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2017年02月27日

海の翼 エルトゥールル号の奇蹟 著:秋月達郎

秋月達郎 PHP研究所

トルコの軍艦で、明治の日本に使節として送られてその後和歌山で座礁した軍艦エルトゥールル号、その話。

イライラ戦争によってテヘランに取り残された日本人、空爆の中で唯一助け舟を出したのがトルコであった、その時に語ったエルトゥールル号という名前、これは一体なんなのか。
かつて日本に使節として訪れたトルコの軍艦、エルトゥールル号、和歌山沖で挫傷し大半の船員が死亡するなが、紀伊大島の島民による決死の救助活動によって、なんとか数十名の船員を救出、トルコへ送る事が出来た。その中で生まれた日本とトルコのつながりが、イライラ戦争における日本人救出につながっていくという話。

エルトゥールル号の話は映画にもなっており、基本的に史実ベースなので大筋の話は同じものですが、こちらのほうが小説のため背景の描写や人物の数は多くなっています。

2017年02月26日

地名で読む江戸の町 著:大石学

大石学 PHP研究所

江戸の地名の由来とそれの解説。

大手町はそのまんま大手門、見附は見張りのいる門があったため、有楽町は織田有楽斎より、八重洲はヤン・ヨーステンが所有した土地があったため、日本での通称である八重洲(ヤン・ヨーステンが訛った)になった。後楽園は水戸黄門により作られ、光圀が好んだ句が使われている。浅草寺はあまりにも古く語源はよくわからない、銀座は銀貨を鋳造したためなどなど。


鎌倉幕府の滅亡 著:細川重男

細川重夫  吉川弘文館

タイトルのとおり。今までの通説では説明しきれない鎌倉幕府の滅亡の理由について。

元々鎌倉幕府は非常に不完全な組織であり、御家人とは別に本所一円地住民と呼ばれる鎌倉幕府に仕えていない武士が存在しており、武士そのものの組織化が行われていた訳ではなかった。
また非常に中央集権的な組織で、各地の守護の権限は室町の守護と比べるとはるかに乏しく、六波羅探題もトップは鎌倉から派遣され、権限はかなり制限されていた。

そして鎌倉幕府後期には著者が「特権支配層」とした3%以下の御家人による幕府支配が確立され、北条氏や御内人、それ以外にも安達氏、佐々木氏、宇都宮氏等の外様のいくつかの家と、京からやってきて武士化した文士である二階堂氏等により政治が行われていた。彼らは豪族的な側面を持つ宇都宮氏を除けば、頼朝以前には武士としての力をそれほど持っていなかった一族であった。それが鎌倉にて主導権を握り、各地の荘園を間接的に支配してそこから上がってくる収入で潤っており、北条高時の時代であっても高時個人の資金力は高かった。

その上に鎌倉幕府がなまじ力を付けてしまったため、つながりの薄い西国の問題とも関わる事になり、結果ボロが出てくる。

要は武士の組織化すら不完全、さらに王朝化して鎌倉に篭って各地とのつながりの薄い上に全御家人の3%以下に過ぎない鎌倉幕府の特権支配層、そして鎌倉の中央集権化、結果殆どの御家人が中央から阻害されると言う自体になっていた、鎌倉幕府末期はそんな状態。さらに北条時宗は著者の想定だと、鎌倉幕府の組織をより地方に権限を移す事で室町幕府的な組織に改革しようとしていたのでは、所が時宗の短命とその後の混乱で結局その改革案も頓挫。結果最終的に幕府滅亡へとつながり、短期間で一気に東国中の御家人が鎌倉に殺到、滅亡した。

鎌倉陥落時に東勝寺で切腹した顔ぶれは、北条氏以外でも所謂特権支配層に所属する人々であり、鎌倉幕府の滅亡はつまり特権支配層の滅亡だったとして締めている。





個人的感想としては、ずーっと思ってきたこととして「鎌倉幕府が滅びたのはこの際いいとして、北条氏があまりにあっけなさすぎる」と言うのがあったのですが、これを読むと納得、北条氏(及び鎌倉で死亡した幕府上層部)そのものが持っていた動員力は非常に小さかったと言う事。

2017年02月18日

なぜ地形と地理がわかると古代史がこんなに面白くなるのか 

洋泉社

簡素な古代史解説本。実業之日本社あたりの本のより簡易版といった感じの内容。

流離 (吉原裏同心一) 

佐伯泰英 光文社


借金のカタに結婚させられた若い娘が、幼馴染の男と逃走し結婚、それ以降10年にわたって追っ手と戦いながら逃避行を続ける事になる。
最終的に江戸の吉原にたどり着き、その追っ手と身内が絡んで吉原で起きた騒動に巻き込まれ、そこで実力が認められ、夫婦で吉原を守る仕事(裏同心)に付くと言う話。

軽めの時代小説で、50ページほどの小エピソードの連続で話が進み、主人公夫婦以外で話が解決することもチラホラ有り。

長編で十数巻出ているようですが、どこまで読むかは不明。

人はなぜ戦うのか 考古学から見た戦争

松本武彦 講談社

なかなか面白い、日本の考古資料を元に、古代から中性初頭までの戦いの諸相を復元するという内容。

縄文自在にはあまりなかった人によって殺害されたであろう人骨、それが弥生時代に入ると大陸から農業や武器と共に、戦いの思想がもたらされ戦乱が激化した。また縄文人も弥生文化に組み込まれ、縄文系の骨格を持つ戦死者が弥生系の墓に埋葬されている例がある。

著者は弥生時代の戦いを何度か激化と沈静化を繰り返しており、それを3つの時代に分けている。
農耕が伝わってすぐ(前5世紀〜前3世紀)に起きた抗争を第一期抗争としており、最初にいい農地を確保したグループとあとから来てその農地を狙うグループとの抗争としている。そしてそれらの諸集団のテリトリーが固定化されるまで争いが続いたとしている。ただ関東では前1世紀頃から環濠集落が増え、第一期抗争はその頃からとしている。

次に起こったのが第二期抗争、この頃に武器の様式は地域ごとに分かれており、戦死者の様子から同じ地域の武器で殺された者が主流であることから、第二期はそれぞれの地域内での秩序確立のための争いであり、それぞれの地域で有力な集落とそうでない集落の差が目立ち始める。また後半になると平野部での戦いの跡がなくなり、山間部へと戦いが移っていく。この頃はまだ青銅製の武器は普及しきっておらず、石の武器が使われていた、少数の青銅武器は墓から出土しており、実際に使われている跡もあるので、「戦闘リーダー」と呼ばれる人が使っていたと思われる。
1回の戦闘参加者は多くて200程度ではないかとの想定も有り。

最後に起こったのが第三期抗争、この戦い卑弥呼の前の時代で、鉄の確保や王権をめぐる争いであったとしている。この頃になると銅鏃が主流になっており、鉄鏃は形を安定させるのが難しいので命中率を考え、型で作れる銅鏃が主体だったそうだ。
その後はポスト卑弥呼の争い(これは魏志倭人伝に見えるも、復元は困難で古墳の状況から想定するくらいが限界の模様)。

その後は国内での戦闘は少なくなり、朝鮮に求める形で兵を派遣し各地の勢力の戦いに参戦、その見返りとして鉄等を得る時代へと突入。しかし徐々に国内でも鉄器生産が出来るようになり、派兵は政治的なものになっていく、また軍を集め進軍しながら結局出発しなかった事例も有り、一種のデモンストレーション的な意味もあったのではとしている。白村江以降はそれもなくなり国内での築城(よく言われる朝鮮式山城)が盛んに行われたが、城は防衛を目的としたものというよりは、一種の防衛のためのデモンストレーションではとしている、というのも大型のものばかりで数が少なく、防衛「網」が成り立たない為や、城に「見せる門」(門としての機能がなく、周囲から見て見栄えのいいところに造られた門)があることから。

また古代日本における戦争の形態を、あまり防御施設が発達しなかった、海に囲まれた社会である事等から、調停としての側面が強く、全面戦争に発展する事はあまりなかったとしている。



2017年02月16日

王陵の考古学 著:都出比呂志

都出比呂志 岩波書店

世界中の巨大墳墓の考古学。

古墳→始皇帝陵→朝鮮の古墳→中央アジアの墓→ピラミッド→ヨーロッパの王墓などと続いていきます。

結論部分だと、要は巨大王墓が作られるのは、国家形成期でかつ王が神となり、また殉葬が有り、墓を作るための街や村が作られ(ピラミッド等に見られる、著者は古墳も大きさと一部の記録を見るに、職人が暮らす一時的な村があったと想定している)、そして官僚機構が整備されるようになると作られなくなっていくと言うもの。またキリスト教のように大規模な宗教が広まると、神としての王陵は作られなくなるとバイキング等の事例を見て考察されている。

信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材 著:谷口克広

中央公論社 谷口克広

信長の馬廻り等、信長の近臣達がテーマ。
信長が桶狭間の時に急遽出陣したため家臣が間に合わず、馬廻り衆らがそれに従った為兵力が少なかった、また朝倉攻めの際にも彼らは活躍しており、朝倉が撤退すると想定したものの家臣らは半信半疑だったため、結果信長の馬廻りが真っ先に追撃する事になった等。

また著者は彼らを4世代に分けており、信長より上の第一世代、信長よりちょい下の第二世代、より下の第三世代、本能寺の変の時にまだ子供だった第四世代と定義している。
第二世代の有力な4人は信長の怒りを買い追い出された後、家康の元に身を寄せたがそのまま三方ヶ原の戦いで宣してしまったらしい。第三世代には前田利家や堀秀政等有名な人間が多いなどとも。
また力士や商人でも仕えるものがあったらしい。

最終的に本能寺の変で壊滅、彼らは京都にいたものの本能寺にいたものは少なく、本能寺の変の時にはすでに信長のもとにはかけ参じる事ができず、結果二条城に多くが篭もり壊滅した。堀秀政は生き残り秀吉のところに居たため無事だった。

宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史  著:永田諒一

講談社 永田諒一

真実と言うか、副題が本体部分で、カトリックとプロテスタントの社会史。

・論題は別に張り出されてない(後世の創作)。
・誰が発明したかわからない活版印刷技術(木版印刷と言うより古い技術が存在するため)、当時木版画のパンフレットが出回っていた。
・プロテスタントの方が平均年齢が若く、印刷技術の活用に積極的だった、カトリックサイドでも積極的なグループはいたが皆若い、高齢化したカトリック指導者は頑なに印刷技術の使用を拒んでいた。
・民衆は信仰熱心である為、上の聖職者がいうことに従う傾向が強いので、改革運動以前は拝んでいた聖像を改革運動が始まったら破壊に回った。
・その為宗教改革が始まるとその手の聖像の制作で食っていた芸術家は失職した。
・中世には男がよく死んだ為、女が余っており、その余った女は不本意ながら修道院に入った。逆に男は出世のために聖職者になるものが多かった。
・当時の都市社会は共同体であったため、都市単位で宗派を選ぶ事になる。

沈没船が教える世界史 著:ランドール・ササキ

ランドール・ササキ メディアファクトリー

水中考古学の本。水中考古学の成果をわかりやすく教えてくれる。

かなりおすすめ、史料や通常の考古資料には現れてこない世界史の状況が見えて来る。

内容をかいつまむと
・ポルトガルの時代の末期の艦隊はすでにかなり悲惨な状況であり、ジーザス砦の救援に向かって沈んだ軍艦には大した武器が積んでなかった上に砲弾の大きさもバラバラ。
・スペイン無敵艦隊の装備や船の種類はバラバラであり、割と見掛け倒し。砲弾や大砲の種類もまちまちで本格的な砲戦ができるような物ではなく、あくまで他船に乗り移っての白兵戦を目的としたもの。兵士も装備を自弁していたので、かなりバラバラ。
・紀元前1000年記の沈没船を2つ発掘したが、一つは青銅の材料が積んでおり、多分国に近いところにいた交易船なのに対して、もう一つは壊れた青銅製品を大量に積んでおり、所謂廃品回収リサイクルのための個人商船だったと考えられる、史料からはあまり見えない交易船の姿。
・ローマ時代は多数の船が地中海を行き交い、沈没船の数も非常に多く、アンフォラと呼ばれる壺にワイン等を積んで運んでいたが、末期(5世紀)には殆ど沈没船が見られなくなる。4世紀の船から見つかったアンフォラは非常に質が悪く、さらに7世紀のものは質が悪い。
・11世紀ロードス島には壊れたガラスを運ぶガラスのリサイクル船が発見されている。
・ヴァイキング船も発見されており、現代で再現した所、北欧の荒い海でも壊れずにすすむらしい。
・中国船も発見されており、特に唐代のものは現代のジャンク船より西方の船に近く、竜骨を使用した作りだった。(ジャンク船は竜骨を使用してない)。
・東方見聞録に書かれていたジャンク船(非常に大型、壊れたら外板を使って修理し、最大6枚まで使う、そんなに外板を使ったら船が動かせなくなるからありえないと言われていた)に非常に近いタイプの船が発見されている、外板3枚を使用したもの。
・明代には明において朝鮮の船も使われていたらしい。
・元寇の船の発掘作業も行われている、見つかるものはだいたいが江南軍のもので東路軍のものはない。てつはうらしきものも発見されている。また著者は元寇の際に使われた船は大型船に積まれた小型のボートのようなものもカウントして計算されているのではとしてる(つまり4400隻は十分現実的な数字)。
・元寇の船は浅い海に沈んでいる為、殆どが波の影響で壊れており、全体の発掘はもっと深い海でないとダメとしている。
・白藤江の戦い(ベトナムにおける元寇)の発掘も行われており、史料に見える多数の逆茂木が発見された。ただし船はまだ。

かなりいろいろとわかって面白い
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