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2020年02月28日
天下一の茶匠 千利休
新型コロナウイルス感染拡大の波紋
ここにきて新型コロナウイルス感染拡大の影響がいよいよ深刻化してきましたね。
各種イベントの自粛要請に続き、来週から全国の学校を一斉休校にすることを政府が正式に要請しました。
僕も先週までは「そんなオーバーに騒がなくても、激混みの屋内施設にさえ行かなければ大丈夫だろ」くらいに楽観視していたのですが、ウイルスの感染力が予想以上に強く、感染の拡散も急速に進んでいる現状をみて、さすがに他人事とは思えなくなりました。
中国経済もかなりのマヒ状態にあることから、中国からの製品や部品の輸入を必要とする多くの日本企業の打撃も深刻です。
この状態が続けば、食糧品を含む生活必需品の生産流通まで滞ってしまい、日本経済全体にも大打撃を与えかねません。
僕は昨夜のニュースを見ていて、このままでは9年前の東日本大震災直後に近い状態になるのではないかとゾッとしました。
感染の拡大防止には国の強制力も必要ですが、一番大切なのは我々一人ひとりが「どうすれば感染を防ぐことができるか?」を常に自覚しながら行動することではないでしょうか。
さて、今日2月28日は安土桃山時代に活躍した茶人・千利休が亡くなった日です。(天正十九年 1591年)
千利休は言わずと知れた茶道の第一人者であり、侘び茶を大成させ、今井宗久・津田宗及とともに茶の湯の天下三宗匠と称せられる人物です。
利休の茶道を求めて蒲生氏郷(2月7日付ブログ参照)、細川忠興、古田織部なども利休の弟子となり、彼らは「利休七哲(七高弟)」と呼ばれました。
織田信長、豊臣秀吉をはじめ多くの人々を魅了した、利休の“茶の精神”とはいかなるものだったのでしょうか?
というわけで、今回は千利休について語りたいと思います。
利休が学んだ茶道の原点
千利休 大永二年(1522年)〜 天正十九年(1591年)
利休は和泉(大阪府)堺の商人の家に生まれます。幼名は与四郎。
与四郎の家は「納屋衆」といい、納屋とは倉庫のことで、主に魚を納める魚問屋を生業としていました。
17歳で同じく堺に住む茶人・武野紹鷗に師事して茶の湯を学び始めます。
利休が茶の湯を確立する以前、室町時代の茶道には東山流と奈良流の二つの流派がありました。
東山流は書院造りの茶室で豪華な茶道具を使用して茶を点(た)てる、奈良流は茶の湯を人の生き方ととらえ、地味で脱俗性の強い茶を点てるという考え方でした。
奈良流は茶の湯の開祖といわれる村田珠光に始まり、珠光は茶道に「わび・さび」の文化を取り入れた「侘び茶」を創出した人物です。
この珠光の精神を受け継ぎ、侘び茶をさらに簡素化させたのが紹鷗でした。
紹鷗に学んだことで与四郎の茶道センスが開花し、名を宗易(そうえき)と改めます。
宗易は幾多の茶会を開き、茶人としての名声を広げていきました。
やがて今井宗久の紹介で織田信長と出会い、信長に茶道の腕を認められ信長の茶頭となります。
茶頭とは、大名が客人を接待する時に茶を点てて奉仕する重要な役目です。
信長は自分の仲間に組み込みたい人物を茶会に招いて所持する名物茶器を披露することで、自らの権勢を誇示しました。
信長は戦功を上げた家臣に恩賞として名物茶器を与えましたが、茶道具を褒賞としたのは信長が初めてだったので、信長はその後に起こった“茶の湯ブーム”の火付け役と言ってもいいでしょう。
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運命を変えた天下人との出会い
信長が本能寺で倒れると、宗易は信長の跡を継いだ豊臣秀吉に仕えました。
秀吉も信長同様、茶の湯を利用して自らの権威を高めようと考えていたので、宗易の存在が必要不可欠だったのです。
天正十三年(1585年)秀吉は正親町天皇(おおぎまちてんのう)に茶の湯を献上する禁裏御茶湯(きんりおんちゃのゆ)を宮中で開催、この時に宗易は正親町天皇から「利休」の称号を贈られました。
天正十五年(1587年)秀吉は京都の北野天満宮において、公家から町人、百姓まで貧富や身分の別なく多くの人が参加できる大規模で開放的な茶会を開催(北野大茶会)し、この茶会を取り仕切った利休の名は全国に広まりました。
その後も秀吉はますます茶の湯に熱心になり、年中行事は勿論、長期にわたる合戦の途中にも茶会を開き、それを利休に取り仕切らせたので、利休の活躍は茶の湯の枠を超え政治の領域にまで拡大しました。
利休は茶会や茶道具の仲介で培った人脈を活かし、諸大名と秀吉の取次ぎ役も請け負うようになります。
秀吉がいかに利休を信頼していたかがわかる話として
「内々の儀は利休に、公事の儀は秀長(秀吉の弟)に申されよ」
と、上洛した豊後(大分県)の大友宗麟に語っていたことからもよく窺えます。
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“侘び茶” のポリシーとは?
利休は自らが完成させた侘び茶について
「茶の湯とは、ただ湯をわかし茶をたててのむばかりなることと知るべし」
と語っています。
つまり、余計なものをすべて排除した、いわば”究極の茶道”が「侘び茶」であると考えていました。
利休がデザインした茶室として有名な妙喜庵待庵はわずか2畳しかない簡素な茶室ですが、侘び茶の精神を具現化した究極の茶室といわれています。
ある時、利休の住む屋敷の庭にたくさんのアサガオの花が咲いたことがありました。
当時のアサガオはまだ珍しい花だったので、秀吉はアサガオ見たさに利休の屋敷で茶会を開くことを命じます。
当日、秀吉が利休の屋敷を訪れると、庭にアサガオの花は一つもなく、茶室の花瓶に一輪だけアサガオが生けられていました。
利休は庭のアサガオをすべて刈り取りることで、一輪のアサガオの美しさを演出したのです。
こういった利休独特の演出も、余計なものを排除する「侘び茶」精神の表れといえるでしょう。
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まとめ
- 堺の商人の家に生まれた千利休は武野紹鷗に茶の湯を学び、やがて織田信長の茶頭となる
- 信長の死後に仕えた豊臣秀吉に利休は大きな信頼を得ることとなり、茶道だけでなく政治の面でも秀吉の片腕として活躍した
- 利休が完成させた「侘び茶」とは、余計なものをすべて排除した究極の茶道
次回は大きな謎とされている利休の死の真相について語りますのでご期待下さい!
2020年02月26日
“昭和維新” 二・二六事件
東京に降り積もる雪を血で染めたクーデター
今日2月26日は“昭和のクーデター”、二・二六事件が起きた日です。(昭和十一年 1936年)
この事件はドラマや映画で何度も取り上げられていますが、その中でも近年で代表的なのは平成元年(1989年)に公開された映画『226』です。
この映画のサブタイトルは「THE FOUR DAYS OF SNOW AND BLOOD」(雪と鮮血の四日間)と表現されています。
数日前から東京に降り続いた大雪の中、クーデターを起こした陸軍の青年将校たちが政府要人を次々と殺害、四日間にわたり首都東京を占拠したことがこのサブタイトルに凝縮されています。
陸軍の若き青年将校たちは、腐敗した現状の日本を一掃し、天皇中心の新しい理想国家の構築を目指して「明治維新」に倣い“昭和維新”を掲げて決起したのです。
日本中を震撼させ、それこそ明治維新以来の内戦が勃発しかねなかったこの大事件はなぜ起こったのでしょうか?
というわけで、今回はニ・ニ六事件について語りたいと思います。
陸軍内部抗争の激化
昭和の時代に入ると日本は中国大陸への侵攻が著しくなり、それにともない軍部の台頭が加速していきました。
そんな中、陸軍内部では荒木貞夫・真崎甚三郎を中心とする皇道派と、永田鉄山・東条英機を中心とする統制派が陸軍の主導権を巡って対立していました。
皇道派は国家社会主義者・北一輝に思想的影響を強く受け、直接行動によって天皇中心の軍事政権樹立を目指す過激な急進派でした。
これに対し、統制派はエリート幕僚将校らが政財界との結びつきを利用して合法的に政権獲得を目指す現実派であり、根本的な考え方の違いから対立していたのです。
昭和九年(1934年)に岡田啓介内閣が成立すると、陸軍では政府と癒着した統制派が優勢になります。
翌年、皇道派の真崎が教育総監を罷免されると、その報復として皇道派の相沢三郎中佐が統制派の永田を殺害する騒動が起きました。(相沢事件)
統制派の中心人物であった永田が皇道派に殺害されたことにより、今度は統制派の幹部たちは皇道派の中核であった陸軍第一師団を満州に派遣することを決定、こうすることで皇道派の“実質的国外追放”を目論んだのです。
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“昭和維新” を掲げて決起する青年将校たち
追い詰められた皇道派は、この決定を阻止し、自分たちの理想とする国家を樹立するため、ついに直接行動で訴えることを決意します。
昭和十一年(1936年)2月26日早朝、東京で大雪が降り続く中、皇道派の青年将校たちは約1,500名の兵士を率い、“昭和維新” を掲げてクーデターを起こしました。
彼らは首相官邸・警視庁・陸軍省などを襲撃、警官隊の激しい抵抗に遭いながらも占拠に成功しました。
最大の標的であった岡田首相はぎりぎりのところで逃しましたが、高橋是清蔵相、斎藤実内相、渡辺錠太郎教育総監を殺害、鈴木貫太郎侍従長に瀕死の重傷を負わせました。
彼らに襲われた政府要人たちは「政府の中心にあり、天皇の意志に反し害をなす人物」として狙われたのです。
この日から四日間、霞が関や永田町などの日本の中枢はクーデター部隊によって制圧されました。
皇道派に占拠されクーデター側の本拠地となった山王ホテル(赤坂)
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叶わなかった理想国家の樹立
2月27日
東京に戒厳令(非常事態において軍隊に統治権を委ねる命令)が出されますが、青年将校たちはこれで天皇中心の理想国家ができると信じていました。
しかし、昭和天皇は政府要人が殺されてしまったことに激怒し、彼らの行動を国家に対する反逆とみなしたのです。
2月28日
彼らは「反乱軍」扱いとなり、クーデター軍の撤退を命じる勅命(天皇の命令)が下されました。
2月29日(この年はうるう年)
ラジオ放送やチラシでクーデター軍の解散を呼びかけ、さらに「勅命下る 軍旗に手向かふな」と書かれたアドバルーンも揚げられました。
午後になってようやく部隊は解散し、これで事件は終息しました。
もし、彼らが兵を引かなかったら、勅命による鎮圧軍との内戦になる可能性すらあったのです。
その後、同年7月に開かれた軍法会議において、クーデターを起こした青年将校の首謀者17名は死刑、事件の理論的黒幕とされた北一輝も死刑となりました。
この事件により陸軍皇道派は一掃され、以後陸軍は東条英機(12月23日付ブログ参照)らの統制派が実権を握ることになりました。
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まとめ
- 二・ニ六事件は陸軍内部の皇道派と統制派の対立が発端となった
- 皇道派の青年将校たちはクーデターを起こし、高橋是清・斎藤実・渡辺錠太郎などの政府要人を殺害した
- クーデターは「反乱軍」とみなされ、事件後に青年将校の首謀者は死刑になった
落語家として初の人間国宝に認定された柳家小さん師匠は、事情も説明されず訳も分からないままこのクーデターに参加させられ、クーデターの最中に落語までやらされたそうです。(笑)
2020年02月24日
上下左右が逆? 地名の不思議
地図をよく見ると奇妙なことに気付く時がある
僕は旅行が趣味のため、昔から地図を見るのが好きでした。
特に車を運転するようになってからは、日本各地のいろいろな地図を買い込んでルートを調べたり、抜け道を探したりしました。
ネットが普及してくると、暇さえあればグーグルマップを覗き込んで、行ったことのない場所を見つけては旅行気分を味わっています。
旅行に行ってホテルなどに泊まりテレビをつけると、その土地でしか見られない地方色豊かな番組やCMが新鮮に感じられ、これもまた旅の楽しみの一つだったりします。
そんな僕が新潟県へ行った時、夜にテレビの天気予報を見ていると、新潟の天気は上越・中越・下越と主に3つに地域に分けられて予報が出されていました。
しかし、これをよく見ると、地図上では上部の地域が「下越」で、下部の地域が「上越」になっていることに気付きました。
これは新潟県以外の方が初めて見たら違和感を感じることではないでしょうか?
このように、地図をよくよく読み込んでみると疑問に思う地名が日本にはたくさんあります。
というわけで、今回は(これ、逆じゃない?)などと感じる地名の不思議について語りたいと思います。
「左京」と「右京」
10月21日付のブログでは、京都の平安京の特徴について紹介し、当時は左京が栄えていたことなどを語りました。
ここでもう一度平安京の配置図を見てみましょう。
現在の京都も左京→左京区、右京→右京区になっただけで配置は同じなのですが・・・左右が逆になってますよね?
なぜ右が「左京」で左が「右京」なのでしょうか?
平安京は唐(中国)の長安を手本にして造営されたので、天皇が居住される大内裏も長安に倣い平安京の中央北部に設けました。
そして古代中国においては、「君主は南を向いて政治を行なう」という形が基本とされていました。
すなわち、大内裏から天皇が南を向いた時、天皇から見て左を「左京」、右を「右京」と定めたのです。
この平安京の地図を上下逆さまに見る、つまり大内裏に住む天皇の目線で見れば左右は合っているということになるのです。
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「近江」と「遠江」
旧国名の近江(おうみ)とは現在の滋賀県、遠江(とおとうみ)とは現在の静岡県西部を表わします。
これは「近い」と「遠い」の関係を示しているのですが、この二つの地域に共通しているのは、「湖」があるということです。
近江には琵琶湖、遠江には浜名湖があるので、「江」とは「湖」を指していることがわかりますね。
つまり、「近い湖」が琵琶湖、「遠い湖」が浜名湖ということになるのですが、では、どこから「近い」「遠い」なのでしょうか?
この「近い」「遠い」は京の都を基準としていたのです。
近江は元々「淡海」(あわうみ=大きな湖の意味)と表記されており、昔は琵琶湖を「淡水の海」と見立てていました。
やがて浜名湖と区別するため、京都を基準に琵琶湖を「近淡海」、浜名湖を「遠淡海」と呼びました。
そして「淡海」→「江」になり、「近江」と「遠江」になったのです。
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「上総」と「下総」
旧国名の上総(かずさ)とは現在の千葉県中部、下総(しもうさ)とは現在の千葉県北部と茨城県の一部を表わします。
現在の千葉県は地図上で上から下総、上総、安房と三つに区分けされていました。
これは上総と下総の位置からして、上下が逆じゃないかと思いますよね?
この場合も近江・遠江と同様の考え方で、地図上の上下ではなく京の都に近い方を上、遠い方を下としたのです。
しかし、これだけでは「なるほど、そうだったのか!」と簡単に納得できないことがあります。
なぜなら、「京都から東海道を通って千葉に行く場合、先に下総を通って上総に入るはずだから、やっぱり京都に近いのは下総の方ではないか?」と思ってしまうからです。
ところが、当時は相模(神奈川県)の三浦半島から船で房総半島に渡るのがメインルートだったのです。
つまり、船で東京湾を渡り、まず上総に上陸してから下総へ向かったので、上総の方が都に近いと考えられていました。
上総・下総の「総」とは「麻」を意味し、この地が麻の栽培に適していたことから「総の国」となり、これを上下に分けて「上総」と「下総」になりました。(※諸説あり)
ちなみに、千葉県を通称「房総半島」と呼ぶのは、安房の「房」と、上総・下総の「総」を合わせて「房総」としたのです。
冒頭に書いた新潟県の上越・中越・下越もこれと同じ理屈であり、地図上の位置関係ではなく都に近い方が上越、遠い方が下越、その中間が中越になったということですね。
まとめ
- 「左京」と「右京」
→天皇の住む大内裏から見て左が左京、右が右京 - 「近江」と「遠江」
→京都に近い琵琶湖があるのが近江、遠い浜名湖があるのが遠江 - 「上総」と「下総」
→房総半島へは渡海するのがメインルートだったので京都から近いのが上総、遠いのが下総
昔は京の都を中心に様々な事が決められていたから、今でも京都の人はプライドが高いんですね。
2020年02月21日
伝説の“史上最強力士” 雷電爲右衛門
江戸時代に実在した“怪物”
今日2月21日は伝説の力士・雷電爲右衛門が亡くなった日です。(文政八年 1825年)
相撲といえば、先場所は“幕尻”、つまり幕内番付最下位の徳勝龍が優勝したことで話題となりましたね。
しかし、日本の国技にも関わらず、モンゴル人力士の強さばかりが目立つ昨今の大相撲には嘆いている相撲ファンも多いことでしょう。(徳勝龍は日本人ですが)
僕も今は時間がある時たまに見る程度で、相撲への興味が薄くなって久しいですね。
僕の場合、千代の富士、双羽黒、北勝海(現 八角理事長)、大乃国、小錦、北天佑などが活躍していた時代はけっこう夢中になって見てました。(かなり懐かしい!)
相撲ファンの間で「歴代の力士の中で誰が一番強かったか?」を語ると、それぞれの世代で活躍した力士が違うので一概には決められません。
そんな中でも、
“恐らく史上最強だったのではないか?”
と囁かれているのがこの雷電なのです。
大相撲の歴史は江戸時代前期頃から始まるのですが、江戸時代後期に登場した雷電の凄まじいまでの活躍によって大相撲がメジャーな存在になったと言っても過言ではありません。
では、雷電とはどれほど凄い力士だったのでしょうか?
というわけで、今回は雷電爲右衛門について語りたいと思います。
強過ぎるゆえのハンデ !?
雷電爲右衛門(らいでん ためえもん) 明和四年(1767年)〜 文政八年(1825年)
雷電は信濃(長野県)大石村(現・東御市)に生まれます。本名は関 太郎吉
雷電は幼い頃から体格に恵まれていたため相撲部屋にスカウトされたのですが、その体格が規格外なのです。
身長197a、体重169`。
この身長体重は「力士として理想的な体格」とされているのですが、これに近い恵まれた体格の日本人力士は現在でもほとんどいません。
まして、現代人よりも一回り近く小さかった当時の日本人からすれば、雷電はまさに“怪物級”の存在だったでしょう。
17歳で相撲部屋に入門した雷電は、なんと初土俵で無敗の初優勝をしてしまったのです。
その後も雷電の快進撃は続き、当時は谷風(雷電の兄弟子)、小野川という二人の横綱が存在しましたが、雷電は小野川に一度も負けなかったのです。
ある場所中、雷電が対戦相手の八角政右衛門の腕を閂(かんぬき)で折ってしまうというアクシデントが起こりました。
この事態を重くみた運営側は、雷電があまりに強過ぎるため、閂・張り手・突っ張り・鯖折りを雷電に限って「禁じ手」としたのです。
これだけのハンデを課せられてしまったにも関わらず、その後も雷電が負けることはほとんどありませんでした。
雷電は土俵生活21年間で、優勝相当29回(うち連続優勝9回)、通算成績285戦254勝10敗(残り21戦は分け他)、そして
勝率はなんと.962!
という驚異的な数字を残しました。
しかし、優勝回数だけ見れば、「白鵬(43回)や大鵬(32回)、千代の富士(31回)に及ばないじゃないか」と思う方もいるでしょう。
ところが、当時の大相撲は年間二場所しか行われておらず、しかも雷電は実質34場所(全休した場所を除く)しか出場していないので、それらを考慮すればいかに凄い数字かがわかります。(※白鵬94場所、大鵬69場所、千代の富士81場所、いずれも幕内場所)
こうして雷電は生涯にわたり好敵手に恵まれないまま、文化八年(1811年)45歳で引退しました。
なぜ横綱になれなかったのか?
雷電の生涯を見ていくと、一つの大きな疑問が湧いてきます。
これほど驚異的に強かったのに、なぜ雷電は横綱になれなかったのか?
ということです。
雷電の最高位は大関であり、引退するまで横綱にはなっておりません。
これにはいくつかの説が存在します。
まず一つには、将軍の上覧相撲の機会を与えられなかったためとする説です。
この当時、江戸城内で将軍に謁見し、将軍の前で相撲を取る上覧相撲を行なった谷風と小野川が初の横綱になったという慣例がありました。
時の11代将軍・徳川家斉は雷電を「天下無双」と称えていましたが、結局上覧相撲には雷電を呼びませんでした。
その理由として、雷電が強過ぎて雷電と好勝負できる対戦相手が一人もいなかったので、やる前から雷電が勝つとわかり切っている相撲に家斉が興味を示さなかったのではないかと考えられます。
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大名どうしの確執が原因 !?
もう一つ有力な説として考えられるのがこれです。
当時の番付では最高位は大関であり、横綱は名誉の称号でした。
そのため、横綱の称号を得るには、特定の大名家が権限を持つ許可に申請する必要がありました。
当時の力士は大名のお抱えとなっていて、雷電を抱えていたのは出雲(島根県)の松平家でしたが、横綱の免許を与える資格を持つ吉田司家は肥後(熊本県)の細川家に属していました。
しかし、なぜか松平家は細川家に雷電の横綱昇進を申請しなかったのです。
恐らく、松平家と細川家の間に何らかの確執があったため、松平家は申請をしなかったと思われます。
もし、大名どうしの確執が原因で横綱になれなかったのが事実ならば、雷電はあまりにも気の毒と言わざるを得ませんね。
まとめ
- 江戸時代の力士・雷電爲右衛門は身長197a、体重169`という驚くべき体格で勝率.962という驚異的な強さを誇った
- 雷電はあまりに強過ぎたため、閂・張り手・突っ張り・鯖折りを禁じ手とされた
- 雷電が横綱になれなかった理由は上覧相撲に呼ばれなかった、大名の都合で横綱昇進を申請しなかったなどが考えられる
ちなみに、40年前に大ヒットしたYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の「ライディーン」という曲は、この伝説の力士・雷電から命名したそうです。
2020年02月19日
泰平の世に衝撃走る! 大塩平八郎の乱
平和ボケしていた江戸時代に風穴を開けた大事件
今日2月19日は大塩平八郎の乱が起きた日です。(天保八年 1837年)
大坂の町で起きたこの一揆騒動は、江戸幕府を仰天させた大事件でした。
しかし、規模的には大した人数でもなく、すぐ鎮圧されたのになぜ幕府は大きな衝撃を受けたのでしょうか?
江戸時代後期ともなると開幕して200年以上経っており、長く平穏な時代が続いていたので、人々が“平和ボケ”していたことも要因の一つと言えます。
つまり、平穏な日常が当たり前のように長く続くと、ちょっとした規模の一揆でも当時の人々にとっては“前代未聞の大事件”と思えてしまうのでしょう。
現代の日本人も「平和ボケしている」と言われて久しいですが、それでもまだ戦後80年も経っていないのです。
まして、戦国の世から200年以上平穏な日々が続いていたこの時代に、人々が平和ボケしてしまうのも無理はないかもしれませんね。
この乱の背景にあるのは、江戸時代に多かった飢饉による食糧不足です。
特に享保・天明・天保の飢饉は「江戸の三大飢饉」と言われていて、全国的にかなりの餓死者が出ました。
このため、農村では一揆、都市部では米問屋などを襲う打ちこわしが頻発し社会問題になりました。
そんな状況下で庶民の窮状を訴えるべく立ち上がったのが平八郎でした。
というわけで、今回は大塩平八郎の乱について語りたいと思います。
大塩平八郎とは?
大塩平八郎 寛政五年(1793年)〜 天保八年(1837年)
平八郎は、もと大坂町奉行所の与力で陽明学者でした。
陽明学とは、明(中国)の王陽明が唱えた儒学の一派で、「知行合一」を旨とする学問です。
「知行合一」とは、道徳的に正しい行為は実践して初めて知ることができるという考え方をいいます。
なので、陽明学者である平八郎が蜂起したのは、この「知行合一」の教えに従ったからとも考えられます。
平八郎は奉行所引退後、自宅に洗心洞という私塾を開き庶民教育と著作活動などを行なっていました。
当時は天保の大飢饉の最中で、大坂でも食糧不足が深刻化し、餓死者が続出していました。
こんな状況下でも、一部の豪商たちは米を買い占めて米価を吊り上げることで暴利を貪っていました。
平八郎はもと与力として貧民救済策を奉行所に提言しますが受け入れられなかったので、自らの蔵書を売却して作った金で貧民救済に努めたといいます。
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平八郎、ついに立つ!
その後も奉行所は飢饉による米不足のため米価格が2倍以上に高騰しているにも関わらず、貧民救済に何の方策も立てませんでした。
それどころか、江戸幕府の歓心を買うため、ただでさえ少ない大坂の米を江戸に廻送することに力を注いでいたのです。
この奉行所の所業に腹を据えかねた平八郎はついに武力蜂起を決意します。
天保八年(1837年)2月19日、平八郎は近隣の農民や門弟を集め、鉄砲や大砲などの武器を調達、奉行所の非道を檄文で告発し「救民」と書かれた旗を掲げて決起しました。
平八郎の一揆軍約300人は大坂の豪商が多く集まる船場を襲撃、鉄砲や大砲を連発しました。
このため大坂の町は広範囲にわたり火災が発生し、大混乱に陥ります。
平八郎は自分たちの行動に共感した救民が加わることで、一揆がさらに拡大することを期待していました。
しかし、平八郎に呼応する者はほとんどなく、反乱はわずか半日で鎮圧されてしまいました。
平八郎は逃亡し、約40日間にわたり大坂市街に潜伏しましたが、ついに潜伏先が発見され自害して果てました。
目指したのは、首に負担のかからない枕です。 スリープマージピロー
実は救民が目的ではなかった !?
救民を助けるために蜂起した“民衆のヒーロー”として英雄視されている平八郎ですが、上記したように平八郎に共感して一揆に賛同する市民は意外に少なかったのです。
このことから、
平八郎が蜂起した理由は実は救民のためではなかったのではないか?
とする説が浮上したのです。
平八郎は奉行所時代にそれなりの業績を残していたため、私塾・洗心洞にはかなり多くの門弟が集まっていました。
奉行所時代から続く自らの実績に自信を持っていた平八郎はプライドが高く、自意識過剰になっていたと思われます。
そのため、引退後もたびたび意見書や建白書を奉行所に提出していたので、平八郎は奉行所からは煙たがられる存在でした。
やがて奉行所が平八郎の申し立てを無視するようになったので、これに腹を立てた平八郎が自らの力を誇示するために反乱を起こしたのではないかとも考えられるのです。
まとめ
- 大塩平八郎の乱は泰平の世が長く続いていた時代に起きたので、幕府を揺るがす大事件となった
- 平八郎は飢饉により困窮する庶民を救うため蜂起したが、半日で鎮圧された
- 平八郎が反乱を起こした理由は救民のためではなく、自らの不満が爆発したためとする説もある
平八郎の乱に衝撃を受けた幕府は危機感を抱き、これが天保の改革(2月10日付ブログ参照)を行なうきっかけになったといえます。