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2020年05月08日

決戦! 大坂夏の陣

「昌幸の子」から「日本一の兵」へ

今日5月8日は大坂夏の陣が終わり、豊臣家が滅亡した日です。(慶長二十年 1615年)※改元前

大坂夏の陣は、半年前に行なわれた冬の陣と合わせて「大坂の役(又は陣)」と言いますが、真田幸村はその両方で活躍しました。

前回のブログでは幸村の前半生について語りましたが、もし彼がこの大坂の役で活躍しなかったら、「真田幸村」の名が歴史に刻まれることはなかったかもしれません

なぜなら、この大坂の役の前まで幸村は「真田昌幸の子」としてしか世間的には評価されていなかったからです。

この大坂城を舞台にした二度の戦いで、幸村は比類なき勇将として一気にその名を全国に轟かせることになりました。

幸村は九度山に流されて以来、14年間も貧しい暮らしに耐え忍んできました。

年齢も四十代後半にさしかかり、(自分はこの山奥の村で、このまま寂しく朽ち果ててゆくのだろうか?)と苦悩する幸村に手を差し延べたのが豊臣家でした。

だから、幸村が大坂入城を決意したのは、金のためでも、立身出世のためでもなく、宿敵・徳川家康4月17日付ブログ参照)を相手に武士として最後の“死に花”を咲かせるためだったと思われるのです。

というわけで、今回は大坂の役における真田幸村の活躍について語りたいと思います。

落日の大坂城へ

慶長十九年(1614年)10月、大坂城に入った幸村は毛利勝永長宗我部盛親後藤又兵衛明石全登(たけのり)と並んで「大坂城五人衆」と呼ばれました。

その他にも関ヶ原の戦いの後に浪人となった者たちを中心に各地から続々と結集し、大坂城の総兵力はおよそ10万にものぼりました。

大坂城における軍議の席で、幸村はまず大坂・京などの畿内を制圧して徳川方と西国大名の連絡経路を遮断した上で近江(滋賀県)の瀬田まで出陣し、西上してくる徳川方を迎撃するという作戦を提言します。

浪人たちのほとんどは幸村の作戦に賛成しましたが、実戦経験に乏しい豊臣家の近臣たちは総勢20万ともいわれる徳川方の大軍に恐れをなし、あくまで籠城を主張したので、結局この軍議では籠城することに決まりました。

確かに籠城策にも一理あります。

なぜなら、大坂城は築城した秀吉が

「百万の大軍をもってしても落とすことはできないであろう」

と豪語したほどの難攻不落の巨城だったからです。

それでも幸村は、大坂城の南側の部分だけが唯一弱点になるのではないかと考えていました。

そこで幸村はこの場所の守りを申し出て、ここに出丸(本城から張り出した形の小城)を築くことにしたのです。

これが、後に名高い「真田丸」です。

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激闘! 真田丸

同年11月、大坂冬の陣が始まると、幸村は5千の兵と共に真田丸に立て籠もりました。

徳川方も真田丸を落とせば大坂城を攻略できると考え、最大兵力の前田利常軍約2万で真田丸を攻撃します。

しかし、幸村はこの大軍相手にも動じることなく冷静でした。

敵を十分に引きつけ、敵兵が真田丸の城壁に張り付いたところを城内から鉄砲で一斉射撃したのです。

これは、父昌幸が上田城で徳川軍を二度撃退した真田家得意の戦法です。

この時の戦いで前田軍は大打撃を被り、おびただしい数の死傷者を出して敗退しました。

真田丸における見事な勝利により、幸村の武名は敵味方双方に知れ渡ったのです。

幸村の鮮烈な戦いぶりに脅威を感じた家康は、幸村の叔父・真田信尹(のぶただ)を使って幸村の寝返り工作を試みることにしました。

最初、「信濃(長野県)に10万石を与える」という条件で幸村を勧誘しましたが、幸村はあっさり断ります。

しかし家康も諦めず、もう一度幸村のもとに使者を送り「それでは信濃一国ではどうか?」と食い下がりました。

すると、幸村は

「10万石では寝返らぬが、信濃一国なら寝返るとでもお思いか? この幸村、一度秀頼公にお味方すると約束した以上、信濃一国どころか日本の半分をくれてやると言われようとも決して寝返りなどせぬ」

と、きっぱり言い放ったのです。

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狙うは家康の首一つ!

このままでは大坂城の攻略は難しいと考えた家康は一旦和議を結び、謀略によって大坂城の堀をすべて埋め尽くした上で改めて戦いを挑んできました。

慶長二十年(1615年)5月、大坂夏の陣が始まると、既に真田丸を破却された幸村は裸同然の大坂城から打って出て、まず伊達政宗の軍勢を撃破することに成功します。

しかし、大坂方では諸将が相次いで討死する状況にあり、起死回生を図りたい幸村は一か八か家康の首を狙う特攻作戦を敢行するのです。

同7日、「真田の赤備え」といわれる全軍赤一色の幸村の軍勢は、茶臼山の家康本陣に向かって火の玉の如く突進しました。

前衛の松平忠直隊を蹴散らすと、ついに家康の本隊に迫ります。

幸村軍の猛攻ぶりは凄まじく、家康の正旗が踏み倒されるほどでした。

家康の正旗が踏み倒されたのは、武田信玄に敗れた三方ヶ原以来のことです。(12月20日付ブログ参照)

これにはさすがの家康も死を覚悟し、二度も自害を口走ったといわれますが、それでも側近たちに守られながらなんとか逃げ延びました。

一方、幸村軍も多くの兵が討ち死にし、幸村自身も負傷してほとんど動けなくなっていました。

幸村はわずかに残った兵と共に安井神社で休息中、松平家鉄砲組の西尾仁左衛門に討ち取られました。

六文銭.jpg
 真田家の家紋「六文銭」

戦後、幸村の奮闘ぶりは大評判となり、徳川方の武将でさえこぞって幸村を称賛しています。

その中でも特に薩摩(鹿児島県)の島津家は

「真田 日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由」

と、幸村の活躍を絶賛しました。

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まとめ

  • 大坂城に入った真田幸村は籠城戦に備え、城の南部に真田丸を築いた

  • 幸村の活躍に脅威を感じた徳川家康は寝返り工作を試みたが、幸村は決して裏切らなかった

  • 大坂夏の陣で幸村は家康をあと一歩のところまで追い詰めたが、ついに届かなかった


源義経と同じく幸村の英雄伝説の中には「真田十勇士」などの創作もありますが、幸村が最後まで義理を通し、誇り高く戦い抜いた勇将であることは紛れもない事実です。

2020年05月06日

“日本一の兵” 真田幸村

戦国ファンを魅了する誇り高き名将

明日5月7日は真田幸村が亡くなった日です。(慶長二十年 1615年)

幸村といえば、最近では4年前の大河ドラマ『真田丸』(主演:堺雅人)の主人公として人気を博しましたね。

幸村は戦国武将の中でも特に人気が高く、数年前の“戦国ブーム”の時には人気bPの武将に選ばれたほどです。

実は・・・何を隠そう僕も幸村の大ファンなのです。

僕の場合、「好きな戦国武将」というより、「すべての歴史上の人物」で一番と言えるくらいです。

僕は高校時代に日本史と出会い、その後戦国時代が好きになってから幸村のことに興味を持ち始め、幸村に関する文献・史料・小説・マンガなど一時はかなり読み漁りました。

僕は旅行好きと言いつつ、あまり史跡などを見に行くことはないのですが、幸村の故郷・長野県の上田には何度も足を運びました

このように幸村に関しては僕個人の思い入れが強過ぎる分、今回のテーマにはいつもと違う妙なプレッシャーを勝手に感じています。(笑)

また、幸村の経歴に関しては不明な点も多く諸説あるのですが、そういった部分については僕の個人的な見解もありますので予めご了承下さい。

というわけで、今回は真田幸村について語りたいと思います。

真田家“切り札”としての人質

真田幸村 永禄十年(1567年)?〜 慶長二十年(1615年)
真田幸村.jpg

幸村は武田信玄に仕えた真田昌幸の次男として生まれます。幼名は弁丸、後に源次郎。

元服時に父が崇拝する信玄の実弟にあやかって「信繁」を名乗らせたとされています。

名前に関しては、この「信繁」が正式な名称と思われますが、「幸村」と呼ばれるようになったのは本人死後の江戸時代に講談などの物語で人気になってからと考えられます。(ここでは以下「幸村」とします)

父昌幸は武田家滅亡後、家名存続を懸けて目まぐるしく帰属先を変えていましたが、天正十三年(1585年)越後(新潟県)の上杉景勝に属すことになり、幸村は人質として上杉家に送られます。

その後、昌幸は次に豊臣秀吉に帰属することになり、幸村は大坂へ送られて今度は秀吉に仕えることになりました。

昌幸が景勝や秀吉といった大物に人質として幸村を送ったのは、幸村が両家の友好関係を維持する人質としての使命を全うできるだけの器と信頼していたからと思われます。

昌幸の狙い通り、天下人秀吉に可愛がられた幸村は秀吉の馬廻衆(主君を護衛する騎馬隊)となります。

秀吉の重臣・大谷吉継にも気に入られた幸村は、吉継の娘を娶り豊臣大名に名を連ねました。

文禄三年(1594年)11月、幸村は従五位下左衛門佐(さえもんのすけ)に叙任されます。

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コ川の大軍を迎え撃つ親子鷹

秀吉の死後、幸村は真田家に戻ることになりました。

慶長五年(1600年)7月、徳川家康が上杉討伐に赴いた際(9月15日付ブログ参照)、幸村は父や兄と共に家康に従軍し会津に向かいました。

しかし行軍の途中、上方で石田三成が挙兵したことにより家康は行軍を中止し引き返すことになりました。

この時、真田家では家康と三成のどちらに味方するかで意見が分かれます。

議論の結果、幸村は三成方についた吉継の娘を妻にしていたことから父と共に三成方につくことを決意し、家康の重臣・本多忠勝の娘を妻としていた兄・信幸(のち信之)は家康方につくことになったので、真田家は親兄弟で袂を分かつことになりました。

幸村が三成方についたのは妻のためだけでなく、自分を可愛がってくれた秀吉に対する恩義も少なからずあったと思われます。

徳川軍から離脱し真田家の本拠地・上田城に戻った昌幸と幸村は、江戸から中山道を進んで上田城に向かってくる家康の嫡男・秀忠を迎え撃つことになりました。

秀忠率いる徳川軍約3万8千に対し、真田軍はわずか2千5百と実に10倍以上の兵力差がありました。

これだけの兵力差がありながら、昌幸と幸村の親子は堅城・上田城をバックに地の利を存分に活かして徳川の大軍を翻弄し、見事に徳川軍を撃退してみせました。(9月19日付ブログ参照

しかし、上田城が勝利に湧いたのもつかの間、美濃(岐阜県)の関ヶ原の戦い本戦では西軍(三成方)がたった一日で敗れてしまったのです。(9月17日付ブログ参照

このため、昌幸はやむなく徳川に降伏、上田城も明け渡すこととなりました。

東軍についた信幸の必死の助命嘆願により、昌幸と幸村の命は助けられましたが、二人は紀州(和歌山県)高野山麓の九度山村へ流罪となりました。

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隠忍自重の九度山

九度山村での流人生活はとても貧しく、上田の領地を引き継いだ信之からの仕送りはあったものの、それでも生活は苦しい状態でした。

そこで、真田親子は内職で紐を作り、それを売ることで生活の足しにしました。

これが後に「真田紐」と呼ばれる代物です。
真田紐.jpg

慶長十六年(1611年)6月、父の昌幸が亡くなったことで故郷上田からの仕送りも途絶えてしまい、幸村の生活はますます苦しくなっていきます。

この頃になると幸村も次第に年を取り、流人生活での苦労も重なって歯は何本か抜け落ち、髪やひげも白髪が目立つという風貌に変わっていったようです。

そんな折、世の中の情勢は徳川と豊臣の関係が不穏になり、もはや両者の戦いは避けられない状況になっていました。

そこで豊臣家は、徳川を撃退した経歴を持つ幸村に白羽の矢を立てたのです。

九度山に使者を派遣して黄金200枚と銀30貫を支度金として与え、さらに勝利のあかつきには50万石の領地を与えるという条件で幸村をスカウトしました。

幸村は快くこれに応じることにしましたが、一つ大きな問題がありました。

流罪人の幸村は紀伊の浅野家から厳しい監視を受けており、豊臣家の待つ大坂に行くためにはこの監視を振り切らなければならなかったのです。

そこで幸村は一計を案じます。

幸村は「日頃世話になっているお礼がしたい」との口実で、監視役の村役人たちを屋敷に招いて酒宴を開き、散々酒を飲ませて彼らが酔いつぶれたのを見届けてから村を脱出したのです。

この時、普段から幸村を慕っていた村人たちは敢えて見て見ぬふりをして、幸村一行を逃がしたともいわれています。



まとめ

  • 真田幸村は若い頃、人質として上杉家や豊臣家を渡り歩いた

  • 関ヶ原の戦いで幸村は西軍として父と共に上田城に籠城し徳川の大軍を撃退したが、西軍が敗れたため九度山に流罪となった

  • 豊臣家が幸村をスカウトした時、幸村は監視役人を酔い潰れさせて九度山を脱出した


次回は幸村のクライマックスとなる大坂夏の陣です!

2020年05月04日

北九州を席捲したキリシタン大名 大友宗麟

“九州三強”の一角

明後日5月6日は北九州の戦国大名・大友宗麟が亡くなった日です。(天正十五年 1587年)

宗麟といえば、教科書にも登場する「キリシタン大名」として有名ですね。

宗麟は天文十八年(1549年)に来日して日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザヴィエルを自らの領地に招き、キリスト教の布教を許可しました。

そして、天正十年(1582年)には大村純忠有馬晴信らと共に天正遣欧使節として伊東マンショなどの少年たちをローマ教皇のもとに派遣するなど、キリスト教の普及に貢献しました。

このように学校で教わる歴史において、宗麟はキリシタン大名としての側面がクローズアップされています。

しかし、宗麟は本来戦国大名であり、肥前(佐賀・長崎県)の龍造寺隆信、薩摩(鹿児島県)の島津義久と共に“九州三強”の一角を担った強豪として名を馳せた人物です。

九州だけでなく中国地方にも毛利元就という強敵がいましたが、宗麟は彼らを相手に一歩も引かず、むしろ版図を拡大してきたのです。

また、「キリシタン大名」というと、高山右近1月6日付ブログ参照)のようにクリーンなイメージに思われがちですが・・・・宗麟の場合はそうともいえない部分もあり、その生涯も波乱に満ちていました。

というわけで、今回は大友宗麟について語りたいと思います。

壮絶を極めた家督相続

大友宗麟 享禄三年(1530年)〜 天正十五年(1587年)
大友宗麟.jpg

宗麟は鎌倉時代から続く北九州の名門・大友氏の嫡男として豊後(大分県)府内に生まれます。幼名は塩法師丸。

塩法師丸は、元服時に将軍足利義晴から一字拝領を受けて義鎮(よししげ)と名乗りました。

義鎮は嫡男ではありましたが、すんなりと家督を相続したわけではなく、血生臭い“お家騒動”が起こったのです。

義鎮は若い頃から気性が荒く粗暴な行動が多かったため、父の義鑑(よしあき)は義鎮を嫌い、義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策しました。

しかし、重臣たちに反対されたので、義鑑は反対派の重臣を殺そうとしますが、それを察知した重臣たちに逆に襲われ、塩市丸とその母が殺されて義鑑も瀕死の重傷を負う事件に発展したのです。(二階崩れの変)

瀕死の状態だった義鑑は死の直前にようやく義鎮に家督を譲ることを承認しました。

家督を相続した義鎮は九州に進出してきた中国の毛利元就と激しい戦闘を繰り広げながら、戦国大名として精力的に版図拡大に努めます。

その結果、義鎮は本拠地の豊後に加え、豊前(福岡・大分県)、筑前と筑後(共に福岡県)、肥前(佐賀・長崎県)、肥後(熊本県)と、九州の三分の二にあたる6ヶ国の守護となったのです。

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“女好き”が招いた内紛

永禄五年(1562年)義鎮は出家して宗麟と名を改めます。

しかし出家とは名ばかりで、この頃の宗麟はかなりの“女好き”として知られていました。

何しろ、自分好みの女性を欲するあまり、わざわざ京や大坂まで家臣を遣わして「美女探し」をしていたというほどです。

そんな宗麟の女好きが高じて、ある事件が起きてしまいます。

宗麟の家臣であった一万田親実の妻は“絶世の美女”として評判でした。

これを知った宗麟は、この美女を何としても手に入れたいと考えます。

そこで宗麟は親実に無実の罪を被せて殺してしまい、親実の妻を自分の妾(めかけ=愛人)としてしまったのです。

この宗麟の仕打ちに殺された親実の弟・高橋鑑種は激怒、敵対する毛利氏と手を組んで宗麟に謀反を起こしました。

宗麟は鑑種の謀反を鎮圧するのに3年もの歳月を費やし、この事件は大友氏が衰退するきっかけになったともいわれています。

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“キリシタン王国” 建設を夢見るも挫折

天正六年(1578年)7月、宗麟はキリスト教の洗礼を受け、洗礼名ドン・フランシスコを名乗り、正式にキリスト教徒となります。

この頃、隣国日向(宮崎県)の伊東氏が薩摩の島津氏との戦いに敗れ、宗麟を頼って豊後に逃げ延びてきたため、同年11月宗麟は島津討伐を名目に日向へ出兵します。

しかし、洗礼を受けたばかりの宗麟はキリスト教に没頭するあまり、日向への行軍途上で神社仏閣を次々と破壊してしまいます。

さらに、宗麟自らは戦闘を指揮せず、日向にキリスト教の理想郷を建設しようとしていたのです。

そんな浮世離れした総大将を抱えていては、軍の士気も上がるはずはありません。

この結果、大友軍は圧倒的な大軍であったにも関わらず、少数の島津軍相手に壊滅的な大敗を喫してしまうのです。(耳川の戦い)

当然、宗麟はキリシタン王国の建設どころではなくなり、その後も島津の猛攻に晒され、本拠地の豊後さえも危うい状況に陥ってしまいます。

天正十四年(1586年)いよいよ追い詰められた宗麟は病身を抱えて上洛、関白・豊臣秀吉に謁見し島津討伐を依頼するのです。

豊臣軍の九州遠征により島津の侵攻は食い止められたものの、宗麟が安堵された所領は豊後一国のみでした。

自らの失策によりすっかり斜陽になってしまった大友家の未来を案じつつ、天正十五年(1587年)5月、宗麟は豊後の津久見で病死しました。



まとめ

  • 豊後の戦国大名・大友宗麟はキリシタン大名として有名だが、壮絶なお家騒動の末に家督を相続した

  • 宗麟はかなりの女好きだったため、家臣を殺してその妻を自分の妾にしたことにより家中で反感を買い謀反を招いた

  • 宗麟は日向にキリシタン王国を建設しようと夢見たが、耳川の戦いで島津に大敗を喫し、以後大友家は急速に衰退していく


なお、大友家は宗麟から嫡男の義統(よしむね)に家督は引き継がれましたが、文禄二年(1593年)秀吉によって改易(お家取り潰し)させられています。

2020年04月29日

“英雄”か?“逆賊”か? 足利尊氏

評価が分かれる征夷大将軍

今日からゴールデンウィークに入りますね。

国や自治体が最も警戒していたのが、このゴールデンウィーク。

それを国民も感じ取ってか、ニュースを見ると行楽地やそこに向かう交通機関などは例年の8〜9割近く減少しているようです。

今日のように天気が良くて気持ちのいい陽気だと、どうしても出掛けたくなるのが人間の心理ですが、そんな時僕は遊びに行きたい欲求と感染した時のリスクを天秤にかけて考えます

罹患して入院した方の経験によると、

「コロナウイルスはインフルエンザとは比べものにならないくらい辛く、本当に死を意識する」

らしいのです。

僕も昔インフルエンザを患ったことがありますが、その時は4〜5日間ほとんど食事さえ摂れないほどの高熱で寝込んでしまい、かなり辛かったことを今でもハッキリ覚えています。

そのインフルエンザと比べものにならないくらい辛いとは・・・・想像しただけでゾッとします。

コロナウイルスは感染力が強く、日本でもこれだけ蔓延してしまっている以上、自分が感染したらどうなってしまうのかまで考えて、今は一人ひとりが警戒心を怠らず自制すべきですね。


さて、明日4月30日は足利尊氏が亡くなった日です。(延文三年 1358年)
足利尊氏.jpg

これは、足利尊氏を描いたものとして長く定着していたのですが・・・・実はこの人物、足利尊氏ではないようなのです

この絵に描かれている人物は尊氏の執事であった高師直(こうのもろなお)とする説が有力です。

尊氏は室町幕府の初代将軍として新しい武家社会を作った人物です。

尊氏は、専横を極めていた北条氏を倒し、建武の新政に不満を持った全国の武士たちの期待に応えて室町幕府を開いた英雄であるにも関わらず、なぜかあまり人気がありません

人気がないどころか、皇国史観(天皇制を絶対視する歴史観)が強かった戦前には“逆賊”のレッテルを張られてしまうほどの悪人扱いだったのです。

なぜなら、鎌倉幕府の御家人であったのに幕府を裏切って鎌倉幕府を滅亡に追い込んだこと、尊氏を引き立ててくれた恩人の後醍醐天皇をも裏切って天皇が始めた建武の新政を崩壊させたことなどがその理由と思われます。

果たして、尊氏は「英雄」と「逆賊」どちらだったのでしょうか?

というわけで、今回は足利尊氏について語りたいと思います。

清和源氏の名門

足利尊氏 嘉元三年(1305年)〜 延文三年(1358年)
(※1336年〜1392年の間は南北朝時代のため年号が二つ存在しますが、今回は北朝の年号を使用)

尊氏は清和源氏の流れをくむ下野(栃木県)の名門・足利貞氏の次男として生まれます。

15歳で元服した時、鎌倉幕府の執権・北条高時の偏諱を受けて高氏と名乗りました。

父貞氏の死後、兄も既に早世していたため足利家の家督を継ぎました。

元弘三年(1333年)高氏は幕府の命令により、西国で討幕運動を行なっていた後醍醐天皇の兵を討伐するため、大軍を率いて京都に向かいます。

しかし、上洛した高氏は突如幕府に反旗を翻し、幕府の西の拠点であった六波羅探題を攻め滅ぼしてしまったのです。

鎌倉幕府の北条氏はもともと源頼朝の家臣であり、源氏の足利氏より家柄は下なのに、その北条氏が将軍を形骸化して幕府の実権を握り、腐敗した政治を続けていたことに高氏は以前から大きな不満を持っていたためと考えられます。

東では上野(群馬県)の新田義貞が鎌倉に攻め込んで幕府を倒し、ここに鎌倉幕府は滅亡しました。

幕府が滅ぶと後醍醐天皇は京都へ帰り、年が明けた建武元年(1334年)念願であった天皇親政を開始しました。(建武の新政)

討幕の立役者となった高氏に後醍醐天皇は自らの諱である「尊治」の一字を与え、高氏は尊氏に改名しました。

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武士たちの期待に応えて武家政権を樹立

建武の新政は始まったものの、天皇親政はどうしても皇族や公家ばかりが厚遇されることが多く、すぐに多くの武士たちから不満を招くことになりました。

一方、尊氏は以前から自分を敵対視していた後醍醐天皇の皇子・護良(もりよし又はもりなが)親王と対立、やがて親王を鎌倉に幽閉してしまいます。

そんな中、思いもよらない事件が起こりました。

建武二年(1335年)7月、北条高時の遺児・時行が信濃(長野県)で挙兵し、鎌倉に攻め込んできたのです。(中先代の乱)

この時、鎌倉で防戦に失敗した尊氏の弟・直義(ただよし)は鎌倉脱出の際、護良親王を殺害してしまいます。

これは鎌倉に入った時行が護良親王を擁立して尊氏討伐の兵を挙げることを直義が恐れたためです。

この知らせを聞いた尊氏は、天皇の許可を得ないまま時行追討に向かい、見事鎌倉の奪還に成功しました。

しかし、その後尊氏は天皇の帰還命令に従わず鎌倉に留まり、ついに天皇に反旗を翻したのです。

これは尊氏自身の野望というより、建武の新政に不満を持つ多くの武士たちの期待に応えるための行動だったと考えられます。

挙兵した尊氏は天皇が差し向けた新田義貞軍を箱根で破り上洛するも、奥州からの北畠顕家の軍勢に苦戦し、一時九州へ敗走してしまいます。

九州で軍勢を立て直した尊氏は捲土重来し東上、建武三年(1336年)5月、湊川の戦い楠木正成を破り再び上洛を果たしました。

尊氏の上洛により後醍醐天皇は大和(奈良県)の吉野に逃れ、代わりに尊氏は光明天皇を擁立しました。

暦応元年(1338年)尊氏は光明天皇より征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きます。

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後醍醐天皇に対し崇敬の念を貫いた尊氏

一方、吉野に逃れた後醍醐天皇も皇位の正統性を主張して譲らず、朝廷は吉野の南朝京都の北朝に分裂、以後約60年に及ぶ南北朝時代に突入しました。

南朝と北朝が争いを繰り広げる中、幕府内では尊氏と弟の直義の対立が表面化します。

やがて両者の対立は激化し、ついに尊氏は直義を毒殺することで決着をつけたのです。(観応の擾乱)


尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻したことにより、“逆賊”の汚名を被ることになるのですが、本当に尊氏は“逆賊”と呼ばれるべき人物だったのでしょうか?

中先代の乱を鎮圧した後、後醍醐天皇が帰還命令に応じない尊氏に追討軍を派遣したのを知った尊氏は

「天皇に対して弓を引くことはできない」

と、自らの髷を切って出家しようとしていたのです。

実は、帰還しなかったのも、反旗を翻したのも、弟の直義による懸命の説得があったからです。

直義は「今、京都に帰還すれば、みすみす敵の懐に飛び込んでいくようなものだ」と、尊氏の帰還を阻止し、さらに建武の新政に不満を抱いている武士たちの気持ちを代弁して、尊氏に武士の代表として立ち上がるよう促したのです。

武門の棟梁としての立場は別として、尊氏の後醍醐天皇に対する崇敬の念は生涯変わりませんでした

その証拠に、後醍醐天皇の死後、尊氏は天皇の冥福を祈るため京都に天龍寺を創建し、自らが亡くなるまで天皇の法要を怠らなかったといわれています。

尊氏=“逆賊”のイメージは、戦時中、天皇への忠誠心を国民に植え付けるため、天皇に反旗を翻した尊氏を必要以上に悪人に仕立て上げてしまった結果なのです。

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まとめ

  • 清和源氏の名門・足利尊氏は後醍醐天皇に味方して鎌倉幕府討幕に貢献した

  • 尊氏は建武の新政に不満を抱く武士たちの期待に応えて反旗を翻し、将軍となり室町幕府を開いた

  • 反旗を翻したものの、尊氏は後醍醐天皇に対して崇敬の念を生涯忘れなかった


骨肉の争いとなった観応の擾乱については、別の機会で改めて語りたいと思います。

2020年04月24日

“戦国一の美女”といわれた悲劇の女性 お市

政略結婚する女性の役割とは?

今日4月24日は織田信長の妹・お市の方が亡くなった日です。(天正十一年 1583年)

このブログでも何度か書きましたが、戦国時代は「男尊女卑」の風潮が特に強かったので、父親や夫、又は男兄弟の動向によってその家の女性の運命は大きく左右される傾向にありました。

東国、いや戦国一の美女と謳われたお市は、その最たる例といってもいいでしょう。

兄の信長や織田家の男の親族の意向で結婚相手を決められ、その度に悲劇に見舞われてしまった薄幸の女性です。

この時代、武家の女性は“政略結婚の道具”として扱われてしまうことが多く、お市もその一人ではありましたが、お市はただの“道具”ではありませんでした。

父の織田信秀にはたくさんの娘がいましたが、その中で他国の大名に嫁いだのはお市ただ一人なのです。

信長は、美貌だけでなく聡明さも兼ね備えたお市の女性として抜群の器量を見込んでいたからこそ、兄弟の中で唯一お市だけを他国に嫁がせたと考えられます。

他国の大名と政略結婚する女性には両家を結ぶ親善大使であると同時にいざという時の人質であり、またスパイという側面も持つ重要な役割を担っていたのです。

つまり、信長はお市をこれだけの大任を任せられる女性だと考えていたということです。

というわけで、今回はお市の方について語りたいと思います。

長政との幸せな結婚生活

お市の方 天文十六年(1547年)?〜 天正十一年(1583年)
お市の方.jpg

お市は織田信秀の五女として生まれます。兄の信長より13歳下の妹でした。

永禄十一年(1568年)信長は足利義昭を奉じて上洛を試みていましたが、上洛するためには敵対する近江(滋賀県)の六角氏を排除する必要がありました。

そこで信長は、同じ近江の浅井氏と同盟を結んで六角氏を挟撃しようと考え、妹のお市を浅井長政に嫁がせたのです。(※もっと早くに結婚していたとする説もある)

政略結婚とはいえ、長政とお市は仲睦まじく、二人の間には茶々・初・江の三人の娘も生まれ、お市は長政の元で幸せな日々を過ごしました。(※万福丸などの男児は長政の先妻の子といわれている)

そんなお市に転機が訪れます。

元亀元年(1570年)信長は数度にわたる上洛命令に従わない越前(福井県)の朝倉氏に業を煮やし、朝倉氏討伐を開始したのです。

しかし、朝倉氏は古くから浅井氏と盟友関係にあったので、長政は織田と朝倉、どちらにつくかの選択に迫られることになりました。

苦悩の末、長政は信長を裏切って朝倉に味方することを決意したのです。

夫の決意を察したお市は、陣中見舞いと称して「小豆袋」を信長の陣営に送り、長政の裏切りを知らせたといわれています。

袋の両端を紐で縛った小豆袋、つまりお市は、信長が浅井と朝倉に挟まれた“袋のねずみ”状態であることを表現したのです。

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夫と兄が激しく争った姉川

信長はお市の機転によって危うく挟み撃ちにされる窮地を脱することができました。

何とか危機は逃れたものの、長政に裏切られた信長の怒りは尋常ではありませんでした

一旦京都に逃れて体勢を立て直した信長は、すぐに長政追討へ動き出します。

元亀元年(1570年)6月、近江の姉川において、信長は徳川家康4月17日付ブログ参照)と組んで浅井・朝倉の連合軍と戦い、浅井朝倉軍を撃破しました。

姉川での勝利後も信長は長政追討の手を緩めず、天正元年(1573年)ついに信長は義弟・長政を攻め滅ぼしたのです。

お市は長政の居城・小谷城の落城寸前に三人の娘と共に救出され、信長の元に送られました。

翌年の正月、信長は多くの客人や家臣が集まった新年会の席で、長政とその父・久政の頭蓋骨を金粉塗りにしたドクロを披露したといわれています。

この時のお市の心境はいかばかりなものだったか、察するに忍びありません。

未亡人となったお市は三人の娘たちと共にしばらくは信長の庇護の元、平穏に暮らしていました。

しかし、天正十年(1582年)本能寺の変による信長の死は、お市の運命も激変させてしまうのです。

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再婚するも再び悲劇が!

本能寺の変後、信長の後継者を決める清州会議において、お市は織田家筆頭家臣の柴田勝家に嫁ぐことが決められました。

勝家は後継者に信長の三男・信孝を推していたので、信孝は未亡人であった叔母のお市を勝家に嫁がせることで織田家の安泰を図ろうと考えたようです。

この決定に以前からお市の美貌に憧れていた羽柴(豊臣)秀吉はかなり悔しがったといわれています。

やがて、信長の跡目を継ごうと野望を顕わにし始めた秀吉が勝家と対立し、織田家を二分する争いに発展しました。

天正十一年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いで勝家は秀吉に敗れてしまいます。

その後、秀吉に追い詰められた勝家は、お市に三人の娘を連れて秀吉の元へ逃げるよう説得しますが、お市は頑なに拒否しました。

お市は娘たちを逃がした後、勝家と共に自害する道を選んだのです。

なぜ、お市は娘たちと共に逃げなかったのでしょうか?

生き延びて秀吉の妾になるなど、お市のプライドが許さなかったこともあるでしょう。

しかしはっきり言えるのは、一番頼りにしていた兄信長は既に亡く、二番目の夫まで失うことになり、もうお市には帰るべき場所がなかった、ということです。



まとめ

  • “戦国一の美女”として誉れ高いお市は、兄の信長にとって政略結婚の「切り札」だった

  • 夫の長政が信長を裏切った時、お市は「小豆袋」で信長に危機を知らせた

  • 二度の落城に遭ったお市だが、最後は自らの意志で死を選んだ


お市は享年37歳、これも“美人薄命”というべきでしょうか。
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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