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2020年03月30日

戦国の名言集・織田家

こんなことが・・・・

昨夜、志村けんさんが亡くなられたという訃報がありました。

新型コロナウイルスの陽性反応が発覚してからわずか一週間足らずの出来事です。

志村さんの感染がニュースになった時、既に人工呼吸器を付けていて重症だと聞いていたので心配していたのですが、まさかこんなに早く亡くなってしまうとは・・・・。

僕が物心ついた頃から志村さんは大スターで、小学生の時は『8時だヨ!全員集合』を毎週楽しみに見ていました。

全員集合の放送が終わってからも、『ドリフ大爆笑』や『だいじょうぶだぁ』などで見る志村さんのコントが大好きでした。

未だに信じられません、本当に悲しいです。

でも、今までたくさんの笑いを届けて下さったことに感謝しています、本当にありがとうございました。

心からご冥福をお祈り致します。


この名言集、徳川家、豊臣家に続いて今回は織田家です。

織田家の家臣は本能寺の変で信長が亡くなった後、秀吉に仕えた者が多いので、豊臣家の家臣=もと織田家臣という構図にもなっています。

織田家の家臣の特徴としていえるのは、もともとの身分を問わず、能力さえあれば台頭することができたということです。

よく知られているように、豊臣秀吉は農民出身であり、明智光秀は将軍家に仕えていたこともありましたが、その前は素性のよくわからない浪人のような身分でした。

革新家であった信長らしく、家臣にも能力主義を貫いていたといえます。

そんな信長に認められた家臣の中には、当時としては型破りな発想を持つ人物も少なくありませんでした。

というわけで、今回は信長の家臣たちが遺した名言について語りたいと思います。

「木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田 退き佐久間」

これは、信長の重臣たちがそれぞれどういう存在だったかを端的に表現した言葉です。

「木綿藤吉」とは木下藤吉郎、後の豊臣秀吉のことです。

木綿というのは何に使っても便利で重宝することから、秀吉が器用でどんなことをやらせても上手にこなすことを木綿に例えたのです。

「米五郎左」とは丹羽長秀のことです。

米は人間が生きていく上で欠くことのできない食糧であるのと同じように、長秀は織田家にとって欠くことのできない存在であることを例えています。

「掛かれ柴田」は柴田勝家、「退き佐久間」は佐久間信盛をそれぞれ示しています。

織田家中随一の猛将として知られる勝家は戦場で常に勇猛果敢に突き進む姿勢から、逆に信盛は少しでも形勢が悪くなるとすぐ撤退しようとする姿勢からこう表現されたのでしょう。

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「既に知っていることは答えません」

森蘭丸 永禄八年(1565年)〜 天正十年(1582年)
森蘭丸.jpg

森蘭丸は信長お気に入りの小姓として知られていますが、信長が蘭丸を気に入っていたのは、彼が他の小姓たちと比べて傑出した才覚を持っていたからといわれています。

ある時、信長が厠(かわや=トイレ)に入る際、蘭丸に刀を持たせました。

用を足して出てきた信長は部屋に戻ると、何人かの小姓たちを集めて先ほどの刀を持ち

「この刀の鞘に刻み目がいくつあるかわかるか?当てた者にはこの刀をやろう」

と問題を出しました。

小姓たちはそれぞれに答えましたが、蘭丸だけは答えません。

不審に思った信長が「なぜお前は答えない?」と聞くと、蘭丸は

「私は先ほど刀をお預かりした時、刻み目を数えておりましたので既に正解を知っております。それを知らないふりをして答えるのは卑怯だからです。」

と答えました。

これを聞いた信長は蘭丸の正直さに感心して刀を与えました。

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「人は不遇に陥った時、本当の友情を知る」

前田利家 天文七年(1538年)〜 慶長四年(1599年)

前田利家は14歳の時から信長に仕えていましたが、若い頃は気性が荒く、短気でケンカっ早い性格で知られていました。

ある時、信長が寵愛していた茶坊主に、利家は刀のこうがい(刀の装飾品)を盗まれてしまい、信長に茶坊主の処罰を求めましたが認められませんでした。

その時は我慢したのですが、さらに茶坊主が陰で利家の悪口を言っていることを知り、怒った利家はなんと信長の前でこの茶坊主を斬り殺してしまったのです。

激怒した信長はその場で利家を手打ち(処刑)にしようとしましたが、他の家臣たちに何とかなだめられ、利家は織田家追放処分となりました。

浪人となった利家のもとに織田家から様々な人間が訪れましたが、彼らの態度は主に三通りに分かれました。

一つめは、利家がこういう目にあっていい気味だとあざ笑う者。

二つめは、利家が信長様を恨んでいるのではないかと探りに来る者。

三つめは、利家のことを本当に心配してくれる者。

彼らを見て利家は一つのことを悟ります。

「しかし、本当の友人と言えるべき人は何と少ないことか。人は不遇に陥った時、はじめて本当の友情というものを知ることができるものだ」

その後、利家は再び信長に仕えるべく孤軍奮闘の活躍をみせ、ようやく再仕することを許されました。



まとめ

  • 「木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田 退き佐久間」
    (織田家の重臣たちを表現した言葉)

  • 「既に知っていることは答えません」
    (森蘭丸)

  • 人は不遇に陥った時、本当の友情を知る」
    (前田利家)


利家の言葉は大きな挫折を経験した時、本当に痛感させられる名言ですね。

2020年03月27日

なぜ日本は国際連盟を脱退したのか?

国際連盟脱退に至った背景

一昨日、小池都知事が「今週末の外出自粛要請」をした影響により、各地で“買いだめ”が横行しています。

週末に外出しない、いわゆる“巣籠り”のために普段より食糧を買い込んでいるのでしょうが・・・どう考えても(そこまで必要か?)と思われるほど大量に買い物をしている人が多いですよね?

昨夕、買い物に出掛けると、いつものスーパーには普段の倍以上お客さんが入っていて、食品棚は品切れが目立ち、レジ前には長蛇の列ができていました。

僕は普段通り必要な分だけの買い物をしたかったのですが、それがほとんど手に入らず困りました。

少し前のトイレットペーパーの時もそうだったのですが、人は「これが不足するかもしれない」という情報が出回るとアッという間に反応し、それを見聞きした人がさらに追随するという群集心理が働いてしまいます。

店側の方も言ってますが、決して物流が滞っているわけではないので、食糧品は十分に供給されています

だから、週末家にいるとしても普段通りの買い物をして、足りなくなったら必要な分だけ買いに行く、皆がこういう当たり前の行動をしていれば、誰も品不足で困ることにはならないのです。

お年寄りなどの生活弱者の方には深刻な問題となってしまうので、買いだめ行為は本当にやめて欲しいです。


さて、今日3月27日は日本が国際連盟を脱退した日です。(昭和八年 1933年)

国際連盟とは、1920年にアメリカ大統領・ウィルソンの提唱により、国際平和を目的として設立された国際機関であり、現在の国際連合の前身です。

日本は国際連盟の発足当初から常任理事国になったことで、国際的地位も向上しました。

しかしその頃、中国国内では民族運動の高揚により、南満州鉄道などを含む満州(中国の東北部)における日本の既得権益を中国に取り戻そうとする動きがありました。

日本軍はこの中国側の動きに危機感を抱き、武力によって満州の日本権益を死守しようと考えていました。

そのため、日本軍にとっては国際連盟の平和的ルールが足かせになっていたのです。

というわけで、今回は日本が国際連盟脱退に至った流れについて語りたいと思います。

暴走する関東軍

昭和六年(1931年)9月18日、中国・奉天郊外の柳条湖において南満州鉄道の線路が爆破される事件が起こりました。(柳条湖事件)

これは、満州侵攻の突破口を開くために関東軍(満州の権益保護のために駐留した陸軍部隊)が仕組んだ陰謀だったのです。

関東軍はこの事件を「線路爆破は中国軍の仕業だ」と偽り、権益保護の自衛を口実に軍事行動を開始しました。

この事件をきっかけに始まった軍事行動を満州事変といい、昭和二十年(1945年)の終戦まで続く十五年戦争の発端となったのです。

当時の第二次若槻礼次郎内閣は戦線の不拡大方針を表明しましたが、関東軍はこれを無視して侵攻を続け、戦線を拡大していきました。

この関東軍の暴走を止められなかった若槻内閣は総辞職します。

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傀儡国家の誕生

昭和七年(1932年)3月、関東軍は中国から満州の分離独立を画策し、満州国を建国しました。

満州国は清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を執政として擁立しましたが、実質的には関東軍や日本の官僚が完全支配する日本の傀儡(かいらい=あやつり人形)国家でした。

しかし、若槻内閣の後に組閣した犬養毅内閣はこの満州国を承認しませんでした。

そのため、これを不服とした海軍将校などにより犬飼首相は暗殺されてしまいます。(五・一五事件)

五・一五事件によって政党内閣が軍部に倒されたことにより、それまでの政党政治が崩壊する結果となりました。(5月15日付ブログ参照

同年9月、犬飼内閣の次に組閣した海軍出身の斎藤実内閣は満州国との間に日満議定書を取り交わして満州国を承認しました。

「他所では困難な悪質ヤミ金にも対応!!」
国際的孤立への道

一方、中国は満州事変以来の日本の軍事行動が、不戦条約などに違反する侵略行為だとして国際連盟に提訴していました。

このため連盟はイギリスのリットン調査団を中国に派遣し、1932年2〜9月まで現地を調査させます。

同年10月、調査団による現地調査の結果をまとめたリットン報告書が連盟に提出されました。

調査の結果、

満州事変は日本の自衛行動ではなく侵略行為であり、満州国も満州人による自発的独立ではなく、日本軍が満州における既得権益拡大のため勝手に建国したもの

という事実が明らかになりました。

連盟はこの報告書の内容を受けて翌年2月に国連総会を開き、満州国建国の否認と日本軍の満州からの撤退を審議します。

審議の結果、賛成42 対 反対1(日本のみ)となり、この決議は可決されます。

しかし、日本の全権大使であった松岡洋右

「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」

と発言して、この総会を途中退場したのです。
国際連盟脱退.jpg
 国連総会の結果を伝える新聞記事

そして3月27日、日本は正式に国際連盟脱退を表明しました。

その後、日本はワシントン・ロンドンで締結された海軍軍縮条約の破棄を通告、軍事独立化を進めますが、同時に世界からの孤立も深めていきました。



まとめ

  • 関東軍は柳条湖事件をきっかけに満州事変を起こし、政府の不拡大方針を無視して満州に侵攻した

  • 関東軍は清朝最後の皇帝・溥儀を擁立して満州国を建国したが、犬養内閣が承認を拒んだため五・一五事件を起こして犬飼首相を暗殺した

  • リットン調査団の報告により日本の侵略行為が判明し、国連は日本の満州撤退を決議したが日本はこれを受け入れず国際連盟を脱退した


溥儀はフルネームを「愛新覚羅 溥儀」といい、1987年に公開された映画 『ラストエンペラー』の主人公として知られています。

2020年03月25日

首都・東京を形成した名城 江戸城

日本の都市は城下町を起源とするところが多い

世界中で新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、ついに東京オリンピックの延期が決まりました。

現在の世界情勢から考えれば、ある意味当然の措置かもしれませんが、開催国の我々日本国民にとってはやはり衝撃的なニュースです。

新型コロナウイルスは、文字通り「新種のウイルス」なので、今後の感染拡大がどのように推移していくのか、正直なところ全く読めないのが厄介ですね。

近いうちに画期的な治療法や特効薬が開発されて、急速に収束するかもしれません。

あるいは、現在の状況などまだ序章に過ぎず、今後恐ろしい勢いで拡がっていく“本物のパンデミック”に陥ってしまうのか・・・・。

今後どうなるかはわかりませんが、今はこの閉塞した社会状況に耐えなければならない時期かもしれません。

そして、一日も早く“本当の春”が来てくれることを祈りたいですね。


さて突然ですが、皆さんは「城巡り」をされたことがありますか?

普段お城にあまり興味のない方でも、旅行先に立派なお城があったりすると、とりあえず行ってみたりしますよね。

歴史好きの中には「城郭マニア」という方もいて、彼らは日本全国の城巡りを趣味として各城についてかなり勉強をしているので、地元の観光ボランティアより詳しかったりします。(笑)

僕は歴史も旅行も好きなので、旅行先にお城があれば行くこともありますが、最初からお城目的で行くわけではないので、城郭マニアの方にはとても及びません。

現在の日本各地の都市の多くは城を中心に町づくりが進み、やがて城下町と呼ばれるようになり発展していった歴史があります。

東京(江戸城)・大阪(大坂城)・名古屋(名古屋城)の三都がその代表ですね。

例外的には、善光寺の長野や伊勢神宮の宇治山田のように大きな寺社を中心に発展した門前町もあります。

つまり、町の中心である城の歴史を知ることで、その町の歴史を知ることもできるといえるでしょう。

というわけで、今回は日本の首都東京を形成した巨城・江戸城について語りたいと思います。

“未開の地” 江戸を開拓した家康

江戸城.jpg
 江戸城(現 皇居) 富士見櫓

江戸城は室町時代後期の長禄元年(1457年)太田道灌8月5日付ブログ参照)によって最初に築かれました。

当時はひなびた漁村があるだけの未開の地だった江戸に城を築いた道灌にはやはり先見の明があったといえるでしょう。

道灌が主君の上杉定正に暗殺された後、戦国時代には小田原の北条氏がこの城を支配します。

天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅ぼされると、秀吉の命令により関東に移された徳川家康4月17日付ブログ参照)が江戸城を本拠地としました。

一説によると、家康は関東入府の際、それまでの北条氏の拠点として既に栄えていた小田原を本拠地にしようと考えていましたが、秀吉の勧めにより江戸を本拠地にしたといわれています。

慶長八年(1603年)家康は征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、ここから本格的に江戸城の拡張と城下町の整備に着手し始めました。

江戸城の拡張工事は慶長十一年(1606年)から開始され、全国の諸大名を動員したこの大事業は「天下普請」と呼ばれました。

江戸城拡張のいわば“現場監督”である普請奉行となったのが、築城の名人と謳われた藤堂高虎です。

江戸城の石垣に使用された石の大部分は伊豆半島の東海岸から切り出され船で運ばれました。

拡張工事は2代秀忠・3代家光の時代にわたって続けられ、工事開始から30年後の寛永十三年(1636年)にようやく城の総構(そうがまえ 城の外郭)まで完成しました。

江戸城は本丸・二ノ丸・三ノ丸の中心部を西ノ丸・吹上・北ノ丸が囲み、さらにこの外側を総構が取り巻き、周囲16qにも及ぶ日本最大の大城郭となったのです。

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未曾有の大火災が江戸城を襲う!

ところが拡張工事の完成から約20年後、江戸城は思わぬ悲劇に見舞われてしまいます。

明暦三年(1657年)1月、江戸で未曾有の大火災・明暦の大火1月17日ブログ参照)が発生したのです。

小石川の伝通院から出火した火事は、飯田橋〜九段一帯に延焼、やがて江戸城本丸にも燃え移りました。

さらに夕方になると、今度は麹町方面からの火が江戸城の南側に延焼してしまいます。

この火災により、江戸城の天守・本丸・二ノ丸などが焼失、後に本丸と二ノ丸は再建されましたが、天守は結局再建されませんでした。

しかし、外から見て大城郭の象徴ともいえる天守がなぜ再建されなかったのでしょうか?

この頃、幕府は強圧的な武断政治から道徳的な文治政治への転換期であったので、幕府の権威誇示の象徴であった豪勢な天守はもはや必要なくなったと考えられています。

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明治維新を経て皇居へ

幕末になると、江戸城外を舞台に幕府権力を脅かす事件が起こります。

万延元年(1860年)3月、江戸城桜田門において登城中の大老・井伊直弼が水戸浪士らに襲撃され暗殺された桜田門外の変が起きました。

さらにこの二年後には、江戸城坂下門で老中・安藤信正が襲われて負傷した坂下門外の変が起きてしまいます。

幕政の中心である大老や老中が、こともあろうに将軍の居城である江戸城の入場門で相次いで襲撃された失態により、幕府の権威が著しく失墜したことはいうまでもありません。

慶応三年(1867年)10月、15代将軍・徳川慶喜が朝廷に政権を返上した大政奉還10月14日付ブログ参照)により、260年以上続いた江戸幕府は幕を閉じました。

慶応四年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦い1月3日付ブログ参照)に敗れた旧幕府軍の慶喜を討伐するため、新政府軍は3月15日に江戸城総攻撃を計画します。

しかし、新政府軍の総大将・西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟の話し合いにより、江戸城を新政府軍に明け渡すことで合意し、江戸城への総攻撃は回避されました。(江戸無血開城)

同年10月、江戸城は東京城(とうけいじょう)と改称、明治天皇が京から移られ、以来ここが天皇の住居=皇居となりました。

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まとめ

  • 江戸城は太田道灌が築城し、徳川家康によって城の拡張・城下町の整備が行なわれた

  • 明暦の大火により江戸城も天守・本丸・二ノ丸が焼失した

  • 江戸無血開城によって江戸城は新政府に明け渡され、以後は天皇の住居=皇居となった


皇居は事前に申し込みをすれば一般参観も可能ですが、現在は新型コロナウイルスの影響で参観申込を休止しているそうです。

2020年03月23日

源平最後の決戦! 壇ノ浦の戦い

源平合戦のクライマックス

明日3月24日は源平最後の合戦・壇ノ浦の戦いが行われた日です。(文治元年 1185年)

源氏と平氏の戦いは、治承四年(1180年)5月に以仁王と源頼政が挙兵したのを皮切りに始まりました。

当初は劣勢だった源氏ですが、翌年に平氏の棟梁・平清盛2月3日付ブログ参照)が亡くなったことにより徐々にその流れは源氏に傾き始めます。

源平合戦において、源氏の棟梁・源頼朝は鎌倉に入ってからほとんど動くことはなく、戦そのものは範頼義経の二人の弟たちに任せていました。

頼朝は平氏を滅ぼさない限り源氏の安泰はないと考え、最後まで平氏追討の手を緩めませんでした。

頼朝の非情なまでの冷徹さと比べ、その頼朝を殺さなかった清盛は武士の棟梁としての“甘さ”があったと言わざるを得ないかもしれません。(1月13日付ブログ参照

範頼と義経の活躍により、まるで坂道を転げ落ちるように滅亡へ向かってしまった平氏ですが、彼らもただ手をこまねいていたのではなく、彼らなりに最善の手を打っていました

まず平氏が西へ移動した理由は、東国がもともと源氏の勢力が強かったのに対し、西国は平氏の勢力圏にあったためです。

そして海での戦いを挑んだのは、水軍を持たない源氏に対し平氏は海上戦を得意としていたからです。

しかし、一度相手に傾いてしまった流れを引き戻すのは容易ではありませんでした。

というわけで、今回は壇ノ浦の戦いについて語りたいと思います。

一ノ谷の戦いは義経の奇襲が勝因ではなかった !?

寿永三年(1184年)1月、先に京へ入った木曾義仲1月20日付ブログ参照)を倒した範頼と義経は、その勢いのまま平氏追討に向かいます。

同年2月、平氏は摂津(兵庫県東部)一ノ谷に陣を構えて源氏を迎え撃つ体制を整えました。

この時、平氏の軍勢は源氏を上回っており、戦上手の義経といえども正面からぶつかっては勝ち目はありません。

かといって平氏の背後を突こうにも、後ろには険しい岩山がそびえ立つ通称・鵯越(ひよどりごえ)と呼ばれる難所がありました。

しかし、義経は敢えてここに目を付けたのです。

地元の者に「鹿が何とか通れるくらいのかなり険しい崖のような道」と説明されましたが、義経は

「鹿が通れるなら馬が通れぬはずがない」

と、鵯越を馬で攻め下り背後を突いて見事に平氏軍を敗走させました。

これが世に名高い「鵯越の逆落とし」です。


ところが、一ノ谷合戦の勝因は実は他にあったという説があるのです。

それは、後白河法皇による謀略です。

法皇は範頼と義経に平氏追討を命じておきながら、平氏には「源氏との和平交渉が成立した」と偽っていたのです。

法皇の言葉を信じた平氏軍は、油断して武装を解いたところで源氏の攻撃を受けたために惨敗したというのです。

実際、法皇の謀りごとを非難する内容が書かれた平氏の手紙が残っています。

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弓の名手・那須与一は実在しなかった !?

文治元年(1185年)2月、範頼と義経は一ノ谷から讃岐(香川県)屋島に逃れた平氏を追ってきました。

海を挟んで源平両軍が睨み合っていたところ、平氏側から一艘の舟が現われ、その舟の舳先には竿の先に付けた扇が高く掲げられていました

これは、「源氏には扇を一撃で射抜けるほどの弓の名手がいるのか?」という挑発だったのです。

義経は家来の那須与一を抜擢し、与一は期待に応えて見事、扇を一撃で射抜いてみせました。

この逸話は以前に紹介した屋島合戦のハイライト「扇の的」ですね。(7月23日付ブログ参照

実は、この屋島合戦のヒーロー・那須与一は実在したかどうかが疑われているのです。

というのも、与一の名は『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語にしか登場せず、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』など信憑性の高い史料には出てこないからです。

『那須氏系図』によると、与一は下野(栃木県)出身で地元の豪族・那須資高の子で本名が宗高となっています。

ですがこの系図も、「扇の的」のエピソードが軍記物語などであまりに有名になったため、後から書き加えられたのではないかともいわれているのです。

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最終決戦に敗れ平家滅亡

文治元年(1185年)3月、平氏はさらに西へ逃れ、生き残りをかけて長門(山口県)の壇ノ浦で源氏を迎え撃つことになりました。
壇ノ浦.jpg
 壇ノ浦古戦場

平氏が壇ノ浦を決戦の地に選んだのは、本州と九州の間に位置する関門海峡は激流で知られており、ここで戦えば海上戦を不得手とする源氏に勝てると考えたからです。

戦いが始まると、平氏は潮の流れを味方につけたことにより、劣勢だった兵力差を跳ね返して戦いを優位に進めました。

この時、平氏軍に追われた義経が舟から舟へ次々飛び移る“八艘飛び”をしたという伝説が残っています。(5月1日付ブログ参照

ところが午後になって潮の流れが変わると形勢は逆転、源氏は兵力差にものをいわせて見る見るうちに平氏を追い込みました。

もはやこれまでと覚悟を決めた二位尼(平時子、清盛の妻)は、わずか8歳の孫・安徳天皇を抱いて舟から海へ身を投げました。

入水の際、安徳天皇が「どこに行くの?」と尋ねると、二位尼は

「波の下にも都がございますよ」

と優しく答えたといいます。

この戦いの敗北により、ついに平氏は滅亡しました。


『平家物語』

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり

 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす

 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし」


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まとめ

  • 一ノ谷の戦いは義経の「鵯越の逆落とし」よりも後白河法皇の謀略に源氏の勝因があった

  • 屋島の戦いで「扇の的」を射抜いた那須与一は実在が疑われている

  • 壇ノ浦の戦いで平氏は海上戦に活路を求めたが、最後は敗れて平氏は滅亡した


ちなみに、歴代の天皇に代々継承される「三種の神器」草薙剣・八尺瓊勾玉・八咫鏡)のうち草薙剣は、二位尼が腰に差したまま海に飛び込んでしまったので、この時に紛失したといわれています。

2020年03月20日

秀吉さえも恐れた天才軍師 黒田官兵衛

なぜ官兵衛は天下を獲れなかったのか?

今日3月20日は黒田官兵衛が亡くなった日です。(慶長九年 1604年)

豊臣秀吉の軍師として知られる官兵衛の名は、平成二十六年(2014年)の大河ドラマ『軍師官兵衛』(主演:岡田准一)によってさらに有名になりました。

戦国時代の三傑といえば、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の名前が上がりますね。

しかし、「歴史に名を残す」という意味ではこの三人に及ばなかったものの、戦国武将としての能力は彼らと同等、あるいはそれ以上だったかもしれない武将は存在しました

そのうちの一人に挙げられるのが官兵衛です。

他にも武田信玄伊達政宗がそのくらいの器だったといえます。

信玄は天下取りの志半ばにして病没してしまいましたが、彼があと10年長生きしたら、天下の形成は大きく変わっていたといわれています

政宗の場合、彼が頭角を現わし始めた頃には既に秀吉が天下を治めつつありました。

信玄とは逆に政宗はあと10年早く生まれていたら、天下獲りも夢ではなかったかもしれません。

では、三傑とほぼ同時代に生きた官兵衛はどうだったのでしょうか?

彼は誰もが認める大器でしたが、あまりにもその才覚を発揮し過ぎてしまったため周囲に警戒されてしまい、結果として歴史に大きく名を刻むほどの活躍ができなかったと考えられます。

そういう意味では、「能ある鷹は爪を隠す」という言葉を実践できなかったのが官兵衛の失敗といえるのではないでしょうか。

というわけで、今回は黒田官兵衛について語りたいと思います。

片足にハンデを負った軍師

黒田官兵衛 天文十五年(1546年)〜 慶長九年(1604年)
黒田官兵衛.jpg

官兵衛は黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨(兵庫県)の姫路に生まれます。官兵衛は通称で本名は孝高(よしたか)。

官兵衛は主家の小寺政職に仕えていたので、若い頃は小寺姓を名乗っていました。

当時の播磨は弱小豪族が多く、彼らは西の毛利と東の織田という二大勢力の間に立たされていました。

彼らの多くは毛利方につく立場を表明していましたが、そんな中にあっても官兵衛一人だけは織田信長の革新性と将来性を早くから見抜き、織田方につくことを強く主張しました。

官兵衛は他の豪族にも織田方につくよう働きかけ、播磨国内の豪族のほとんどを織田方に転向させることに成功したのです。

こうして信長の信頼を得た官兵衛は織田に帰属し、信長家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の配下となります。

天正六年(1578年)10月、信長家臣の荒木村重が突如謀反を起こして居城の有岡城に籠城するという事件が起きました。

官兵衛は村重を説得するため有岡城に入りましたが、逆に捕えられ土牢に閉じ込められてしまいます

約一年にも及んだ劣悪な環境下での土牢生活は官兵衛の体を蝕み、この時から官兵衛の片足は不自由になってしまいました。



秀吉に“中国大返し”を進言

秀吉には官兵衛が仕える以前から竹中半兵衛という軍師もいましたが、天正七年(1579年)に半兵衛が病没したことで官兵衛は秀吉が最も信頼する軍師となりました。

官兵衛の活躍も手伝って秀吉が織田家中でも指折りの重臣となっていた時、彼らの運命を大きく変える大事件が起こります。

天正十年(1582年)6月、本能寺の変で主君信長が非業の死を遂げてしまったのです。

この時、官兵衛は秀吉と共に毛利氏の備中(岡山県)高松城を攻めている最中でした。

突然の悲報に呆然とする秀吉に対し、官兵衛は

「今こそ殿が天下を獲る千載一遇の好機ですぞ!」

と囁いたのです。

秀吉は官兵衛の進言に従い、急遽毛利氏と和睦して全軍を京都に引き返しました。

これが世に言う“中国大返し”です。

秀吉は織田家中の誰よりも早く謀反人・明智光秀を討つことに成功し、一躍信長の後継者候補に名乗りを上げました。

しかし、官兵衛の進言により秀吉の天下取りへの道は開けたものの、主君の不慮の悲報に接した状況で天下取りを囁くという官兵衛の恐ろしいまでの冷徹な感性に、秀吉が警戒心を抱いたのは当然といえるでしょう。

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警戒されて隠居するも最後の大勝負に出る!

秀吉は農民から成り上がった苦労人だけに、自らの家臣に対しても警戒を怠らなかったといわれています。

相当な能力があり、自分の近くに置いては危険と思われる武将は遠方へ追いやることが多かったのです。

蒲生氏郷2月7日付ブログ参照)がそうであり、官兵衛も九州の豊前(福岡県)中津に移されました。

官兵衛は軍師として秀吉の天下取りに大いに貢献したにも関わらず、中央から九州に追いやられてしまったのです。

現代で例えるなら、栄転という名の左遷といえるでしょう。

秀吉は官兵衛について

「世に恐ろしきは徳川と黒田なり、されど徳川は温和の人なり。黒田は何とも心許し難き者なり」

と語っています。

秀吉が自分を警戒していることを悟った官兵衛は家督を嫡男の長政に譲り、自らは出家して「如水」と名乗りました。

秀吉の死後、如水は天下獲りの野望を抱き、関ヶ原の戦いの裏で九州を席捲しかけますが、関ヶ原の戦いがわずか一日で終わってしまったことで、如水の野望も潰えました。(9月19日付ブログ参照

如水はこの時のことを相当悔やんでいたらしく、臨終の際にも

「関ヶ原で三成がもう少し頑張っていてくれたら、わしは九州から攻め上がって天下を手中に収めることができたかもしれない」

と嘆いたそうです。



まとめ

  • 黒田官兵衛は織田信長の将来性を早くから見抜き、地元播磨の豪族たちに織田方につくよう説得した

  • 官兵衛は豊臣秀吉の軍師として中国大返しを進言するなど秀吉の天下取りに貢献した

  • 官兵衛は能力の高さを秀吉に警戒されたため九州に左遷され、ついに天下を獲ることはできなかった


こうして官兵衛の生涯をみると、人は才能だけでは歴史の表舞台に上がってこられないことを実感させられますね。
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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