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2020年03月25日

首都・東京を形成した名城 江戸城

日本の都市は城下町を起源とするところが多い

世界中で新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、ついに東京オリンピックの延期が決まりました。

現在の世界情勢から考えれば、ある意味当然の措置かもしれませんが、開催国の我々日本国民にとってはやはり衝撃的なニュースです。

新型コロナウイルスは、文字通り「新種のウイルス」なので、今後の感染拡大がどのように推移していくのか、正直なところ全く読めないのが厄介ですね。

近いうちに画期的な治療法や特効薬が開発されて、急速に収束するかもしれません。

あるいは、現在の状況などまだ序章に過ぎず、今後恐ろしい勢いで拡がっていく“本物のパンデミック”に陥ってしまうのか・・・・。

今後どうなるかはわかりませんが、今はこの閉塞した社会状況に耐えなければならない時期かもしれません。

そして、一日も早く“本当の春”が来てくれることを祈りたいですね。


さて突然ですが、皆さんは「城巡り」をされたことがありますか?

普段お城にあまり興味のない方でも、旅行先に立派なお城があったりすると、とりあえず行ってみたりしますよね。

歴史好きの中には「城郭マニア」という方もいて、彼らは日本全国の城巡りを趣味として各城についてかなり勉強をしているので、地元の観光ボランティアより詳しかったりします。(笑)

僕は歴史も旅行も好きなので、旅行先にお城があれば行くこともありますが、最初からお城目的で行くわけではないので、城郭マニアの方にはとても及びません。

現在の日本各地の都市の多くは城を中心に町づくりが進み、やがて城下町と呼ばれるようになり発展していった歴史があります。

東京(江戸城)・大阪(大坂城)・名古屋(名古屋城)の三都がその代表ですね。

例外的には、善光寺の長野や伊勢神宮の宇治山田のように大きな寺社を中心に発展した門前町もあります。

つまり、町の中心である城の歴史を知ることで、その町の歴史を知ることもできるといえるでしょう。

というわけで、今回は日本の首都東京を形成した巨城・江戸城について語りたいと思います。

“未開の地” 江戸を開拓した家康

江戸城.jpg
 江戸城(現 皇居) 富士見櫓

江戸城は室町時代後期の長禄元年(1457年)太田道灌8月5日付ブログ参照)によって最初に築かれました。

当時はひなびた漁村があるだけの未開の地だった江戸に城を築いた道灌にはやはり先見の明があったといえるでしょう。

道灌が主君の上杉定正に暗殺された後、戦国時代には小田原の北条氏がこの城を支配します。

天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅ぼされると、秀吉の命令により関東に移された徳川家康4月17日付ブログ参照)が江戸城を本拠地としました。

一説によると、家康は関東入府の際、それまでの北条氏の拠点として既に栄えていた小田原を本拠地にしようと考えていましたが、秀吉の勧めにより江戸を本拠地にしたといわれています。

慶長八年(1603年)家康は征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、ここから本格的に江戸城の拡張と城下町の整備に着手し始めました。

江戸城の拡張工事は慶長十一年(1606年)から開始され、全国の諸大名を動員したこの大事業は「天下普請」と呼ばれました。

江戸城拡張のいわば“現場監督”である普請奉行となったのが、築城の名人と謳われた藤堂高虎です。

江戸城の石垣に使用された石の大部分は伊豆半島の東海岸から切り出され船で運ばれました。

拡張工事は2代秀忠・3代家光の時代にわたって続けられ、工事開始から30年後の寛永十三年(1636年)にようやく城の総構(そうがまえ 城の外郭)まで完成しました。

江戸城は本丸・二ノ丸・三ノ丸の中心部を西ノ丸・吹上・北ノ丸が囲み、さらにこの外側を総構が取り巻き、周囲16qにも及ぶ日本最大の大城郭となったのです。

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未曾有の大火災が江戸城を襲う!

ところが拡張工事の完成から約20年後、江戸城は思わぬ悲劇に見舞われてしまいます。

明暦三年(1657年)1月、江戸で未曾有の大火災・明暦の大火1月17日ブログ参照)が発生したのです。

小石川の伝通院から出火した火事は、飯田橋〜九段一帯に延焼、やがて江戸城本丸にも燃え移りました。

さらに夕方になると、今度は麹町方面からの火が江戸城の南側に延焼してしまいます。

この火災により、江戸城の天守・本丸・二ノ丸などが焼失、後に本丸と二ノ丸は再建されましたが、天守は結局再建されませんでした。

しかし、外から見て大城郭の象徴ともいえる天守がなぜ再建されなかったのでしょうか?

この頃、幕府は強圧的な武断政治から道徳的な文治政治への転換期であったので、幕府の権威誇示の象徴であった豪勢な天守はもはや必要なくなったと考えられています。

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明治維新を経て皇居へ

幕末になると、江戸城外を舞台に幕府権力を脅かす事件が起こります。

万延元年(1860年)3月、江戸城桜田門において登城中の大老・井伊直弼が水戸浪士らに襲撃され暗殺された桜田門外の変が起きました。

さらにこの二年後には、江戸城坂下門で老中・安藤信正が襲われて負傷した坂下門外の変が起きてしまいます。

幕政の中心である大老や老中が、こともあろうに将軍の居城である江戸城の入場門で相次いで襲撃された失態により、幕府の権威が著しく失墜したことはいうまでもありません。

慶応三年(1867年)10月、15代将軍・徳川慶喜が朝廷に政権を返上した大政奉還10月14日付ブログ参照)により、260年以上続いた江戸幕府は幕を閉じました。

慶応四年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦い1月3日付ブログ参照)に敗れた旧幕府軍の慶喜を討伐するため、新政府軍は3月15日に江戸城総攻撃を計画します。

しかし、新政府軍の総大将・西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟の話し合いにより、江戸城を新政府軍に明け渡すことで合意し、江戸城への総攻撃は回避されました。(江戸無血開城)

同年10月、江戸城は東京城(とうけいじょう)と改称、明治天皇が京から移られ、以来ここが天皇の住居=皇居となりました。

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まとめ

  • 江戸城は太田道灌が築城し、徳川家康によって城の拡張・城下町の整備が行なわれた

  • 明暦の大火により江戸城も天守・本丸・二ノ丸が焼失した

  • 江戸無血開城によって江戸城は新政府に明け渡され、以後は天皇の住居=皇居となった


皇居は事前に申し込みをすれば一般参観も可能ですが、現在は新型コロナウイルスの影響で参観申込を休止しているそうです。
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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