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2019年10月30日

隻眼の軍師・山本勘助

謎多き名軍師

10月もそろそろ終わりですが、今年の10月はやけに天気が悪かった印象があります。

10月ってこんなに天気の悪い月でしたっけ?

今年の10月は12日の台風19号と先週の大雨のインパクトが強いのですが、それ以外にも曇りや雨の日が多かったような気がします。

通常の気候でいえば、9月の後半は夏から秋への季節の変わり目で天気が悪い日が多いのはわかるのですが、10月になると気圧配置が安定して、所謂“秋晴れ”が続くものだと思っていたのですが・・・。

近頃は10月になっても最高気温が25℃を超える夏日が増えてくるなど、今までの季節の常識が通用しなくなってきているんですかね。


さて、今日は武田信玄4月10日付ブログ参照)の軍師として有名な山本勘助にスポットをあてます。

山本勘助といえば、平成十九年(2007年)の大河ドラマ『風林火山』により歴史ファン以外の方にも知られるところとなりました。

この時に主役の山本勘助を演じたのは内野聖陽さんですが、僕の中で勘助役といえば、『武田信玄』(主演:中井貴一)の中で演じた西田敏行さんのイメージです。(大河ドラマといえば『武田信玄』が大好きだったもので・・・)

山本勘助は有名な人物であるにも関わらず、出自や経歴について不明な点が多く、勘助について記した史料の信憑性などからその存在の有無すら疑われています

果たして山本勘助は本当に実在したのか?

今回は山本勘助の謎について語りたいと思います。

諸国遍歴の後、信玄に仕える

山本勘助 生年不明〜永禄四年(1561年)
山本勘助.jpg

勘助は三河牛窪(愛知県豊川市)に生まれ、若い頃から諸国を遍歴しその間に様々なことを学び、天文学から兵法まで文武百般に通じていたといいます。

しかし、勘助の容貌は小柄で隻眼(片目が見えない)、右足が不自由な上に肌の色が浅黒い醜男(ぶおとこ)だったため、勘助の地元を支配していた今川義元に仕官を願うも相手にされませんでした。

そこで勘助は甲斐(山梨県)に入り、武田信玄の重臣・板垣信形の推薦を取り付け信玄に謁見します。

勘助と会った信玄は、

「このような外見にも関わらず名声が高いのは、よほど能力が優れている証拠だ」

と、一目で勘助を気に入り、二百貫で家臣として迎え入れました。


その後、信玄の信濃(長野県)侵攻に随行した勘助は数々の城攻めに貢献し、武田家中でも頭角を現し始めます。

信濃侵攻において、諏訪地方を支配していた諏訪頼重を滅ぼした信玄は、頼重の娘を自分の側室(正妻以外の妻)に迎え入れようとしました

これには(自ら殺した武将の娘を側室にするなど、復讐される可能性も高く危険過ぎる)と多くの家臣たちが反対しました。

しかし、勘助だけは

「諏訪家の姫との間に男子が生まれたら、将来諏訪家を再興させることができ、そうすれば現在武田家に恨みを抱いている諏訪地方の人々も武田家に忠誠を誓うようになるでしょう」

と、賛成を唱えたといいます。

勘助の薦めにより信玄は頼重の娘を側室にしました。

こうして頼重の娘との間に生まれたのが、後に信玄の跡を継いだ武田勝頼3月11日付ブログ参照)です。

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川中島の誤算・・・!

そして、山本勘助が最もクローズアップされたのが、永禄四年(1561年)に行なわれた第四回川中島の戦いです。

妻女山に陣取った上杉軍と海津城の武田軍が睨み合い膠着状態が続くと、この状態を打開する方策を勘助が提案しました。

それが、“きつつきの戦法”です。

これは、きつつきが木の穴に入っている虫を獲る時、最初に穴の反対側をくちばしで突き、驚いた虫が穴から出てきたところを捕食する習性を応用した戦術です。

まず、武田軍を二手に分け、別働隊が妻女山の後方に回り背後から上杉軍を奇襲します。

驚いた上杉軍が追い立てられるように山を下ると、前方に武田の本隊が待ち構え、奇襲した別働隊とともに前後から上杉軍を挟み撃ちにして殲滅するという作戦です。

さすが様々な兵法に長けた勘助ならではの見事な作戦ですが、戦の天才・上杉謙信3月13日付ブログ参照)はこの作戦をいち早く見破り、武田の別働隊が妻女山を奇襲してくる前に全軍で山を下り、逆に武田の本隊を奇襲したのです。

思いもよらぬ奇襲を受けた武田の本隊は、信玄の実弟・武田信繁や重臣・諸角豊後守が討死してしまうほどの苦戦を強いられてしまいます。

自分が提案したきつつきの戦法が失敗したことに責任を痛感した勘助は、捨て身で上杉軍に突撃し討死しました。

(※川中島の戦いについては、9月10日12日付のブログで詳しく語っておりますのでそちらもご覧下さい)

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山本勘助は実在したのか?

川中島で戦場の花として華々しく散っていった勘助ですが、これだけ有名な人物でありながら、その実在については長い間、疑問視されていました

というのも、勘助の存在を示す文献が『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)以外になかったからです。

『甲陽軍鑑』とは、武田家の合戦や軍法を記録した軍学書ですが、これは江戸時代に書かれたもので内容的にも創作が多いことから、史料的価値は極めて薄いといわれています。

こうした理由から、長らく歴史学者は勘助の存在を否定していました。

ところが、昭和四十四年(1969年)に北海道の市河氏が所蔵する古文書から「山本菅助を使者とする」という信玄の書状(市河文書といわれる)が発見され、ようやく歴史学者にも勘助が実在していたことを認められます。

さらに、平成十九年(2007年)には「山本勘助を大将として城攻めの準備をせよ」という内容が書かれている信玄の書状も発見されたのです。

市河文書が発見された時点では存在は認めても下っ端の武士だろうと思われていた勘助が、信玄から城攻めの大将を任されるほどの重臣であったことが認識されました。

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まとめ

  • 武田信玄は見た目が悪いにも関わらず名声の高い勘助を評価して召し抱えた

  • 勘助は川中島の戦いで“きつつきの戦法”を献策したが失敗したため責任を痛感し討死した

  • 勘助は長い間その実在を疑問視されていたが市河文書などにより実在が認められた


現代になって勘助の実在を証明する史料が出てきたことを考えると、今後も戦国史の謎を解明する史料が発見されることを期待できそうですね。

2019年10月28日

聖徳太子は実在したのか?

教科書から消えつつある名前

皆さんは聖徳太子と聞いて、何を連想しますか?

僕はやはり「一万円札」に描かれた肖像画を連想しますが、これを最初に思い出す世代は何歳くらいからでしょうか?(笑)

一万円札に描かれた肖像画といえば福沢諭吉がもうすっかり定着して、次は渋沢栄一に代わることまで決まってますからね。

それと、『日出処の天子』(山岸凉子 作)という聖徳太子と蘇我蝦夷(そがのえみし)が主人公の漫画を友人から見せてもらって一時期ハマったことがありました。

そんな中高年以上の日本人であれば誰でも知っているだろう思われる聖徳太子の名を、知らない若い世代が増えてきているのをご存じですか?

その理由は、聖徳太子の名が歴史の教科書から徐々に消えてきているからです。

最近の教科書では聖徳太子のことを厩戸皇子(うまやどのおうじ)と記載しており、(伝・聖徳太子)のような注釈が入っているものはあっても、「聖徳太子」を正式な名称として記載している教科書は現在ほぼありません。

何しろ1400年以上前に活躍した人物ですから、近年の歴史研究によって解釈が変化してきたのですが、聖徳太子が行なった数々の政策にも疑問符を付ける学者が多いのです。

というわけで、今回は様々な謎に包まれた聖徳太子について語りたいと思います。

数々の超人伝説

聖徳太子(厩戸皇子) 574年〜622年(※「大化」以前で元号なし)
聖徳太子.jpg

聖徳太子は父・用明天皇、母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の間に生まれましたが、出生時から様々な伝説があります。

母は夢の中で救世観音が口の中に飛び込んだ後に身籠ったといい、厩の前で出産したので「厩戸皇子」と名付けられました。

太子は幼少期から聡明で、5歳の時には一日で数千字を覚え、6歳では既に経文を読み始めたといわれます。

さらに、太子が12歳の時、朝鮮半島から日羅(にちら)という僧侶が来日し、太子を一目見るなり「この方は救世観音の化身である」と言って深く礼拝したといいます。

そして、太子の伝説で最も有名なのが、10人の話を一度に聞き、全ての話を正確に理解した上でそれぞれに的確なアドバイスをしたという逸話ですね。

この話は豊聡耳(とよさとみみ)といわれ、太子の常人離れした能力を物語る逸話です。

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政策の疑問点

太子にまつわる伝説の多くは後世に創作された逸話であろうと思われますが、次に彼が行なった様々な政策についての疑問点を見ていきます。

冠位十二階(603年)
 氏姓制度による門閥主義(生まれながらの家柄だけで身分が決まってしまうこと)を排除し人材の登用を目指した政策ですが、『日本書紀』には太子が制定したとは書かれておらずこの政策の中心人物は太子ではなく蘇我馬子だったのではないかという説があります。
その理由として、冠位十二階は朝鮮半島の制度を模して作られましたが、当時、朝鮮半島からの渡来人との関わりに不可欠な政治家が馬子だったからです。


憲法十七条(604年)
 役人に守るべき道徳と従うべき規律を説き、政治家としての心構えなどを定めた法律ですが、その中に書かれている「国司」という官職は憲法十七条が制定された時点では存在しない官職なのです。
この時代に存在しない官職が記載されていることから、憲法十七条は太子が制定したのではなくもっと後の時代に制定されたものではないかとの見方もあります。


仏教の奨励
 太子は積極的に仏教を奨励し、自らも『三経義疏』(さんぎょうのぎしょ)という、法華経・維摩経・勝鬘経の三経典を注釈した本格的な仏典研究書を書いたとされますが、これも『日本書紀』には太子が著したとは一言も書かれていないのです。
また、太子が建立したとされる世界最古の木造建築として有名な法隆寺にしても、太子が建立したという確実な史料がないのです。

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本当は実在しなかった !?

上記のように、ちょっと空想染みた伝説や政治家としての業績にも疑問点が多いことから、聖徳太子という存在自体に疑問を抱く向きもあります。

あの髭を生やして笏を手にした有名な肖像画にしても、その衣装からして百年近く後の奈良時代のものと思われることから、実物ではなく想像で描かれた人物画ではないかといわれています。

太子の存在に疑問を抱くようになった理由の一つとして考えられるのは、古来より日本にある太子を宗教的に崇拝する“聖徳太子信仰”です。

その中で太子の様々な伝説が形成されていったと考えられるのですが、あまりにもその人物像が美化され聖人扱いされ過ぎたため、逆にその存在自体までもが疑われてしまったのでしょう。

結論としては近年の教科書が示す通り、厩戸皇子という政治家は確かに実在したが、厩戸皇子が数々の伝説に彩られた聖徳太子と完全に同じ存在だと考えて欲しくはない、といったところですね。

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まとめ

  • 聖徳太子は出生時から様々な伝説に包まれた人物

  • 聖徳太子が行なった政策には多くの疑問点が残されている

  • 聖徳太子には装飾された伝説が多いので、事実のみを記載しなければならない教科書には厩戸皇子の名を使用するようになったと思われる


大阪には太子にちなんだ地名があることを紹介した10月7日付のブログもご覧になってみて下さい。

2019年10月25日

キリシタン最後の反乱・島原の乱

世相が不安な時、人は宗教にすがる

今日10月25日は島原の乱が起きた日です。(寛永十四年 1637年)

島原の乱は九州で起こった日本史上最大のキリスト教徒による反乱ですが、これは戦乱の世が終わりを告げ、ようやく安定し始めた幕藩体制を揺るがす大事件でした。


日本に限らず世界の歴史を振り返っても言えることですが、世の中が不安定になり社会に動揺や不安が高まると、人間は宗教にすがってゆく傾向があります。

例えば、平安時代に末法思想(仏教における終末的世界観)が世に広まり社会不安が高まると、当時摂関政治の全盛期に栄華を極めた藤原道長12月4日付ブログ参照)でさえ、亡くなる時に自分の指に結んだ糸を阿弥陀如来の仏像の指に結んで極楽浄土へ往生することを願ったといいます。

そして、現世に同じ不安を抱えた者どうしが集まり団結すると強い力を生み出すことがあります。

その代表的な例が戦国時代の一向一揆12月2日付ブログ参照)です。

彼らは世の中が戦乱に明け暮れ、自分もいつ死ぬかわからない不安を常に抱える中で、せめて死後は極楽浄土に往きたいという願望から一向宗(浄土真宗の一派)を信仰し次第に団結していったのです。

一向一揆の力は、あの織田信長をも10年以上苦しめました。(石山戦争・1570〜1580年)

宗教による結束力が強いのは、現世の損得勘定に縛られた結束と違い、全員が純粋な気持ちで同じ方向を向いているからでしょう。

時の権力者はそのような宗教の力を恐れ、次第に弾圧するようになります。

というわけで、今回は徳川幕府にキリスト教徒の団結力を誇示した島原の乱について語りたいと思います。

島原の乱が起きた背景

徳川幕府が初期の政策として実行していたのが、キリスト教の禁教と鎖国による支配体制の強化です。

キリスト教の禁教はキリスト教を一向一揆に代わる強い宗教勢力にさせないためであり、鎖国政策は諸大名が海外との交易によって利益を得る(=国力が増強する)ことを防ぐためです。

海外との交易を制限された大名は、減った分の利益を年貢の増収によって賄おうとしました。

この二つの政策によって最もその煽りを受けたのが、肥前(佐賀・長崎県)の島原と肥後(熊本県)の天草です。

島原と天草はキリシタン大名として有名な有馬晴信(島原)と小西行長(天草)のかつての領地だったので、他の地域と比べて領内にキリスト教信者が圧倒的に多かったのです。

その後領主となった松倉氏(島原)と寺沢氏(天草)は、領民に過酷な年貢徴収を課し、徹底的にキリシタン弾圧を行ないました。

その結果、ほとんど生き地獄の状態にまで追い込まれた両地方のキリスト教信者は、ついに信教の自由を求めて立ち上がります。

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カリスマ少年の元に集うキリシタン

寛永十四年(1637年)10月、島原と天草でそれぞれ一揆を起こした領民は島原半島で合流、既に廃城となっていた原城に入り、幕府が差し向けた一揆討伐軍に対し籠城戦を展開します。

この籠城戦で約3万7千にまで膨れ上がった一揆軍の総大将となり指揮を執ったのが天草四郎です。
天草四郎.jpg
元和九年(1623年)?〜 寛永十五年(1638年)

この少年は本名を益田時貞といい、父は小西行長の遺臣でした。

時貞はキリスト教信者の中でも奇跡を起こす救世主として、キリシタンたちの精神的支柱となっている存在でした。

対する幕府軍の指揮を執った板倉重昌は九州各地の大名を中心に約10万の軍勢で原城を包囲しますが、一揆軍の抵抗は激しく、なかなか城を落とすことができません。

焦った重昌は総攻撃で強引な力攻めに出ますが、逆に一揆軍の反撃に遭い重昌は討死してしまいました。

すると、幕府は次の総大将として老中・松平信綱を派遣します。

この信綱は官職の伊豆守から「知恵伊豆」と称されるほど切れ者として有名な人物でした。

強引な力攻めで城を落とすのは難しいと考えた信綱は、オランダ船の協力を得て船から城を砲撃させると同時に、一揆軍の水と食糧を断つ兵糧攻めで徐々に相手の気力を奪います。

この作戦が功を奏し、信綱は一揆軍が完全に沈黙したのを見計らって総攻撃を仕掛けます。

そして、寛永十五年(1638年)2月28日、ついに一揆軍は鎮圧され、時貞もこの時に討死しました。

その後、一揆に加わった者は女子供も含め全て処刑されました。

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天草四郎の出現は予言されていた !?

天草四郎は洗礼名をジェロニモといい、海の上を歩いて渡ったり、病気の子供を手で触れるだけで治したり、神の言葉を民衆に告げたりしたという伝説の持ち主です。

そのような伝説に彩られたカリスマ性によりキリシタンに崇められていたため、まだ少年であったにも関わらず一揆軍の総大将に祭り上げられたものと考えられています。


そして驚くべきことに、天草四郎の出現と島原の乱が起きるのを予言していた人物がいるのです。

慶長十七年(1612年)、幕府の禁教令により国外へ追放処分となった宣教師・ママコスは、

「今から25年後に16歳の天童が出現する。彼は様々な奇跡を呼び起こし、そのとき空は焼けたように赤くなり、大地は鳴動する。そして人々はクルス(十字架)を抱き、白旗が山野を埋め尽くすであろう」

という予言を残して去って行ったのです。

この予言通り、25年後の寛永十四年(1637年)に推定16歳の天草四郎が出現し島原の乱が起こっているのです!(※天草四郎の生年は諸説あるが、乱が起きた時はおよそ16歳くらいであったと思われる)



まとめ

  • 島原の乱が起きた原因は過酷な年貢の取り立てとキリスト教徒の弾圧

  • 天草四郎を総大将とした一揆軍はよく戦ったが最後は松平信綱により鎮圧された

  • 宣教師・ママコスは天草四郎の出現と島原の乱勃発を25年前に予言していた


ママコスの予言を信じるか信じないかはアナタ次第 !!(笑)

2019年10月23日

“真冬の北アルプス越え”とは何だったのか?

織田家にまつわる人物エピソード

このブログではこれまでに様々な歴史上の人物を紹介してきましたが、実際のところ一本のブログにまとめるには正直、ややインパクトに欠ける人物が結構いるのです。

むしろ、そういった人物の方が大多数を占めていると言えるでしょう。

僕としては、実際語るべきエピソードが少ない人物なのにダラダラと内容を引き延ばして、無理やり一本にまとめるのもどうなのか? という思いがあります。

しかしながら、内容は短くてもインパクトがあって、ぜひここで紹介したい! と思える人物がたくさんいるのも事実です。

そこで今回は、一人の人物につき特化したエピソードに絞って語ってみたいと思います。

第一回目は織田信長の織田家に関わった人物です。

真冬の北アルプス越えを決行した男

佐々成政 天文八年(1539年)?〜 天正十六年(1588年)
佐々成政.jpg

信長の側近として頭角を現した成政は、若い頃から農民上がりの羽柴(豊臣)秀吉を嫌っていました。

本能寺の変後、成政は越中(富山県)を領有し本拠地としていました。

そんな中、天正十二年(1584年)に信長の次男・信雄が徳川家康と組んで秀吉と対戦しました。(小牧・長久手の戦い)

成政はこの戦いの行方を窺っていましたが、戦いの半ばに信雄が独断で秀吉と単独講和してしまったので、戦う名目を失った家康は矛を収めざるを得ませんでした。

この中途半端な結果に愕然とした成政は、自ら家康を説得して再び打倒秀吉の兵を上げさせようと考えます。

しかし、成政の住む富山から家康の浜松へ向おうにも、隣国の越後(新潟県)と加賀(石川県)はそれぞれ秀吉方の上杉と前田の領地なので通ることはできません。

そこで成政が考えたのが、富山→立山→ザラ峠→鉢ノ木峠を通って信濃(長野県)の大町に出るコースです。

今でいうところの立山ー黒部アルペンルートですね。

現代でさえロープウェイやケーブルカー、トロリーバスを使わなければ越えられない、かなり危険な難所ばかりなのに、成政はここを徒歩で縦断しようというのです。

しかも季節は11月下旬、これは現代の暦に直すと年末〜正月にあたり、北アルプスは完全に冬山シーズンです。

ほとんど狂気の沙汰としか思えない考えに成政の家臣たちは勿論反対しますが、成政は「雪解けの春まで待っていては、我が領国は秀吉に攻め取られてしまう」との焦りから決行に踏み切りました。

こうして厳寒の立山を文字通り“命からがら”という思いをしながら何とか越え、家康のいる浜松に着いたのは富山を出発してから約一ヶ月後でした。

家康も「この季節に立山を越えて来たのか?」と驚きましたが、既に家康は秀吉との和睦を決めており、成政は説得も虚しく、すごすごと元来た道を引き返すしかありませんでした。

当然というべきでしょうが、この北アルプス越えの往復では遭難や凍死が相次ぎ、約60名で出発した一行の中で再び富山に戻ってこれたのは成政以下わずか7名だったそうです。

結局、翌年に成政は秀吉の大軍に攻められ降伏したので、“冬の北アルプス越え”は全くのムダ骨に終わってしまいました。

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“甕割り柴田”と恐れられた豪傑

柴田勝家 大永二年(1522年)〜 天正十一年(1583年)
柴田勝家.jpg

織田家筆頭家老であり家中随一の猛将と謳われた勝家には、その猛将ぶりを示すエピソードがあります。

元亀元年(1570年)勝家は信長の命令で近江(滋賀県)の長光寺城に入り、六角義賢と対峙しました。

勝家は少ない手勢で籠城し義賢の大軍相手に健闘していましたが、城の水路を断たれ苦境に陥ります。

義賢は城内の様子を探るため、調停の使者を城へ差し向けました。

すると、勝家はその使者に水をいっぱいに注いだ大きな器を差し出し顔や手を洗わせた後、その水を惜しげもなく捨ててしまいます

この状況から使者は義賢に「城内では水に困った様子はありません」と報告したので、義賢は次の攻め手に迷ってしまいました。

しかし、実際には城内の水はもう尽きかけていたのです。

勝家は城内に残ったわずかな水を部下一人一人に一杯ずつ与えた後、残った水が入った水甕を槍で叩き割り、「こうなれば水に渇望して死ぬか、戦いに打って出て死ぬか二つに一つだ!」と全軍を鼓舞しました。

まさに、わずかな望みを完全に絶っての「背水の陣」です。

こうして城外に打って出た勝家軍は鬼神の如き戦いぶりで見事義賢の大軍を蹴散らしました。

以来、勝家は“甕割り柴田”の異名で恐れられる武将となりました。

スカパー!
“姫路宰相”と言われた男の大物ぶり

池田輝政 永禄七年(1564年)〜 慶長十八年(1613年)
池田輝政.jpg

信長の重臣・池田恒興の次男であった輝政は、小牧・長久手の戦いで父と兄を失ったので池田家の家督を継ぐことになりました。

その後、秀吉の仲介で家康の娘と結婚し、家康の娘婿となります。

関ヶ原の戦いでも活躍した輝政は播磨(兵庫県)52万石を与えられ大大名となりました。

しかし、「輝政の出世は妻(家康の娘)の力によるものだ」と陰口を言う者もいます。

ある時、関ヶ原で先鋒として大活躍した福島正則が輝政に

「お主が出世できたのは大御所(家康)の婿だからだ。我は槍働きで国を獲ったが、お主は槍ではなく一物で国を獲ったのだ」

と、正則は妬みから何とも下品な嫌味を言いました。

これに対し輝政は

「いかにも我は一物で国を獲った。だが、もし槍先を使ったら天下まで獲っていたであろう」

と豪快に笑い飛ばしたといいます。

面と向かって酷い嫌味を言われたにも関わらず、こんな切り返しができる輝政には相当な大物感がありますね。

日本初の世界文化遺産に登録(平成五年 1993年)された姫路城で権勢をふるった輝政は“姫路宰相”と呼ばれました。

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まとめ

  • 佐々成政が決死の覚悟で強行した“真冬の北アルプス越え”は結局ムダ骨に終わった

  • 柴田勝家は水甕を叩き割っての一か八かの勝負に大勝した

  • 池田輝政はその大物ぶりから“姫路宰相”といわれた


立山ー黒部アルペンルートに行ったことがある人ならわかると思いますが、あんな凄いルートを真冬に徒歩で縦断しようとは、全く想像を絶しますね。

2019年10月21日

千年の都・平安京の誕生

大健闘したラグビー日本代表

ラグビーW杯で史上初の決勝トーナメントに進出した日本代表が、昨夜行われた試合で南アフリカに3-26のスコアで敗れ、W杯の敗退が決まりました。

自国開催に加え日本代表の快進撃で、この一ヶ月間はラグビーの話題で持ちきりでしたが、日本代表が敗退したことで一気に熱が冷めていくのでしょうか。

それにしても、自国開催のアドバンテージがあったとはいえ、日本代表の活躍は予想を上回るものでしたね。

僕のようなルールすらあまり理解していない素人がみても、他国の選手たちの体格やパワーが日本代表の選手たちを明らかに上回っているのがわかるのに、日本代表の選手たちは互角以上に戦い抜き、決勝トーナメント進出という結果まで出したのは凄いことだと思います。

思い起こせば、4年前のW杯は日本代表が南アフリカに勝って国内外ともに驚天動地の騒ぎになりましたが、リーグ戦でスコットランドに敗れたことで決勝トーナメント進出はなりませんでした。

今年はスコットランドに勝って決勝トーナメント進出を決めましたが、今度は南アフリカに敗れて敗退が決まったのです。

つまり、4年前とは逆の勝敗になったのですが、南アフリカ・スコットランドと日本代表、何か因縁めいたものを感じざるを得ないですね。


さて、明日10月22日は平安京遷都が行われた日です。(延暦十三年 794年)

平安京は794年に始まり、平清盛2月3日付ブログ参照)による一時的な福原遷都(治承四年 1180年)を除けば、明治二年(1869年)の東京遷都まで実に千年以上もの間、日本の首都が置かれていました。

しかし、平安京以前の日本の遷都歴を考えると、これだけ長期間に渡り一つの都が続いたことは驚異的ともいえるのです。

というわけで、今日は平安京遷都について語りたいと思います。

遷都マニア!? 聖武天皇

8世紀半ばの平城京(奈良県)周辺では飢饉や疫病などが流行し、社会的な動揺がありました。

そんな中、藤原広嗣が九州の大宰府で朝廷に対し反乱を起こした(天平十二年 740年)ことで動揺は政界にも広がります。

時の天皇・聖武天皇は、広嗣の乱をきっかけに都を平城京から恭仁(くに)難波(なにわ)紫香楽(しがらき)と立て続けに遷した後、天平十七年(745年)には結局もとの平城京に戻っています。

つまり、わずか5年で4回も遷都しているのです。

聖武天皇が短期間に何度も遷都を繰り返した理由について、はっきりしたことはわかっていません。

ただ、聖武天皇は仏教に深く帰依していたので、仏教の力によって社会の不安を鎮めようと考える鎮護国家(ちんごこっか)の思想が強く、鎮護国家の象徴と考えていた大仏造立に最適な地を探し求めて遷都を繰り返していたのではないかと考えられています。

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百年ぶりに復活した天智系天皇

宝亀元年(770年)聖武天皇の跡を継いだ娘の称徳天皇が崩御し、後継ぎの子もなかったため、672年(元号なし)の壬申の乱から約百年ぶりに天智天皇直系の天皇・光仁天皇(天智天皇の孫)が誕生します。(→壬申の乱以降は称徳天皇まで天智天皇の弟・天武天皇の系統が天皇となっていた)

そして、光仁天皇の跡を継いだのが桓武天皇です。
桓武天皇.jpg
天平九年(737年)〜 大同元年(806年)

桓武天皇は政治にも介入してくるほど強い力を持つ奈良の寺院勢力から離れ、律令政治の再建を図ることを目的に、延暦三年(784年)山背国(京都府)の長岡京に遷都します。

しかし、この遷都には平城京で地盤を築いていた大伴氏などを中心に反対する者も多く、翌年には長岡京造営の中心人物であった藤原種継が何者かに暗殺されてしまいます。

桓武天皇はこの暗殺事件に当時皇太子であった弟・早良(さわら)親王が関与していると考え、早良親王を流罪にしますが、早良親王は無罪を訴えたまま非業の死を遂げてしまいます。

これ以後、天皇の身内に不可解な死が相次ぎ、長岡京周辺でも飢饉や疫病、さらには洪水などが立て続けに起きてしまい、これは早良親王の怨霊の仕業ではないかと噂されました。

そのため、桓武天皇は早良親王に「崇道(すどう)天皇」の諡号(しごう=死後に与える贈り名)を送って鎮魂に努めますが、祟りを恐れてわずか10年で長岡京を去ることになります。

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これでアナタも京都ツウ!? 平安京の特徴

延暦十三年(794年)、道鏡事件で活躍した和気清麻呂の建議により、桓武天皇は長岡京の北東に位置する平安京に遷都します。
平安京.gif

平安京の名称には、(平らかで安らかな都になって欲しい)という願いが込められています。

桓武天皇が遷都した新しい都・平安京の特徴をいくつか紹介します。

  • 四神相応の都
    平安京の場所の選定には、東に川(鴨川)・西に道(山陰道)・南に池(巨椋池)・北に山(船岡山)という古来からの風水における四神相応(しじんそうおう)という考えに基づいて決定されました。


  • 条坊制の街作り
    東西約4.5`の(道)と南北約5`の(道)からなり、北部中央に大内裏(平安京の宮城)があり、大内裏の南には朱雀大路(すざくおおじ)という平安京のメインストリートが走っています。
    この朱雀大路を挟んで東側の左京と西側の右京に分けられ、碁盤の目のように規則正しく整備された町割りとなっています。


  • 左京と右京
    大内裏に近い北部に藤原氏など有力貴族の邸宅が密集し、京都の中心として栄えた左京に対し、右京は桂川に近く湿地帯が多かったため住みづらく、比較的早い時期から衰退しました。



ちなみに、山背国→山城国と漢字を改めたのは、この平安京遷都がきっかけです。



まとめ

  • 奈良時代の聖武天皇は5年間に4度もの遷都を繰り返した

  • 桓武天皇は自ら死に追いやった早良親王の祟りを恐れ、わずか10年で長岡京を去った

  • 平安京の場所選定には「四神相応」という風水の考え方が採用された


明日は即位の礼(パレードは延期)で今年限りの祝日ですね。
でも、(なぜ10月22日なのか?)という疑問に対し、宮内庁のHPにもはっきりした理由は述べられていないのですが、僕はこの平安京遷都の日と多少なりとも関係しているのではないかと考えてしまいます。
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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