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2015年10月30日

第三章第三節 川島芳子を匿った段連祥

段連祥の経歴から見て、一九三四年五月から一九三五年一月までに、彼が瀋陽虎石台協和学院実習科で日本語を勉強していたのは、彼が十六歳から十七歳のときで、今の我々で言えば高校生に相当する。当時、川島芳子はちょうど満州国安国軍司令であり、威勢良く名声も轟いていた時期であった。段連祥は完全に日本殖民当局の意志で運営された学校で、この名声赫々たる「金璧輝司令」に対し、噂を耳にしただけでなく、彼が臨終の際に張玉に語ったように、川島芳子に対して好奇心と羨望を抱き、川島芳子のファンとなり、一九三七年以後には、天津東興楼へまで追いかけて行って川島芳子と相知ったのである。
段連祥が日本語に精通しており、彼が川島芳子に日本語で手紙を書けたことは、半日本人とでもいえる川島芳子と交流するための重要条件であった。
段連祥は川島芳子より十二歳若く、この年齢差は二〇世紀三〇年代に川島芳子の秘書であった小方八郎の年齢と比較的近く、これも川島芳子が男性の伴侶を選ぶときの心理特性と符合する。
 小方八郎は中年の川島芳子にたいへん忠実であったが、段連祥も老年に入ろうとしている川島芳子にたいへん忠実に仕えた。川島芳子が新立城で生活した三十年の期間中に、《七哥》と于景泰の世話を受けたこともあるが、彼ら二人から世話を受けた期間は短く、どちらも途中で離れてしまった。于景泰は一九六六年《文革》が開始したころ原因不明の死を遂げ、《七哥》秀竹は于景泰の死後まもなく、雲南にいる老母の世話をすると故郷に帰って以来、音信普通になってしまった。しかし、段連祥は川島芳子に対し最後まで仕えた。そのほか、彼と川島芳子は夫婦のように装い、自己を完全に川島芳子に捧げたのである。彼は自分の養女とした段霊雲を川島芳子の養女とし、段霊雲から言えば《方ママ》は彼女の第二の母親であった。段連祥の孫娘張玉からすれば、方おばあさんは彼女の第二のおばあさんであった。段連祥から祖孫三代に渡り川島芳子の余生に付き添い、川島芳子の三十年にわたる孤独と寂寞を慰めたのである。段連祥のあり方は、死中に一生を得て、意気消沈していた川島芳子にとって大きな心の支えになったに違いない。もし日本にいる小方八郎がこのことを知れば、自分が付き添えなかったことを悔いていただろう。
段連祥の臨終の遺言によれば、彼は一九四八年末に川島芳子の救助に参加し長春市郊外新立城へ落ち着かせた。その時から、川島芳子を世話して付き添うことが段連祥の生活において一つの責任となった。段連祥は新中国成立後の一九五〇年、瀋陽鉄路局蘇家屯駅で新たに仕事に参加し、機関車修理溶接工と検車員を務めた。一九五一年には四平鉄車輌場の検車員に転属された。「粛反運動」「三反五反運動」「反右派闘争」など政治運動の中で、段連祥は逃亡変節などの経歴上の問題を組織に知られたが、彼には何の処分もなされなかった。しかし、一九五八年の「大鳴大放」運動において、段連祥は多くの「不満言論」をなした。当時の状況下で、段連祥は経歴と現行の問題により、四平鉄路車輌場の公職を追放され、輝南県杉松岡鎮に送られて労働教育を受け、一九六五年になり労働教育から解かれ、四平の家に戻り、七年にわたり隔絶された川島芳子との連絡を取り戻した。しかし、川島芳子は段連祥が労働教育を受けたときも、彼女の新立城での生活に影響を受けることはなかった。
一九七八年初頭に、川島芳子は病気で逝去した。彼女がこの世に別れを告げたときに、唯一彼女のそばで看取ることができたのは、彼女の親戚ではなく、親戚よりも親しくしていた段連祥であった。こうして段連祥は川島芳子の世話と最期を看取るという責任を果たし終えたのである。

第三章第二節 段連祥の経歴ファイル

段霊雲と張玉母子の段連祥の家系と人生経歴の紹介は、我々が段連祥を理解するために一つの参考としたに過ぎない。段連祥が歴史上川島芳子と交流があった可能性を示す証拠を探すため、また段連祥が川島芳子の逃亡を幇助するのに主要な役割を果たしたことを示す根拠を探すため、我々は段連祥の個人ファイルを調査する必要があった。
段連祥は最後に四平巻きタバコ工場を退職しているので、普通であれば段連祥の個人ファイルは当該工場に保管されてあるはずであった。
しかし、現実はこちらの期待に反し、李剛・何景方・張玉の三人が四平巻きタバコ工場を訪問して、段連祥の経歴ファイルを見た際には大いに失望させられることとなった。段連祥の人事経歴ファイルの袋の中には、ただ四枚の給料調整の為に記された登記表だけで、少なくとも記録としてあるはずの職工経歴の登記表も何もなかった。我々はただ以下の記録を得ただけであった。
「段連祥、男、一九一八年生まれ、一九七二年就職、一九八二年退職、二〇〇四年十二月二十四日病逝。」
我々は戻ってから、段連祥の経歴ファイルの問題について、分析と推測を進めた。我々が理解できたのは次のような点である。段連祥が四平巻きタバコ工場で仕事をしたのは、彼が四平鉄路車検場で公職を剥奪され、輝南県松岡鎮での労働教育が満期になり四平に戻った後であり、まず四平巻きタバコ工場で臨時雇いとなり、後に政策転換により工場の正式な職工となったため、彼の個人経歴ファイルは労働教育部門から送られてこなかった可能性が高い。我々はこの推理に従って、李剛が以前に吉林省政法部門で仕事をした事があるので、我々はそのコネを使い司法系統から段連祥の経歴ファイルの行方を探すこととした。
その筋からの情報で次のようなことがわかった。一九五八年吉林省労働教育総隊が吉林省輝南県の杉松岡鎮に設けられ、《文革》後に双陽区土頂鎮(現在の長春亜泰セメント工場所在地)に移り、一九八〇年に新しく成立した長春市北郊労働教育所に帰属した。北郊労働教育所は一九八七年監獄に改造され、もともとの労働教育人員ファイルは、全部吉林省労働局九台労働教育所に移された。そこで、我々は段連祥の経歴ファイルは、少なくとも労働教育ファイルがあるはずで、それは長春北郊監獄ではなくきっと九台労働教育所(住所は九台市龍家堡鎮)にあるはずだと考えた。そこで、長春北郊監獄事務室の同志と吉林省九台労働教育所でファイルを管理している同志の手を煩わせてまる一週間の時間をかけて探したが、我々が探している段連祥の「経歴ファイル」は、ついに見つからなかった。
こうして我々は出発点に戻って調査を再開することにした。張玉は我々が段連祥の経歴ファイルを探している事を母親の段霊雲に告げた。段連祥が一九五八年労働教育を受けた際、全ての手続きを当時まだ十五歳に満たなかった段霊雲が行ったからである。そこで、段霊雲の予想では段連祥のもともとの経歴ファイルは四平鉄路検車場にそのままあるのではないかということであった。
まず穏当な手段をとり、張玉が四平鉄路検車場に向かうこととした。ちょうど、張玉の伯父(張連金)の長女張秀艶の伯父に当たる李海平が四平鉄路検車場で働いており、しかも調度室主任であった。そこで李海平の協力を得て調査することになり、検車場でファイルを管理している同志の答えでは、段連祥のファイルは検車場にあり、我々が組織の手続きを通せば閲覧できるとの事であった。この意外な発見は、我々を大いに喜ばせた。そこで第二日目の朝早くに、何景方は紹介状を持って汽車に乗り込み四平に向かい、張玉と合流して、四平鉄路検車場の書類室で「除名、死亡」ファイルの棚から、多年にわたり封印された、番号「一〇一」の段連祥のファイルを見つけ出した。幸いなことに、国家鉄路系統の規定では、人事ファイルの保管期限が百年となっていた。それで段連祥は四平鉄路検車場から解雇されて五十年近くが経っており、その人事ファイルはすでに廃棄ファイルに分類されていたが、当該検車場は鉄路系統の規定を厳格に守り、ファイルは完全に保管されていたのであった。
我々は段連祥の経歴ファイルを真剣に調査し、さらに段霊雲と張玉母子の語る状況を参考にして、我々は段連祥の人となりについてはっきりした客観的理解を得ることができた。
段連祥のファイルの記載から見て、以下の重要な事実を確定することができた。
第一に、一九三四年五月から一九三五年一月、段連祥が奉天(瀋陽)虎石台協和学院日本語実習科で九ヶ月勉強し、彼の日本語の基礎を据えたこと。しかしこの学歴について少し説明が必要なのは、段連祥が一九五一年瀋陽蘇家屯鉄路検車場で検車員となっていた期間に、乗務中に勝手に仕事場から離れ、労働規律に違反したため、免職となり、その後に四平鉄路車両場で溶接工に配属され、後に再び検車員の職務に復帰していることである。この期間に、彼は職場組織に経歴と自己紹介の材料を提供しているが、どちらにも奉天虎石台協和学院日本語実習科で学んだという学歴は書かれていない。段連祥は一九五六年三月十五日の第一次自白書で次のように告白している。
「私が過去に履歴に書いた、瀋陽県立初級中学を卒業して直接鉄路に入ったというのは嘘で、私は奉天日本語協和学院専門科を卒業し、満鉄の仕事に配属になった。いわゆる専門科というのは外国語(日本語)を学び、鉄路(満鉄)の為に専門の技術人材を育成するところである。段連祥は奉天日本語協和学院専門科を卒業後に、満鉄奉天鉄路局皇姑屯検車場に配属された。その後に西安(遼源)検車場に転勤になり、前後して雇用員・検車員および技術員などの職を担当した。」
段連祥は自白書の中でこの学歴を隠した原因を語ってはいないが、我々の分析では、彼のこの時期の経歴は次のことを説明しているだろう。彼は伯父の于徳海の関係を通じて、満鉄総裁松岡洋右の関係により虎石台日本語協和学院に入学した。さらに松岡洋右との関係により、彼は協和学院卒業後に満鉄に就職した。松岡洋右と川島芳子は親しくしていたから、これで段連祥と川島芳子の距離が近づき、後に彼が川島芳子と接触し知り合う基礎となった。段連祥がこの期間の歴史を隠した目的は、彼と川島芳子のいかなる関係をも隠蔽しようとしたからではないか。
第二に、一九三五年一月から一九四二年九月まで、八年近くもの期間にわたり、段連祥は前後して、奉天(瀋陽)皇姑屯、西安(遼源)検車場で検車員となり、その間には吉林(市)鉄路局講習所で半年勉強している。この八年間はちょうど段連祥が十七歳から二十四歳の青年時代に当たる。ファイルは個人が書くので、段連祥は自分が日本語通訳を勤めた経歴を書かなかった。しかし、否定できないのは段連祥は日本統治下の満鉄で仕事をしたということだ。段連祥がかつて生前に張玉に語ったところでは、彼は満鉄で毎月の給料が六十大洋(中華民国時の貨幣単位)で、当時二大洋で一袋の小麦粉が買えたということからすると、この収入は高給取りに属する。一九三五年から一九四〇年、段連祥はまだ独身で自由であったが、一九四〇年に彼は妻の庄桂賢と結婚した。段霊雲の紹介によれば、彼女の「母親」庄桂賢の実家は西安(遼源)で有名な金持ちで、段連祥はこの時期に、生活が比較的裕福であったし、彼が満鉄で汽車に乗るには便利で、さらに松岡洋右の恩恵を受けて、恩に報いたいという思いがあり、段連祥は天津の東興楼で自分の憧れであった川島芳子を追っかけたというのは完全にありうることである。
第三に、一九四五年一月から八月、段連祥はかつて満州国吉林省第三国立警察学校に入学し、警尉候補生となっている。この期間の経歴は、段連祥が満鉄で問題を起こして進路変更した経歴である。本来であれば、段連祥は一九三七年二月十日から八月十日まで満鉄の当局者から吉林(市)鉄路局講習所に送られて半年学習したが、これは十九歳の若い段連祥から言って、業務上における特別なエリート訓練であった。彼は鉄路講習所から西安(遼源)検車場に戻った後、既に従業員の身分で、業務上は検車員と技術員を兼ね、検車業務訓練の講師でもあった。彼はこの当時たいへん前途ある青年であったといえよう。しかし、こうして五年ほど仕事をした後に、一九四二年九月四日の日に、段連祥が忙しく仕事をしていると、西安(遼源)駅の連結員、貨車清掃員、電気工事士と警備員が彼を誘って、合計五人で汽車にあった九包(箱)の巻きタバコを盗んで分配し、その結果日本人に見つかってしまった。日本鉄路警護隊は段連祥ら五人を捕え、西安(遼源)地方裁判所に送り、それぞれ懲役一年の判決を受けて、一九四三年九月二十四日に釈放された。(訳者註:後の調査によれば段連祥はこの時期に満鉄調査部で通訳をしており、満鉄調査部事件の影響で逮捕されたことが判明した。)
一九四五年一月、満州国警務局は満州国の範囲内で警尉候補生を募集し、合わせて募集応募人数は千五百名であった。全東北には四つの国立警察学校が設立され、それぞれ設置されたのは、新京(長春)、奉天(瀋陽)、吉林(市)、ハルピンであった。無職になり家で一年余り暇を託った段連祥は吉林(市)第三国立警察学校に入学した。当該警察学校は四平地方警察学校の校舎を借用していたので、第三国立警察学校は実際には四平に設置されていた。吉林警察学校には百五十六名の学生がおり、三つの班に別れ、学期は一年であった。しかし段連祥が実際に学んだのは八ヶ月と十日で、日本が投降したため、警察学校もこれにより解散となったのである。
段連祥のこの時期の経歴は、たったの半年あまりの時間ではあったが、我々が思うに、これも段連祥が満州国時代により深い社会関係を築いた期間であった。彼は一度の過失により、満鉄の良い仕事の職場と発展の機会を失ったが、彼はそれにより人生をあきらめてしまったわけではなく、警察学校募集の機会が到来した際に、二十七歳の段連祥からすれば年齢がやや高かったものの、彼は機会を掴んでコネを通じて警察学校に合格したのである。もし満州国がこんなに早く滅亡しなければ、彼は「権勢のある」満州国の警察官となっていたであろう。警察学校で勉強していた期間には、先生や同級生との関係ネットワークを築き、これも後に彼が川島芳子を助けて長春市郊外新立城で匿う準備となる条件となった。
第四に、段連祥は日本が投降し、警察学校が解散し、瀋陽蒲河の実家に戻って暇をもてあまして数ヵ月後に、一九四六年一月、同郷人を通じて、共産党八路軍駐鉄嶺の二四旅七一団一営で供給員であった徐永保(徐純恒)の紹介で、共産党軍に参加し、二四旅七一団一営の衛生員・事務員などの職に就いた。その後に、彼と徐永保、欒祥茂、候振福、葉成文などと共に、共産党軍での規律の厳しい生活に不満を抱いて、気の合う仲間で小団体を結成し、前後して二回にわたり秘密に会を開き、機会を見つけて国民党軍に寝返った。一九四六年四月、共産党軍が移動撤退し梨樹県陳大煙筒屯で宿営した時に、徐永保を首謀として、欒祥茂、段連祥、候連祥、葉成文など五人で共産党軍の馬車一両を引き、馬車に歩兵銃、ピストル、手榴弾、投擲弾など各種の弾薬を若干載せて脱走した。段連祥本人はさらに三八式騎馬銃を一丁持ち、鉄嶺、開原、法庫、昌図四県の地図を各一枚、共産党軍の人員・馬・武器・弾薬統計表を一枚、彼の所在一営人員の名簿一冊と幾らかの宣伝資料を持ち出した。彼らは叛乱して共産党軍から脱走した後、馬車に乗って二、三日走り、西安(遼源)に赴いて国民党の二〇七師六二〇団に投降した。彼らは国民党軍に共産党軍の活動状況を報告したのみならず、部隊番号、戦略戦術および部隊編成など軍事秘密を教え、さらに共産党軍のことを「匪賊」とか「貧乏猪八戒」などと罵った。段連祥は二〇七師六二〇団の二営営部で上士事務官となった。一九四七年三月、国民党二〇七師は共産党軍に敗北離散し、段連祥は瀋陽蒲河の実家に逃げ帰った。
段連祥が共産党軍に参加した後に脱走して国民党軍に投降したしたことについて、共産党軍四一五二部隊長梅明善同志は一九五六年に証明書を書いて、彼が指導したこの部隊の状況を紹介しており、その中から段連祥たちの当時の状況を詳しく知ることができる。
「我軍駐鉄嶺二四旅七一団一営部隊は日本投降後に組織され、組織された当時にはまだ共産党の幹部指導者がいなかったため、撫順炭鉱工人と当地の群集、および抗戦時期に関内で共産党軍に参加し、苦しい戦闘生活と困難に耐え切れずに東北に逃げて仕事をしていた者、これらのものが我軍の状況を理解し、日本投降後に、彼らにより組織された支部隊である。まもなく(一九四五年十二月)組織は私をこの支部隊の指導者として派遣した。私が赴いたときには四連隊で六百数人がいた。これらの支部隊成員は、鉱工、特務、警察などで、純粋な農民はほとんどいないかとても少なかった。後ほど、彼らは我軍の規律が厳格で、生活が不自由なので、少数の人員が逃亡した。後に三個連隊に編成した。まもなく、国民党軍が東北に侵攻し、我部隊は北に向けて撤退し、北に撤退する際に多くのものが逃亡し、武器も持ち去ってしまった。あるときには全班が逃亡したり、大勢の幹部例えば副営長、副政教、連隊長などが逃亡した。当部隊が四平に撤退したとき(これは第一回目の戦闘による)、上級幹部はこの支部隊がもし本部隊と合流しなければ、数日後には殆どの人が逃亡して武器も持ち去ってしまうと考えた。以後(一九四六年春)に本部隊に合流した。ともかくこの部隊を編成した兵の素質が悪く、そのため逃亡が非常に多かった。」
段連祥が一九四七年三月に家に帰った後は、しばらく巻きタバコを売ったり、鉄道関係で仕事を探そうとしたが、どれもうまくいかなかった。一九四八年六月、彼は瀋陽で彼がよく知る国民党の新しく整理編成された二〇七師団に参加し、当該師団一旅一団二営で上士文官、軍需などの職務に就いた。一九四八年十一月遼瀋戦役が終わると、段連祥が所属していた国民党二〇七師は消滅し、彼はまた家に逃げ帰った。
段連祥のこの時期の経歴については、粛反運動中に四平鉄路車輌場がすでにその結論を下しているので、我々はこれを評論しない。しかし説明できることは、解放戦争時期に、戦乱の中で、段連祥は生活の糧を得るために、かれは三度兵士となり、第一回目は共産党の指導する八路軍に参加したが、それはただ盲目的なもので、同郷のものに連れられて行っただけだったので、わずか三ヶ月たらずで、段連祥は人民軍の規律の厳格や、生活の困難、武器装備の欠乏などの客観的条件に適応できず、敵前逃亡の危険を冒して敵に投降した。第二回目に入隊した際には、段連祥が共産党軍から離反して、国民党の部隊に寝返ったときである。段連祥がこのときに敵に投降したのは、同郷の徐永保に誘われたからだとしても、なぜ国民党二〇七師が共産党軍に打ち負かされ、段連祥が一年あまり職業を探した後、一九四八年六月に国民党の大勢がすでに定まり、失敗が目に見えている形勢下で、段連祥は第三回目も国民党の軍隊に入隊することを選んだのか。結果として五ヶ月も経たないうちに、東北は全土が共産党軍により解放されたのであるが。我々が思うに、段連祥の学識と三十歳の人生経歴から考えて、彼はまったく判断能力がなかったというわけではあるまい。しかし彼の人生の分かれ道での選択からして、また彼の思想傾向、生活方式と人との交流から見て、これらはみな国民党の二〇七師団と大きな関係があるようだ。
段連祥が敵に投降して変節し、二回国民党の軍隊に参加した経歴について、彼は生前に養女の段霊雲には真相を話したことはなかった。以前に段霊雲が我々に父親段連祥のこの時期の経歴を紹介した時には、父親がかつて彼女に次のように述べたと語った。彼が八路軍の隊伍にいた際に、ある日の夜に行軍し、彼が便を足す場所を探していたために軍からはぐれてしまい、隊伍を追っかけていると、国民党軍隊の巡邏隊に捕まってしまい、やむなく国民党の軍隊に参加した。後に張玉が母親の段霊雲にファイルの中にあった記載を紹介し、祖父の段連祥が投降して変節した真相と彼が二回も国民党の軍隊に参加した事実を知ると、段霊雲は父親の家系についての記憶から、自分の推測を語ってくれた。
一九四〇年九月、第二次世界大戦を引き起こしたヒットラーのドイツは、空軍を使って大規模に英国のロンドンとその他の工業都市を爆撃し始めた。段連祥の伯父于徳海がロンドンで開いていた幾つかの店舗も破壊され、さらに不幸なことに、彼の英国の妻子であるジェニーと息子のアンリもみな空襲で亡くなった。于徳海はそのために再び英国に戻ることはなかった。一九四〇年十月于徳海は瀋陽で二十二歳の段連祥のために婚礼を執り行った。一九四一年、段連祥と新婚したばかりの妻庄桂賢は遼源(当時は西安と呼んだ)の岳父の家に住んだ。段連祥の岳父は姓を秦(妻の庄桂賢は幼いときに母親が再婚したが、自分の姓を変えなかった)といい、遼源でも一番の裕福な家で、邸宅と土地があるだけでなく、家のそばの街路沿いには幾つかの店舗も有していた。満州国での日本統治下では、こうした郷紳は一方では日本人に協力し、同時に社会上の様々な派閥の人間と交流をする体面を重んじる人物であり、こうした人たちの中には、日本人に協力して漢奸となったものもおれば、国民党の地下工作員となったものもいた。
一九四一年太平洋戦争が勃発した後、日本が東南アジア各国と太平洋諸島への侵略を拡大すると、段連祥の岳父の邸宅と街路沿いの店舗はすべて日本関東軍に徴用された。しかし、段連祥は日本語に精通していたため、秦家に駐屯した日本軍の人員と仲良くなり、徐々に日本人の信頼を得た。一九四五年一月、段連祥の満州警察学校入学は、彼の遼源の岳父の家に居住していた期間に日本人と密接な交友をしていたことと直接関係している。
一九四五年八月十五日に日本軍の敗北により「光復」すると、日本人が去った後に、まもなく今度は国民党がやって来て、やはり段連祥の岳父の邸宅に目を付け、国民党の遼源(県)党本部として使った。段連祥は日本人と交流した経験から、国民党の兵士たちとの関係をつけるのも自然と容易いことであった。段連祥が共産党八路軍を離反し、遼源に駐在していた国民党軍隊二〇七師団に投降し、さらに段連祥が当該師団の営部で上士文官と配属されたのも、彼と国民党の人士の交流があったことと関係があるだろう。段連祥が二回目に国民党二〇七師団に参加し、共産党軍に打ち負かされた後、瀋陽で再び新しく編成しなおされると、自然に段連祥を知る者が多いので、再び彼を呼び戻したのである。当然、前提条件はやはり段連祥本人がそれを望んだからでもある。

第三章第一節 段連祥の経歴

段連祥は、川島芳子が一九四八年三月二十五日に死刑を逃れた後に、長春市郊外新立城に逃亡し落ち着くまでの主要な幇助者の一人で、また解放後には川島芳子と夫妻の形式で共に生活し、忠実に川島芳子が一九七八年に死去するまで付き添い、三十年間の長きに渡る唯一の当事者であるが、そこで次のような質問が避けて通れないだろう。「すなわち段連祥とはいったい何者か?」という問である。歴史上彼と川島芳子にはどんな関係があったのか?彼の話は信頼性があるのかどうか?
これは我々が川島芳子生死の謎を調査するのにまず先にはっきりさせておくべき問題であった。
段連祥の唯一の娘である段霊雲と段連祥の最愛の孫娘張玉は、段連祥の生前に、多年にわたる言語交流と共同生活を通じて、段連祥の家系の歴史と個人の経歴について以下のように理解していた。
段連祥は一九一八年の馬年生まれで、遼寧省瀋陽市蒲河郷人、漢族である。父親は農民で土地を耕して生計を立て、経済的には自給自足であった。母親の于氏は、母方の実家が満州族正黄旗人、その祖先は清王朝で関外皇陵で陵墓を見張る正黄旗武官の出身である。段連祥の伯父は于徳海といい、清朝末年に乾清宮で「御前宮廷侍従」官を務め、宮中でよく王侯大臣たちが朝廷で国事を談ずるのを見ていた。こうして于徳海は川島芳子の生父粛親王善耆を知っただけでなく、彼と親密に往来するようになり、またある時には粛親王善耆は朝廷への建議書を、于徳海に彼の代わりに提出するよう託すこともあった。于徳海はしばしば北京郊外に新しく落成した粛王府で客となり、さらに善耆と義兄弟の契りを結んだ川島芳子の養父で日本人の大陸浪人川島浪速に出会った。
于徳海は非常に聡明な人間で、もはや清王朝の運命がそう長くはないことを見て取ると、早めに家産を売り払い、長年の貯蓄をすべて持ち出して、すべてを英国のスタンダード・チャータード銀行に預けた。一九一一年の辛亥革命により清王朝が滅亡した後、于徳海は素早く英国に赴き、英国の首都ロンドンで幾つかの宝石店を開設した。一九二〇年に于徳海は帰国して親戚に会い、子供がいなかったので、姉の三男に当たる、当時二歳の段連祥を養子として英国に連れ帰った。この時、前清朝の粛親王善耆はちょうど東北の旅順で逃亡生活を送っており、于徳海も善耆に会いに行った。旅順の粛王府で、于徳海は早くより善耆の《義兄弟》となっていた川島浪速と出会い、そこで川島浪速とも親密な関係を築き、しばしば手紙を遣り取りするようになった。
当時、善耆と川島浪速はともに于徳海を才人と認め、彼にも日本人のために働くよう紹介したが、于徳海は日本人が善耆を支持して行っている満蒙独立を胡散臭く思っていたため、英国に商売があるので暇がないと言い訳をして婉曲に断った。
一九三二年、満州国が成立した後に、于徳海が瀋陽に親戚に会うため帰った際に、ある会社の成立式典で、当時の満鉄副総裁であった松岡洋右(一九三五年満鉄総裁)に会い、両者は自然と自分の古い知己である粛親王善耆と川島浪速の話となり、関係はより一層近づいた。松岡洋右の勧誘により、于徳海は英国の大部分の資金を満鉄に投資し、さらに于徳海は松岡洋右の推薦で、満州重工業開発株式会社の顧問に就任した。
于徳海は満州国成立後に、すすんで満鉄に投資し、日本人に手を貸したのは、彼が日本がすでに中国東北に足場を固め、前清王朝の遜帝溥儀も日本人により担ぎ出され、この前清王朝の遺老にあたる彼も、大清王朝の復活の希望を夢見たからであろう。そこで彼は英国のいくつかの宝石店舗を彼の英国人妻ジェニーの管理に任せ、彼自身は主要な精力を満州への投資事業に当てることになった。彼の英国人妻ジェニーはもともと于徳海の養子となった段連祥の家庭教師であった。一九二四年に段連祥が六歳のときに于徳海とジェニーは結婚し、一年後にジェニーは男の子のアンリを産んだ。七歳の段連祥は自分に弟ができたことを知り、また自己が疎まれるようになったと感じ、かつての家庭教師で、いまは継母となったジェニーから疎遠に振舞うようになった。于徳海はそれを知ると、段連祥を国に連れて帰り、また彼を瀋陽蒲河の姉の家に戻した。段連祥に国内で比較的良い成長の環境を与えるため、于徳海は瀋陽の皇姑屯に姉一家のために比較的広々とした新しい邸宅を買い与え、さらに段連祥に十分な学費を与えた。段連祥は伯父の于徳海の資金援助により、小学校を卒業し、また中学校で学んだ。段連祥が中学を卒業した後、于徳海は松岡洋右の日本との関係を通じて、段連祥を瀋陽虎石台日本語学校に入れて日本語を専門に学ばせた。一年後に卒業すると、于徳海は再び松岡洋右との関係を通じて、段連祥を満鉄の皇姑屯駅で検車員としたが、実際の主要な仕事は日本人の通訳であり、後には四平鉄路局の日本警察局長専門の通訳となり、月給は六十大洋(中華民国の貨幣単位)で当時としては大変な高給取りであった。
段連祥は小さい頃から伯父であり養父でもある于徳海との関係を通じて、川島芳子の父親の世代の人たちの恩恵を受けてきた。それで、段連祥が成人した後に、こうした経歴を理解して、彼は内心からの川島芳子の父親たちへの感謝の気持ちを、川島芳子の身上にすべて集中して注いだのである。こうして、我々は段連祥が男装の麗人金璧輝司令を敬慕し、憧れを抱いて、わざわざ遠くの東北から天津東興楼に川島芳子の容姿を一目見るためにやって来て、さらに川島芳子が危機に遭遇して彼に頼ったときにも、段連祥は危険を顧みずに、川島芳子救助に参加したこれらの行動も、理解しがたいことではないのである。

第二章第三節 李剛の決意

同年代の人々に比べて、李剛の出身と経歴は比較的波乱に富むものであった。その家族の一世代前の十数人が皆中国のために苦労して重大な貢献をした革命家であった。彼等のうちのあるものは東北抗聯の重要な指導者であったり、北京の共産党地下活動の責任者であり、元吉林省共産党委員会書記で省長の前世代の革命家であった于克からは「紅色家族」(紅は革命の色)との名誉を受けていた。李剛の父親に当たる李延田は一九三五年革命に参加した老幹部で、共産党の「特務」工作に長年従事した。延安で整風運動があった時には、一度は無実の罪で党籍を剥奪されたものの、その後に朱徳総司令みずからがサインして党籍回復を同意した(この文書は長春市档案館に保存されている)ことがある老革命家であった。しかし、残念なことに「文化大革命」で災難を逃れることが出来ず迫害されて亡くなった。李剛も「反革命分子」の子弟と誤って見做され、長年にわたり差別を受けたことがある。彼の言葉を借りて言えば、父親は「粛清」され、自分は「圧力」を受けた。党の十一回三中全会の後に、父親の李延田は名誉回復され無実の罪を晴らすことができた。李剛は一九七〇年の十六歳の時に鉄鋼精錬工として仕事に就いて以来、様々な仕事の職場で鍛錬された。一九九八年彼が吉林省政府駐海口弁事処副主任に任じられていた期間に、弁事処からの委託を受けて、吉林に戻り芸術学校を創業し、校長法人代表を担当した。この学校の経営はわずか数年で、人材を育成し、効果を挙げた。二〇〇一年に健康上の理由で、批准を経て、早めに一線を退いた。長年にわたり、李剛は業務の合間を縫って、多くの法律関連書籍を編修し、吉林省法学会理事となっている。また他の人との共著で文芸作品を出版し、吉林省作家協会会員でもある。特に法律関係者としては、近年は経済(民事)案件に参加し、比較的高い法律の素養と豊富な裁判経験を有する。それゆえ、家庭的背景と鋼鉄精錬工の出身は彼にさながら生まれつきの鋼性を持たせ、有言実行の「手段」を持ち、深謀遠慮にして、常に何かを「探索」している。張玉の目から見て、李剛はまさしく「能力があり、胆力があり、社会交際の広い」人間であった。
張玉はただこれらを見ただけでなく、李校長が誠実で約束を守る人間であることを尊敬していた。張玉が忘れることが出来ないのは、一九九八年芸術学校が新居に移転する際に、校舎清掃の「言」を張玉の弟に託したときのことである。給与支払いの際に、芸術学校がまだ「重い負債」を抱えていた困難な情況であったにもかかわらず、李校長は個人で借金してまで張玉の弟である張継宏の給与を支払った。そのため、張玉は李剛は言ったことは必ず果たす人間と信頼していたのである。
李剛は彼の多年にわたる行政方面での仕事の経験と中国近代史の学習と理解により、こう考えた。
「張玉は、美術創作の専門家で、二〇〇四年以前には川島芳子が誰かもよく知らなかった若い女流画家に過ぎない。何か個人的な目的で、中国現代史上の重要歴史人物について嘘をでっち上げられるような能力はないし、だいいちこんなことを故意に嘘つく必要もない。半世紀にわたって論争のある川島芳子『生死の謎』が、ひょっとしたら彼女の祖父段連祥の臨終の遺言によって、深い霧の中から現れて、歴史の真相が解き明かされるのかもしれない。」
李剛は客観的で冷静な分析によって、こう大胆に推測すると、その場で果断に決心を下した。張玉のまじめで誠実な態度と、その助けを求めるような目を前にして、さらに張玉がバックより出してきた幾つかの物証を目にして、李剛は心を動かされたのであった。なにはともかく、この一人の年若い女性にすぎない張玉が歴史に向かって事実を突き止めようとするその精神、そして友として自分に向けられた信頼に対し、李剛はすぐにこう態度を表明せずにはいられなかった。
「張玉、もう何も言わなくていい。この事件は私が手伝うというのではなく、我々共同で、この世界を震撼させる秘密を明らかにし、世の人々に公にし、歴史の真相を突き止めなければいけないことだ。もし、調査がうまくいかなかったとしても、費やした精力や財力は、ちょっとした学費を払ったと思えばいいじゃないか。」
それから、李剛は張玉にあらかじめ言っておかなければならなかったのは、この「懸案」の検証と謎解きの過程で、歴史に責任を負い真実を明らかにするために、幾つかの点で祖父の段連祥や母親の段霊雲そして張玉本人に対して「経歴調査」を行う必要画あるかもしれないと釘をさした。張玉は同意を表明して、積極的に協力を申し出てくれた。
こうして世紀の懸案の謎解きが始まったが、その結果が如何なるものになるかはこの時は知る由もなかった。李剛はナポレオンの名言を思い出した。「まず戦闘を始めよ、それから見極めよ」と。

李剛は張玉の委託を受けると、自己に責任を感じると同時にまた負担にも感じるのであった。加えて彼の手元には教育方面の仕事を山のように抱えており、同時に幾つかの法律事務所の顧問を兼任していたので、それだけで仕事量はすでに重過ぎる荷となっていた。今、こうして川島芳子生死の謎の検証を引き受けたからには、ぜひともよき助手を見つける必要があった。李剛は走馬灯を回すように身の回りの同僚や友人や同級生たちを一通り思い浮かべて、最後に彼の心の中で一人の男が定められた。その男とは、すなわち何景方である。
李剛と何景方が知り合ったのはもうかれこれ二十年前のことで、それは何景方が長春市共産党委員組織部の幹部として仕事をしていた頃のことであった。
何景方は文化大革命前にはエリートコースの長春市重点中学・市実験中学を卒業して高校生となっていた。しかし、一九六八年彼は知識青年として農村に追放されて再教育を受けることとなった。その後に長春市に呼び戻され、工場でずっと事務員として働いた。かつては長春一汽軽型車工場弁公室主任兼秘書として働いたこともあった。一九八一年に「文書掛」として長春市共産党委員の仕事に抜擢された。長春市共産党委員組織部で働いていた期間には主に市が管理している幹部の資格審査に従事し、そこで勤勉で落ち着いた仕事態度を養った。一九八三年に吉林大学政治学科幹部専修クラスに入学した。一九八五年以後は前後して市所属の企業で共産党委員書記を務めたり、区所属の役場で主任として働いた。
何景方も人生の曲折と仕事上での挫折を経験したが、それでも学習の手を休めることなく、手に握るペンによって社会のために奉仕するという精神は終始変わらなかった。
李剛と何景方は知り合った後に何回も協力して仕事をしており、かつて山西『市場ニュース報』が吉林省で仕事を展開するのを助けたり、幾つかの企業や個人の法律訴訟の代理をしたことがある。
二〇〇四年には、二人は共同して李剛の家族を背景とした『紅色家族』という本の編纂を開始した。その後二〇〇四年九月に李剛が交通事故で怪我をしたため、何景方は一人で北はジャムス・ハルピン、東は吉林・延吉、南は北京へ赴き、大量の資料を収集し、李剛と一緒に原稿を完成した。二〇〇五年の上半期には、省委員の関連指導者の許可を経て、『紅色家族』という東北延吉の一家十数人が中国革命の為に血を流し犠牲となった事跡を伝記として出版することが出来た。
何景方は多くの書物を読んでおり、比較的に歴史的知識が豊富である。多年にわたり機関で仕事をしたため、勤勉厳粛で客観的な態度を見につけており、論理的に読者をして納得させる書き方をする特徴がある。それで、李剛にとって川島芳子の生死の謎の検証作業をするために、何景方はなくてはならない助手であった。
李剛は川島芳子生死の謎を検証する作業情況を何景方に伝える際、二人の観点は期せずして一致し、まもなく検証作業は正常な軌道に乗った。こうして困難に満ちた調査の幕が切って落とされたのである。

第二章第二節 理解者が現れる

二〇〇六年夏、張玉はすでに段連祥の遺言の陰影から抜け出し、画に専心して『紅楼夢』の十二美女人物画を創作した。人から吉林省文化庁周維傑庁長(現在既に退職)が人物画の造詣にたいへん深いと聞くと、張玉は自分の画を持って周文化庁長に面会に行った。周庁長は張玉の人物画を見た後に、画に対して賞賛する意見を述べただけでなく、彼女に『紅楼夢』に出てくる全ての女性人物を描いて、『紅楼夢』の美人達を集め、『紅楼夢』美女人物画展を開いたらどうかと提案した。『紅楼夢』にでてくるそれぞれの女性人物の特徴を把握するために、画に区別が付けられるようにと、周庁長は特別に張玉に省内にいる『紅楼夢』研究専門家の奚少庚(奚少庚は二〇〇八年八月に病逝した)を紹介してくれた。
奚少庚との交流により、張玉が『紅楼夢』の美女人物画を創作する上で得た益は浅からず、同時に彼らの間には「年齢を超えた」親しい友誼が芽生えた。張玉が奚少庚と世間話をしているうちに、奚少庚夫婦は共に満州族で、奚少庚の夫人である周光藹の家族が皇帝の親戚筋にあたると聞き、また張玉の「秘密」を打ち明けたいという思いが湧き上がってきた。そこで、張玉は試しに心中の「秘密」を奚少庚に聞かせると、彼ら夫婦はいささかも疑うことなく、異口同音に彼女を支持し、張玉がこの「秘密」の調査をやり遂げるよう希望した。奚少庚は真剣に彼女に言った。
「川島芳子はたしかにやや反面人物ではあるが、彼女は有名人でもあるし、日本にも少なからず影響がある。彼女の死刑執行については、ずっと論争があり、いまだ決着が付いておらず、すでに国境を越えた、世紀を越えた歴史的懸案となっている。もし、お前が事実によって証明でき、銃殺された川島芳子は替え玉で、お前の方おばあさんが本当に川島芳子なら、これはお前が中国の歴史学界にできる一大貢献になり、お前はきっと有名になれるだろう。やってみてもいいんじゃないか。」
奚少庚先生のこの言葉は、張玉の決心を促し、彼女が再び躊躇と迷いに沈むことをなくさせた。彼女は決心をつけると全力で彼女を助けてくれそうな人を探すことにした。実は彼女にはすでに早くからある人物に目星を点けていた。この人ならきっと全力で助けてくれると信じている人物だった。
二〇〇六年七月のある日、吉林省の八天英語倍訓管理センターの李剛校長(本書作者の一人)は、いつものように朝早くに長春市人民大街二八三六号の旧満州協和会の建物の中にある自分のオフィスに来て、今日一日の仕事の準備をしていた。ちょうどその時、門を「コツ、コツ」と叩く音が聞こえた。
「どうぞ、お入り。」
李剛が言うとすぐに、一人の流行の服装で、日本女性風の髪形をして、手には皮製の筒状のバッグを持った若い女性が、そそくさと急ぐように李剛の目の前に駆け込んできた。
「おや、我らが美人画家の張玉じゃないか!ここに来るとはどういう風の吹き回しだい?」
李剛はこの以前よりよく知る女性に冗談交じりに声をかけ、笑顔で招きいれた。張玉は、本名を張波涛といい、長春市青年美術家協会会員で、当代の傑出した細筆重彩画家王叔暉先生の弟子で、細筆美人画を得意としている。彼女の画作の手法は細やかにして、画く人物が俊美だと、長春市の美術界ではちょっとした有名人であった。八年前に、李剛が吉林省軍星芸術学校校長だった時に、張玉とは共に教壇に立ったことがあり、既にお互いよく知った間柄であった。
「李校長、私ちょっと悩んでいることがあるんだけど、もう二年近くになるかしら、誰も理解してくれなくて。貴方だけが頼りなのです。」
張玉は芸術家肌で、何事でも率直で、歯にもの着せずに、遠慮なく言うタイプだ。
「何をそんな大事があるんだい。まずお茶でも飲んで、ちょっと落ち着きなさい。ほら、どんな事でもいいから、できる限り手伝ってあげるから。」
李剛はこう言って張玉を落ち着かせると、お茶を入れて張玉に渡し、それからイスに座って彼女と対面して話を聞く体勢を取った。
張玉のこの時の話によって、李剛がびっくり仰天させるだけでなく、六十年以上隠されてきた歴史の懸案が再び明らかにされることになろうとは、このときは誰も予想だにしていなかった。

第二章第一節 秘密を調査開始

祖父段連祥の臨終での遺言に、張玉は当初は半信半疑であった。しかし、彼女は考えた。
「論語にも『鳥の将に死なんとするや、その鳴や哀し。人の将に死なんとするや、その言や善し。』と言う。祖父は生前から自分を可愛がってくれていた。だから、臨終の際に半世紀にわたり隠していた秘密を、最も信頼し最も親しい孫娘に打ち明けたのだ。それが人の情というものだ。祖父が自分の心身を病気に苦しめられ、既に生命の危機に瀕している時に、自分の可愛がっている孫娘によもやこんな大きなジョークを言うわけがない。」

同時に彼女は繰り返し、彼女の記憶の中にある方おばあさんというこの神秘的な老婦人を思い返していた。その言行や性格からいうと、確かに普通の女性とは明らかに異なっていた。こう考えると、張玉の心の中に彼女がよく知る方おばあさんに対して、また一つの疑問が生じ始めた。
「まさか、うちの方おばあさんが本当に祖父の言う川島芳子なのかしら。」
何度も何度も繰り返し考えているうちに、張玉の心は苦痛を感じ始め、少なからず精神的な負担を与えるのであった。張玉はまた川島芳子に関する資料を探して読んで、こう書いてあるのを見つけた。
川島芳子(金璧輝)、一九四八年三月二十五日当時の国民政府北平当局に漢奸と間諜罪で秘密裏に死刑を執行される。しかし川島芳子の死刑執行には、多くの疑問点が残された。「替え玉」説がまことしやかにささやか
れ、当時の北平で騒ぎを起こした。

ただ国民党政府政権が中国大陸での統治に失敗して倒れたため、川島芳子の「生死の謎」もうやむやになってしまったのである。このことは、川島芳子が「替え玉」を用いて死刑を免れた可能性が存在することを物語っていた。こうした状況を把握すると、張玉は方おばあさんが川島芳子であるというこの「謎」に対して興味がわいてきた。

しかし、段連祥が逝去して二年ほどは、張玉の祖父の臨終での遺言に対して、しばしば迷いを感じるのであった。その一つは、もし祖父の遺言が真実だとすると、この秘密を公にしていいものだろうか?その必要があるだろうか?公にした後に自分にどんな影響があるだろうか?ということであった。二番目に、もし秘密を調査するとしても、彼女個人から言へば、精力的にも能力的にも財力的にも力不足で、誰かの助けがいることは明らかであった。張玉は再三考えた挙句に、まず試しに周囲の人の意見を聞いてみることにした。張玉の同級生や親族はほとんど四平に住んでおり、長春の社交界はただ美術界にのみ限られていたので、彼女が相談したり交流できる人の範囲は比較的狭かった。そのため二〇〇五年の間には「調査」はまったく進展することはなかった。数人の「知己」の友人は彼女の相談を受けると皆がこのように答えた。
「お前、そんなことにかかわってどうするんだ。余計なことはしないほうがいい、面倒を引き起こすだけだぞ!」
ある人はそう言うだけでなく、彼女とは疎遠になってしまう者もいた。彼女が知り合いのある退職した政府の幹部に相談すると、やはり彼女を心配して張玉に言った。
「お前は良い画を書いて、画で有名になればそれでいいじゃないか。漢奸のおばあさんがいるなんて言ってみろ、どうなるかわかったもんじゃない。お前、ちょっと頭がおかしくなったんじゃないか?」

身辺の人間はこぞって「出る杭は打て」式の雰囲気で、張玉は一度は「調査」の気力を失い、「撤退」の準備を始めて、「調査」の意思を放棄しようとしていた。

第一章第四節 川島芳子の遺品

段連祥は秘密を語り終わると、手で指示して身辺の物を詰めた箱を持ってこさせ、張玉に箱を開けるように言った。箱の中にあった品々はそれぞれ祖父段連祥と方おばあさんに関連する物品で、段連祥は一つ一つ品物の来歴を説明した。

日本女性が風呂場にいる絵の掛け軸で、牛皮紙で表装してあるもの。段連祥が言うには、これは張玉が生まれる前に方おばあさん(川島芳子)が新生児(張玉)のため記念に書いた絵である。
二冊の昭和十七年(西暦一九四二年)の日本語の雑誌『世界画報』。段連祥が言うには、この雑誌は彼が天津の東興楼の食堂に行った際に、小方八郎が彼に見るよう送ったもので、現在はこの二冊しか残っていない。
一冊の一九六九年版日本語字典。段連祥が言うには、字典は彼が満鉄で仕事をしていたときの日本人同僚が一九八四年に日本から彼に送ってよこしたもの。

二封の手紙で、段連祥が一九九九年に日本語で書いたもの。一封は張玉の母親が日本人残留孤児であると説明した手紙。もう一封は彼が張玉の母親段霊雲の日本人の兄にあたる三ツ矢敏夫に宛てた手紙。
一幅の掛け軸で満州国時代の親日派画家張紫楓が画いた絹画の「老虎」図。段連祥が言うには、この画は《七哥》秀竹が彼に送ったものである。

一本の指揮棒のような杖。上端は黄銅のギャップ、木製の柄で、根部は鉄で覆われ鉄の先端部により磨耗を防いでおり、これも《七哥》が残したものである。情報によればこの指揮棒は国民党の軍事指揮官用で、鑑定が望まれている。

七宝焼の獅子像。底の穴が開いた部分に封蝋がしてあるもの。段連祥が言うには、これは川島芳子から生前に託されたもので、可能であれば彼女の秘書であった日本人小方八郎に渡すようにと託された。

川島芳子が生前に用いていた銀製のかんざし一本、銅製の豚をかたどったような鋳物一組、民国時期に日本で生産された銀製の碗一つ、民国時期に香を焚く為に用いた磁器製炉一つ。

張玉がこれらの品物を一つ一つ手にして精査した後、段連祥は手でベッドの向かいの壁の棚を指差していたが、張玉はこの時すでに心の中で方おばあさんが川島芳子であるということを疑ったり回想したりしていたため、祖父の手が指すものを気に留める余裕がなかった。実は後から分かった事だが、この壁の棚にはさらに方おばあさんが川島芳子であることを証明する重要な物品が置かれていた。だが、この時は段連祥は既に話す力を失っていたので、張玉は急いで祖父を寝かしつけ、話し尽くせなかったことは、また後で機会があれば話すつもりだった。しかし、再びこうやって話す機会はもう後には残されていなかった。

段連祥がこうして秘密を張玉に告白しおわると、彼は何かいっぺんに気が抜けたようになって、そのまま昏睡状態に陥った。さらに時折「うわ言」のようにこう呟くのであった。
「張玉。方おばあさんが迎えに来た。また方おばあさんと一緒だ。」
張玉はこの祖父の「うわ言」のような内心の吐露を聞いて、まもなくこの世を去らんとしている祖父の方おばあさんに対する一途な思いに涙を流さずにはいられなかった。
ほどなくして、段連祥はこの世を去ったが、彼はこのか弱く年若い孫娘にとっては非常に負担の重い思想的課題を残して去っていったのである。

第一章第三節 川島芳子との接触

【川島芳子との接触】
一九三四年に段連祥は中学校を卒業すると、満州奉天(瀋陽)協和学院日本語学校に入学し日本語を学んだが、学校の場所は瀋陽北の虎石台鎮に位置していた。日本語学校では彼の視界は大いに開け、しばしば川島芳子すなわち「金司令」に関する伝奇的な物語を聞いた。そのころ、段連祥の心には川島芳子に対して一種の好奇心が芽生えたが、それは現在のスターを追っかける若者に通じるものであった。一九三五年に段連祥は日本語学校を卒業すると、満鉄での仕事に配属され、最初は奉天の皇姑屯検車場で検車員となり、後には西安(了源)の検車場に転属されて検車員となった。この期間に、彼は日本語が良くできたため、しばしば日本人のために翻訳をし、ある一時期は、四平鉄路局の日本警察局長の通訳を務めたこともあった。そして仕事の便のため、彼はしばしば日本警察局長の出張に伴われて出かけたが、あるとき天津にも行く機会があった。彼が警察局長と天津の東興楼で食事をしている時に、彼は学生時代にあこがれていた川島芳子の妖艶な姿を目撃したが、川島芳子の周囲にはたくさんのファンがいた為に、彼のような小人物のところには挨拶に来るようなことはなかった。

そこで、段連祥は日本語で川島芳子にファンレターを書き、手紙には綿々と自分の川島芳子への憧れの気持ちを書き、さらに次のように書いた。
「今後なにか芳子様のお手伝いをできる事が自分にございましたら、私はたとえ火の中でも水の中でも辞さず、きっと駆けつける覚悟でございます。」

彼はこの手紙を川島芳子の秘書である小方八郎に託した。再び天津の東興楼へ食事に行った際に、食堂の管理者を通じて川島芳子から彼に宛てた返事を手渡された。手紙には大体次のように書いてあった。
「キミの僕への好意に感謝する。キミの状況は大体調べさせてもらった。確かにキミの叔父さんは満族の正黄旗人で、僕の生父粛親王善耆、養父川島浪速、松岡洋右と関係があることが分かった。もし以後に何かキミを必要とすることがあれば、必ず手伝ってもらうよ・・・。」
その時には、川島芳子が本当に後日彼を探し出して手伝う事になるとは、全く思いにもよらなかった。

第一章第二節 瀋陽で引き受けた任務

【瀋陽で引き受けた任務】
あれは一九四八年末のある日の事だった。段連祥がちょうど瀋陽浦河の家で暇をかこっていた時、思いもかけず満州国時代に四平警察学校の同級生だった吉林人の于景泰が尋ねてきた。数年間会うことのなかった同級生の突然の訪問は、段連祥を異常なまでに興奮させたが、彼には于景泰はきっと何か頼みがあってきたのだろうという予感がした。二人は挨拶を交すとすぐに、于景泰が話を切り出して、「村の外の道路端にあと二人居るから、ちょっと会いに行ってくれないか。」と段連祥に言った。段連祥はとくに疑う事もなく、于景泰につれられるままに村を出て道路のほうに向かった。

村の外の道路端には、于景泰と段連祥が来るのを男一人と女一人の二人が待っていた。四人は顔をあわせると、于景泰が段連祥に向かって尋ねた。
「連祥、お前この二人がだれだか分かるか?」
于景泰にこう尋ねられて、段連祥はようやくまじまじと目の前の男女を見た。男の方は黒い綿の服を着て、青い帽子を被り、首には灰色のマフラーを巻きつけ、手にはカーキ色の軍用リュックを持っていた。背丈は普通で、少し太っており、学のあるような顔で、金縁眼鏡をかけており、以前にどこかで会ったことがあるようだった。

女の方は黒色の綿のチャイナ服で、頭にはきつく黒色の頭巾を巻きつけ、肩にかばんを引っ掛けていたが、ただ鋭く大きな二つの目が警戒するように段連祥の一挙手一投足を見ていた。
段連祥は振り返ると于景泰に向かって笑いながら言った。
「兄貴、勘弁してくれよ。俺は馬鹿だから、この二人見た事あるような気がするんだけど、ちょっと思い出せないんだ。兄貴から紹介してくれよ。」
于景泰は段連祥が困っているのを見て、その場の緊張を解くかのように、笑いながら言った。
「お前は本当に忘れっぽいやつだな。ほんの数年しか経ってないというのに、もうあの時の先生もみな忘れちまったのか!?」
于景泰からこうヒントを与えられて、段連祥はようやく思いだすことができた。この男は于景泰と警察学校にいたころの教官で、この教官の授業を受けたことはなかったが、やはり今でも印象は残っていた。ただ彼は男の名前は知らなかった。そこで于景泰はこの男のことを《秀竹》先生あるいは《七哥》と呼ぶようにと言った。

女の方はなんとあの「有名な川島芳子」で、嘗て一世を風靡した「満州国安国軍金璧輝司令」だった。
一九三〇年代に、段連祥が学生時代、彼は金璧輝(川島芳子)司令についてしばしば耳にした。後に彼が天津に行ったときに川島芳子と会った事もあり、さらに川島芳子に日本語でファンレターを書いた事もあった。彼がこの時に川島芳子を見分けられなかったのは、一つは彼女の服装が昔日の面影とは打って変わってすっかり異なっていた事と、もう一つは彼女の頭部にはきつく布が巻かれてただ二つの大きな目だけを出していたからであった。さらに言えば数年前から川島芳子は放縦な生活と麻薬にやられており、それに加えて牢獄での苦悩のせいで、以前の綺麗で妖艶な芳子嬢の容貌は今はすっかり見る影もなく衰えていたので、段連祥にはどうしても見分けがつくはずがなかった。
段連祥は心の中で考え始めた。
「日本が投降した後に、川島芳子は北平で捕まり、一九四八年三月二十五日にすでに国民党北平当局に死刑を執行されたはずだ。どうして今、たった半年ほど経った期間の後に、川島芳子が再び瀋陽に現れたのだろうか。まさか幽霊を見ているわけではあるまい?」
段連祥はこの時には川島芳子がどのように死刑をのがれたかを聞く余裕はとうていなかったし、またどうやって東北の瀋陽に来たのかを知るべくもなかった。彼はただ川島芳子および《七哥》と于景泰がこの後どこへ行き、いったい自分にどうしてほしいのかを知りたかった。
四人が一緒になったときに、すでに事情は言わずしても大体の察しがついた。次の段取りをどうするかについては、やはり于景泰が口火を切って段連祥に説明した。
「連祥、事情は察しのとおりだ。おまえもこの人を知ってることだし、それにおまえは以前にこの人の何か助けになりたいと言っていただろ。おまえに特に差し障りがなければ、芳子様を今後は《七哥》を含めて我々三人で世話をするのだ。彼女のことは今後は対外的には方おばあさんと呼べ。俺には長春(新京)郊外の新立城農村に住んでいる姉が一人いる。俺たちはそこに逃げようと思うが、おまえはちょうど易を学んで風水を見る事ができただろう。そこへ到着したらおまえに風水を占ってもらい、もし条件がよさそうなら、芳子様をそこへ長期お匿い申上げるのだ。」
こうして、段連祥はあれこれと考える暇もなく、家に戻ると妻の庄桂賢に声をかけ、ちょっと用事が出来たから遠出すると言い残すと、于景泰と《七哥》に従って、川島芳子を護送し、長春市郊外の新立城農村に来て、于景泰の姉の家にたどり着いた。
段連祥はここまで一気に張玉が聞いた事もなかった吃驚仰天の秘密を打ち明けると、疲れたかのように、水を一口飲みほし、張玉の反応を待った。
この時の張玉は、目を大きく見開いて、手で頬杖を突いて、集中して聞いているようであったが、実際にはすでにあまりにも突然の秘密に驚嘆して呆然となっていた。祖父を見つめたまましばらくは声もなかったが、ようやく正気を取り戻すと、自分が小さいころからひざの上で可愛がってくれたくれた親しいはずの祖父が、なぜか急に目の前で、疎遠で測りかねる不可思議な存在に変わったように感じた。祖父の経歴については、張玉は以前から少しは知っていた。彼が経歴上何か問題があり、解放後に処分を受けたことがあると。しかし今日祖父が告白した秘密は、すでに張玉が予想していた心の準備の範囲をはるかに超えてしまっていた。なぜなら以前に、川島芳子という歴史上の人物について、張玉はただラジオで単田芳先生の講談『少帥伝奇(張学良の伝記)』を聞いた時、川島芳子が男装の女スパイだと紹介されたのを聞いた事があるだけだったからである。こんな重要な歴史的人物が、なんと自分の祖父の段連祥という前科もちの小人物と連絡を取って一緒に住み、あろうことか祖父が川島芳子の逃亡を助けて、さらに対外的には夫婦のような形式を取ってずっと川島芳子の死まで付き添っていたとはにわかには信じられなかった。張玉はこの女性を方おばあさんと十年近く呼びなれてきたが、まさか彼女が中国近代史上有名なあの妖女―川島芳子だったなどとは夢にも思わなかったのである。思い返してみても、張玉にはまったく見当はずれのようにも感じられたが、しかし同時にとても恐ろしく感じるのであった。またさらに彼女は祖父の心の奥深くに人の伺い知る事のできない一面が隠されていたことに、驚きを倍にして感じていた。しかしすでに病の床に伏して久しい老人に向かって、張玉が一体何を言えただろうか?彼女はただ祖父をいたわりながらこう言うしかなかった。
「お祖父ちゃん、よく分かったわ。お祖父ちゃんの一生は方おばあさんのために捧げたものだったのね。方おばあさんが川島芳子だっていうこの秘密を、お祖父ちゃんはもう五十年も隠してきたんだもの、さぞや苦しかったでしょう。でももう歴史になってしまった事よ。お祖父ちゃんは心配しないで、安心して養生してちょうだいね。」
続けて、張玉は好奇心から、また段連祥に尋ねた。
「お祖父ちゃん。お祖父ちゃんはどうやって川島芳子と知り合ったの?」
段連祥は気ははやるようだが力がついていかないようで、ただ途切れ途切れに、彼のあのこれまで人に知られる事のなかった歴史を語り始めた。

第一章第一節 段連祥の遺言

二〇〇四年初頭、中国吉林省四平市鉄西区にある住宅棟の一室で、ほの暗い明かりの下に八六歳になる高齢の老人―段連祥がその生命の最後を迎えようとしていた。一昨年に階段を下りようとした際に不注意で転げて怪我をして以来、彼はすでに二年余り部屋を出ることができなくなっていた。ここ数日、彼は自分の体の反応がいくらか鈍くなったことに気づき、一種の不吉な予感に襲われていた。窓の外は降ったばかりの雪が積もり銀白色の世界となっていた。彼はそれを見ながら、映画のように何度も自分の一生が目の前に繰り返し浮かんでくるのを禁じ得なかった。ちょうどこの時、いまだ唯一彼の胸に引っかかって気がかりになっていたのは、半世紀にわたり秘密にしてきた「死んで復活した」ある女のことであった。彼は思った。おそらく今年の冬はとても越えることができないだろう。しかし、心中の秘密をこのまま墓まで持っていくことはできないと。そうだ、彼はこの秘密を守るために、ほとんど自分の後半生を捧げたにも等しかった。彼は自分の家庭までも犠牲にし、三十年の長きにわたり、ほとんど生きているのか死んでいるのかわからないような生活を送ってきた。彼が犠牲にしてきたものはあまりにも大きかった。だからあの神秘的な女もきっと許してくれるだろう。

段連祥

こう考えると段連祥にはようやく決心がついた。この世から去る前に心中の秘密を最も親しく、また最も信頼できる人間に、自分がこの一生をどのように過ごしてきたのかを知らせようと。彼は指を曲げて、自分の身近にいる親戚を数え始めた。妻の庄桂賢は、一生彼を恨んで人生を送った挙句に一九九七年すでにこの世を去っていた。長男の段続余は父親の経歴と父親が一九五八年に「労働教育」を施されたという政治的問題の影響で、仕事場では圧力を受け、恋愛も破談になり、一九六四年に服毒自殺を遂げていた。次男の段続平と三男の段続順は《文革》期間に彼と絶縁して以来、彼から昔のことを聞きたがらなかったし、彼と関わること自体を避けていた。唯一の娘である段霊雲(またの名を段臨雲)は、彼がかわいがっている孫娘張玉の母親であり、感情的にも深いものがあったが、彼女には自分の足りなかったところが多すぎて不憫に思うあまり気後れに感じるであった。段霊雲は彼が養子にした日本人残留孤児であった。さらに一九五八年に彼が「労働教育」を施されたときには、まだ十五歳にも満たなかった段霊雲が仕事に出てお金を稼ぎ家族を養う重責を背負うよう余儀なくされ、そのため彼女の日本の親類を探す大事もしてやれずじまいであった。彼女は《文革》中に父の政治的経歴の問題が影響して、政治的に長期にわたり差別を受け、そのために間欠性の精神病を患い、刺激を受けると病気が再発する状態であった。現在彼の身辺で世話をしてくれているのは段霊雲の長男で三十歳過ぎになる外孫の張継宏だが、彼は祖父に昔のことを尋ねたこともなく、やはり事を託すには適当な人選とは言えなかった。

「やはり、張玉しかいないか。」と彼はひとり呟いた。張玉は孫たちの中で最も年齢が上で、また彼の唯一の孫娘であった。彼女は小さいころから多才多芸で、彼が目の玉のように最も可愛がっていた孫といってよかった。彼女が小さい時には、祖父はどこへ行くにも、彼女を一緒に連れて行くのがお決まりであった。張玉は大学も卒業しており、一定の社会的交際能力も具えているはずだった。それに、彼女はあの秘密の女性に会ったことがあるだけでなく、その女性を親しく知っており方おばあさんと呼んでいた。こう考えると、やはり張玉が事を託すのに最もふさわしい選択だった。こうして、段連祥は決意を固めると、夜に仕事を終えて帰宅した孫の張継宏に言った。
「継宏、お姉さんに電話をして、会いたいからちょっと四平に来てくれないかと言っておくれ。」
張玉の父親である張連挙は軍人で、彼女が一九六七年に生まれたときには、この父親が部隊で任務についていたため、張玉は母親と共に祖父の家で暮らした。後に父親が転職して、吉林省蛟河県の軍事工場に配属されると、母親も夫と共に山沟里に住むようになった。ただし張玉と弟の継宏は四平の祖父の家に留まり、一九八七年に軍事工場が長春市区に移ってから、張玉はようやく父母と共に暮らすようになったが、弟の継宏は四平で祖父と祖母を世話するためそのまま残った。

張玉と祖父との間の関係は良く、段連祥が二年前に転んで怪我をして以来、しばしば四平に様子を見に訪れていた。この日も、弟から電話があり、祖父が自分に会いたがっているからすぐに四平に会いに来てほしいと聞くと、張玉はすぐに祖父が会いたがっていると理解しただけでなく、他にも思うところがあった。
「つい先日も四平に行って幾日も経っていないのに、また自分に会いたいと祖父が焦っているなんて、きっと何かあるに違いないわ。さもなければ、わざわざ電話を掛けて呼び出すようなことはしないはずだわ。」
張玉はとりあえずその場の用事を片付けると、その日の夜に急いで四平の祖父の家に赴いた。弟の継宏と嫁は幼い甥っ子を連れて外に出ており、家には祖父が一人残されていた。自分の孫娘を一目見ると、病床の段連祥は皺が深く刻まれた顔をあげ、何かたくさん話したいことがあるようであったが、話す言葉は途切れ気味で、ボツリボツリと、何かしら心に引っかかっているようであった。 張玉はそれを見て、祖父が何か言いたそうにしているのを感じ、思い切って自分から尋ねてみた。
「お祖父ちゃん。何か私に言いたいことがあるの?何かあるのなら早く言ってちょうだい。黙って悶々としていては病気に差し障るわ。重大なことでも小さなことでもいいのよ。孫の私がきっと何とかしてあげるから。」

すでに長いこと病床にある段連祥は、愛する孫娘の勧めをうけて、頭を縦に振ってうなずくと、その最後の力を振り絞るかのように気を奮い起こし、手招きをして、張玉に自分と差し向かいで座るように指示した。この時、段連祥はついに五十六年間心の奥深くに隠していたあっと驚くような秘密を打ち明け始めたのである。
「張玉、お前はまだ方おばあさんのことを覚えているか?」
段連祥は張玉の顔を覗き込んで、こう尋ねた。
「覚えているわよ、当たり前でしょ。私が三、四歳に物心がついたころから、お祖父ちゃんが夏になると私を連れてって、長春郊外の新立城の農村に会いに行っていたでしょ。それにお祖父ちゃんは私をいつもおばあさんのところに置いて、自分は四平へ仕事に戻って、私に方おばあさんと一緒に暮らさせてたわ。私が小学生の十歳になったころにおばあさんが病気で亡くなるまで、ずっとそうだったわね。もうかれこれ二十数年前になるわねえ。」
張玉はゆっくりこう言ったが、祖父が何を尋ねたいのか全く考えもつかなかった。
「じゃあ、お前はおばあさんが誰か知っていたか?」
段連祥がこう言った時、こころなしか祖父の顔がこわばっているように見えた。
「そんなの言わなくても、彼女も私のおばあさんでしょ。わたしの大おばあさん(張玉は段連祥の妻庄桂賢をこう呼ぶ習慣だった)がいつも言ってたわ。お祖父ちゃんには外に愛人がいるって。もちろんあの方おばあさんがお祖父ちゃんの愛人だったんでしょ!どうして今になってそんなことを言い出すの?」
張玉はしばしば祖父に昔から甘えてからかうように冗談を言うことがあったため、今日も祖父を目の前にして臆面もなく、方おばあさんと段連祥の関係について自分の思っている所をずばりと言った。
「張玉、本当のことを言うとな、お前はあの女の人がどこから来たのか、どういう人か全然知らないんだ!」
段連祥のいつもはトロンとした目がこのときだけは光を放って、張玉を釘付けるように見つめた。続けて彼は長く唸ってから搾り出すように言った。
「あの、お前を小さいときに面倒を見ていろいろ教えてくれた方おばあさんは、川島芳子だ。」
「ええ、何ですって?川島芳子?!もう一回言ってちょうだい!だって、彼女は死刑になってとっくの昔に死んだんじゃないの?」
張玉は驚きのあまり、戸惑いを隠せなかった。
「お祖父ちゃん年とって、ボケちゃったのかしら?それにしてもこんなとんでもない事を言い出すなんて、ましてやこんな全然関係ない事を自分の家の事だと言い張るなんて。」
「いや、彼女は本当は死んでなかったんだ。あの方おばあさんは川島芳子で、お祖父さんと、お前の母親と、それからお前と、一緒に三十年生活したんだ・・・・・・」
こうして、段連祥は彼が長年封じてきた心の中の秘密を告白し、張玉に方おばあさんの来歴を語り始めた。
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