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2017年10月22日

排除されたのはどっちだろう

 希望の党の迷走で、色々入り乱れた今回の衆議院選挙。
 個人的には自民、公明で過半数になるより、これで安倍政権が続くのかと思うとうんざりする。

 それはともかく、希望の党と言えば、小池氏の「排除」発言で風を失ったと言われるが、こうしてみると、排除されたのはどっちなんだろうかと言う気がしてきた。

 ちなみに、小池氏の排除の論理は、(言葉の問題はともかく)ある意味当然のことではないかと思う。そもそも民進党と希望の党は、党として合流したわけではない。党として合流しつつ、民進党の特定の議員を排除したわけではない。
 民進党は、まず衆議院議員の全員を離党させ、その上で希望の党に入党を勧めただけだ。
 その際には、既に無所属の1議員となった議員達が、希望の党の門をたたいた。希望の党側は、入党希望者に対して、自党の主張を支持してくれるかどうかを尋ね、あった人だけを入党させたに過ぎない。
 「合流する約束だったのに、排除された」と言ってるのは民進党側だけだ。
 それも、完全に排除された枝野氏は、マスコミの取材に対し、小池氏への恨み言は一言も言わず、抗議すら言わなかった。あくまでも民進党内部の問題としたようだ。

 さて、民進党から希望の党へ行かなかった議員の中には、立憲民主党にも行かず、無所属で選挙に臨んだ議員もいる。報道を見ると20人近くいるようだ。無所属出馬の中には、岡田氏、野田氏、安住氏と名前も顔もマスコミに売れていて、且つかつての民主党政権で首相を始めとした重職を担った人もいる。実際選挙でも早々に当確が出ている人達だ。
 もし20人前後の無所属議員(元民進党)が当選すると、その後の流れには興味が湧く。既に岡田氏や、野田氏は、元民進党の無所属候補者とは連絡を取り合い、選挙後も連携していくことを発言している。さらに、選挙後は立憲民主党と統一会派を取ることを希望しているという。こうなると、無所属と、立憲民主党で、議員数は50議席は超えてくるだろう。結構な数だ。立憲民主党は既に野党第一党になりそうだし、それに無所属が加わり、結果として共産、社民とも連携を取るだろうから、これからは自公との真っ向対立の構図が見えてくる。
 この結果は、最近、方向性がよくわからなくなっていた民進党から、リベラル色の強い議員だけが集まった立憲民主党が出来たことで起こっているといっていいい。枝野氏以下、立憲民主党の面々は、当初は民進党を割るつもりはなかったはずだ。むしろ、前原氏が党首にならなければ、仲間を連れて党を割ってしまうだろうと言われていた。
 希望の党との連携話がなければ、立憲民主党は出来なかっただろう。そして選挙が終わってみれば、勝ったのは自公、そして躍進したのは立憲民主党。
 
 立憲民主党が支持を集めたのは、民進党のわかりにくさを脱却し、わかりやすくなったからだ。そもそも枝野氏も長妻氏も発進力はあった。しかし彼らの発進力と、民進党の動きがちぐはぐなので、党の人気にはつながらなかった。それが、立憲民主党では、枝野氏、長妻氏が中心なのだから、実にわかりやすい。
 
 結果から見れば、わかりやすくリベラル系の人が集まって、右寄り保守の人と縁を切ったのが立憲民主党。そして結党を成功裏に導いたのも立憲民主党。そして、右より保守とも言いがたく、立憲民主でもないとした無所属派は、大半が立憲民主党都会派を組む。だったら、排除されたのは前原以下、希望の党に言った側ではないだろうか。
 
 希望の党は、小池氏のお膝元の東京で苦戦を強いられている。
 希望の党のほとんどは元民進党という事になるが、結果から見ても、排除されたのは結局希望の党に行った元民進党だったという事にならないだろうか。

 一連の動きで、一番印象に残ったのは、民進党が希望の党に合流すると前原氏が言い出したとき。その流れのわかりにくさと、不細工さが本当に目立った。前原氏の説明はぐだぐだで何を言ってるかわからない。もちろん道理も通っていない。その後もいいわけがましい発言が続いた。
 希望の党の失速は、前原氏の見苦しさを披露してしまったせいであったような気がする。こんな党首とまじめに向き合って、その党員を抱えこむようなまねをしたから、追い風を失ったのではないだろうか。希望の党は小池氏と同義語だったが、彼女の良さは、絶対的な勢いの良さとわかりやすさだった。それで都知事選と都議会選挙を勝ち抜いた。とすれば、前原氏のようなぐずぐずした人間を絡めるべきではなかった。
 もし、当初から集めていた新人候補だけを、東京に集中させて出していれば、少なくとも東京では追い風があっただろう。東京の選挙区は25区あり、それをすべて押さえれば、小選挙区で25人、さらに比例も稼げるだろうから、実際には現実よりもっと稼げたかもしれない。
 少なくとも悪い評判はないのだから、現在の立憲民主党程度の高感度を持って今後に期待をつなぐことが出来たはずだ。
 小池氏の都知事の任期後を本戦と割り切り、その足場を築くための選挙として、手堅く行けば、もっとうまくいったのではないかと、今は思う。

 後は、首班指名で誰が選ばれるか。
 野党が自民の一部と手を組んで、安倍総裁を打破してくれたら、面白いんだけど。

 
 

2017年10月16日

介護の経験の浅い人が、勝手に思い込む良識について

 友人に自閉症の子供を持つ人がいる。
 生まれてから10才までは、夫婦で必死に育ててきた。その心労で奥さんは鬱病になった。しかしどんなに努力しても、子供の病状に回復の兆しはなかった。
 現在は地方にある施設に子供を預け、年に数回面会に行くようになっている。

 こうした現状を傍目に見て、色々言う人がいる。
 自閉症児を育てる事が大変だと言うことを認めながら、「でも接し方で病状は良くも悪くもなるのだ」と言い張るのだ。「親が健常児に近づけようとして無理な教育をすることで、自閉症児はより悪い状況になり、病状が進み、結局は手に負えなくなる。でも親が子供の状況に合わせ、腹をくくって接すれば、相当な病状の子でも、ちゃんと親と一緒に家庭で育つことが出来る。」と主張するのだ。
 
 理屈ではそうだろう。
 そういう研究をしている学者もいるし、実際成功している親御さんもいるだろう。
 けれど誰にでも同じ事が出来るわけではない。
 それに施設に入れることが悪くて、家庭で育つことが良いとは必ずしも言えない。

 親は子供の一生を面倒みることはできないのが普通だ。
 親が死んだ後、子供は1人で生きていかなければならない。その場合、1人で暮らせないなら、施設に入るしかない。
 施設は集団生活で、家族ではない人たちと接し、生活しなければならない。家族とともに育った普通の人が、施設で集団生活するようになっても、慣れるまでには時間がかかる。一生慣れなくて、うまくいかないことも稀ではない。
 自閉症の障害があるなら、対人関係を円滑に進めるためには時間がかかるだろう。健常者でもなかなか難しい集団生活に慣れるためには、十分な時間が必要だろう。
 こうした生活に慣れるために、幼い頃から集団生活を経験させることは重要ではないだろうか。

 目に障害のある友人が、小学生の頃から盲学校(寄宿舎)に入ったという経験を話してくれたことがある。盲学校の生活は、健常者の寄宿舎生活とは少し異なる。それは障害故の様々な配慮に加えて、盲学校が置かれている状況も関係しているようだが、外部の人間から見ると、窮屈だったり、理不尽に感じたりすることがあるらしい。しかし幼い頃からその寄宿舎で育った私の友人達にとっては、それは、特段の違和感を感じないそうだ。いわゆる「当たり前なこと」なんだそうだ。

 おそらく、彼らは、自分達の障害と、盲学校で学ぶ事の意味(メリットとデメリット。そしてどうして自分がこの学校に入ったかという背景)をきちんと理解した上で、与えられた環境を如何に役立てるかと言うことを身につけているようにみえる。
 彼らから見て、中途失明によって、大人になってから寄宿舎生活を始める大人達は、無駄な不満が多いらしい。あるとき、中途失明の大人達が学校側に、「門限を無くして欲しい」と言ったことがあるそうだ。学校の門限は早く、確かに大人から見て、非常に窮屈に見えたのだろう。しかし子供の頃からいる学生達からすれば、そんな要求が通らないことは明らかだったし(実際学校側は、門限を変更しなかった)門限が早い事は、それなりの意味があるのだから、どうして無駄な要求をするのかと思ったそうだ。

 自閉症児を持った私の友人の行動は、傍目には、「子供の障害に対応出来なくなった親が、障害児を施設に預けた」という事になるだろう。そして、「子供は親と暮らすべき」と主張する多くの健常者達には、眉をひそめるような事と映るのかもしれない。
 しかし、見方を変えれば、「親が、自分の世間体や、子供を手元に置きたいという親自身の欲を封印して、子供の将来のために、自分達では与えきれない環境を与えた」とも言えるのではないか。
 施設の環境に慣れることで、障害児はそこを自分の家として、安定して生活できるようになるだろう。多くの専門家に接する機会があり、親では与えられなかった教育も与えられるかもしれない。
 それでも、施設に預けることは悪い事と言い切れるだろうか。
 逆に、親元でずっと育つ障害児は、自ずと外界との接触が限られる。ずっと親とその周辺の狭い世間しか知らずに過ごすことになる。そのことが、障害の治療に対して良いこととは言い切れない。親の子供に対する愛情が、常に100%子供にとって正しい答えを出すとは限らない。それは健常者でも同じ事だが、健常者なら、年齢と共に他人と接し、親離れするチャンスが巡ってくるが、障害児にはそのチャンスが乏しく、うっかりすると、初めての親離れが、親の死亡時という事になりかねない。
 しかしそうなってしまったとき、既に年齢も高くなっている障害者が、突然施設に入って生活するのは、とてもハードルが高いのではないか。それは本人にとっても、とてもつらいことなのではないか。

 結果として、施設に預けることを、悪く言う理由など、どこにもない。

 私も以前なら、障害児を施設に預ける親を、ちょっと色眼鏡で見ていた。
 しかし介護するべき家族(老人)を持つようになって、だいぶ考えが変わった。
 老人は最後まで自宅で暮らしたいと言う人が多い。しかし実際には、「自分の事が自分で出来る」状況でなければ、自宅での介護は難しい。
 掃除、洗濯、食事を作るなどの生活支援は、独居老人なら、介護保険でヘルパーに頼むことも出来る。
 しかし、食事、排便に介助が必要になってくると、途端に介護保険でのサポートでは生活が難しくなってくる。おむつを使うなどの我慢を強いられる可能性も出てくる。これは介護を受ける老人事態にとっても、色々つらい状況になる。
 それでもある程度までなら、本人希望とやる気があるなら、自宅介護を続ける人もいる。実際施設に入っても、おむつを使用するところは多いし、だったら自宅でと言う選択肢もあるだろう。
 しかし全身が衰えてきて、意識レベルが下がってくるようになると、なかなか1人で生活することが難しくなる。

 日本の介護保険制度の限界なのだが、介護保険制度で(介護度が高くても)24時間の人をつけておくことは出来ない。一部には、数時間おきにヘルパーや看護婦が様子を見に来てくれるサービスが出来る地域もあるが、すべての地域で出来るわけではない。そういうサービスをしている事業所のない地域では、一日に2回か3回のぞきに来てくれる可能性はあるが、大半の時間は老人1人で過ごす事になる。
 では、家族が同居すればいいのかというと、これもなかなか難しい。
 家族が同居すると、このヘルパーの生活支援が受けられなくなる可能性が高い。
 毎日、2回様子を見に来てくれるヘルパーがいるとすると、延べ人数では14人となる。つまり14人の人が1人の老人の1週間を支えている。この14人分の仕事を、家族だけが担うのである。
 多くは主婦1人が大半を担うことになる。一つ一つの仕事が30分程度の労作だとしても、ヘルパーなら人員をとっかえひっかえ出来るわけだが、家族だと1人で(もしくは2人とか3人で)同じ事をするのだから、負担は格段に大きくなる。
 しかも夜となく昼となく、老人の状況に備えることになる。(ヘルパーなら、交代制で出来るのに)
 ちょっと考えれば、負担が重すぎることがわかる。
 さらに、介護する家族が仕事を持って入れば、さらに疲弊が早まる。夜眠らずに日中の仕事に行くのである。
 家族が仕事をしているなら、日中はヘルパーが来る可能性もある。しかし夜の時間帯はそもそもヘルパーを雇うことが難しい時間帯なので、やはり同居の家族の負担は重くなる。
 介護離職したくなる理由はここにある。

 こうなってくると、やはり施設の存在が頭に浮かんで当然だ。
 プロに24時間任せて、週末や仕事帰りに顔を見に行くというのは、適正な介護のあり方ではないかと私も思う。

 そこでいわゆる世間の良識人からの風当たりを受けることになるだろうが、そういう人間のほとんどがまともに介護の経験が無い。頭だけで聞きかじりの知識で物を言っている人が本当に多い。

 介護はやってみないとわからないことが多い。
 それもちょこっと経験では駄目で、看取りまでの介護を経験したことがないような人でないと、まともな意見は言えないような気がしている。むしろちょこっとやった人は、まるで自分が全部経験したかのような意見を言い始めて、始末に負えなくなる。
 先にも言ったが、掃除、洗濯、食事を作る、買い物をする、金銭管理をする、程度までなら、同居していなくてもやれるし、この程度までだと、介護保険は絶大なる力を発揮するので、やろうと思えば出来るケースが多い。しかしこの段階を過ぎたところにボーダーラインがあって、この先は途端に難しくなってくる。
 さらに看取りまで考えると、ここで上げた介護以上の問題が出てくるの、さらにハードルが上がる。

 私が介護した老人の中に末期癌の人がいたが、これについて「癌という病気は死期が前もってわかるから、一番良い死に方だ」などと、まことしやかに言い立てる人間が割と多いので驚かされたことがある。
 こういう人たちは、老人は死期を悟り、それまでに身辺整理をして、自らの最後に備えるものだという、根拠のない幻想がまかり通っているようだ。
 だがそれは大いに間違っている。

 まず、現代では、癌患者に余命を言う医者は少なくなっている。なぜなら、余命が正確に当てられることがほとんどないからだ。また、老人介護の現場にいる医師ならば、老人が予想通りに行かないことを知っている。予想に反して長生きしたり、逆に予想よりずっと早く死んだりすることがよくあるのだ。
 現場の医師や看護婦はそういうことを知っているから、余命も言わないし、常にどうなるかわからないと言う姿勢で、注意深く接してくれる。
 私自身、既に複数人の老人を送っているが、それぞれに死因も違うし、生活の環境も、病歴も、性格も違うので、そのたびに驚かされること、予想通りに行かなかったこと、後悔すること、様々にある。1人として「似たような死」は存在しない。毎回が驚きの連続だ。
 そのせいか、聞きかじりの知識で、経験も無く、利いた風なことを言ってくる相手には、正直むらっとする。

 だが、千差万別の老人の死期について、なんとなく共通項を感じることもある。
 それは、老人の死に瀕してみせる、驚くほどの生への執着心だ。
 老人が死に瀕すると、周りにそうは見せないが、皆覚悟を決めて、生きている間にやっておきたいことをするような、きれいな死に様を信じている人が以外と多いが、それは違うと思う。
 例えば若い人間が「癌になった、半年後に死ぬ」と言われて、焦らない人はいないだろう。心は千々に乱れ、焦りと後悔と恐怖におののき、人知れず泣き崩れる日々を送るだろう。でもそれは、老人でも同じなのだ。人前でするか、人のいないところでするかの違いだけで、老人だって、死を経験した人はいないのだから、驚くし、迷うし、心は乱れるし、焦るし、泣き崩れたりもするのだ。

 私自身経験したのは、本人に、病状について告知する必要があって、医師に頼み、きちんとわかりやすく伝えてもらったのだが、次の瞬間には、その老人はすべてを聞かなかったことにしてしまった。その後も、全く何事もなかったように、余命宣告よりずっと先の予定を立てるのだ。
 死にたくないし、死ぬなんて思いたくない。
 どうしてもまだ生きたい、まだ生きていけると信じたい。病状も直ると信じている。ということらしい。

 以前、看取りについて担当の看護婦と話したとき、「そのときが来たら、「もうがんばらなくていいのだよ」と言ってあげて欲しい」といわれたことがある。だが、私が知る限り、どの老人も、死の瞬間まで自分は生きると信じ、死んでいいなんて言われたくないと思っている。老人が頑張っているのは、何も世間体でも、家族のためでもない。自分のために頑張っているのだ。

 老人が死期を悟り、人知れず覚悟しているなどという話は、きっと介護する側の方便だと思う。そう考えた方が介護する側が精神的に楽だからだ。死に怯え、七転八倒している老人を目の当たりにするのは、介護する人間としてはやりきれないほどつらい。だから、たまたま感情を表さない老人に対して、「覚悟を決めているんだ」と持ち上げて、介護する側の精神的な重さを忘れているに過ぎない。

 介護する側が、ストレスを回避したいと思うことは当然で、それは許されると思う。方便でもいいし、目をつぶるでもいいし、自分の心の平安を保つために、少々ずるい事をしてもいいと思う。そのくらい介護は大変だ。
 だけど、そういうことを心の片隅に起きながら介護することと、「老人は覚悟を決めている」事が事実だと信じて、まるで自分はそういう真実を知っていて、それに合わせて正しい介護をしているなんて言う人間との間には、天と地ほどの違いがある。
 ろくな経験もなくご託を並べる人間を見ると、そういう話は他所でしてくれと思う。

 世間の経験も無く知ったかぶりをまき散らす人は、まずは経験してほしいものだと思う。
 現実の経験を嫌と言うほどすれば、自分が聞いた風なことを言っていた過去が恥ずかしくなるはずだ。
 

2017年10月02日

小池百合子の本心

 選挙が大変なことになっている。
 
 安倍首相が、姑息なやり方で(森、加計隠し)解散を打って出れば、その話題を一掃するような小池劇場が始まる。傍目には面白いが、これが我がこくの国政選挙かと思うと、ちょっと哀しい気もする。

 いずれにしても、自分が直感的に感じていた政治家の気質が、こうも当たってくると、気持ち悪い。

 そもそも安倍しは首相になるべきではなかった。この人が2度も首相になってしまったことがそもそもの誤りだ。
 安部氏が気に入らないのは、右寄りの主張もそうだが、それよりも、基本的にこの人は、自分以外の国民に平等な福祉を考えるなどと言う意識がない。安倍氏の本質は、自己満足的な名声と、自分の政治家生活の快適さだけである。第1次安倍政権で、神経症で腹を壊したということで辞任した安倍氏。潰瘍性大腸炎という難病だと、後に言及されたが、それは嘘だと思う。身近にこの病気の人間が何人かおり、病気については色々調べたが、安部氏の症状はこれに合わない。そもそも投薬のみならず、食事制限が不可欠のこの病気に、政治家の生活は不向き。それをこんなに長く続けることはあり得ない。第1次の時のように、短命で健康を害してやめるというのがリアルな結果だ。一方神経性の大腸炎は、最近いい薬も出来て、投薬でコントロール出来るようになっているので、安倍氏の症状はこれに合っている。ちなみに、潰瘍性大腸炎は、原因不明の難病で、この病気を認定するには、大腸の内壁に炎症があること、その他の同様の症状の病気、例えば大腸癌などの可能性がないことを確認していって、最後にどれにも該当しないとなると、初めて潰瘍性大腸炎の診断が下る。つまり特定が非常に難しい病気である。おそらく素人目には、神経性の大腸炎の区別がつきにくい。
 あのときの針のむしろの国政運営に安部氏はうんざりしたのだろう。だから体調を崩した。しかし名誉欲というか、代々の政治家家系内のプレッシャーか、どうしてももう一回総理になりたかった。そして今回は諸般の事情もあり、第2次安倍政権が発足してしまった。
 これには、第1次より慎重な政権運営が不可欠だったが、それが当初うまくいった。しかし、このことに気をよくした安倍政権のたがは外れ、暴走したのが現在の姿。
 国民の多くはもうやめて欲しいと思っているに違いない。

 実際、世論調査をすると、自民党の支持率はそれほど落ちていないのに、安倍首相に信頼が寄せられないという意見が多い。
 
 つまり、自民党が解散前に前倒しで総裁選挙をして、安部氏以外の人物を総裁にして、選挙に臨めば、きっと楽に勝てたと言う事だ。現在公認候補として有力なのは、岸田氏と石破氏だが、現在の世界の情勢を考えれば、どちらでも可能(新鮮みを出すなら石破氏)だろう。どちらも謙虚で、自制の効いた政治家だから、新しい首相としては期待できるだろう。少なくとも安倍続投よりはずっといい。

 この辺りを鑑みて、小池氏の考えを思考してみる。

 小池氏は端から政権交代は考えていない。実際、民進党の候補を抱き込んでも、過半数以上を獲得する可能性は薄い。例え300人近い公認候補を立てたとしても、全部が当選するわけではない。小選挙区制では、自民党が強ければ勝てない。そもそも共産党とは組めないことはわかっているのだから、必ず共産党が対立候補を出してくる。野党は一つにはまとまらない。となれば、やはり過半数は厳しい。
 こうなると、小池氏が望んだのは、政権交代ではなく、国会でキャスティングボードを狙う議員数ではないかと思う。
 かつて民主党がそうだったように、右から左まで幅広い意見を持つ党は、やがて統制が効かなくなる。民進党がそれで空中分解状態だったことを考えれば、それを丸ごと希望の党で抱き込むなどあり得ない。そんなことをしたら、希望の党の評判も落ち、統制も効かなくなる。
 最初から小池氏が民進党の一部しか入党させないつもりだったのなら、やはり過半数の候補者を作るのは難しいだろう。
 ちなみに、世論調査を見ても、小池氏が行っている希望の党入党希望の民進党議員への精査には、共感する意見が多い。小池氏の行動には有権者からの理解があるわけだ。

 小池氏の考えは、今回の選挙だけを見ているのではなく、もっと息の長い話だろう。
 だから今回の選挙後の国会で、首班指名に小池氏の名前を書く必要は無い。
 では、希望の党は誰の名前を書くのか。
 それはおそらく自民党の議員。石破氏の名前だろう。
 小池氏と石破氏の関係は悪くない。石破氏なら、国政と都政の連携はスムーズだろう。小池氏は、少なくともこの先3年は都知事を行い、実績を重ねる。その間に、希望の党の基盤も固める。国政と連携が取れれば、オリンピックも、東京をアジアの金融都市にするための特区作りもスムーズだろう。豊洲問題も、国の援助や連携があれば、方策の幅は広がる。
 当然石破氏の後の総理は小池氏が狙う。石破氏から継承することになるために、もしかしたら、希望の党は、自民党に合流しているかもしれないが、いずれにしてもこのときには小池氏は国会議員に戻って首相を狙う。もしこのときその目がなければ、都知事をもう1期すればいい。
 
 国民の多くは、安定した政権、そして国民の意見を謙虚に聞く内閣が希望だ。
 となると、政権を取るのは自民党で良く、しかし首相は謙虚でまじめな人がいい。
 現在の社会情勢を考えれば、石破氏は適当な候補だろう。しかし党内の安倍支持派(安部について行けばいい目が見れると思う自民党議員)を打破しないと石破氏は自民党総裁になれない。安部氏は国民には見限られているが、安倍支持の自民党議員はまだ残っている。残念ながら、安部氏には、自分より優秀な議員を扱う手腕が無い。従って、安部氏の周りには、彼の友達と、彼について行くしか能の無い議員しか存在しない。このような面子で政権を動かそうとするからうまくいくはずもなく、安部氏は裸の王様になってしまう。
 
 こうした硬直した自民党内の状況を打破するためには、自民党と共通の政策を持ちながら、安部支持ではない勢力が必要で、希望の党はちょうど良い存在だった。
 
 こうなると、安部政権の交代は出来るだろう。
 だがこうなると、自民党の補完勢力が、維新と希望になって、また増えてしまう。
 一つ困るのは、政策としての多様性が、また無くなってしまうことだ。

 しかしそれは今でも似たような状態だ。現状でも政策の多様性は薄い。
 第一野党だった民進党は、幹部のほとんどは保守派だった。
 もっと悪い事に、論客として活動が盛んで、自民党の政策に否を唱えている民進党議員の主立った人たちがリベラル派で、しかしその人達が惹きつけた人気を、彼らとは違う意見の保守派の幹部が利用していた。その方向性が、どんどん強くなっていた。
 この形のわかりにくさが、民進党の問題でもあった。
 安保法制反対の旗を揚げていながら、民進党の保守派は、意見としては安保法制を支持していた。ただ、立憲制度を無視した安倍政府に反対するために、リベラル派と一緒に戦っていただけだ。(と言う党利党略)
 民主党時代も、活躍する若手議員の人気を、政権を取った途端に、全然働いていない古株がかっさらい、首相になり、失敗した。そろそろ、政党が、言ってることとやってることが一致しない時代は終わりにならないと困る。

 民進党のリベラル派は、新党を作るらしい。当初は人数も少なく苦労するだろうが、リベラル派の議員はこういう立場に立つことは、本来当然と考えているだろう。政治家でリベラルな人間は、野に下って苦労するのが普通だ。保守派でなければ、中央にはなかなか近づけない。しかしだからこそ、リベラル派は社会に必ず必要である。
 日本において、一般の国民は、総じて穏健な保守派が多い。
 しかし何らかのアクシデントによって、社会的弱者になった時、穏健な保守派はあまり手をさしのべてくれない。こうした時に頼るのはリベラル派だ。そもそもリベラルとは、こうした社会的弱者を守ろうとする運動が多い。国民から見れば、普段は意識しないが、社会問題に関心を持ったときに、その価値を知るのがリベラルという事になる。
 実際、安保法制反対運動も、反原発も、リベラルが主体となる。
 まあ、政治が絡んでくると、段々運動の方向性が変わったりはするが、国会を見ても、巨悪の追求というのはたいてい共産とかリベラルの議員がやっている。
 と言う事で、社会の中にはリベラルの存在は絶対必要である。政治の中枢に入る事は無くても、確かな存在として社会に必要なのがリベラルだ。今回民進党の解体によって、リベラルの議員がまとまり、きちんと顔が見える存在になることは悪くはない。最初は大変でも、いずれ一定の支持が集まるだろう。

 これで希望の党が、国会の過半数を取ることはない。
 小池氏も、おそらく知事を辞めないだろう。これで知事を辞めても、目立たない野党第一党の当主にしかならない。前原氏の立場だ。そんな箸にも棒にもかからない立場を、知事をなげうって欲しいと思うだろうか。

 小池氏は誠実な政治家ではないかもしれない。
 だが風を読む力はある。それは有権者の希望を読む力だ。有権者がしっかりとした意見を持てば、彼女はそれから大きく外れた事はできない。「仕事しろ!」とみんなが思えば、彼女は仕事をする。
 もう一つ言えることは、彼女は孤高の存在で、友達がいない。小泉前首相と同じだ。従って、しがらみが出来にくい。安部氏のようなお友達政権は作らない。菅氏や鳩山氏のような、誰にも理解不能の事もしない(選挙ではびっくりすることはやるが)小池氏の政策は奇策もあるが、必ず有権者の一定数の気持ちを掴む。
 豊洲の移転では反対意見も多いが、それは当事者である魚河岸の人たちの意見だ。彼らにはかなり頭にくることもあるだろう。だが、小池氏の有権者は都民全体で有り、魚河岸の魚を食べている多くの都民は、実は魚河岸で働く人たちとは意見が食い違っている。
 豊洲に汚染があることをちゃんと見つけて、とりあえずちゃんと検査して、新しく措置を執ってくれると決めた小池氏の政策は一定の理解をする。魚河岸の人たちが抱える不満は理解できるが、一般の都民からすると、業者の意見と消費者の意見は違うのである。

 小池氏が、先3代の都知事より、もう少しましであってくれればと思う。
 ここで都知事を投げ出し、国政に戻って、野党第1党の党首でくすぶるのは、誰の利益にもならないだろう。今回はとりあえず、安部内閣が倒れて、新しい首相が出来てくれればいいと思う。
 石破氏がいいかなと思う。


 最後に、前原氏だが、彼は過去には、民主党首になったとたん、メール問題を起こし、短命で辞任した。(このとき問題の中核にいた民主党議員は後に自殺している。)国土交通大臣では、八ッ場ダム工事中止を唱えた。それ自体はまだいいのだが、前原氏は、その主張を結局貫けなかった。八ッ場ダム周辺の人たちにしてみれば、さんざん反対したダム建設ではあったが、結局反対運動は撤退し、苦渋の選択の中でようやく先行きについて考え、再生を図った矢先に前原氏が起こした騒動。そして前原氏はそれを途中で放り出す。
 本人に放り出す意志がなかったとしても、政治家自身に力が無ければ、振り回された当事者(国民)が被害を被るのは同じ事だ。
 前原氏は「言うだけ番長」と言われて怒っていたが、結局今回も言うだけ番長で、民進党を空中分解した。
 地方と参院だけ残った民進党が、彼を党首として復活することはあり得ないだろう。もしそうなっても、何の意味もない。
 前原氏は地に落ち、もしかしたら、選挙で負けるかも。
 民進党の党首は、まあこのままなら蓮舫氏の戻るか、党がなくなるか。
 残ったリベラル派は枝野氏のもとへ、保守派はまとまって新党を作るだろうか。今は無所属で出ると言っている岡田氏と野田氏は、たぶん当選するだろうが、いずれこの人達も含めて穏健な保守派の党が出来るだろう。野党再編はまだ続く。
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