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2015年10月31日

第九章第二節 段霊雲の見た川島芳子

我々は調査中にかつて段霊雲に次のように尋ねたことがある。
「あなたは方おばあさんにこんなに長く付き添い、方おばあさんはほとんど毎日のように字を書いていたのに、どうして彼女の書いた筆跡が残っていない(張玉に書いた版画の隅に「姥留念」の三字が隠すように書いてあるのを除けば)のですか」。
段霊雲の証言によれば、方おばあさんの家にあった大きな机の上にはいつも褐色の彩陶の火鉢があり(現在は残っていない)、毎回字を書き終わると、方おばあさんはいつもマッチをこすって、書いたものを火鉢で焼き捨てるのが、いつも習慣のようになっていた。
段霊雲がさらに証言するには、方おばあさんは筆跡を残さないばかりでなく、写真も残そうとしなかった。ある年の中秋節に父親の段連祥が方おばあさんと彼と段霊雲の三人で写真を取ろうとした時や、家族の集合写真を取ろうとした時があった。段霊雲がどんなに方おばあさんに写真館に行こうと勧めても、写真を残すことに方おばあさんは理解を示したものの、いつも議論の余地なく拒否して、絶対に写真館には行こうとしなかった。
段霊雲はずっと、方おばあさんのこうした態度が理解できなかった。段霊雲が方おばあさんが川島芳子だと知らされてから、今になってようやく理解できたのである。方おばあさんは長年にわたり何の筆跡ものこさず、写真も取ろうとしなかった、唯一の理由は、自衛保護のために川島芳子生存の痕跡を残さないようにしていたのであった。

我々が段霊雲を聴取して、あなたの母親である庄桂賢は方おばあさんのことを知っていたかどうかと質問した時、段霊雲は肯定して「知っていました」と答えた。段霊雲は説明して、
「方おばあさんが長春新立城で三十年生活していた間、私の父親は毎年夏になると平均して毎月三回ほど新立城の方おばあさんの家に行き、私が小さい頃に毎年夏になると新立城に連れて行き方おばあさんに付き添わせ、後に張玉が生まれてからは、張玉が私の代わりに方おばあさんに付き添うようになりました。私たちは親子三代でこのような長い期間にわたり方おばあさんと付き合っていたので、私の母親の庄桂賢に隠そうとしても、隠せなかったでしょう。父親は最初は母親に方おばあさんは遠い親戚の一人で、親戚も世話する人もいないが、年をとったので世話が必要なのだと言っていました。母親は当初から方おばあさんは父親が外で囲っている《愛人》ではないかと疑っていたので、そのことで父親とよく喧嘩をしていました。私が新立城で方おばあさんと一緒に過ごすことにも心の中では不満だったようです。しかし父母はなんと言っても旧社会から生きてきた人間だったので、妻たるものは《三従四徳》といって、夫のなすことに逆らうことも出来ず、父親になすすべもありませんでした。こうした情況でしたから、母親は私に父親と方おばあさんの関係を監視する役目を果たさせ、またそれを母親に報告させようとしました。」
父親が段霊雲と方おばあさんの家に行く時にはいつも、母親が彼女に父親と方おばあさんが一緒に何をしているか注意するように言い聞かせた。段霊雲は母親の言いつけが気に入らなかったので、いつも隠して言おうとしなかった。そのため、母親が段霊雲の口から聞いたのは、彼女が本当に知りたいことではなかった。期間も長くなって、母親もとうとう父親の監視を諦めてしまった。方おばあさんの家につくと、方おばあさんは段霊雲にとてもよくしてくれはしたが、しつけがとても厳しかった。方おばあさんは彼女に日本語を教えようとして、よく憶えられないといつも「ビンタ」が飛んでくるのであった。母親は段霊雲が方おばあさんから日本語を習っているのを知ると、どうにか止めさせようとして、父親は日本語が出来たばっかりに労働教育所送りになったと例を挙げて日本語を習うとろくなことがないから止めるように勧めた。このことは段霊雲を板ばさみにして苦しめ、いつも彼女はこっそり涙を拭うのであった。

段霊雲の記憶では、方おばあさんは既に逝去して三十年ほどになるが、方おばあさんが彼女に残した印象はとても深い。方おばあさんは中老年の女性で、比較的やせており、皮膚はとても白く、大きな目で、話し言葉には北京訛りがあり、人に神秘的な感覚を与えた。彼女は時折タバコを吸ったが、しかしそれほど頻繁でもなかった。彼女は仏教を信じ、規律正しく屋内で線香を焚いて仏像を拝んでいた。彼女は新立城の家の中で、普通の状況下では自分でご飯を作って食べていた。彼女は綺麗好きで動きが早く、部屋の中はよく整理整頓されており、両開きのタンスがあり、タンスの上には置時計と旧型のラジオと花瓶が置いてあった。お茶を飲む茶碗には蓋がついていた。部屋の中には八人がけの大テーブル、オンドルの上には食事用の机があった。米、小麦粉、油などの生活用品はみな父親の段連祥が定期的に送っていた。方おばあさんの食事には特別な習慣があった。いつも自分でご飯を盛り付け、他の人には盛り付けさせなかった。ご飯を食べた後には自分で御わんを洗い、その後にお碗を伏せて箸を伏せたお碗の下に置き、普通の人のように箸をお碗の上に置かなかった。新立城では方おばあさんはさっぱりした生野菜などをよく食べ、特に大家の逯家の部屋の前後に植えてあった白菜や、ネギ、きゅうり、ピーマンなどの野菜を好み、方おばあさんはご飯のときに新鮮なものを選んで生で食べていた。方おばあさんのこの習慣は日本人が生野菜を好んで食べる習慣に似ている。
段霊雲の記憶では、方おばあさんは日本語が話せるだけでなく、嬉しい時には日本の唱歌を歌い、方おばあさんはさらに絵を描くことができ、段霊雲は彼女が山水画と美人画を画くのを見たことがある。現在方おばあさんが残したあの日本女性が風呂にいる画(日本女子風情浴嬉図)は、彼女は方おばあさんが自らの手で描いているところを見た(この画は現在張玉が保有)。段霊雲がいまだ記憶しているのは、《文革》以前に、方おばあさんはかつてこの画と内容の似た画を《七叔》に贈っていたことである。《七叔》が雲南に老母の面倒を見に行った際に、彼女は自らあの画を《七叔》のカバンの中に入れていた。そして残されたこの画は張玉が生まれる前に方おばあさんが描いたもので、幼い張玉に贈る記念の品と考えられる。
段霊雲と方おばあさんは、段連祥の関係があり、親しい一面もあったが、隔たりもあった。なぜなら方おばあさんは段霊雲の前ではとても厳しく、彼女が何かを学ぶ際でも、《小雲子》に何かをさせる場合でも、少しでも気に入らなければ手を挙げて打った。あるとき《小雲子》がオンドルの上で寝転んでいると、方おばあさんはしばしば足でオンドルから地上に蹴り落とした。方おばあさんが彼女を打つときには、時には《七叔》が残したあの指揮棒で彼女の手の上やお尻を打った。彼女を打つときには方おばあさんはしばしば日本語で彼女を罵りながら、あの指揮棒で叩くのであった。そのため、段霊雲は感情面で常に方おばあさんとは距離を感じ、また彼女を恐れて、心の中で何かあっても話したがらず、方おばあさんの性格と習慣を見ては不快に思うこともあった。何故だかはわからないが、段霊雲は今に至るまで、方おばあさんの身上に何か特別なものを感じるのであった。いつも方おばあさんの目を見ると、なにか彼女の目の背後に別の目があるような感じがして、なにか恐ろしく震えさせるものがあった。特に夜には灯りの下でも、《小雲子》は方おばあさんを正視することができなかった。そこで、段霊雲が幼い頃は感情的に不安定で、方おばあさんはとても怒りやすく、顔色が変わると、しばしば《小雲子》に対してあたりつけるのであった。
長年にわたり、段霊雲はずっと方おばあさんの心が理解できず、なおさら彼女が何を考えているのかわからなかった。方おばあさんのこのような心理は謎に満ちており、性格は変化しやすく、情緒が毎日テレビで放送する天気予報のように不安定であった。
以前は方おばあさんが機嫌が悪く、怒りが収まらないと、いつも心中の憤怒をぶちまけて、部屋の中のものがみな気に入らなくなり、手元にあるものをなんでも壊していたので、こういうことが重なると庭にいるニワトリまでもが彼女の顔色を伺った。ある時雄鶏と雌鶏が餌をつついていると、方おばあさんが怒りを爆発させながらやって来たので、鶏はさっさと生垣の隅にもぐりこんで、目を閉じて寝ているふりをしていた。
段霊雲は幼心にも、方おばあさんに恐れを抱いていた。方おばあさんはいつも自分の意思を《小雲子》に強制して、《小雲子》に自分の思うとおりに行動するよう要求した。《小雲子》はなるべく彼女を満足させようと努力したが、かえって方おばあさんの気に沿わないのであった。方おばあさんはよく《小雲子》を馬鹿と言い、ある時は《小雲子》に戯れにこう言った。
「猪八戒の姉はどうやって死んだか知ってる?馬鹿すぎて死んだのよ。」
前世紀の六〇年代初期には方おばあさんの性格はいくらか良くなった。于叔が死んでまた《七叔》も去り、方おばあさんは再び部屋のものに八つ当たりすることはなくなり、何か気分が悪いときも、座り込んで沈黙するようになった。
方おばあさんの内心にはいつも何か隠された苦痛があるようで、この持続する苦痛が彼女の神経を刺激し、常にその苦痛を捨て去る機会を探していたようであった。

一九五八年、段連祥が労働改造に遣られて、家に生活の資源が絶えたので、か弱いいまだ十五歳にも満たない子供の小雲子(段霊雲)も、学校をあきらめて仕事に参加し(大躍進の時期で、仕事は探しやすかった)、非常に若くして家族を養う責任を担うことを余儀なくされた。こうして、彼女は新立城で方おばあさんに付き添う時間は少なくなったが、彼女と方おばあさんの関係は中断したわけではなかった。この時期から段霊雲は、新立城の方おばあさんと輝南県杉松岡労働隊の父親段連祥の間の連絡役を果たすようになった。
一九六四年、段霊雲と張玉の父親―現役の軍人張連挙が結婚した。一九六七年初頭に、段連祥は段霊雲が妊娠したとの知らせを遠く浙江国清寺で冬を越す方おばあさんに知らせると、方おばあさん(川島芳子)はとても興奮した。彼女はすぐに予定を変えて、早めに遠い国清寺からまだ幾分寒い長春へ戻ってきた。新立城の家に帰ると、彼女はすぐに段連祥を遣って段霊雲の住む家に迎えさせ、彼女の買った胎教に関する本を使って、彼女の理解できる妊婦の保健と育成に関する知識を段霊雲に教え、段霊雲が健康で五体満足な孫を産むよう取り計らった。
方おばあさんの指示はいやでも聞かなければならない段霊雲は、新立城の方おばあさんの家に行った後は、完全に方おばあさんの指図に従ってお産に備えた。
毎日朝起きると段霊雲と方おばあさんはそれぞれまず御椀一杯の蜂蜜湯を飲み、レコードの音楽や楽曲を聴きながら、歌を覚えた。朝ごはんを食べ終わると、段霊雲と方おばあさんは一緒に庭の緑色野菜と花園の間を散歩し、方おばあさんは指でいろいろな色の花を娘に見せて「花を沢山見て、花の色を覚えなさい。もし夜の夢の中で花をみたら、それは吉兆よ。」と述べた。
散歩のときに疲れると、彼女たち二人は木陰の下の御影石の上に座り休憩して、ある時には庭の中にいるニワトリや鳩に餌をやった。
庭から部屋に戻ると、方おばあさんは幾冊かの本を選んで娘に見せた。部屋の中の壁には、日本美女のカレンダーが掛けてあり、方おばあさんは娘に毎日数回その十二枚の日本宮廷女官を見て、段霊雲にこの画の美女の様子をよく記憶するようにこう言った。
「こうやって続ければ、生まれてくる子供は賢いだけでなく、女の子なら、画の中の美女と同じように美しく綺麗な子になるのよ。」
方おばあさんの十二枚の日本美女のカレンダーは、一枚一枚が和服を着た日本宮廷女官であった。段霊雲は方おばあさんの言いつけを守って、毎日一枚一枚めくってカレンダーの美女を眺めた。その後に面倒くさくなったので、方おばあさんは部屋の壁に縄を張って、十二枚の美女のカレンダーを一枚一枚並べて掛けた。こうして段霊雲はいちいち一枚ずつめくらくても十二枚の美女画を一目瞭然にできる様になった。
段霊雲が出産する前に、方おばあさんは江蘇芽山乾元観の道士を連れてきて、まもなく生まれる女の子を占ってもらった。
一九六七年十月、孫娘の張玉が生まれると、方おばあさんはとても喜んで張玉を頭の上に掲げて、ひっきりなしに段連祥に「私にも孫ができた!私にも孫ができた!」と叫んでいた。彼女はさらに段連祥に張玉の名前を占わせて、孫娘がお金持ちになるように願った。また段連祥にこう言った。「うちの実家の姓は《金》で、私の妹は《玉》という名前だから、この女の子を《ト》と呼びなさい。」いつも方おばあさん(川島芳子)の言うことなら何でも聞く段連祥は、この時興奮してただ頭を縦に振ってうなずいていた。
そうして、方おばあさんは何かを思い出したかのように、すぐに段連祥を大家の逯家に使いに遣り、半年前に飼っていたウサギとウサギ小屋を持ってこさせた。
父親の段連祥が逯家に行った後に、段霊雲は方おばあさんに尋ねた。
「どうしてウサギを逯家に送ったの?」
方おばあさんは真面目に解説して言った。
「お前がまだ来る前に、私がウサギを逯家に送って、あそこで飼ってもらったのよ。なぜかと言うと、年寄りたちが妊婦はウサギを見てはいけない、ウサギの肉を絶対に食べてはいけない。もし妊婦がウサギの肉を食べると、生まれてくる子供がウサギのように三つ口になると聞いたからなの。だから私はウサギを逯家に送って代わりに飼ってもらったのよ。いまもうあなたは子供を生んだから、タブーも気にしなくてもよくなったから、ウサギをかえしてもらったのよ。ウサギの肉は血を増やす栄養のある食物だし、人体の血液の中にある有害な物質を除いてくれるから、美容に良いし、人に皮膚を白くて肌理細かく光沢のある肌にするのよ。」
方おばあさんは段霊雲にこう言うと、ちょうど庭から人々の話す声が聞こえてきた。ちょうど大家のロク長占と逯興凱の二人がウサギ小屋を担いで窓の前に来て、父親の段連祥が嬉しそうに生まれたばかりの白兎の子を抱いて、手には柳条の籠を持っていたが、なかには籠一杯に白くてふさふさした子ウサギが入っていた。もともと、方おばあさんはウサギを逯家に半年預けただけだったが、逯家の人たちが大切に育てたので、子ウサギを沢山産んだのであった。方おばあさんはうれしそうに言った。
「これはちょうどいい。子供が満一ヶ月を迎えるのを待って、一家でおいしくウサギの肉を食べましょう。」
張玉は三歳になった頃に、段霊雲は夫について軍事工場に行き、張玉は四平の祖父段連祥の家に預けられた。張玉は小さい頃から聡明で、人々から愛された。この時新立城に住んでいた方おばあさんも、待ちきれないかのように段連祥に幼い張玉を彼女のところに連れてこさせ、張玉に対しておばあさんとしての「責任」を果たし始めた。
張玉も期待に背かず、方おばあさんが妊婦の段霊雲に調教した方法は張玉の身上に確かに現れているようであった。張玉は美しく(父母や二人の弟と比べ、張玉は綺麗な女の子だった)育っただけでなく、物分りがよく聡明で、方おばあさんの調教の下、多才多芸を身につけることができた。現在、張玉は有名な女流画家となったばかりでなく、文学上でも一定の造詣がある。

段霊雲の記憶では、方おばあさんの左胸には傷跡があった。新立城の夏のある日のこと、天気がとても暑く、方おばあさんは汗をかいたので、下着のシャツを脱いで、段霊雲に彼女の汗を拭わせたときに見たのである。段霊雲は方おばあさん傷跡の原因が何であるかを知らなかった。彼女は鉄砲傷というのを知らなかったので、鉄砲で打たれたあとの傷がどんなであるか知る由もなかった。そこで、彼女は父親の段連祥に尋ねたことがある。段連祥は少しも隠し立てせずに言った。「たぶん鉄砲傷だろう!」その外にも、方おばあさんはしばしば段霊雲に背中を叩かせたが、段霊雲の感覚では方おばあさんには脊椎に炎症があるようであった。
我々が把握している資料によれば、川島芳子は確かに鉄砲傷を受けた過去がある。鉄砲傷を受けた原因としては三つの説がある。その一つは養父川島浪速が彼女にしばしば性交渉を迫ったため、彼女は羞恥心と欺瞞に駆られて拳銃自殺を図ったという説。二番目は養父川島浪速が初恋に対して粗暴な干渉をしたため、感情のもつれにより絶望して拳銃自殺を図ったという説。三番目は「安国軍」司令であったとき、洮南で張海鵬(後に漢奸)の部隊と戦闘した際に、銃撃を受けたときの傷という説。
鉄砲傷の具体的な原因については確認しようがないが、ピストルの弾が確かに彼女の左胸に入り、銃弾が彼女の左胸の肩甲骨に残ったことは確かである。一九三七年に彼女は北平の同仁医院で手術をし、彼女の兄の金璧東は自ら手術台の側で、飯島康徳院長が川島芳子の左胸肩甲骨上にあった銃弾を摘出したのを目撃している。
川島芳子が日本で学校に通っていた際に、養父の川島浪速は彼女の希望に応えて、日本が「バブチャップ将軍」に送る軍需物資の中から二匹の軍馬を取り、川島芳子に騎馬で登校させていた。川島芳子はまた満州国の「安国軍司令」であった時、行軍作戦にもいつも騎馬を主に用いた。それで、川島芳子は馬上から幾度か地面に落ちたことがあり、それが重なって、外傷性の脊椎炎を患っていた。
一九三五年から、脊椎の痛み止めの為に、川島芳子はアヘンから抽出したモルヒネを使う悪習に染まった。
一九三七年、川島芳子が天津で東興楼で食堂を経営していた際に、脊椎が痛むので、天津医院で身体検査をして、医者の初歩診断で早期脊椎炎と診断された。治療の為に川島芳子は日本へ戻り、東京同仁会医院で院長金子良太博士自らによる診断を受け、外傷性脊椎炎の治療を受けたが、完治せぬままに川島芳子は盧溝橋事件発生のために中国へ戻り、脊椎炎の病根は遺されたままだったのである。

段霊雲の回想では、方おばあさんは何度も彼女に自分の出身について、とてもお金持ちの家に生まれたと打ち明けていた。子供の頃の話として、方おばあさんは幼い頃はお姫様のような生活をしていたと語ったこともあった。
段霊雲が覚えているのは彼女が仕事に就く前の一九五八年ころ、十四歳の段霊雲が新立城へ方おばあさんに会いに行くと、どういうわけか、方おばあさんが突然に涙を流していた。段霊雲が方おばあさんどうしたのと聞くと、方おばあさんは「家が恋しくなった」と言った。段霊雲は怪訝そうに「家が恋しくなったのなら帰ってみれば。私がおばあちゃんに会いたくなるとこうして来るみたいに。」と言った。方おばあさんはため息をついて、「私はあなたみたいに幸せじゃないの。父母はとっくの昔に亡くなり、親戚もどこに行ったか判らず、妹が恋しいけど、何処へ行ったかわからなくなって、連絡も取れないの。」
我々が考えるに、これは方おばあさん(川島芳子)が彼女の子供時代を回想して、粛親王家の家族と同腹の妹である金黙玉が恋しくなったのであろう。段霊雲もこの点に同意を示した。
段霊雲は小さい頃から大きくなるまで、方おばあさんからいろんな知識を教わり、方おばあさんの学識にはとても敬服している。あるとき彼女が方おばあさんを思わず褒めて「おばあちゃん、こんなに良く知っているなら、きっと幹部になれる人材ね!」と言うと、方おばあさんは手を振って、「それは無理よ」と言った。
続けて方おばあさんは段霊雲の前で、自分の一生について概括して言った。
「私の一生は一首の悲壮な歌のようなものよ。結局なんにもならなかったわ。これも運命ね」
我々が思うに、これが方おばあさん(川島芳子)の自己の人生に対する総括であった。

二〇〇九年二月十一日の午前、日本のテレビ朝日の招待を受けて日本へ向かう出国手続きをするため、我々は段霊雲親子を事務室に呼んだ。我々がおしゃべりをするうちに方おばあさん(川島芳子)にも話が及んだ。
我々が方おばあさんの段霊雲に対する感情を述べると、段霊雲は一九五〇年代に彼女が大病を患った際に、方おばあさんが二度にわたり一万元の治療費を立て替えてくれてことを一生忘れないと述べた。
我々がまた、方おばあさんがそんなにお金を持っているのなら、その後の生活であなたを援助したことはないのかと尋ねた。
この過去に触れたことのない話題に、段霊雲は答えて、
「方おばあさんは一九六六年于景泰が亡くなり、七叔が去ると生活の糧を失いました。だから父親と私が彼女を援助していたのです。しかし私には二人の弟がおり、母親は仕事についておらず、父親は臨時の仕事で家計を支えて、生活はとても困難でした。私は毎月に給料から二十元を方おばあさんにあげていましたが、農村での出費は少なく、彼女の一ヶ月の生活費には十分でした。当時、方おばあさんがあんなに沢山のお金を出して救ってくれたので、私がこうするのは一種の《恩返し》だったのです。」
それでは方おばあさんが半年ほど国清寺に行っていた間はどうしていたのか?
段霊雲は答えて、
「彼女が出発する際には私が汽車のチケットを買いました。国清寺についた後は、毎月やはり二十元を送っていました。方おばあさんは、お寺では住むにも食べるにもお金は要らないといっていました。文化大革命以後、方おばあさんは国清寺で住む時間が長くなり、毎年四、五ヶ月、長い時には半年に及びました。」
これにより、我々は方おばあさん(川島芳子)は晩年に世間と隔絶し、生活も大変質素で、すべて段連祥と娘の段霊雲の援助に頼っていたと考えた。
しかし、じつは内情はこれが全てでもなかったようである。二〇〇九年三月一日から八日、我々と張玉と段霊雲が日本に滞在中に、李剛は張玉に方おばあさんの晩年の生活が質素であったと語ると、張玉は以外にも、方おばあさんはお金持ちだったと答えたのである。
「ある時、私が彼女の座る《タタミ》の下にたくさんの手紙を見つけて、その中身にはお金がたくさん入っていました。」
それなら、方おばあさんはお金があるのに、段連祥と娘の段霊雲はどうして毎月お金を届けていたのだろうか。これは一種の「愛情」の表現と見るべきだろう。段霊雲に言わせれば、それは一種の「恩返し」だったのだ。

第九章第一節 残留孤児の段霊雲

段霊雲は張玉の母親で、一九四四年の生まれで申年、段連祥の唯一の娘である。彼女の出自についてはかつて謎であった。一九九七年に彼女の母親の庄桂賢が逝去後に、父親段連祥がようやく段霊雲を前にこう告白した。
「雲子、お前の出自だが、今日は本当のことを言おう。お前は確かに日本人の残留孤児だ。以前はお前の母親(庄桂賢)が私が告白するのを止めていたのだ。お前が本当の親を探し出して、お前を失うことを恐れたからだ。今お前の母親は亡くなったから、私ももう遠慮することもなくなった。」
こうして、段霊雲の心に数十年もわだかまっていた疑問がついに晴れたのである。それから、段連祥は日本語で段霊雲のために一枚の日本残留孤児証明を書き残した。
証明書の大意は次のようなものである。段連祥の同級生の一人が、彼に元日本語教師の四人の子供(三女一男)のうちの一人が産んだ赤子を養子とするよう託した。一九四五年に日本が投降した後、教師一家六人は帰国の準備をしていたが、教師の妻は半身不随の寝たきりの病に罹り、幼い娘を世話する余裕がなかった。同級生は教師の経歴を紹介し、教師一家の日本の連絡住所を残した。証人の徐桂芝が証明書にサインと押印をした。段連祥もその上に印鑑を押した。
一九九九年六月六日、段連祥は段霊雲の日本人の伯父に当たる三ツ矢敏夫に一通の手紙を書き、日本人の友人松井氏に託した。手紙の中には、現在中国国内の政策は比較的良好で、中日両国間の友好往来はとても便利である。もしあなたが奉天(瀋陽)に来る機会があれば、飛行場まで私が迎に行くと書かれてあった。
段霊雲は父親の段連祥から聞かされたのは、段霊雲が一歳を過ぎた頃に段家に来て、段連祥は彼女の為に段臨雲と名づけた。現在思い返してみると、段霊雲には思い当たるところがあった。
「父親が私に臨雲と名づけたのは、私が養子の娘だったからで、親が何時やって来て認知して連れ去るかもしれないというので、臨時の娘と言う意味だったのでしょう。」
段霊雲の幼名である雲子というのもやはり段臨雲というこの名前に由来している。その後に段連祥は彼の子供の名前に家系図に従ってすべて「続」という字を入れていたので、段臨雲にも段霊雲という名前を与えた。段連祥が一九四一年に長男段続余を設けた後、その後に生まれた二人の子供は夭折してしまい、幼い臨雲を養子に迎えた後、彼女にはずっと命があるようにとつけた名前が「続敬」であったが、ただその後あまり使うことがなかった。《文革》中に段臨雲という名前を再び段凌雲と改名したからだが、その名は雲を凌ぐほどの志を持てという意味であった。

段霊雲が方おばあさんと接触を開始したのは、およそ一九四九年の新中国成立前後で、そのころ彼女は五、六歳ですでに物心がついていた。彼女は父親の段連祥が彼女を連れて、四平から汽車で長春へ行き、さらに馬車に乗って新立城の方おばあさんが住んでいる地方に行った。方おばあさんという呼び名は父親が彼女に教えたもので、ある時は四十歳過ぎのこの女性を《方ママ》と呼ばせることもあった。しかし、すでに物事が理解できた段霊雲から言えば、新立城のこの中年女性は彼女にとってもう一人の母親を意味した。それからと言うもの、ほとんど毎年夏になると、段連祥は彼女を新立城の方おばあさんの家に連れて行った。ただ父親の段連祥は毎回数日も住まずに、自分だけ四平に仕事に戻り、彼女を方おばあさんのお供においていくのであった。
川島芳子の新立城での歳月は、段連祥など世話する人間がいたとはいえ、生活はやはり孤独で寂しいものであった。女の子の小雲子が定期的に付き添うようになってから、川島芳子の心は計り知れない慰めを得たであろう。外部の人の目からは、小雲子は方おばあさんの娘で、川島芳子からすれば、小雲子は段連祥が自分にくれた養女であった。さらに小雲子は日本人の残留孤児で、感情からいって、この臨時の母子は同病相憐れむ境遇にあったのである。
段霊雲は幼年時代に続けて二回大病を患って、ほとんど命を失うところであった。この二回の病気の期間には、父親段連祥も力を尽くし、労をいとわず、金も惜しまず、彼女の病を治すために尽力したが、方おばあさんも段霊雲が病気の期間に母親の責任を果たした。段霊雲は今でも思い起こすと、感激のあまり言葉に表せないほどである。
第一回目は一九五三年の春、段霊雲が九歳の年に水疱瘡に罹り、伝染病であったので入院できなかった。当時彼女の母親の庄桂賢は弟の段続平を生んだばかりで、彼女を世話することができなかった。父親の段連祥は彼女を新立城の方おばあさんの家に預け、さらに二人の老年の婦人を雇って交代で彼女を看護させた。水疱瘡で全身が痒くなり、段霊雲は痒いのでいつも寝返りをうって、両手でかきむしった。方おばあさんは彼女が顔の上の水痘を引っ掻いて、娘の顔の上があばただらけになるのを恐れた。そこで、老婦人と看護して、段霊雲をむりやりオンドルの上に縛りつけ、手をタオルで包んで、彼女が痒くても動けないようにした。その後、水痘が出終わると段霊雲の病気も好転し、顔にもあばたは残らなかったが、これは方おばあさんの一生懸命の介護のおかげであった。
第二回目は一九五五年の春節の除夜の晩に、段霊雲は遊んで遅くなって家に帰った。二日目の正月の朝から突然に高熱が出て、児童医院で熱さましの注射をしたが、二日目になっても熱が下がらなかった。父親の段連祥は四平鉄路局車輌場の職工だったので、彼女を四平鉄路医院に入院させて治療した。およそ一ヶ月入院したが、化学検査の結果白血球に異常があり、血小板が減少し、臨床診断では容血性連鎖球菌による敗血病と診断された。この時主治医は彼女に長春鉄路中心医院で治療するよう勧めた。この時に、段霊雲が病気になったという情報を知った方おばあさん(川島芳子)も特別に浙江の国清寺から四平に戻り、父親の段連祥と共に段霊雲を長春鉄路中心医院に送った。しかし長春鉄路中心医院でも段霊雲の病状は一進一退であった。このような情況で、父親の段連祥は彼女を瀋陽鉄路総医院と遼寧湯岡療養院に連れて行き、そこで一ヶ月余り療養して、さらについでに大連の海浜療養院に行き、幼い段霊雲のために療養と気晴らしをさせたのである。最後にはやはり天津医院から中国の最も権威ある医院である北京協和医院に移り、三ヵ月半の入院治療により、段霊雲はようやく病魔に打ち勝ち、健康を回復することができた。段霊雲の第二回目の大病では、前後合わせて半年余りの時間をかけて治療し、父親段連祥の全ての心血を注ぎ込み、また家にあった貯蓄を使い果たしたが、方おばあさん(川島芳子)も彼女の養女としての責任を果たし、ようやく娘の段霊雲の貴重な生命を救うことができた。ここに特に挙げておかなければならないのは、段霊雲がこのたびの大病の期間、方おばあさんは天津の医院に彼女を見舞いに来て、彼女の治療費として多額のお金を残していったということである。
方おばあさんと一緒に生活した日々の中で、方おばあさん(川島芳子)は小雲子に対し母親としての責任を尽くし、彼女に日本語、唱歌、舞踊、吟詩などを教えた。段霊雲は余り勉強が好きではなかったので、方おばあさんに少なからず殴られた。唯一段霊雲が学んだと感じているのは、彼女の字がとても綺麗なことで、これも方おばあさん(川島芳子)の彼女への厳しい教育と切り離すことができない。

一九四八年年末に、川島芳子は《老七》・于景泰・段連祥の護送と手配の下、長春市郊外の新立城鎮斉家村に来て、長期にわたり隠居する住所を選択した。その次の年(一九四九年)、五歳の小雲子(段霊雲の幼名)は父親の段連祥の手配で、毎年夏になると新立城に行き方おばあさん(川島芳子)と共に生活し始め、その後十年余りの長期間、小雲子が一九五八年に仕事に参加するようになるまで続いた。
小雲子は幼いときからお喋りが好きで、男の子のようによく動く性格であった。新立城方おばあさんの家で、彼女は方おばあさんの教える日本語や詩歌や絵画などの種類の学業を学ぼうとせず、女の子のような針仕事や家事もしたがらなかった。ただ近所の子供たちと戸外で遊ぶのが好きで方おばあさんの意に沿わなかった。
川島芳子は自身の隠れ住む安全を考慮して、小雲子のお転婆を変えるために、小雲子を叱ることが少なからずあった。普段は方おばあさんのそばで、小雲子は方おばあさんが厳しいのを恐れて、打たれないように家の中でじっとして、あえて危険を冒すことはなかった。方おばあさんには昼寝の習慣があり、小雲子が睡眠中に外へ出て近所の子供と遊ぶのを防ぐために、毎日昼ごはんを食べた後は、家の門の鎖を閉じて、小雲子を呼んで一緒に昼寝をしていた。だんだん、小雲子は長時間にわたり「軟禁」されている状態に耐えられなくなり、彼女は鍵をこっそり盗んで門を開けようと思いついた。
毎回方おばあさんが門の鎖を閉じると、小雲子はこっそり方おばあさんが鍵をどこに置いたかを見ていた。数日観察した後、小雲子は方おばあさんが門を開ける鍵を、いつも仏壇棚の引き出しに置いていることに気づいた。鍵がどこにあるかを知ると、小雲子は方おばあさんの昼寝の習慣を推し量り、万が一の情況に備えた。彼女は方おばあさんが昼寝するころを見計らって、こっそり鍵を引き出しから取り出し、家の門を開けて近所の子供たちと遊びに行った。少し時間が経つと、小雲子は《方ママ》がとても怖かったので、いつも方おばあさんが目覚めて彼女が鍵を盗んで遊んでいる秘密に気づいて、しかられるのではないかと気になって恐れていた。そこで、小雲子は方おばあさんが目覚めないうちに、早めに部屋に帰って、方おばあさんのそばに寝て、寝ているふりをしていた。
しかし、何回も重ねているうちに馬脚を現すもので、ある日の午後に、近所の子供と遊んでいて時間を忘れ、小雲子が遊び疲れて部屋に戻ってみると、ちょうど方おばあさんが仏壇の棚の引き出しを見ているに気づいて、小雲子は恐れおののいて方おばあさんにきっとひどく叱られると思った。自分が間違っていることを知っていたので、小雲子は観念して手を垂れて部屋と地面の間に立ち、方おばあさんの顔を正視できず、頭を垂れて、《方ママ》に叱られるのを覚悟した。
この時、《方ママ》は血相を変えて怒り、大きな目で小雲子を見つめると、何も言わずに《七叔》の持って来た指揮棒を持ってきて、小雲子の右手の手のひらを引っぱると、ビシバシと叩き始め、小雲子の右の手のひらが腫上った。この時満面怒っていた方おばあさんは怒りのあまり涙を流した。それだけでは終わらず、方おばあさんは小雲子に罰として手伝いをさせ、小雲子に庭にいるニワトリの食料を削り、ウサギを食べさせ、窓を拭き、部屋を片付けさせ、仕事が終わると小雲子に垣根を前にして反省のため立たせ、晩御飯の時間になるまで、罰は終わらなかった。
このたびの方おばあさんの小雲子への教訓は、小雲子が幼年の記憶の中で最も深刻なものの一つである。これより、小雲子は心を入れ変えて、方おばあさんが首を縦に振るまで、絶対に彼女の意思に反するようなことは再びしなかった。
方おばあさんは半日にも渡る小雲子への罰を終えると、晩御飯の後に、小雲子をそばに呼ぶと、小雲子の腫上った右の手を擦りながら、小雲子を諭すように述べた。
「雲子!私がどうしてあなたを打ったかわかる?どうしてこんなにひどく打ったか!」
小雲子は答えていった。
「うん。おばあちゃんは私が近所の子供と遊ばないようにでしょ。」
方おばあさんはまた尋ねた。
「じゃあ、どうして外へ遊びに行ってはだめと言うかわかる?」
小雲子は答えた。
「わかんない!」
この時、方おばあさんはため息をつき、その後、小雲子に言い聞かせるように言った。
「ここから遠くないあの池ではね、ここ数ヶ月に二人も溺れて死んだのよ。そのうちの一人は九歳になったばかりの男の子の亮亮ちゃんでね、あそこの池の側でカエル取りをしていて、うっかり池に滑り落ちてあがれずに溺れ死んだのよ。大家の逯家の人がいうにはね、亮亮ちゃんの父母は楡樹市の人で、亮亮はお母さんが新立城のお姉さんから養子にもらって育てていた一番下の息子で、その上には四人のお姉さんがいたけど、男の子はいなかったから一人貰って来たのよ。この間、亮亮は父母と一緒に楡樹からいとこのお兄さんの結婚式に来て、結婚式が酣で、大人たちが酒を飲んで盛り上がっていたときに、亮亮は何人かの子供と席を離れて、池の側でカエルを捕まえていたの。すぐに亮亮が溺れ死んだという悪い知らせが伝えられて、おめでたい結婚式の場が一瞬で滅茶苦茶になったのよ。亮亮はとてもいい子で聞分けのよい子だったから、みんなが死んだことを悲しんだの。亮亮の尾と父母は楡樹に戻った後、毎日死んだ子供のことが忘れられず、父親は悲しさのあまり気が狂い、母親は世間を見限って、娘たちをみんな新立城のお姉さんに預けて、頭を丸めて出家して比丘尼になったのよ。」
小雲子は話に聞き入っていたが、疑問に思って尋ねた。
「方ママ。比丘尼って何?」
方おばあさんは小雲子に続けて言った。
「女の人が出家すると尼さんで、尊敬して言うと比丘尼よ。男の人が出家すると和尚で、尊敬して言うと比丘僧よ。あなたもこれからは出家した人にあったら、尊敬して比丘僧とか比丘尼と呼ばなければだめよ。わかった。女の出家した人を直接尼さんと呼んではだめよ。こう呼ぶのは出家した女の人に無礼なことよ。」
方おばあさんはまたも続けて小雲子を諭して言った。
「あなたを外に出して近所の子供と遊ばせないのは、あなたが池に行ってカエル取りをしないか心配だったからよ。もし水の中に落ちて溺れなくても、あそこの汚い水で遊んだら、あなたの手の疥癬(段霊雲は幼い頃に手に疥癬を患っていた)がよくならずにもっとひどくなるでしょ。」
方おばあさんは再び例を挙げて述べた。
「あなたのような子供はもちろん、この村には、たんこぶ喬爺さんという四十歳の農民がいたのだけど、去年の夏に池の側で数人の農民と土地を耕していたときに、タバコが吸いたくなって、池の側に行ってタバコを出して一服しに行ったの。足が泥だらけで汚れていたので、池の水で足を洗おうとして、池の方に足をのばしたら、思いがけず足がすべって池にはまってしまったの。土地を耕していたほかの農民がいつまで経っても戻ってこないのでおかしいと思ったけど、あいつはいつも仕事をせずに怠けているから、どこかに行って怠けているに違いない、なんでもないだろうと話していたの。そうしてみんなが耕作を終わって家に帰る途中に池の側を通ると、たんこぶ喬爺さんの死体が池の上に浮いていて、みんなびっくりして持っていた鋤を池の周りに放り出して、すぐに派出所に池で人が死んでいると伝えに言ったのよ。ここの池ではここ数年で何人か溺れ死んでいて、何か祟りがあるのかもしれないわ。きっと河童が出てきて言うことを聞かない子供を引きずり込むのよ。小雲子、あなたは河童に捕まえられるのが怖くないの?」
方おばあさんはこう怖がらせるように話をしたので、小雲子はよく記憶しており、そのため二度と近所の子供と遊びに外へ出なくなった。
この二つの例から我々が見て取れるのは、川島芳子が新立城で隠れ住む安全の為に、つねに慎重に行動していたということである。彼女が厳しく小雲子に外へ出て遊ばないようにしていたのは、小雲子が顔を出せば他の人がこの外から来た子供に気づいて、さらに大人を連想させて、方おばあさんが外界からの注目を浴びることを恐れたからであろう。その他にも、もし万が一にも小雲子が新立城でなにか事件を起こしたり、或いは池に溺れでもしたら、当地の人は必ず警察に報告するだろうし、派出所がこのことを調査すれば、家に閉じこもって外出しない方おばあさんの真相が暴露される危険があった。こうして考えると、川島芳子が自分を保護するために新立城という人のあまり知らない辺鄙な田舎町に長期にわたり隠れ住んでいたのは、やはり彼女が熟慮のすえ、あらかじめ発生しそうな危険を予測してそれを避けるためであったろう。
段霊雲の紹介でも、方おばあさんはいつも熱心に仏像に向かい、修行していただけでなく、道家の迷信やタブーなども研究して、何か事が起こると掛をして、吉凶を占っていたのも、一種の迷信とはいえやはり彼女の慎重さの一面を反映しており、無事に余生を送るための苦肉の策であったとも思えるのである。
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