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2020年03月20日

「00年代中盤というサブカル的に微妙な時代」オタクはすでに死んでいる 著:岡田斗司夫

岡田斗司夫 新潮社

ざっくりと説明、要は集団としてのオタクの終焉

要は「民族としてのオタクが絶滅する」と著者は説いているのである。個人単位でのオタクは居るものの、集団としての共通認識を持ったオタクが消えるのだ…と。
元々著者はSFオタクの第1世代オタクと呼ばれる人種であり、それがガンダムなどの世代の第2世代オタクが台頭してくると、彼らは既存SFに興味を持たず、結果オタクを成り立たせていたSF大陸と言うべき共通認識が崩壊したと説く。

実は私はゲーマーとしてこの著者が言う現象を経験している。ゲーマー、時にオタクの1分野扱いされるこの層は今崩壊している、90年代くらいまではゲーマーと言う概念がたしかにあった、いくつかのグループに別れつつも、なんとなく共通認識があった。
(狭義の)ゲーマーとは岡田斗司夫が言う「第三世代オタク」に大半が属している、第12世代と第3世代の差はゲームに有ると言っていい。

ゲーマーの崩壊は、まずゲームボーイから起こった、ゲームボーイ末期に発生した事件、ポケットモンスター、こいつがすべての始まりだった…今思えば。
このゲームボーイ、既存のゲーマーはあまり興味を示さず、ほぼユーザーが子供だった。ここで旧世代の据え置き勢と新世代の携帯機勢が別れる。更に旧世代が見捨てたハード任天堂64、これがポケモン世代のキッズにとってはちょうど良かった、ここで旧世代のJRPG層との分離が明確になり始める。更に携帯機勢は勢力としてはアーケード勢と距離があり、そこでアーケードとの距離もできる。
これはPS2時代まではまだなんとか誤魔化せていたがDSの登場で市場の主役が携帯機になると、ハード売上がDS>PSP>据え置きと言う事態になり、結果据え置き系のIPの多くが携帯機世代に継承されなくなった。そこにスマホの台頭が加わり、ゲーマーと言う単語はもはや空中分解した…と言う減少を私は経験している…なので著者が説くSF大陸の崩壊はそういうことを指すのかなと。



私が考えるこの本の背景 00年代中盤

この本、特徴は「00年代中盤に構成され、00年代後半にリリースされた」ということ。この本の背景は00年代中盤、ゲームで言うとPS2の黄金期が終わりに差し掛かってDSバブルが始まりかかっていた、据え置きの終焉とも言える微妙な時代、オタクバッシングは薄まるも続いており、ゲーム脳問題が世間を騒がし、アニメは徐々に深夜に移行、ラノベが隆盛し、何よりこの後の時代で重要になるSNSや動画サイトが産声をあげていた、漫画はやや衰退傾向で定番以外の漫画原作アニメは減少、まさにそんな時代。
本当に中途半端な時代に書かれた本だと思う。だから「古い時代の終わり」が明確で、でも「新しい時代は始まっていたがまだ目に見えてなかった、一過性のものだと思われていた」それがこの本の内容につながっていると思う。

第3世代オタクについての私の補足

私としてはこの本、第三世代オタクについて補足しておきたい事があります。第3世代が持つ鈍感さ的なことを強調していたのですが、第4世代の私から見る第3世代特有のセンシティブさみたいなものが有る。
著者はSFオタクで孤高を尊ぶオタク貴族主義の第1世代、アニメオタクでオタクを自覚した頃に某事件が起こりオタクバッシングと戦ったオタクエリート主義の第2世代オタク、そしてもはやオタクとしての定義が曖昧な萌えに走るだけの第3世代オタクみたいな定義をしています。
著者は「顕在化したオタクっぽいオタク」のみを考察対象としている(これは著者のオタクの定義の問題でも有るが)ので、所謂「萌え豚」と呼ばれる層のみを考察している。
ただ第3世代には隠れオタクと言うべきか、第2世代がオタクになってからオタクバッシングを受けたのに対して、第3世代はまだオタクとはいい難い前段階の頃にオタクバッシングを受けたため「オタクっぽい性質を持ちながらにオタクを隠すオタク」や「オタクなのか違うのか曖昧」な層、「オタクやオタク的なものを否定するがどう考えてもオタク」な層が結構目立つ。硬派厨と呼ばれる層も割とこのグループに属していると思う。
こういったセンシティブなオタクのような何かについては言及されていない、まあ当然なのだ彼らは当時の基準ではオタクではないから、20年の基準では多分オタク。

「ぱぱっと読めるので一応ゲーマーなら読んでいい」教養としてのゲーム史 著:多根清史

多根清史 筑摩書房

タイトルの通り、著者はゲーマーの共通体験としてのゲーム史ではなく、教養としてのゲーム史を書こうとしたことがまえがきに有る。

ATARIのポンから始まったゲームの歴史をわかりやすく解説、とは言え網羅範囲は狭い、基本的にほぼFCまでが大半、4章だけ例外的にSLGがテーマで後半になって恋愛SLGとしてシスプリ、ときめも、ラブプラスに言及がある程度。特に3D化以降についてはほぼなし。

年間1000冊挑戦してみる

10回近く挑戦して未だに達成したことがない本1000冊ノックをやってみる。
毎回失敗してその都度いくつかの教訓を得たが、今回は…。

今回は読みやすい電子書籍を導入する事で効率アップを図る。
電子書籍は
「リーダーが汎用機でいけるので本を持ち出してなくても手持ちのスマホタブで読める」
「軽い上に汎用機で読めるので荷物が多い長期旅行の時でも読める」
「リーダーが本より軽くまた固くて持ちやすいために肩がこりにくい」
「たくさん持ち歩けるのでその時の気分で読める」
「片腕で読めるので読める体勢が広がる」
というメリットが有る。
電子書籍と紙の本を併用することでなるべく効率アップを図る。

面白そうな本を中心に読み漁る。評価の高い本を中心とする。
だいたいつまらない本に数回当たってしまうとだいたい脱落するので、簡単かつ面白そうな本を中心にチョイス。この評価とは売上でも書評でもなく、アマゾンの☆4以上というのが目安。

上下巻はカウント2冊。
30巻する小説を30冊とカウント、そりゃあ30冊読んで1シリーズだから1冊とか無理です。

メインブログとの併用
これはいつもの方針、メインブログの更新とこっちの更新を両立できる作品を多めにチョイス。

使う図書館の変更
家から遠いが立ち寄りやすく、また本の予約を取りやすい某図書館にメイン図書館を変更する。規模は小さいものの開館時間が長いので使いやすい。

本を何百冊も読むということは延々とマラソンするのと同じで、案外体力を食う。
特に型がこる、頭が痛くなる。これは姿勢の固定化等が原因。そこをなんとかできれば1000冊いけるんだが。

「むしろ読むべきなのは時代劇ファン以外かも」時代劇はなぜ滅びるのか 著:春日太一

今回からタイトル構成を少し変えます。

おすすめ、むしろ時代劇ファン以外にこそ読んでほしい、そもそも私自体が時代劇(時代物)ファンではない(歴ヲタでは有るが、良くも悪くも隣人の感覚での付き合い)。
この本は、時代劇を通して日本戦後映像文化史とでも言うべき内容で、映画からテレビへ、俳優の変化、映画監督の変化、テレビ環境の変化など、ありとあらゆるものが時代劇への逆風と言う考察。

時代劇の危機について色々書いてある

60年代に一度危機を迎えた時代劇が、96年になって別の危機を迎える、これらはメディアを取り巻く環境が大きく変わったことを著者は伝えている。
まずは映画時代劇の衰退、それからのテレビ時代劇の隆盛、そして90年代に入って再び隆盛する時代劇、しかし視聴率が世帯から個人へと移行した96年以降高齢者しか見ない事が判明した時代劇はスポンサー離れのせいで一気に壊滅する事が書かれている。

そして時代劇を作るための環境も失われたと説く。まず俳優が居ない、昔と違って今の俳優は芝居が出来ない(これは別ジャンルでも散々言われている事)、事務所が売り出したい人間にろくに稽古も付けないまま出すもんだから全然、現代劇であれば自然体扱いで許されるも、ファンタジーである時代劇であれば芝居がかった感じが出せないとダメ、という内容。かと言って歌舞伎役者もそれはそれで歌舞伎過ぎ、わざとらしすぎてダメで、演技指導できる監督が居ないと説く。またプロデューサーもサラリーマンプロデューサーばっかり。

また時代劇は高齢者向けと言われるが、それにも理由があり、水戸黄門が意図的に高齢者向けに演出した結果それがハマったために、安定を良しとする他のTV局も水戸黄門風にしてしまったせいで高齢者っぽくなってしまった、結果新規開拓出来ずにジリ貧になる原因に。

水戸黄門はパナソニックがある程度の利益度外視で逸見稔と言う辣腕プロデューサーによって作られた、彼はスポンサーでありながら製作者側でも有ると言う特殊なポジションで長生きできた…のだがやはり逸見の死とともに迷走していく。

とこんな感じで時代劇が抱えている問題を詳細に渡って語っていくものです。


女性について

「著者の女性観」について、まあ概ね同意なんですが、個人的に付け足したい事が有るので。要は著者は女性は殺伐とした事が嫌いで細かい話が理解できず、また歴史にも興味がない女性視聴者が大河ドラマをホームドラマにしてしまったと主張している。
著者は大河ドラマを殺したのは女性目線、つまり「働く男性の物語」だった大河を無理やり「ホームドラマ」にしてしまった。非日常の話なのに日常系のゆるい話にしてしまった。
理想主義ばかり語って何もしない主人公が氾濫している、ホームドラマに成り果ててしまっている、利家とまつのヒットによって主婦受けするノリにする、ホームドラマ風にすれば受けてしまうのでホームドラマになってしまった的なことを主張している。
これに関しては特にまあそうなんでしょうとしかいいようがない。

が私的に男性側も疲れ切っててストレスの有る話が嫌になっていると言う指摘が近年多いのを補足したい。この本は08年に書かれているのでこの内容になっているが、20年に読むと補足する分がでてくる。
後私的に「時代小説読むのはほぼ全員男」「時代劇はむしろ女より」な印象。なんで層が似てるようで違う、ただし年齢は似たりよったり。後大河ファンはやや若い傾向、歴ヲタが一定数居るので。


気になる「時代小説と時代劇」の関係

著者はこの本で一切この要素については触れず、原作として触れる程度にとどめてある。私的に時代小説って好きなジャンルではないですが気になるジャンル、特に定義論が結構考えると頭が痛くなってくる(時代系ファンタジーや非江戸もの非歴史小説系の小説等をどこに入れるかと言う話等、ただし時代系ファンタジーは技術的には時代劇なので、映像作品として見ればこの本を読む限り一応時代劇?状態)。

手にとった理由

私はこの本を読むきっかけがメインブログの方でやっている「ガンダムSF論争」についての考察の参考資料として選んだから。ガンダムともSFとも無関係な時代劇を選んだ理由は、時代劇とSFが有る意味同期生、光と闇、表と裏の関係と言う考え方から。
本作で著者は「時代劇とはファンタジーだ」と言っている、時代劇は現代を描く話ではない。SFも同じだ、未来、宇宙、異次元、過去、普通と違う現代、これらが描かれている。そもそもファンタジーはSFから分離したジャンル、どちらも非日常世界を描くという点で似ている、というか層が違うけど有る意味競合と言えるジャンル、お互い無関心なジャンルだけど実は有る意味近いポジション。
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