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2019年12月30日

今年一年の感謝を込めて

このブログを書く上で心掛けていたこと

早いもので、今年も残りわずかとなりました。

振り返ってみると、7月23日に初めてこのブログを書いてから今回で70本目です。

僕自身、ブログを書くこと自体が初めての経験だったので、最初は本当にわからないことだらけで、毎回“暗中模索”の状態でした。

それでも試行錯誤を繰り返しながら、一ヶ月くらいやってようやく自分のスタイルが確立できてきました。

毎回「初心忘るべからず」という気持ちを肝に銘じて、一切の手抜きはせず、現状の自分の知識で書けるベストな“作品”を送り出していくことを心掛けてやってきました。

時には時間の関係で最後ややバタバタしながら書いたことはありますが、それでも限られた時間の中でベストを尽くしました。

気軽に読んでもらえるブログを目標にしているとはいえ、日本史を語る上で間違ったことを書いてはならないと思っているので、年号や出来事には細心の注意を払っていました。(※様々な説が存在するものは別です)

常に妥協せず、全力で取り組むのを続けることが信頼に繫がると信じてやってきました。

そう心掛けていても、やはり結果として作品の出来・不出来はできてしまうもので、また読者の方々が注目された作品も自分の思惑とは違う意外なものであったりしました。

そこで今回は、読者の方々の注目度が高かった作品や、自分としての渾身の作品でありぜひ読んで頂きたいものを改めて紹介したいと思います。

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意外 !? 注目度が高かった作品

これは、書いた時はいつもと同じで特別な意識はなかったのですが、他の作品と比べて意外に反響が大きく、注目度が高かったと思われる作品です。

僕自身がもう一度振り返って、(なるほど、こういうものが読者ウケするのか)と、参考になった作品でもあります。

  • 関ヶ原の裏で天下を狙った武将たち9月19日
    これは、関ヶ原の戦いのいわば“スピンオフ”的なものとして書いたのですが、おそらく歴史ファンの方には関ヶ原の戦いは当たり前過ぎて今さら感があるのに対し、関ヶ原以外の場所で行われた東西決戦という視点に注目されたのではないでしょうか。
    それに、直江兼続真田昌幸黒田官兵衛といった人気のある武将が活躍し、それぞれにエピソードを残していることも要因かと。


  • “賊軍の将” 石田三成のプライド10月1日
    石田三成は来年の大河ドラマの主人公・明智光秀とともに長い間、日本史上の“ダークヒーロー”としてあまり好かれていなかったのですが、近年の戦国ブームで三成の業績や人間性が見直され、今では戦国ファンの間で根強い人気を持つ武将となりました。
    それでも賛否両論、評価の分かれる三成を僕がどう書くかに注目されたとも考えられます。


  • 人喰い熊の恐怖! 三毛別羆事件12月11日
    僕が初めてこの事件を知った時、かなりの衝撃を受けたので、(どうしても書きたい!)という僕の強い意志から書かせてもらった作品でした。
    これは、「日本史」という学問からはややずれているかもしれませんが、大正時代の日本で起こった大事件ということに間違いはありませんし、僕は過去に起こった出来事を今後の教訓として伝えていく日本史本来の目的からは外れていないと考えています。

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「これ読んで下さい!」 僕自身のオススメ

冒頭にも書きましたが、僕は毎回全力でやっているつもりなので、もしオススメの作品は?と聞かれたら、図々しいと思われるかもしれませんが、本音では全部がオススメと言いたいです。

とは言うものの、得意・不得意の分野はあって、自分では一生懸命書いてるつもりでも、うまく表現できなかったものもあり、やはり客観的に判断すれば作品に優劣はあります。

ここでは上記の作品ほど注目度は高くなかったものの、自分としては快心に近いデキで、もし読んでいない方がいたらぜひ読んで頂きたい僕の真骨頂ともいえる作品です。

  • 関ヶ原の戦い(前編・後編)9月15日17日
    これは正直、快心のデキというより特に力の込めた作品で、一般に定着している(家康に無謀な戦いを挑んだ三成)という評価を覆したかったという気持ちがありました。
    僕は三成フリークではありませんが、三成は決して勝ち目のない戦いに挑んだ愚かな武将ではなく、冷静に分析して十分に勝算はあったが、主君の秀吉と違い仲間内の人心掌握術に欠けていたため、勝負どころで家康に一歩及ばなかっただけということを知ってもらいたかったのです。


  • 徳川幕府の終焉 大政奉還10月14日
    幕末はそれ以前の日本史と違い、短期間にめまぐるしく情勢が変化してゆくので、大政奉還に至る流れを説明するのは容易ではありません。
    しかし、僕自身が苦労した幕末史を少しでもわかり易く理解して頂きたいという思いから、一つ一つ丁寧に書き綴ったことで全体的にまとまりのある作品に仕上がりました。
    これは、日本史が苦手な中高生にこそ読んでもらいたい作品だと僕は思っています。


  • 家康を震撼させた甲州軍団 三方ヶ原の戦い12月20日
    これはわりと最近の作品ですが、自分でも驚くほどスラスラと短時間で書けた覚えがあります。
    かといって、決して手抜きをしたわけではなく、むしろここ1、2か月で書いたどの作品より上出来だと太鼓判を押せる内容です。
    やはり、時間がかかる=言葉が出てこない、ということになるので、なかなか思いつかない時に無理やり言葉を絞り出しているようでは良いものは書けないということでしょうか。

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読者の皆様に伝えたいこと

このブログもおかげさまで少しずつ読者が増え、徐々に評価も上がってきていますが、実は開始から半年近く経った今でも、僕は毎回プレッシャーを感じています。

その時によってスムーズに書ける回と、全く言葉が浮かばず、ほとんど文章が進まない回がいまだにあるからです。

書けない、もう書きたくないという衝動に駆られることはしょっちゅうですが、こんな拙いブログでも毎回読んで下さる方がいると思ってここまで頑張ってきました。

本音を言うと、この先どこまで続けられるか不安でいっぱいです。

もし、読んで下さっている方々にこのブログの存在を広めて頂き、毎回一人でも多くの読者が増えていることを実感できれば、それが何よりの励みとなり、今後も良い作品を作り出してゆける原動力になると信じています。

僕は書き続けていきたいのですが、需要がなければ消えていくのが世の常です。

今後頑張っていくためには、皆様の応援なしにはあり得ないと思っていますので、来年以降も宜しくお願いいたします。

今年は本当にありがとうございました。

どうぞ良いお年をお迎えください。

2019年12月27日

ご存じでした? 実は戦国武将が名付けた地名

〇〇総選挙シリーズってどうなの !?

年末年始になるとテレビでは様々な特番が放送されますが、明日28日にはテレビ朝日で18:56から「戦国武将総選挙」が放送されるみたいですね。

この〇〇総選挙シリーズは、老若男女全ての世代から幅広くアンケートを取った結果、投票の多かった順にその順位を決定しているようなので、戦国ファンの方には一見の価値があるのではないでしょうか。

ただ、僕としては、同企画の「プロレス総選挙」がどうも納得いかない結果だったので、今回もちょっと懐疑的なのですが・・・。

まあ結局、どんなジャンルの総選挙をやっても世代間のギャップは拭えないので、そのジャンルにこだわりや思い入れの強い人にはどうしても不満が残ってしまう結果になりがちなんでしょうね。

僕の予想では、本命が織田信長、大穴では真田幸村あたりが1位になるのではと考えています。(外れたら恥ずかしい!)


さて、今日は地名の由来についてのお話ですが、地名をいろいろ調べてみると、戦国〜江戸時代に命名された地名が意外に多いことに気付きます。

戦国時代は日本の各地域が「独立国」のような状態だったので、戦国大名はさながら“王様”のような立場でした。

なので、自分の支配する地域では絶対的権力を握っていた戦国大名が、土地の命名あるいは改名をすることが多かったと考えられます。

ただ、地名にはいくつかの由来が存在していることが多く、必ずしも戦国大名が名付けたものと断定できない場合もあります。

それでも、戦国大名に由来する地名が現代にも受け継がれていて、しかもそれが県庁所在地になっているとしたら、興味深いものがありませんか?

というわけで、今回は戦国武将が名付けた地名について語りたいと思います。

盛 岡

岩手県の県庁所在地ですが、古来この盛岡は不来方(こずかた)と呼ばれていました。

不来方の由来は県名とも関係しています。

そもそも岩手県の県名の由来は、岩がむき出して見える岩手山に由来するのですが、その岩手山の名称にはある言い伝えがあります。

この地方で悪さを繰り返していた鬼が神様に懲らしめられ、「もう悪さはしません」と誓い、その証としてこの山の岩に手形を押したので、以来この山は岩手山と呼ばれるようになりました。

その後、鬼は二度とこの土地に来なかったので「不来方」という地名になったといわれています。

あるいは、京の都から来た役人がこの地を訪れた際、まるで秘境のような未開の地だったので、誰も来ないような僻地=不来方になったとの説もあります。

慶長二年(1597年)、陸奥(青森・岩手県)を支配していた南部利直が不来方の地に城を築く際、小高い岡に木が生い茂っていた様子から不来方を「森岡」と改め、新しい城を森岡城としました。

その後の元禄四年(1691年)、この地が盛り上がり栄えることを願って森岡を盛岡に改めました。

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仙 台

“杜の都”仙台は宮城県の県庁所在地であり、東北地方唯一の政令指定都市でもあります。

宮城県の県名の由来についても説明しますと、朝廷に貢納された稲の倉庫「屯倉」(みやけ)が「宮城」となったとする説や、奈良時代に蝦夷征討の拠点として多賀城が設置された(11月4日付ブログ参照)ことから、“みちのくの都”として(宮なる城がある地)で「宮城」になったという説もあります。

そして仙台については、いくつかの由来があります。

古いものでは、天台宗の祖である最澄の弟子・円仁(慈覚大師)が東北を訪れた際、この地に千体の仏像を祀ったことに由来する説があります。

また、地形的な条件からこの地が広瀬川や国分川に囲まれているので川内(川の内側)になったとする説もあります。

これら「千体」「川内」などと呼ばれていた地名を改めたのが、“独眼竜”伊達政宗です。

慶長五年(1600年)政宗が青葉城を築城する際、中国の漢詩に因んでこの地を仙台に改めたといわれています。
伊達政宗騎馬像.jpg
 青葉山公園の伊達政宗騎馬像

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岐 阜

県名と同じ県庁所在地・岐阜は、もとは井ノ口という地名であり、古来から畿内〜東国を結ぶ交通の要所でした。

戦国時代、美濃(岐阜県)の守護・土岐氏を下剋上により倒した斎藤道三4月20日付ブログ参照)は、金華山にそびえ立つ山城・稲葉山城を居城とし美濃一国を支配しました。

道三の死後、永禄十年(1567年)に尾張(愛知県)の織田信長が斎藤氏を倒し、美濃を領有します。

斎藤氏に替わり稲葉山城に入った信長は、この地から天下を目指すことを決意したので、古い地名を捨て新しい地名に変えることにしました。

そこで信長は禅僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん)に相談し、沢彦が提案した「岐山」「岐陽」「岐阜」という三つの候補の中から信長が選んだのが岐阜でした。

この岐阜という地名は、山に都を置き天下を平定した」という中国の文王の故事と、学問の祖・孔子の生誕地である「曲」(きょくふ)を合わせた言葉といわれています。

つまり、この地名には自らの天下統一と、民が学問に励んで豊かな暮らしができるようにという信長の願いが込められているのです。

信長は井ノ口を岐阜と改め、居城の稲葉山城も岐阜城と改名しました。

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まとめ

  • 盛岡 → 南部利直が不来方から改名(森岡)

  • 仙台 → 伊達政宗が千体・川内から改名

  • 岐阜 → 織田信長が井ノ口から改名


「宮城県」よりも「仙台」の方が全国的な認知度が高いのは、「神奈川県」より「横浜」の方が知名度が高いのと同じ理由と思われますが、横浜市以外の神奈川県民は大いに不満です。(笑)

2019年12月25日

戦国の名言集・豊臣家

徳川の時代になっても豊臣家への忠誠を忘れず

今日はクリスマスです。

聞くところによると、最近はクリスマスに何も特別なことをしない“クリスマススルー”が増えているみたいですね。

確かに今年はイブが火曜日で当日も水曜日という“ド平日”の日程の悪さに加え、10月に消費税が10%に上がったので高い外食をしないという影響もあるようです。

ある番組の調査では、今年のクリスマスは「普段の日常と変わらない」と答えた方が約40%もいたそうです。

この数字にはちょっと驚きました。

僕が学生の頃、クリスマスは本当に一大イベントでした。

クリスマスを目標に秋から必死にバイトし、イブは彼女とリッチなディナーをして奮発したプレゼントを渡す・・・というのが若者の定番だったのです。(※僕はバブル世代のちょい後です)

正直、僕自身は昔からクリスマスにあまり関心がない方だったので、特に残念ということもありません。

とはいえ、子供の頃の楽しかったクリスマスの思い出はあるので、クリスマスよりハロウィーンの方が盛り上がっている近年の傾向には何か違和感を覚えてしまいますね。


さて、今日は豊臣家の武将にまつわる名言を紹介します。

豊臣秀吉は「人たらしの名人」といわれるほど他人を懐柔するのが得意で、人望もありました。

その人たらしぶりは、秀吉のライバルだった徳川家康の重臣・石川数正が家康を裏切って秀吉に寝返ったほどです。(11月8日付ブログ参照

そんな秀吉は多くの家臣に慕われていたので、豊臣家というよりは秀吉個人に忠誠を尽くす武将が多かったといえます。

関ヶ原の戦いの後、徳川の天下になっても「亡き太閤殿下(秀吉)の御恩を忘れてはならない」という思いが秀吉の直臣たちには受け継がれていました。

というわけで、今回は豊臣家にまつわる武将の遺した名言について語りたいと思います。

「自分が今日あるのは秀吉公おかげである」

加藤清正 永禄五年(1562年)〜 慶長十六年(1611年)の言葉
加藤清正.jpg

「賤ヶ岳七本槍」や「朝鮮の虎退治」など数々の武勇伝を持つ猛将・加藤清正は、子供の頃から秀吉に実の息子のように可愛がられた武将です。

関ヶ原の戦いの後、世は豊臣から徳川の時代となり、清正も自分の娘を家康の息子に嫁がせるなど徳川家との関係は良好でした。

しかし、清正は領地である熊本から江戸の将軍家や隠居して駿府(静岡県)に住む家康と会見する時、必ず大坂城に立ち寄り、豊臣秀頼(秀吉の息子)に挨拶してから東へ向かうことを習慣としていました。

他の西国大名は、家康の顔色を気にしてまっすぐ江戸や駿府に向かうのが当然だったのです。

清正の行動を快く思わない家康の側近が「大坂城に立ち寄らず、まっすぐ江戸や駿府に来たらどうだ?」と清正に問い質すと、清正は

「自分が今日あるのは秀吉公おかげである。にも拘らず、大坂に挨拶もせず江戸に向かってしまっては武士として忠義に反するので、これだけはやめられない」

と、きっぱり言い放ちました。

律義で頑固な清正らしいエピソードですが、こういう一本筋の通ったところが清正人気の所以でしょうね。

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「先代には言うことあり、しかし当代には言うことなし」

福島正則 永禄四年(1561年)〜 寛永元年(1624年)の言葉
福島正則.jpg

賤ヶ岳七本槍の筆頭であり、関ヶ原でも大活躍した福島正則は清正と並び称される豊臣家の猛将で、やはり秀吉に子供の頃から可愛がられ、清正とは兄弟のような間柄でした。

正則は関ヶ原での活躍により、家康から広島49万石を与えられました。(9月29日付ブログ参照

しかし、二代将軍・秀忠の時に居城の石垣を幕府に無断で修復した罪を問われ、改易(領地没収)になってしまったのです。

豊臣恩顧の大名を潰すための謀略とも思えるこの処分に納得がいかない正則の家臣たちは、正則に幕府へ異議を申し立てることを勧めました。

すると、正則は

「先代には言うことあり、しかし当代には言うことなし」

と答えました。

つまり、正則は(この領地を与えてくれたのは家康公(先代)だから、家康公がこういう処分をしたのなら自分にも言いたいことはある。しかし、この処分を下したのは秀忠公(当代)だ。ならば仕方のないことなので、自分はこの処分に従う)と考えていたのです。

それでも納得いかず、幕府と一戦交えることも辞さない家臣に対し、正則は

「自分は弓。泰平の世では戦国の武器は蔵に収め鍵を掛けられるべきなのだ」

と答え、静かに領地を去っていきました。

まさに“老兵は語らず”という、古武士のような正則の心情が窺える言葉です。

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「ものを食わないのは首を切られた時のためだ」

木村重成 文禄二年(1593年)?〜 慶長二十年(1615年)の言葉


木村重成は豊臣秀頼の家臣で、若いのですが勇猛果敢な武将として知られていました。

慶長二十年(1615年)大坂夏の陣5月8日付ブログ参照)が始まると、重成はなぜかほとんど食事をとらなくなりました。

心配した妻が「しっかり食事をとらないと、いざという時にお役に立てませんよ」と諭すと、重成は

「ものを食わないのは首を切られた時のためだ。今度の戦でおそらく私は死ぬであろう。もし首を切られた時、切り口から食べ物が出てくるのは見苦しい限りなので、食事を控えている」

と答え、これを聞いた妻は言葉を失いました。

そして出陣した重成は徳川勢相手に奮戦しますが、最後は力尽き討死しました。

重成の首実検をした家康は、髪に焚き染められた香の香りに気付き、最後まで武士としての気高さやたしなみを忘れない重成の心掛けに感動したといわれます。

重成について詳しい素性はわかっていないのですが、おそらく20歳そこそこで、これほどの覚悟を持って戦に臨んでいたことを考えると、なかなかの人物であったと思われます。

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まとめ

「自分が今日あるのは秀吉公おかげである」
(加藤清正)

「先代には言うことあり、しかし当代には言うことなし」
(福島正則)

「ものを食わないのは首を切られた時のためだ」
(木村重成)

彼らの言葉には、絶対に曲げられないポリシーや強い覚悟のようなものを感じますね。

2019年12月23日

太平洋戦争の火蓋を切った男 東条英機

有馬記念は衝撃の結末に・・・!

昨日の日曜日、中山競馬場では年末の風物詩・有馬記念が行われました。

普段、競馬は見なくても、この有馬記念と5月の日本ダービーだけは参加するという方が多いようです。

レースは単勝1.5倍の圧倒的1番人気・アーモンドアイがなんと9着に敗れるという波乱の結果でした。

競馬において、1番人気が惜しくも負けること自体は決して珍しいことではありません。

しかし、アーモンドアイほどのズバ抜けた実力と戦績を誇る真の大本命馬が、何の不利もなくこれほどの大敗を喫したことには僕も驚きを隠せませんでした。

前回のブログに書いた通り、昨日12月22日は三方ヶ原の戦いが行われた日だったので、僕も信玄を意識して大勝を!と意気込んでいたのですが・・・結果は家康と同じ惨めな惨敗となってしまいました。(泣)

改めて、競馬の難しさというものを痛感した有馬記念でした。


さて、今日12月23日は東条英機が亡くなった日です。(昭和二十三年 1948年)
東条英機.jpg
明治十七年(1884年)〜 昭和二十三年(1948年)

東条は太平洋戦争を開始した総理大臣として有名です。

また、戦時中にも政治の独裁を行ない、戦局をさらに悪化させた張本人として非常に評判の悪い人物です。

彼が戦後、戦争責任を問われA級戦犯として死刑になったのは当然の結果といえるかもしれません。

しかし、彼は本当にA級戦犯の名に相応しい愚かな国賊だったのでしょうか?

そして、日本が太平洋戦争に突入したのは彼一人の責任なのでしょうか?

東条を擁護するつもりはありませんが、彼にもアメリカとの戦争に向かわざるを得ない事情があったと思われるのです。

というわけで、今回は東条英機について語りたいと思います。

エリート軍人から総理大臣へ

東条英機は軍人の家に生まれ、陸軍士官学校から陸軍に入隊、陸軍のエリートとして関東軍参謀長などの要職を歴任しました。

昭和十一年(1936年)に起きた二・二六事件2月26日付ブログ参照)以後、東条は陸軍の実権を握りトップの座に上り詰めます。

その後、近衛文麿内閣の陸軍大臣となりますが、関係が悪化したアメリカとの戦争をためらう近衛首相を東条が強く批判したことをきっかけに近衛内閣は総辞職しました。

この時点までは、確かに東条は対米開戦派でした。

昭和十六年(1941年)10月、総辞職した近衛内閣に替わり、東条は現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任します。

この時、東条は昭和天皇から対米戦争回避に力を尽くすよう直接指示されました

天皇への絶対忠信の持ち主であった東条は、それまでの考えを改め、対米戦争回避を懸命に模索したのです。

しかし、アメリカ側の日本に対する要求(ハル・ノートと呼ばれるもの)は、それまでの多大な犠牲と引き換えに大陸における利権を獲得してきた日本がとうてい受け入れられる内容のものではありませんでした。

東条は全く妥協の余地が見られないこの要求を、アメリカの最後通牒と受け取り、苦悩の末ついに対米開戦を決意します。

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戦争責任を追及されA級戦犯に

昭和十六年(1941年)12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が開戦します。

開戦から半年は日本軍が快進撃を続け、太平洋の勢力圏を大きく広げました。

一方で東条は翼賛政治会(よくさんせいじかい)という政治結社を作り、軍部勢力が政治を独占する体制を作り上げています。

しかし、昭和十七年(1942年)6月にミッドウェー海戦で日本軍は大敗を喫し、以後は防戦一方となっていきます。

さらに、昭和十九年(1944年)7月、サイパン島の日本軍が陥落し、いよいよ日本の敗戦が現実的なものになってくると、東条内閣は責任を取り総辞職しました。

こうして昭和二十年(1945年)8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、終戦となりました。

戦後、GHQ(8月30日付ブログ参照)に逮捕されることを知った東条は、軍人として生き恥を晒すことを良しとせずピストル自殺を図りますが、この時は重傷を負ったものの何とか一命は取り止めました。

昭和二十一年(1946年)5月、戦争責任者を裁く極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判が開廷し、東条もこの裁判にかけられることになりました。

昭和二十三年(1948年)11月、25人の被告に有罪判決(7人の死刑、18人の禁固刑)が下され、最も責任が重いA級戦犯とされた東条は、12月23日に絞首刑を執行されました。



東条の遺骨が行方不明?

絞首刑執行後、東条の遺骨はなぜかアメリカ軍が持ち去ってしまい、一時期遺骨の行方がわからなくなってしまったことがありました。

東条のものだけでなく、同じく処刑された他の戦犯たちの遺骨も不明になったのです。

東条の遺族らは早くから遺骨の返還を日本政府に求めていましたが、この時政府は遺族に対し「アメリカ軍の規定により返還することはできない」と伝えています。

ところが、東条の刑執行から48年も経った平成八年(1996年)、東条らの遺骨は(アメリカの)政治上の理由で太平洋に散骨していたことが明らかになりました。

なぜ、アメリカは東条ほかA級戦犯たちの遺骨を持ち去り、海に散骨してしまったのでしょうか?

アメリカ側のいう「政治上の理由」とは、おそらく太平洋戦争に深く関与した戦争犯罪人たちが靖国神社に葬られ、“日本のために死んだ英雄”として扱われることを嫌ったのではないかと推測されます。



まとめ

  • 東条英機は太平洋戦争を開始した総理大臣だが、昭和天皇の命を受け戦争回避の努力もしていた

  • 東条は戦後、東京裁判にかけられ最も重いA級戦犯として絞首刑となった

  • 東条の遺骨をアメリカ軍が持ち去ったのは、東条が“日本のために死んだ英雄”として扱われるのを避けるためと推測される


歴史上“悪人”とされる人物も、その当時の状況や置かれた立場を考慮した上で判断することが必要ですね。

2019年12月20日

家康を震撼させた甲州軍団 三方ヶ原の戦い

“最強軍団” に挑んだ若き家康

明後日12月22日は三方ヶ原の戦いが行われた日です。(元亀三年 1572年)

僕の好きだった大河ドラマ『武田信玄』(昭和六十三年 1988年)の中でも特に印象に残っているのが、この三方ヶ原の合戦開始のシーンです。

浜松城から出てきた徳川軍を見た信玄(中井貴一)の一言

家康、血迷うたか・・・山津波の如く、一気に襲え!」

このセリフには正直、鳥肌が立ちました!


群雄割拠の戦国時代を生き抜いて、最後に天下を獲ったのが徳川家康4月17日付ブログ参照)ですが、家康には生涯に二度の大きな危機があったといわれています。

一つは天正十年(1582年)本能寺の変後の伊賀越え9月22日付ブログ参照)、もう一つがこの三方ヶ原の戦いです。

当時、“戦国最強”の呼び声もあったほど無敵を誇った武田信玄4月10日付ブログ参照)率いる甲州軍団に戦いを挑んだ家康にとって、後の人生に大きな教訓を得ることになった合戦といえるでしょう。

一方の信玄にとっては、上杉謙信との5度にわたる川中島の戦いで凌ぎを削った甲州軍団の強さを改めて全国に知らしめた一戦でもあります。

また、三方ヶ原の戦いは合戦そのものだけでなく、まだ若かった家康と百戦錬磨の信玄の心理戦による駆け引きにも注目すべき点が多いのです。

というわけで、今回は三方ヶ原の戦いについて語りたいと思います。

上洛作戦を開始する信玄

永禄十一年(1568年)、武田信玄は三国同盟を破棄して駿河(静岡県)の今川家を攻めて以来、相模(神奈川県)の北条家とも手切れとなっていましたが、元亀二年(1571年)再び北条家と同盟を結びました。

北条家との再同盟により背後を突かれる心配がなくなった信玄は、長年にわたる念願であった上洛(京都に上ること)をついに決意し、いよいよ天下取りに向けて動き出します

元亀三年(1572年)10月、信玄は2万5千の軍勢を率いて甲府を出発、信濃(長野県)の高遠から伊那谷を通り青崩峠を越えて(現在の秋葉街道)、遠江(静岡県西部)に入りました。

信玄出陣の報告を受けた徳川家康は、同盟者の織田信長に援軍を要請します。

武田軍が家康の領地を越えて自らの領地である尾張(愛知県)・美濃(岐阜県)に侵攻するのを阻止したい信長は、3千の援軍を家康のもとに差し向けました。

この間にも武田軍は徳川方の二俣城などの支城を次々と落とし、家康の居城・浜松城に近づいていました。

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三方ヶ原におびき出された家康

信長からの援軍3千を加えてもまだ武田軍の半数にも満たない1万1千の徳川軍は、野戦では勝ち目がないと判断し籠城を選択、浜松城で武田軍を迎え撃つことにしました。

ところが、武田軍は浜松城の近くまで来たものの城攻めはせず、浜松城を通過して西へ向かってしまったのです。

自らの眼前を素通りされるという屈辱を受け、このまま指をくわえて見過ごすわけにはいかない家康は、家臣たちの反対を振り切って出陣します。

但し、家康も無策に城を飛び出したわけではありません。

浜松城から西へ向かうと大きな坂があり、その坂上から武田軍の背後を突けば小勢でも勝機はあると考えていたのです。

しかし、家康よりも信玄の方が一枚上手でした。

武田軍が浜松城の前を通過したのは、長丁場になる籠城戦を避け、家康を城からおびき出し野戦に持ち込むための陽動作戦だったのです。

信玄の目論み通り、まんまとおびき出された徳川軍を確認した信玄は軍勢を反転、坂上から勢いよく徳川軍に襲い掛かりました

両軍は浜松城の北、三方ヶ原で激突します。

奇襲を仕掛けるつもりでいた家康が逆に仕掛けられる格好となってしまい、徳川軍は家康の側回りにいた旗本まで討ち取られるほどの大敗を喫し、家康は命からがら浜松城へ逃げ帰りました

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自らへの戒めを忘れない家康

武田軍の猛攻から辛うじて逃げ延びた家康は、あまりの恐ろしさになんと馬上で脱糞してしまったのです。

これを見た家臣の大久保忠世は「殿は糞をたれ流して逃げ帰ったぞ!」と敢えて大声を出して笑い、大敗して意気消沈していた城兵を笑わせたといわれます。


城に戻った家康は意外な行動に出ます。

浜松城の城門を開け放ち、かがり火を焚いてその状況が敵からよく見えるようにしたのです。

これは、空城の計といわれるもので、中国の『三国志』で諸葛孔明が用いたとされる作戦です。

つまり、敢えて無防備な状態を敵に晒すことで、相手は「何か罠があるのではないか?」と疑心暗鬼になり、躊躇して攻められなくなってしまうという一種の心理作戦なのです。

しかし、軍法にも精通していた信玄は、これが空城の計であろうことを見破っていました

ところが、信玄は「この私相手に家康がこんな子供騙しの作戦を採るだろうか?」と更に考えてしまい、結局城攻めはしなかったことで、家康は命拾いしました。


家康は多くの家臣を失った今回の無謀な合戦を猛省し、二度と同じ過ちを繰り返さないことを肝に銘じるため、惨敗した直後の惨めな自分の姿を肖像画に描かせました

その時の絵がこちらです。
徳川家康.jpg

家康はいつもこの絵を傍に置き、慢心しそうになった時に見て自分を戒めたといいます。



まとめ

  • 武田信玄は天下を狙うため上洛を開始し、徳川家康の遠江に侵攻した

  • 信玄の陽動作戦により城からおびき出された家康は三方ヶ原で大敗した

  • 敗れた家康は直後に惨めな自分の姿を描かせ、生涯この絵を自分への戒めとした


僕も「空城の計」は、敵の心理を逆手に取ったなかなか面白い作戦だと思いました。
例えば、玄関が思い切り開いてる家をプロの泥棒が見たら、逆に警戒して入れないでしょうね。
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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