分の胸を打ち自殺未遂を引き起こしている。そしてこのピストルはなぜかこの岩田愛之助の手に渡る。そして岩田愛之助が子分の佐郷屋留雄にピストルを渡して浜口雄幸首相を襲撃させたのであった。しかも佐郷屋は小学校までの幼少時代を中国の吉林省で過ごしているから、その当時の中国東北地方の軍閥だった張作霖のことは知っていただろうし中国語も話せた可能性が高い。

佐郷屋の家で書生をしていた阿尾博政氏が川島芳子に出会うというのは、こうして見ると決して偶然ではないことがわかるだろう。阿尾氏が古谷や佐郷屋といった極めて川島芳子に関係の深い人脈と状況に身を置いていたことが読み取れるのである。阿尾氏は佐郷屋のタンスにはいつも多額の現金が収められていたのを目撃している。つまり佐郷屋は自分の意志で浜口首相を暗殺したのではなく、誰かの指示と出獄後の生活の保障を受けて浜口首相を暗殺したのであろう。彼ら玄洋社系の右翼には香港のユダヤ系財閥の金銭的援助があったという黒い噂もある。

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2015年12月26日

補足4:川島芳子晩年の写真が公開

1948年に処刑されたはずの川島芳子は金の延べ棒で替え玉を使って処刑を逃れ、中国の長春で「方おばあさん」と名乗って身を隠して生きていたと証言した張玉さんが新たな証拠品を公開した。それは「方おばあさん」の晩年の写真で、方おばあさんの遺品のマッチ箱の中から新たに発見されたという。長春の地元紙「城市晩報」が2015年1月に報道して、最近になってテレビ番組でも取り上げられたという。私が知人から聞いたところでは、報道では写真が新たに発見されたということになっているが、実際にはこれまで当局から公開の許可がおりず非公開だったものが許可が下りて公開となったというのが真相らしい。
以下がその新たに公開されたという「方おばあさん」の写真だ。

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この写真はたいへんに保存状態が悪く、一見して川島芳子かどうか素人目には見分けがつかない。そこでテレビでは鑑定として生前の川島芳子の写真とこの写真を左右半分ずつ重ねた映像が流されていた。

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写真鑑定の専門家によると、両者の髪の生え際から目の位置や鼻の位置や口の位置が完全に一致するため両者は同一人物の写真であるという。すなわちこの写真で「方おばあさん」が川島芳子であるということが証明されたわけである。

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このようにどの川島芳子の写真と重ねても角度を補正すれば左右共に基本的に一致するので、この張玉さんが公開した写真は川島芳子と同一人物の写真であるとの鑑定結果が出ていた。これで決定的な根拠が待たれてきた川島芳子生存説にまた一つ強力な科学的証拠が提示された。将来的にはさらなる証拠が公開されることもあり得るということなので楽しみである。

2015年12月21日

補足3:白光の証言

白光は李香蘭らと共に日中戦争期に活躍した中国人の映画スターで歌手である。東京女子大学へ留学経験があり日本語ができるため日本軍の宣伝映画などに出演していたこともある。川島芳子の初恋の相手で李香蘭を歌手としてスカウトした日本陸軍の山家亨と同棲生活を送っていたこともある。また中国国民党のスパイの親分だった戴笠とも愛人関係にあったようなので、美貌を利用した二重スパイの役割を果たしたのであろう。

彼女が台湾を訪問した際に蒋勲という人からインタビューを受けた記事が『雄獅美術月刊』1978年5月号第87期という中国語の雑誌に掲載されているそうだ。その記事が2011年に舞台で演じられた白光の一生を描いた劇「如果没有你」のパンフレットに再録されている。下はそのパンフレットだ。

白光白光2

この記事の中で白光は1947年に川島芳子に出会ったと述べている。白光によれば川島芳子は死刑を替え玉ですり替えて死刑を逃れて、ソ連と米国からの依頼で外モンゴルの独立運動に関して情報活動を行っていたという。この記事が正しいとすると川島芳子の処刑は公式には1948年3月だから、すでに1947年の時点で川島芳子が監獄から外に出されて身代わりとすり替えられていたことになる。

また川島芳子の替え玉がソ連と米国の働きかけによるものであったとすれば、川島芳子の死体の撮影を許されたのが米国人記者だけであったことも納得がいく。米国人記者の報道は川島芳子を逃がすためのオトリ報道だったのである。ソ連と米国はヤルタ会談で外モンゴルを中国とソ連の緩衝地帯として独立させることで密約があったようだ。川島芳子はモンゴル人のカンジュルジャップと結婚し、モンゴルで一時期生活したことがあるためモンゴルに人脈があり何らかの情報活動に携わるのに便利な存在だったのだろう。

なぜ米国が川島芳子を助けたかというと、東京裁判で日本の戦犯に不利な証言をした田中隆吉は、以前の恋人であった川島芳子を助けようとマッカーサーに川島芳子が隠し持っていた清朝の財宝の一部を贈ったという。その中でも特に値打ちがあったのが赤い琥珀で、元は西太后の持ち物だったが溥儀により川島芳子に贈られた大変に珍しいものであった。これらの清朝財宝により買収されたマッカーサーの指示もあり、米国が川島芳子の救出に関ったという話がある。


以下は原文の中国語
2011年云门演出编舞家林怀民的舞作《如果没有你》的节目单转载1978年5月第87期《雄狮美术月刊》美学家张勋访问白光的文章《向生命投降-访白光》有一段川岛芳子的事。
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「打不打算写一点回忆录之类的东西?」我想应该结束这次访问了,就转入这个话题。
「我自己的?」她说:「没有。我在写一个朋友的故事。我最好的一个女朋友。她在日本侵华计划下,从小被训练成一个情报员,给日本军阀工作,然后卷入中国抗战时几个不同政治组织的斗争中,然后抗日战争胜利了,她以战犯的名义被捕,报上大登特登:XXXX被枪毙。可是他并没有死,美国人花了六根金条买了一个不知名的女人,拉到刑场上代替她就枪毙掉了。她又继续被美国人利用做间谍。我最后一次见她是1947年,美国人送她去外蒙古,准备做控制外蒙的前锋。」她听了一下又说:「这就是人,你认识她,你才知道她其实多么简单,善良,应该是一个普普通通的女人,可是她的一生给几个政治组织在做贱。现在,不知道她还在不在。」
「好像是川岛芳子的故事。」我说。
「就是她。我最好的一个朋友。」
「她太出名了。」我说:「我倒在想那个不知名的女人,给人用六根金条买了。拉到刑场无声无息的就枪毙了。她不应该向生命投降,如果生命是这样子。她应该站起来,用拳头把这样的生命砸的粉碎。」

2015年10月11日

補足2:「川島芳子は戦後笹川良一と会っていた」(『歴史通』2012年7月号)

(以下雑誌『歴史通』ワック出版2012年7月号より一部転載)

相馬 清朝最後の皇帝であり、かつ満州国皇帝愛新覚羅溥儀研究の第一人者である吉林省社会科学院研究員の王慶祥さんが川島芳子生存説を研究しています。私が「川島芳子が北京で処刑されずに、本当に長春で生きていたと思いますか」と尋ねますと、「最初は八〇パーセントくらいかと思っていたが、その後、多数の証拠が出てきて、いまでは一〇〇パーセント生存していたと思っていますよ」ということでした。

野崎 張玉さんの手元には「方おばあさん」の遺品がいくつもあります。@方おばあさんが模写した浮世絵。原画は落合芳幾(歌川国芳門下で月岡芳年と兄弟弟子)という画家のものですが、模写した絵柄には「川島芳子」を暗示するところがある。芳幾と芳子をかけたものと思われるのです。Aフランス製高級双眼鏡。日本の高級軍人しか持てなかったろうと思われる品物で、HKというイニシャルが彫られている。これは金壁輝という川島芳子の中国名と一致する。B七宝焼きの獅子像。底の封蝋を取り去ると、四言詩を記した紙片が出て来た。「芳魂西去、至未帰来、含悲九泉、古今奇才」という詩句は芳子を詠ったものと思われる。C高級蓄音機と李香蘭のレコード。川島芳子は李香蘭こと山口淑子と親しかった。D浙江省の天台山国清寺にある遺骨には「方覚香居士」と書かれ、愛新覚羅を連想させる。また、国清寺を管轄する公安局に勤めていた老人は、日中国交正常化前にこの寺で方おばあさんが日本人と秘密裏に接触していたと証言しているのです。

相馬 王慶さんは、戦後も川島芳子が生きていたことを裏付けるかなり重要な証拠を発掘していますね。芳子の親戚にあたる愛新覚羅徳崇・遼寧省満州族経済発展協会副会長に二〇〇八年九月に会い、「私は一九五五年の冬に川島芳子に会った」という証言を得ています。「瀋陽の家に訪ねてきた女性を、家の人は璧輝さんと呼び、満州語と日本語を交えて話していました。十七歳だった姉は『璧輝さんは多芸多才で、代わりに死んでくれる人までいるのよ』と言った」。また、一九四八年に処刑が決まっていた芳子を助けたのは瀋陽の満州族の知り合いたちで、金の延べ板百枚を調達して国民党政府の要路にある幹部に渡した、ともね。

野崎 方おばあさんの面倒を見てきた段連さんも、母親が清朝の貴族である満州族の出身で、先祖は清朝初代皇帝の太祖、愛新覚羅ヌルハチの陵墓を守る正黄旗武官の血統だったと、王さんは言っていますね。

相馬 秀竹という、処刑のときに芳子を直接助けた人物も、実に不思議ですね。満州国四平警察学校で段連の教官だったというけれど、それだけならなぜそんなに川島芳子に肩入れするのかわからない。日本人なのかなと思ったら違って、中国語がペラペラだし、中国大陸に残って、国民党とも共産党とも通じていて、後の文化大革命のときはさっさと逃げて浙江省の天台山国清寺に籠ってしまう。きわめて政治的な、謎の人物です。愛新覚羅家の出ではないかともいわれてますが……。

野崎 愛新覚羅家の侍従だった人の手記を見ると、「秀」というのは溥儀が親戚に与えた名前だったようですね。召使には「謝」という字を与えて、「謝徳」などという名前にした。甥には「秀岩」とつけている。そのことからすると、秀竹も愛新覚羅家の背景があった人ではないか。段連が秀竹に会うときは満州族に特有のお辞儀をしていたという証言があります。なおかつ七叔という愛称で呼ばれていた。他に七叔と呼ばれていた人物に溥儀のおじさんで載濤という人がいますが、この人は満州国時代に日本軍に協力することを拒みまして、共産党につき、中華人民共和国成立後も解放軍の顧問になっている。この人だったら、川島芳子を助けるにも好都合だったろうと思えます。中国人は誰でもそうですが、一つの勢力だけにつかないで、どこが勝っても家が生き残れるようにしますので、愛新覚羅家も各勢力に分散してついていたのではないか。秀竹は共産党についた愛新覚羅家の一員ということではないでしょうか。

相馬 毛沢東夫人・江青の愛人といわれたの康生の伝記に、川島芳子の弟の憲東さんも満州国の重要な職務にあってなおかつ共産党に通じていた、共産党地下支部の重要な人物だったという話がある。共産党もいろんな秘密ネットワークを張り巡らしていたんですね。周恩来も国民党幹部の秘書に自分の部下を送り込んでいたり。

野崎 最近中国で憲東さんの伝記が出ました。それによると、共産党との接触は日本の中学校に留学していたときからで、満州国軍時代も加藤惟孝という戦前は北京の日本語学校で教え、戦後には東京教育大学教授になった人を介してコミンテルンとつながっていた。加藤さんの周りには中江兆民の息子の中江丑吉や鈴江言一などの左翼人士がいて、こういう人たちとずっとつながりをもっていた。
また中国に胡鄂公という孫文時代の革命家がいて、この人は中国共産党の情報部の責任者もやっているし、そのあと共産党を脱けて国民党の顧問もやっている、毛沢東とか蔣介石より一つ上の世代で、日本ともいろいろ交渉している。この人が川島芳子の救出にかかわっている可能性がある。川島芳子の裁判記録に、芳子の所持品として、最後の日に救出するから待っていなさいという手紙が残っているんですけど、差出人の署名が「古月山人」で、「古月」が胡鄂公の「胡」に通じるんじゃないか。三方面に顔がきく重量級の人物でしたから。裁判記録は三通残っているんですが、一つは北京、一つは台湾にあり、香港でも影印版が出版されています。

相馬 古月山人の手紙では、川島芳子を大恩人と呼び、福星という人物に会ってくれ、そうしないとあなたを助けたくても助けられないと書かれています。この恩というのはどういうことか……。

野崎 具体的にはわからないのですが、川島芳子が、日本軍に捕まっていた人を助けたという話は結構たくさんありまして、長春で調べたときも、自分のおじいさんが七三一部隊に捕まりそうになったとき川島芳子が口をきいて助けてくれたという人がいましたし、孫科も蔣介石から狙われたときに川島芳子に泣きついて広東に逃がしてもらって命拾いしたし、蔣介石自身も、アメリカの顧問のスティルウェルと衝突して暗殺されかかったときに川島芳子が知らせて助けたということがあって、そういう背景が芳子の救出の背後にあったのではないかと思われるんですね。

相馬 古月山人と福星というのは秀竹と丁景泰のことではないかという臆測もあって、いろんな人間が結びついてくる。一九四八年の川島芳子処刑前夜は、中華民国副総統の選挙があったんです。蔣介石は立法院長だった(孫文の子)を推薦した。しかし蔣介石のライバルの李宗仁という人が出馬する。この人は当時北京の軍長でして、孫科と川島芳子の間にかつて関係があったと匂わせてスキャンダルを広め、自分が副総統になろうとしたのです。そのために川島芳子の逮捕と処刑があったのではないかという裏側が最近明らかになっています。川島芳子の裁判がラジオで生中継されていたのに、芳子が証言中に孫科の名前を出したら急に放送が中断してしまったというのです。孫科にとっても蔣介石にとっても川島芳子はいろんなことを知っていて扱いにくい存在だったのではないか、いろんな貸し借りがあったのかなと思いますね。

野崎 蔣介石は自分が受けた一杯の水の恩は泉にして返すというモットーをもっていまして、関東軍参謀だった辻政信がタイで終戦を迎えたときに、敵であるはずの蔣介石の特務部隊の藍衣社が匿った。それは辻が蔣介石の母親の墓をきれいにしてあげた、その恩があったから助けたのです。戦後、辻は周恩来と何度も会い、川島芳子とも会ったという話もあります。この人もかかわっていたのかもしれない。

相馬 戴笠という国民党の軍事委員会調査統計局(軍統)という情報機関のスパイマスターが、芳子に恩があったので助けたという説もありますね。戴笠が馬漢三という部下に預けた愛新覚羅家に伝わる名宝九龍宝剣を馬が私物化した。それが田中隆吉(上海日本公使館付武官として芳子と関係を結んだ)を経て芳子のもとにあったのを、終戦後、北平行営軍警督察処長になった馬が芳子を逮捕させて奪い返し、隠した。戴笠に訊問されたときに芳子がそのことを明かしたので、戴笠は九龍宝剣を取り戻し、その見返りに芳子の命を救ったというのです。

野崎 九龍宝剣は清の乾隆帝の財宝で、手にした者に不幸と流血をもたらす呪いがかけられているといわれますが、東陵という清朝の墓から国民党四十一軍長の孫殿英が盗み出したものです。清朝末期に愛新覚羅家は財宝を各地に隠すんですね。香港、イギリス、スイスとかの銀行も使うんですが、その財産の取り合いが川島芳子救出の背景に見え隠れする。救出のために金塊を百本とか百五十本用意したという話もその一つです。愛新覚羅家の財宝のかなりの部分が満州銀行の地下金庫にあって、それを日本軍が飛行機で日本に持ち出した。皇帝がやがて日本に来たら返しますと言ったのですが、溥儀はソ連に捕まって、その金は吉田茂や岸信介が使ったという話もあります。愛新覚羅家が日本政府に返還を求めようとしたが、その矢先、愛新覚羅溥傑(溥儀の弟)・浩夫妻の娘の慧生さんの心中事件(天城山心中)が起きる。これも、愛新覚羅家の財産をめぐる争いの中で自殺に見せかけて殺されたのではないかという疑いもある。

相馬 愛新覚羅家、清朝の財宝はどのくらいあったのかについては、中国ではどういわれていますか。

野崎 『紫禁城の黄昏』でジョンストン(溥儀の英国人家庭教師)が「価値がつけられないほどの宝物」と書いていますね。もちろん散佚したものもあったでしょうが、英国や日本の銀行に預けたものが相当あったのではないですか。川島芳子の実の親の粛親王家の財産は芳子を養女にした川島浪速が使ってしまったんですね。そのことを粛親王側が日本の軍部に訴えたとき、調停したのが国粋大衆党総裁だった笹川良一なんです。その時以来、笹川良一は愛新覚羅家の財産にかかわっているとか。

相馬 国民党が台湾に持って行ったということは?

野崎 台湾の故宮博物館には国民党が持って行った財宝がたくさんありますね。国民党について行った愛新覚羅家の人間もいて、それの子孫がいま馬英九総統の側近になっている金溥聡という人です。いまの国民党のナンバースリーくらいですね。国民党秘書長で馬英九の選挙参謀をしました。愛新覚羅家は国民党の側にも支援をしていたんですね。

相馬 野崎さんが長春で、川島芳子は生きていたという話をしたときに執拗な妨害を受けたというのも、台湾の国民党が糸を引いているんですね。芳子生存説については、台湾の国民党当局はやっきになって否定するのですが、それは当時の法務当局による身代わり処刑という遵法意識の欠如があからさまになるのを嫌うというより、「国民党によるスリーパー工作が白日のもとにさらされることのほうを恐れているのではないか」と王慶さんは言います。王さんによれば、国民党が川島芳子を生かした目的は、スリーパー(長期間普通の生活をしながら命令を待つスパイ)として利用するためで、「国民党が大陸に復帰後、彼女の名声や人脈、組織力、血筋などを利用する目的があったと考えると納得がいく」としています。

野崎 馬英九さんの母方の祖父が一九三〇年代、国民党の軍統だったんです。戴笠が率いていた、つまり金塊をもらって芳子を逃がした組織の、上海のトップだった。そして今の選挙参謀は愛新覚羅家の人間です。金塊をもらった側とやった側がいま台湾のナンバーワンとナンバースリーなんですね。川島芳子の救出劇の人脈が現在の台湾政府にダイレクトにつながっているわけです。

相馬 台湾側は川島芳子は処刑したと言って証拠を出してきているのですが、本当に処刑されたのかどうかというと、処刑の三日後くらいにはもう北京で替え玉説が新聞に出ているわけですからね。そのバックには国民党の裁判関係者がいたと思います。とくに孫科には力があって、一人の処刑を封じ込めるくらいのことはできたと思います。そこへまた共産党の特務が出て来て、川島芳子が生きているのを知っていて利用しようとしたんじゃないか。彼女を守るため共産党の周保中将軍とか、郭沫若とか、仏教協会の趙僕初とかさまざまな人間が裏で動いていたということです。日本でも笹川良一さんとか軍部関係とかが生存にかかわって、戦後に日本で川島芳子を見たという話もあります。

野崎 趙樸初仏教協会会長は何回も、たとえば原水爆禁止大会とかで日本に来ておられる。一九五七年の第三回世界原水爆禁止大会の中国代表は蔡廷鍇という人ですが、これは上海事変の中国軍(第十九路軍)の軍長なんです。副団長が趙樸初さん。そこになぜか上海事変の日本軍の師団長、植田謙吉大将が来ていて、数十年ぶりに対面して平和を誓ったのですが、実は上海事変は川島芳子が起こしたわけですね。田中隆吉が用意した金を使って、わざと反日的中国人に日本人僧侶を襲わせて事変のきっかけを作り、上海に注目を集めておいてその隙に満州国をつくったわけですから、この出会いは興味深いめぐりあわせです。

相馬 その原水爆禁止大会に川島芳子が通訳に身をやつして中国代表団に加わっていたんですね。そして笹川良一に会い、日中国交正常化への協力を依頼した。その後も趙さんの来日の折りや、日本の天台宗訪中団が国清寺を訪問した折りに伝言を託すなどして連絡を取り続けた。笹川良一は反共の立場をとりつつも、一九七二年の日中国交正常化以後は競艇収益金の一部で中国を支援し、医学研修生の受け入れなどをすることになります。趙樸初さんはその後も日中間を往復し、鑑真和上入寂千二百周年の記念行事を日中合同で催すよう働きかけ、八〇年には唐招提寺の鑑真像を中国で展示する事業を果たしました。日本仏教会は八一年に「仏教伝道功労賞」「日本仏教大学名誉博士号」を趙樸初さんに授与しました。これらの行事が日中国交正常化交渉に貢献したのは間違いありませんね。田中角栄が一九七二年に周恩来に会ったとき、「浙江省の国清寺は最澄大師が仏教を学んだり、鑑真和上が滞在するなど、日本との結びつきが深い。しかし最近では荒廃が進んでいると聞きました。日中国交回復のシンボルとしても、国清寺を建て直してほしいのです」と言ったのも、日中正常化に芳子がからんでいたことを示すものとして暗示的です。

野崎 今年は日中国交回復四十周年で、相馬さんの著書で川島芳子が国交回復にかかわっていたと書かれたのが衝撃的でした。

相馬 その背後には周恩来がいたわけです。芳子の救出には国民党や愛新覚羅家や日本人など様々な人々が動いていましたが、当時中国共産党社会部長でいわばスパイの頭目だった周恩来もそれらの動きを知って、芳子を利用しようと考えたはずです。
一九五九年、藤山愛一郎外相が北京で周恩来総理に会見したとき、藤山外相は「川島芳子は生きているというウワサですが、本当ですか?」と尋ねた。すると周恩来は「そんなことは話せませんよ」と言いながら、胸のあたりまで両手を持ち上げて○(マル)の形を示したということです。生存を暗にほのめかしたわけです。周恩来は国父と呼ばれて人格者のようにいわれていますけれど、共産主義者として共産党のためなら何でもする冷たい面があって、ダライ・ラマも「毛沢東はお父さんのような感じだが周恩来は腹黒く冷徹で怖かった」と一九五〇年代に述懐しています。芳子を生かしておいて国交回復に利用しようと考えるのも当然だったでしょう。

野崎 周恩来のほかに、郭沫若も関わっていました。郭は九州大学医学部出身で、日本の看護婦と結婚した日本通でしたから、芳子とも早くからつながりがあった。日本では文学者として有名ですが、政治家として顔の広い人で、蔣介石とも毛沢東や周恩来とも近く、一九四九年の中華人民共和国成立後は中国科学院長などの役職につきました。一九二八年に蔣介石と衝突して日本に逃げたのですが、そのとき日本の警察の追及から逃れて住む場所などを世話したのが村松梢風です。村松は川島芳子をモデルにした『男装の麗人』を書いた作家ですね。郭は日本亡命中は政治から離れて中国古代史研究に没頭するのですが、それは表向きで、裏では周恩来から特命を与えられていたという研究が最近中国で発表されています。こうした人脈が後の日中国交正常化にもつながっていきますね。芳子は関東軍と関係が深かったので、戦後の日中関係で重要な軍人ルートにもつながります。関東軍の遠藤三郎中将は戦後、「日中友好元軍人の会」をつくって、周恩来とも何度も会い、「赤の将軍」と呼ばれましたが、やはり周恩来に川島芳子が生きていると聞かされたというウワサもあります。

相馬 芳子というのはよくわからない人ですよね。清朝の粛親王を親に持ち、国民党の孫科や蔣介石とも親しい。昭和十六年に「重慶の蔣介石に会いに行って日中戦争を終わらせよう」と笹川良一に書いた手紙が残っています。なおかつ共産党とも親しい。彼女は自分では日本のスパイとは思っていなかったのですね。清のため、中国のために戦っているのであって、そのためには国民党でも共産党でも日本軍でも利用してやるということだったのでしょう。

野崎 溥儀を、愛新覚羅家を守らなければという使命感があったんですね。それが第一で、溥儀が日本と関係がいいときは日本のために働き、溥儀がソ連に捕まると、共産党を助けるのが溥儀の生存にもつながるということになる。世界の「生存説」には川島芳子の他にロシアのアナスタシア皇女、そしてヒトラーの話があって、ヒトラーについては昨年英国で『ヒトラーの逃亡』という本が出ました。ベルリンで死んだのは替え玉で、アルゼンチンに逃げていたというものです。この三つの話には共通点があって、それはソ連が絡んでいるということです。川島芳子の場合も、処刑のときにソ連が飛行機を二機、待機させていた。だからソ連側へ逃げたのではないかという説もある。そして、ソ連軍内にイギリス情報部の人間が入っていて、記者の格好をしていた。川島芳子の処刑のときは中国人記者は現場から締め出されて外国人記者二人だけが入れたのですが、その記者がどうも情報部の人間だったという話がある。当時イギリスは愛新覚羅家に関心をもっていたんですね。ジョンストンを家庭教師に送りこんで情報を取ったり、溥儀も最初はイギリス大使館に逃げ込もうとしてダメだったので日本大使館に入ったわけですが、その後もイギリスとは関係が深い。イギリスは独自の外交政策をもっていまして、一九五〇年に早くも中華人民共和国を承認しているんですね。中国は香港には手を付けない、かわりに共産党政権を認めましょうというバーター取引です。

相馬 ソ連は溥儀を逮捕して中国側に引き渡したわけで、もともとソ連共産党と中国共産党のつながりがある。また、満州国の財政はほとんどアヘンで賄われていたといわれるくらいですが、コミンテルンや共産党も上海あたりでアヘンをさばいていたでしょうし、延安の共産党根拠地には板塀で囲って厳重に警備され、一般党員が入れないところがあって、そこでアヘンを栽培していた。雲南でも国民党も共産党もアヘンを作っていたということで、川島芳子もそれに関して利用しようということもあったのではないでしょうか。佐野眞一さんの本に、満州国の「阿片王」といわれた里見甫と川島芳子が親しかったと書かれていますね。里見は日本の敗戦で芳子が国民党政府によって漢奸として銃殺されるのを予期して、旧知の古川禅師という坊さんに遺体引き取りなどの後事を託していました。芳子も裏でなにをやっていたかわかりません。満州国の黒幕といわれてやはり阿片ビジネスのリーダーだった甘粕正彦からも軍資金の援助を受けていた。使う額が、月に一万円とか二万円とかで、いまの一千万から二千万ですよ、それを平気で一か月で使ってしまう。なぜこんなことができるのか。型破りな人ですよ。甘粕は求められればいくらでも資金を出したので、二人は「特別な関係」だとウワサも立ったようです。甘粕は芳子を嫌っていたといわれますけれど。共産党としては満州国のアヘンの栽培地、精製工場、貯蔵倉庫などの場所を聞き出すだけでも芳子の利用価値があったでしょう。香港で麻薬の売買をするのにも、里見や甘粕と縁があった芳子がいれば麻薬組織との交渉もやりやすかったはずです。

野崎 川島芳子を共産党側で救った一人とされている周保中も、吉林省主席だったのが、朝鮮戦争が始まると雲南に行くんですね。この人は金日成と親しくて、長春解放のときに金日成からずいぶん物資援助を受けた。今度は金日成がピンチだから自分が武器を調達しなきゃいけない。それで雲南で武器を調達した。そのときに雲南の国民党の軍統の頭目、沈酔を共産党に協力させるよう説得する役を川島芳子が果たしたともいわれます。

相馬 川島芳子が安国軍総司令だったときに、周保中の抗日聯軍第二路軍と交戦中、周の部下を助けたことがあって、その恩を感じた周保中が、雲南で協力させる代わりに芳子の命を救うよう周恩来に頼んでいたのですね。

野崎 一九八五年だったか、笹川良一がケ小平に会ったときに抱きついて、「川島芳子の墓に参りたい」と頼みました。もし処刑で死んでいたのだったら、松本に墓がありますから、そこへ参ればいいわけですね。ケ小平にそう言ったということは、川島芳子の遺骨が松本の墓にはないと知っていたからだと思えますね。

相馬 本当の川島芳子は一九七八年に亡くなっていますから、一九八五年ならそういうことがありえますよね。

野崎 昔から笹川さんと川島芳子のウワサはいろいろあって、芳子のヌード写真、若いときに苦学生を助けるために、売って学資にしなさいと言って撮らせた、上半身裸のものですが、これが戦後に週刊誌か何かに出たときは全部笹川さんが買い占めたんです。

相馬 笹川良一はGHQに聞かれたときもあの処刑は絶対身代わりだと証言していますから、もちろん真相を知っていたのですね。

補足1:訳者あとがき

この本は李剛・何景方著『川島芳子生死之謎掲秘』(吉林文史出版、二〇一〇年)の翻訳である。すでに中国では二〇〇八年に『川島芳子生死之謎新証』が同じ著者により出版されているが、これは調査途中で書かれたもので史料が不完全であったためこれを全面的に書き直し増補したものが本書の原書に当たる。

この本の出版前の二〇〇九年末には研究に一波乱が起こった。長春市共産党委員会に属する長春市地方志編纂委員会の孫某が川島芳子生存説を歴史捏造とする文章をネット上に発表したのである。この孫某は二〇〇八年七月から証言者や研究者にこれ以上の報道や研究を止めるようにと圧力をかけて回っていた。私もこの孫某から圧力と脅迫を受けたが、この男の言い分は次のようなものであった。このまま川島芳子が共産党統治下で生存していたという歴史が定着すれば、どうして漢奸にして日本のスパイが共産党統治下の長春で生存できたのかという問題を呼び起こし、そのことは共産党にとって都合が悪いのでなんとか川島芳子生存説を取り消したいというものであった。つまり政治的理由から川島芳子生存説を隠蔽することを目的とした文章を発表するから、それに協力せよというのであった。

もちろん私はこのような隠蔽工作に協力する事を拒否したのであるが、そうすると今度は孫某から「江青日記事件」のようにして潰してやるぞと脅迫を受けた。「江青日記事件」とは毛沢東の愛人で文化大革命時に権力をほしいままにした江青の日記がアメリカの新聞社の手に持ち込まれた事件である。アメリカの新聞社は手に入れた江青日記が鑑定の結果筆跡も指紋も一致したことから本物の文章であると発表したが、これに対し中国国家安全局はなんと日本人女性スパイに誘惑された中国人技師が筆跡と指紋も含めて偽造してアメリカの新聞社に売った偽物であると発表したのである。もちろん中国国家安全局のいうようなスパイ小説のような話が実際にあるわけはなく、国内向けに官僚の責任逃れにでっち上げられた言い訳であった。孫某が「江青日記事件」のようにするぞというのは、当局が今回の件を歴史捏造事件であると発表して川島芳子生存説を否定するぞと脅してきたのである。

さらに台湾では二〇〇九年末に「川島芳子生存説はデマである」との報道がなされた。これについても報道で根拠とされた新発見の文書というものは実際には新発見でもなんでもなく、本書でふれられている通り処刑間もなく起こった川島芳子生存の噂を打ち消すために国民党政府が公表した文章であり、すでに当時の新聞などでも報道されたものであった。それを七十年後の今になって新発見であるかのように再びニュースとして取り上げるというのは政治的な隠蔽工作としか言いようがない。

川島芳子生存説の報道を巡ってはそのごく初期から何度か新聞社に脅迫電話が掛かってきたこともあり、どこの勢力かは不明だが何かしら隠蔽しようとする力が働いていることは疑いようがない。これらからすると、川島芳子の生死の謎は今なお政治的要素と切り離すことができない話題のようだ。二〇〇九年十月に長春市地方志編纂委員会の孫某がネット上に出した論文は極めて幼稚な捏造文書で、市共産党委員会宣伝部からも公式な発表を認められず、省政府地方志委員会からも批判され、あげくには長春市南関区人民法院に起訴されるというとんでもないものであったが、日本の一部の否定論者がこの文書を宣伝しているようなので、簡単にこの長春市地方志編纂委員会の文書に反論しておこうと思う。

当初、長春市地方志編纂委員会の孫某は証言者たちのところに出向いて証言を撤回し否定するように圧力をかけたが、その誘いに乗るものはほとんどいなかった。そこで、病気で半年前より既に会話能力をほとんど失っている陳良が証言を翻したとの言説をでっち上げた。陳良の元には民間調査団が二〇〇七年に訪れただけでなく、二〇〇八年末に新文化報、長春テレビ、吉林テレビ、テレビ朝日も取材しており、複数の証言記録が残されている。それにもかかわらず陳良が今になって証言を覆したと言う孫某の主張は全く受け入れ難いものである。

陳良が方おばあさんは段連祥の妻である庄桂賢と同一人物であるとの証言をしたという孫某の主張は全くの捏造である。実際には陳良は庄桂賢との面識は全くなかった。しかし、陳良は方おばあさんを段連祥の妻だと認識していた。そこで、孫某は方おばあさんは段連祥の妻であることは間違いないかと質問した。このような最初から計画された誘導尋問にすでに病気でほとんど会話能力のなくなっていた陳良がうなずいたことを、彼らは陳良が方おばあさんを段連祥の妻である庄桂賢と同一人物とみなしたと故意に曲解している。

つまり孫某らの庄桂賢が方おばあさんと同一人物という主張はまったくの捏造である。庄桂賢は四平にずっと段連祥と住んでおり、夏に名前を変えて新立城に行くような習慣はなかった。これは四平の段連祥の旧住所近隣に住む老人に確かめればすぐに判明する事である。実際に民間調査団は一九六〇年代から一九九〇年まで段連祥の近隣に住んでいた石玉華など段連祥夫妻を知る老人数人に確認したが、庄桂賢が夏に家族から離れて長春郊外で暮らしていた形跡は全く認められなかった。これらの証言から庄桂賢と方おばあさんは全くの別人であり、これを同一人物とする孫某の主張は誤りである。そもそも、段連祥の正妻である庄桂賢が「方麗容」という偽名を使って毎年夏に家族と別居して生活しなければならない理由はどこにもない。

また孫某の論文や一部の否定論者は川島芳子がどうして戸籍もない方おばあさんとして共産党支配下の中国で生き延びたのかという疑問を提出するが、中国には文化大革命時代から現代に至るまで戸籍のない「黒孩子」と呼ばれる私生児が数万人存在していることや、警察の追っ手を逃れている凶悪犯も常に数百人存在していることを考えれば決して荒唐無稽な話ではなかろう。

もっとも、我々の方おばあさんの場合はややこれらとは事情が異なり、共産党の上層部が彼女を保護していたというのが真実に近いと思われる。この結論はにわかには信じがたいものかもしれないが、参考までに浙江省国清寺を管轄していた公安局に勤めていたという老人から聞いた川島芳子=方おばあさんの救出にまつわる話を参考までに書いておく。

一九四四年にアメリカから蒋介石の下に軍事顧問として送られたスティルウェル将軍と蒋介石が対立し、蒋介石はルーズベルトにスティルウェル将軍の解任を要求した。これに腹を立てたスティルウェル将軍は蒋介石暗殺を計画して蒋介石の乗る飛行機の攻撃を命令した。この蒋介石暗殺計画を事前に特務機関から知らされた日本軍支那派遣軍総参謀の松井太久郎は川島芳子を通じて蒋介石に警告し、蒋介石はあやうく難を逃れることができた。後に川島芳子は国民党内部で蒋介石と権力争いをしていた李宗仁の命令によって逮捕されたが、蒋介石は川島芳子に恩を感じていたので軍統の戴笠に救出を命じた。さらにイギリスやスウェーデン大使からも川島芳子釈放の要求があり、最終的にはスイスの介入で中国紅十字(赤十字)が身元を保証し、表向きは死刑として実は「替え玉」により密かに逃がされた。

一九四八年に国民党の支配地である煙台から長春に移り住んだ川島芳子は、ソ連の同意を得た上で国民党に見切りをつけて共産党の情報工作員となり、当初は吉林省主席となる周保中将軍の庇護下に生活した。寺尾沙穂さんが愛新覚羅・連経氏から聞いたところによれば共産党と川島芳子とは早くより連絡があり、共産党の特殊工作を指揮していた周恩来と川島芳子の連絡役を果たしていたのが胡鄂公という人物であったという。川島芳子の裁判記録には「古月山人」と名乗る人物から獄中の芳子に宛てた手紙が残されているが、その「古月山人」が胡鄂公の出した暗号文であるという。またGHQの調書には川島芳子の秘書であった小方八郎の証言として獄中にいた時に西岡大元という奉天の建国霊廟にいた僧侶を通じて共産党から接触があり共産党に投降すれば身元を保証すると持ちかけられたという話もある。実際に芳子の兄にあたる愛新覚羅・憲東は日本の敗戦と共に日本軍の武器や情報を共産党工作員に引き渡し、さらに人民解放軍の砲兵隊に参加して芳子が逮捕された時期には東北地方を転戦していた。これらの話を総合するならば川島芳子が共産党に投降して、共産党工作員となったという仮定もあながち否定できないのである。

ようするに川島芳子は方おばあさんとして共産党の上層部の黙認と人民解放軍の保護のもとに長春と国清寺を往復する生活をしたということであろう。国清寺は日本の天台宗と深い関係があり、日中国交正常化前に統一戦線工作所の一つとして機能していた。国清寺では周恩来から指示を受けた趙朴初から保護を受けていた。趙朴初は中国仏教協会の重鎮で居士協会の会長でもあり、中国紅十字(赤十字)や日中友好協会でも役職についていた人物である。

一九五〇年に朝鮮戦争が始まるとアメリカは中国への物資輸入を禁輸したため、大陸では物資が極端に不足した。そこで、マカオを経由して日本から大陸へ海上の監視をかいくぐって物資を密輸していたのが日本側の軍関係者や、それと手を結んだ香港の海運王と呼ばれ中国返還後初代の香港行政長官となった董建華の父親である董浩雲あるいは霍英東という香港の海運業者であった。川島芳子はこのルートの協力を通じて、笹川良一や日本の旧軍関係者を通じて極秘に武器や弾薬の材料を輸入して、満州に残された旧日本軍の軍需工場と技術者を使い旧日本軍から没収した武器用の弾薬などを供給した。

さらに一九六〇年代に入ると中国は原爆や水爆の開発に力を入れたが、当初中国が頼っていたソ連の技術者たちが中ソ対立で引き上げると核開発の前途に暗雲が立ち込めた。その際に日本の技術力に目を付けて、日本から核開発に必要な情報や精密機械を秘密裏に手に入れる任務を与えられた川島芳子はノーベル賞受賞物理学者の湯川秀樹との接触を図ったというのだ。

以上の話がどこまで信憑性のあるものであるかは今後の研究に待たれるが、この書の出版を機会にこの川島芳子の生死の謎という近代史のミステリーがますます明らかに解明される事を願っている。
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